床下の神様

タイダ メル

床下の神様


 事件の資料を机の上に並べて、にらめっこする。どうしても膨大な量の資料を並べると、机の上が散らかってしまう。何かうまい整頓術はないだろうか。

 後輩の田島が持って来てくれたコーヒーを飲みつつ、ことのあらましを頭の中で整理する。

 昨日、空き巣が捕まった。逮捕された犯人はかなり錯乱しており、事情聴取に時間がかかったのだが、途切れ途切れの言葉でようやく話した内容は「あの家に死体が隠してある」というものだった。

 現場検証中だった鑑識に連絡を入れて調べてもらうと、犯人が証言した通りに台所の床下収納から死体が発見されたのだった。

 死体は、損傷が激しくかなり痛ましい状態だった。四肢がなく、舌がなく、歯がなく、眼球がなかった。胴体のあちこちに縫い合わせた痕跡が残っており、検死の結果片方の肺と片方の腎臓と腸と胃と肝臓の一部がなくなっていることがわかった。

なんの目的で切除されたのか、どこの医者が施術したのかは不明。

 死亡時期はつい最近であり、腐敗はまだそれほど進行していない。

 資料の写真を見る。

 腐敗による膨張が始まった肌は淡いピンク色をしており、一見血色がいいように見える。死体の身元はわからない。指がないため指紋を調べることもできず、歯がないため治療痕から探ることもできない。眼球がないので虹彩を照合するのも無理だ。DNAを調べても、警視庁のデータに一致する人物はいなかった。

「井戸センパーイ、コーヒーいります?」

 田島が気の抜け切った声で伸びをした。

「さっき入れてくれたばかりだろう」

「やることなくて間が持たないんですよ」

「お前も考えてくれよ……」

「だって、どこがわからないのかもわからないんですもん」

「そんな堂々と言うんじゃない」

「僕らが捕まえるのは、あの仏さんをあんな姿にして殺した奴ですよね? でも、今のところ容疑がかかってる二人には、人間の内臓を取り出すような技術も道具もない。つまり、まだ僕らが知らない情報があるってことです。でも、どこを調べればいいんです?」

 今、容疑がかかっているのは二人。

 第一発見者で空き巣犯の矢島秀敏と、死体が発見された家の家主である神田美緒。

 矢島さんはどうやら空き巣で生計を立てていたらしく、家族もなく、付き合いのある人間は盗んだものを売る質屋くらい。余罪がゴロゴロある、叩けば埃の出る人ではあるが、犯罪組織に属しているわけでもないし、犯罪者同士の付き合いがあるわけでもなく、ただ自分が生きるために盗みを働いていたようだ。

 神田さんは普段は事務員として働いているごくごく普通の女性で、先日母親を亡くしたばかり。父親は三十年ほど前から行方不明だそうだ。一応、行方を捜索中だがまだ見つかっていない。酒や博打に溺れるろくでもない父親だったそうで、いなくなったとしても不思議はないし、そもそも消えたのが三十年以上前とあっては事件との関わりは薄そうだ。

 二人とも、医療技術もなければ医者とのコネもない。素人が適当に切り刻んで内臓を取り出し、その傷跡を縫合できたとは思えない。

 田島の言う通り、まだ我々の知らない何かがあるのだ。

「現場には百回行け、って話はよく聞きますけど、僕らが引っ掻き回すよりも鑑識さんに任せといたほうが確実だし、死体を調べるのだって検死官さんに任せとくよりほかはありませんし。僕らは今、なにをしたらいいんです?」

「そんなの決まってるだろう。人から話を聞くんだ」

「事情聴取ならもうしたじゃないですか」

「確かに、事件当時の状況はあらかた聞いたが、まだ聞いていないことがある」

「え? なにを聞くんですか?」

「それは聞いてみないとわからない」

 田島が、「えぇ……」と呆れた声を出した。


 空き巣の犯人である矢島秀敏は、くたびれた初老の男だ。

 背中は小さく縮こまり、顔に刻まれたシワは苦労をうかがわせる。垂れた瞼の下の目は鋭くこちらに向けられており、警戒心が見て取れる。

「知っていることは全部話した。なんの用だ」

「大丈夫ですよ。あなたが隠し事をしているだなんて思っていません。ただ、ちょっと捜査に行き詰まりまして。休憩がてら、世間話に来たんですよ。田島、コーヒー三つ淹れてきてくれないか?」

 はいはい、と取調室を出た田島を見送ってから、矢島さんは口を開いた。

「信じるとでも?」

「ご自由にどうぞ。そうですね、事情聴取の時はこちらが質問責めにしてしまいましたから、今度は我々があなたの質問に答えましょう。立場上答えられないことはありますが、できる限りお答えします。聞きたいことがあるのでは?」

 しばらくの間黙りこんで、矢島は首を横に振った。

「どうせ俺は犯罪者だ。あんたらも、俺がやったと思ってるんだろう。だから、ボロを出すまで話させるつもりなんだろう? 残念だが時間の無駄だ。俺はやっちゃいない。確かに俺はケチな泥棒だが、殺しなんてしちゃいねえ」

 帰ってきた田島がテーブルにコーヒーを並べ、再び席に着く。いい匂いだ。

「やってないなら、ボロを出す心配もないでしょう。こちらはさっき言った通り、世間話をしに来ただけです。ずっと事件について考えてると気が滅入って来ましてね。たまには警察組織と関係ない人と話がしたいんですよ。砂糖とミルクはどうします? 彼のコーヒー、おいしいんですよ」

「おいしいもなにも、インスタントコーヒーにティファールで沸かしたお湯入れてるだけじゃないですか」

 胡散臭そうに、矢島がこちらを見る。ついでに田島も「もしかして本当にサボりに来ただけか?」みたいな目でこちらを見ている。アウェイだ。

「今はもう、気分は落ち着かれましたか? あんなもの見たらショックだったでしょう」

「……大丈夫だ。あれは、なんだ?」

「さあ。あれがどこの誰なのか、どうしてあんな状態になってしまったのかは、現在調査中です。明確な返事ができず申し訳ない」

 不意に、矢島がはっきりした声でこぼした。

「あれは、あの娘さんの仕業だ」

 言いがかりのようには聞こえなかった。その声は確信に満ちている。

「なぜ、そう思うんです?」

「いいや、やめとこう。証拠があるわけでもない。ただの俺の妄想だ」

「大丈夫ですよ。聞かせてください。でっち上げでもでまかせでも構いません。僕は世間話をしに来てるので」

「そうかい。そういうことなら話すんだけどよ」

 いつのまにか、矢島の目から警戒の色が消えている。

 思ったこと、秘密にしていることを、ずっと胸の内にしまっておける人間は少ない。言葉に出すことで、きっと彼もスッキリすることだろう。


 俺は、表の顔では清掃業者をしてるんだ。掃除の手伝いをしつつ建物の構造とか人の出入りとかを確認してから、空き巣を働いてる。

 今回も、最初は清掃業者としてあの家に入ったんだ。異臭がするって、娘さんから依頼が入った。

 先日、二人暮らしをしていた母親がぽっくり亡くなって、通夜に葬式に遺品の整理と忙しくしてる間に変な匂いがするようになったんだそうだ。

 親父さんは物心ついた頃にはもういなかったそうで、全部一人でやったんだと。

 一人じゃ上手に家の管理ができないみたいだって、娘さんは困った顔で笑ってたよ。

 匂いの原因もわからないから、長丁場の仕事になる。金目の物の位置を把握するのにちょうどいいって、最初は思ってた。

 異臭の元を探して、家中をさらった。

 徹底的に掃除して、軒下を覗いて、ゴミは全部捨てて、屋根裏を覗いた。でも、異臭の元は見つからない。

 娘さんは、「お手数かけてすみません」って困った顔をしていた。人当たりのいい、明るい娘さんだと思った。

 でも、それが一瞬だけ豹変した時があった。台所の床を剥がそうとした時だ。

 娘さんは鬼や悪魔でもみるような目で、「そこは触らないで! 開けちゃダメ!」って怒鳴ったんだ。

 なんでかって聞いたら、「そこには神様がいるから」ってさ。

 俺は「ここにへそくりでも隠してるんだな」って呑気に納得して、それに従った。次に忍び込んだ時に中身をかっさらっていくつもりだった。

 結局、異臭の元は見つからなかった。

 今思うと、あれは死体が腐ってる匂いだったんだな。あの時は、てっきり台所の床下には隠し財産があるものとばかり思っていたから、そこが匂いの元だとは思わなかった。

 その日の夜、俺はあの家に忍び込んで、床下を覗いた。あとはあんたらも知っての通りだ。床下には、あの死体があった。

 俺の悲鳴を聞きつけて現場にやって来た娘さんは、芯から肝を冷やしてガタガタ震えている俺に言ったんだ。

「開けちゃダメって言ったのに」

 って。悪いことをした子供を叱るような口ぶりだった。

 おかしいだろう?

 普通なら、俺と一緒になって死体に驚いて困惑するはずだ。

 あそこにまずいものがあるって知らなければ、そんな言葉出てくるはずがない。

 あの娘さんは、あそこに死体があることを知ってたんだ。


 デスクに戻り、田島と額を突き合わせて資料を見る。

 確かに、矢島の証言に矛盾はない。今回の話もそうだし、矢島の証言はずっと一貫している。おそらく、本当に嘘をついていない。

「前進したような、してないような微妙な証言でしたね」

「そうだなあ。確かに、矢島さんの言った通りの発言を神田さんがしていたとしたら、疑いは強くなるけど、その発言が録音されてるわけでもないから証拠にもならないし」

 私も田島も、黙り込んで首をひねる。凄惨な死体の写真もそろそろ見慣れてきて、ゆっくりじっくり眺めることができるようになってきた。

 神様ねえ、と田島が呟いた。

「あの死体が誰かって話はひとまず置いておいて、矢島さんの話が本当だった場合、神田さんはあの死体を神様として祀っていたってことですよね」

「そうだなあ。確かに奇形や欠損のある人間を神として祀る文化は存在するが……。この現代に、それも日本の住宅地でやるか?」

「やらないですねえ。それに、もし神田さんが死体を床下にしまいこんでいた場合、わざわざ清掃業者を呼ぶ、なんて危険な真似はするはずないですし。おそらく、神田さんは本当に、あそこに死体があるとは知らなかった。知っていたら、異臭の元は死体だってわかるはずですし、不用意に部外者を呼ぶはずがない」

 矢島さんの話を鵜呑みにするにしても、神田さんの行動には不可解な点が多い。

 まだ断定はできないが、おそらく神田さんも死体をあそこにしまい込んだ犯人ではない。

「よし。神田さんの方からも話を聞いてみよう」

「なにを聞くんですか? ある程度絞って要点をまとめてから行きません?」

「いや。そんなことしなくていいよ。彼女が話したいことを話してくれればいいんじゃないかな。こっちが聞きたい話ばかりしていたら、きっと色々取りこぼすと思うんだ」

「そういうもんなんですか?」

「大丈夫。なんだかんだ言って、向こうの疑問を聞いてあげるのが、一番効率がいいんだよ」

「なんでです? 話の主導権を向こうに渡すようなものじゃないですか」

「人は疑問を持つとき、一緒に仮の答えを自分の中に作るものなんだ。その答え合わせがしたいから、他の誰かに質問がしたくなる。その質問には、如実に、あからさまにその人の思考が現れるんだよ」


 神田美緒は、すっかり憔悴していた。

 無理もない。自分の家からあんな壮絶な死体が出てきたのだ。肩に触れるくらいのショートカットの髪やクリクリした目が、普段は快活な人間なのだろうなと窺わせる。しかし、その顔に浮かんでいるのは険しい表情と疲労の色だ。

「信じてもらえないかもしれませんが、私はやっていません」

「大丈夫。落ち着いて。私たちはあなたを尋問しにきたわけではありません。ちょっと世間話でもしましょう。田島、コーヒー」

「はーい」

 席を立った田島を見送って、もう一度神田さんに話しかける。

「彼のコーヒー、おいしいんですよ。ゆっくり飲みながらお話ししましょう。前回の聴取ではこちらが質問責めにしてしまいましたし、今回はこちらがあなたの質問にお答えしますよ?」

「いいんですか? 話せない事もあるでしょう?」

「ええ、もちろん。でも話せることもあります。答えられることなら、お答えしますよ」

 神田さんは、少しの間考え込む。なにを聞けばいいのか、自分の中でまとめているのだろう。

「あの……。私、この後どうなるんでしょう?」

 この質問からわかるのは、彼女が漠然とした不安を持っているということ。そして、この後よくないことが起こるという確信があるということ。

「さあ? 私は占い師ではないので、先のことはわからないですね。なにか、不安の種でもあるんですか?」

「はい。私は、母の言いつけを破って神様を怒らせてしまいました。きっとバチが当たります」

「心配なようでしたら、ほとぼりが冷めるまで警察であなたを保護しますよ。大丈夫」

「信じてくれるんですか?」

「市民の安全を守るのが警察の義務ですので」

 ドアが開いて、田島がコーヒーを持ってきた。

「ちょっとセンパイ。あんまり安請け合いするのはよくないですよ。手続きとか大変なんですから。そもそも、どうやって神様から保護するんです? 神主さんでも雇うんですか?」

「うーん、ダメかな?」

「俺に聞かれましても」

 神田さんは、相変わらず不安そうだ。

「神様、というのはあの遺体のことですか?」

「……わかりません。母は、私には詳しく教えてくれませんでしたから。台所の床下には神様がいる。神様は私たちに恵みをくれるけど、絶対に外に出してはいけない。外に出したら災いを招く。そう幼い頃から聞かされていました」

 一言一言、ゆっくり探るように語る。どう話していいのか探りながらしゃべっているようだ。

「そんな昔話みたいなこと、現実にあるものなんですね。そういったスピリチュアルなものが好きなお母様だったんですか? 女性には多いですしね、そういう人」

「いいえ。結構即物的っていうか、俗っぽいっていうか。あんまり目に見えないものを信じるタイプではありませんでした」

「そのお母様が、なぜか床下の神様だけは信じていたと」

「ええ。なぜなのかは、母が死んでしまった今、確かめようがありません。でも私は、あれは本当に神様だったんじゃないかと思います」

 静かに、遠い昔を思い返すように、彼女は呟いた。

「だって、床下の神様はお母さんを助けてくれたんですから」

 きっと、その思い出の中に、彼女が今の考えに至った根拠がある。私は穏やかに先を促した。


 私が幼い頃、母はいつも困った顔をしていました。

 家にはしょっちゅう借金取りが押しかけてきます。母は私に「隠れていなさい」と言いました。いつしか、借金取りが家を叩くドンドンという音が聞こえたら、押入れに隠れる習慣がつきました。

 母は、私を守ってくれました。私のために、かなり無理をしていたと思います。一度、そんなに無理しないでって言ったんですけど、「親なんだから当然」って言われちゃいました。

 母の心の支えは、私と、父との思い出と、床下にいるという神様でした。

 父は、私が物心ついた頃にはもういませんでしたが、母が父を悪し様に言うところを見たことがありません。

 どれだけ生活が苦しくても神様がいれば大丈夫だと信じているようでした。

 母は「神様は私たちに恵みをくれるの。でも、神様がいる台所の床下収納を開けてはいけないよ。神様が怒ってしまうから」と言っていました。幼い私は、そういうものなんだな、と受け入れて母の言いつけを守っていました。

 何度か、母が床下に話しかけているところを見たことがあります。

 幸せそうでした。

 「あなたのおかげで私たちは暮らしていける。美緒をきちんと育てられる」って、何度もお礼を言っていましたよ。

 実際、だんだんと私たちの生活は楽になっていきました。

 借金取りが来る頻度は下がり、ある時を境に食卓が豪華になりました。私は大学まで通わせてもらえました。

 母は、そんなに心が強い人ではありません。そんな母が私をここまで育てることができたのは、よほど神様がついているという安心感が強かったのではないでしょうか。

 借金取りが来なくなった後も、私は時々家を叩くドンドンという音に悩まされました。多分、トラウマのせいで幻聴が聞こえてたんですね。

 そんな時、母はいつも「大丈夫。神様が守ってくれるから」と言っていました。

 日本には八百万の神様がいるといいます。私にとっては名も知らない、正体もわからない神様ですが、母にとっては頼もしい立派な神様だったのでしょう。

 あの遺体は、うちに入った別の泥棒なんじゃないでしょうか。それで、あの扉を開けて天罰が下って、あんな姿に……。

 床下の扉は開いてしまった。きっと神様は怒っています。私にも、よくないことが近々起こると思うんです。

 最近よく眠れないし、寝られたと思ったら怖い夢を見るし、階段から落ちるし、車に轢かれそうになるし……。

 なんだか最近悪いこと続きなきがします。気のせいだって言われれば、そうかもしれませんけど、やっぱり怖くて。

 呪いとか祟りとか天罰とか、そういうものは迷信だって頭では思うんですけど、小さい頃から言い聞かされてきたものですから刷り込まれちゃってて。

 私も手足をもがれて死んでしまうかもって、思っちゃうんです。


 再び自分のデスクで、資料を前に田島と額を付き合わせる。

 聞くべきことは聞けた。あとは、二人の話からなにを導き出すか。

「彼女の話では、あの遺体は矢島さんの前に空き巣に入った泥棒に天罰が下ったもの、って話だけど……」

「いやいや。そんなことあるわけないじゃないですか。天罰って」

「そうだね。もし彼女のいう通りの理屈なのだとしたら、空き巣に入った矢島や、あの現場をひっくり返して調べている我々警察も無事では済まないはずだ。それに、内臓を取ったり傷を縫い合わせたりした痕跡は、人間の技術によるものだ。あれをやったのは人間だよ」

 ティファールのお湯が沸いた。田島が席を立って、コーヒーを入れに行く。

「ちょっと濃いめでお願い」

「了解です」

 濃いコーヒーで頭が痺れると、余分な感覚が削ぎ落とされて思考がはっきりする気がする。なんとなくだけど。

 だから、さあこれからまとめに入るぞ、という時には濃いめのコーヒーを飲む。自分の中で作ったジンクスというか、ルールのようなもの。これも一種の信仰心かもしれない。これをするとうまく行くと、私は信じているのだから。

「田島は、どう思う? 二人の話を聞いてさ」

「どちらの話も、憶測でしかなくて間違っています」

「身も蓋もないねえ。仕方ないじゃないか。わからない部分は想像で埋めるしかないんだよ」

 矢島さんは、「開けちゃダメって言ったのに」という発言を聞き、そこにある死体を見て、「彼女はここに死体があると知っていた」と思い、彼女が犯人だと誤解した。

 神田さんは、母親の「床下を開けると災いが起こる」という話と、突然死体が現れたという現象から、天罰が下ったのだと判断した。

 田島がコーヒーを持ってきた。いつもよりちょっと黒が濃い。見ただけで頭がシャキッとしたような気がする。

「……やっぱりミルク入れようかな」

「ちょっとー。せっかく濃いめにしたのに」

「濃すぎじゃない?」

「サービスですよ」

 結局ミルクは入れずに、苦いコーヒーを口に含む。苦い。

 二人の話を思い返す。

 家に漂う異臭。最近亡くなった母親。家に来ていた借金取り。厳しい言いつけ。恵み。神様。

 自分の見たもの、自分の考えを話してくれた二人の声が、頭の中でこだまする。

 人が話すこと、語り伝えること。そこには必ず主観や余計な情報が入り、人の口を通した情報は、事実とは違う姿を我々に見せる。

 けれど、耳を傾けるのをやめてはいけない。嘘や作り話だとしても、人が語る言葉はその人に見えている世界を写している。

「神田さんのお母様が亡くなった時期ってどれくらい?」

「えー、1週間ほど前ですね。突然なんの前触れもなく、ポックリ亡くなったそうです」

「人が死んで、腐敗臭を漂わせるようになるまでの期間は?」

「温度や環境に左右されますが、だいたい二日程度でガスが発生するのが一般的ですね」

「では、人間が飲まず食わずで生きられる期間は?」

「4、5日が限界です。水だけでもあればもうちょっと持ちますけど」

「うん。わかったよ」

「おっ、さすが先輩。誰を捕まえればいいんです?」

 あからさまに田島のテンションが上がった。こいつ、結構好戦的である。

「犯人はもう死んでる。うーん、でも色々仕事が増えそうだな。思ったより大きい事件になるかも」

「と、言いますと?」

「あの死体を作り出した犯人は、神田さんのお母さんだ」

 ん? とピンと来ていない顔で田島は首をかしげる。

「でも、腐敗の進行具合から見て、あの遺体の人物が亡くなったのは、神田さんのお母さんが亡くなった後です。お母さんにあの人物を殺すのは不可能ではないですか?」

「そうかな? 私は可能だと思うよ」

 どうやら、一から説明してやらねばならないようだ。田島はずっと首を傾げている。

「あれはね、殺意を持って殺された死体ではなく、放棄されたから死んだ死体なんだ。神田さんのお母さんが亡くなったことで世話をする者がいなくなり、水や食料が与えられなくなって死んだ」

 コーヒーを飲んでいた田島が咳き込んだ。私も一口苦い汁を舐める。

 田島が青い顔で聞いてきた。

「神田さんのお母さんは、ずっとあの人を床下収納に監禁していたというわけですか?」

「そう。神田さんが、借金取りが来なくなった後も「ドンドン」って音を聞いたって言ってただろう? 本当に幻聴を聞いていたかもしれないけど、何回かは助けを求めて暴れていた音だったんじゃないかな」

「そんなに昔から……。ですが一体なんのために?」

「そりゃあもう、明確だよ。金になるからだ。内臓がいくつか取り除かれていただろう? 借金取りを通じて闇ルートで売ったんだ。人間の内臓って需要あるからね」

「でも、それなら監禁する理由はないのでは? 売るだけ売って殺せばいい。なぜそんな手間のかかることを?」

「ほら、人間の体って再生するだろう? 肺とか腎臓とかは無理だけど、肝臓とか、血液とかなら。動けないように手足をもいで、助けを呼べないように舌を抜いて、あの床下で世話をしつつ、再生した頃合いを見計らって何度も売ったんだ。もしかしたら、珍しい血液型なのかもしれないな」

 母親は、床下に向かって「あなたのおかげで私たちは暮らしていける」と言っていた。それは、信仰によって救われているからではない。本当にそのままの意味で、床下の人物を糧にして生きていたのだ。

 おぞましい、と田島は感じているのだろう。みるみる顔が青くなっていく。

「神田美緒の母親の近辺を洗い出して、違法な医療行為を働いていた連中を捕まえるのが、この後の私たちの仕事だな。忙しくなるぞ」

「待ってください」

 立ち上がった私を、田島が止めた。まだ気になることがあるようだ。

「質問があるようだね」

「あの遺体の身元が分かっていません。あれは誰ですか?」

「それは近いうちにわかると思う。これは、証拠なんてない、私の想像と推測でしかないのだけど、話してもいいかな?」

「もちろん、聞かせてください」

 証拠はまだない。でも、多分当たっているだろうな、という想像が私の中で像を結んでいる。

 もしも私が探偵だったら、確証がない推測は語らず、全てを綺麗に説明できるまでは黙っているのかもしれない。でも私は刑事なので、全ての可能性を虱潰しに調べなければいけない。ありえるかもしれないと思いついたのなら、それは捜査対象だ。

「あれはきっと神田美緒の父親だ。神田さんの母親が言うには、親が子供のために無理をするのは当然らしいからね」

 田島の顔がこわばった。しかし、すぐにキッと眉毛を釣り上げて、仕事に向かう顔をする。

「神田美緒のDNAが遺体のものと合致するか調べてきます」

「ああ。頼む」

 足早に立ち去った田島を見送って、私は濃いコーヒーを口の中に流し込んだ。

 やっぱりちょっと苦すぎる。今度からは我慢せずにミルクと砂糖を入れることにしよう。

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