競プロ部喫茶店編
5. インターネット環境ありますか?
「ここの空欄って阿部公房であってる?」
「いや、違うだろ」
私の質問に対して、呆れた顔の早希がすぐに返事をくれた。
時刻は午後三時、放課後である。
大きく開いた窓から風が入ってきて頬を撫でる。五月の気候はなぜこんなにも穏やかなのだろうか。一生を五月の中で生きていたい、そう思わせるほどに過ごしやすい季節だ。
部室にはいつもの三人が集まっていた。しかし、三人がやっていることは競プロとは全く関係がないこと。私たちの目の前にはそれぞれA3のプリントが広げてあり、そこにはたくさんの文章と問題が並んでいる。
私たちは現代文の授業の課題をみんなで協力して取り組んでいる最中であった。
「じゃあ何?」
「森鴎外だろ。逆によく阿部公房なんて知ってんな」
そう言いながら、早希がバウムクーヘンを頬張る。
「お母さんに勧められて良く読むようになってさ。結構面白いよ。それに、私としては森鴎外のほうが全然知らない人だけどなあ」
私は早希に教えてもらった通りに、空欄を「森鴎外」と書いて埋めた。そして、そのとなりの空欄に「舞姫」と書く。さすがの私も森鴎外と舞姫がセットであることくらい覚えている。
森鴎外にはあまり馴染みがなかったが、実際に自分の手で森鴎外と書いてみれば、思っていたよりもかっこいい名前であるような気がしてきた。「鴎」という漢字がなかなかに良い味を出している。何かしらの鳥を意味する漢字らしく、使える場面があれば積極的に使っていきたいと思った。
「早希はあとどのくらい?」
「私はもう終わった。何だったら写してもいいぜ」
そう言って早希が私のほうにプリントを寄越す。
私はまだ何とかプリントの半分を埋め終えたところ。なぜ課題を終わらせるスピードにこんなにも差が開いてしまうのか。私も授業はしっかりと受けていたし、ノートもしっかり取っていた。たしかに森鴎外のことはすっかり忘れていたが、それだけでこの差は生まれないはずだ。
「それはすべて正解しているという自信がおありで?」
「これくらいだったら間違えないぜ。それに間違えてもいいだろ、ただの課題だし」
「うーん、なるほど……」
早希の考え方はなかなかに肝が据わっている。これが要領の良い人間の考え方というものだろうか。
私が早希の答えを写すかどうか葛藤していると、横から玲奈の手が伸びてきて早希のプリントを取っていった。そして、玲奈には似つかわしくない素早い動作で答えを写していく。彼女はこれまで全く課題に手を付けず、お菓子をパクパク食べているだけだったのだが、これを狙っていたのか。
負けていられない。
「それで今日はどうする?」
早希はもう課題のことをすっかり忘れて、ダージリンティーを飲みながらパソコンを開く。そのパソコンは昨日、隣のパソコン部から拝借してきたノートパソコンである。背面にギラりとしたリンゴマークがあるオシャレパソコン。私のマットブラックのパソコンと交換してほしい。
私は課題を自力で進めながら、早希の質問に答える。
「玲奈と競プロのウェブサイトを見つけてね。コンテストの過去問をやってみようってことになったよ」
「なるほど。昨日言ってたやつか」
「そうそう、それそれ」
昨日は高橋先生が競プロ部の顧問に決まった後、今後の活動方針や正式な部活の申請書類を書いたりなどで忙しくなった。そのまま下校時間になってしまったため、結局競プロの問題を解くところまではいかなかったのだ。
「今日こそは競プロに触れてみよう。何と言っても私たち競プロ部だからね」
「いいじゃん、やろうぜ。まあでもその前に、詩織は課題を終わらせてくれ」
「分かってるよ。玲奈頑張ろ」
「私は終わった」
隣に目を移せば、玲奈はすでに課題を終わらせていた。というか、早希のプリントを写し終えていた。玲奈には似つかわしくないずる賢い考え方。だけどそんなところも可愛らしいと思える。
そして私は、小学生の頃から課題は自分でやると心に誓ってきた。それは誰かに言われたからなどではなく、自分でそう決めたのだ。そして実際に、これまでの私は自分の力だけで課題をこなしてきたはずだ。
しかし最近になって気が付いたことがある。それは真面目過ぎても良くないということだ。真面目なことは良いこととされているが、真面目過ぎるといつか限界がくる。一人の力には限界があるのだと私はこれまでの16年間の人生から経験を通して理解していた。
私は自分の心に呼びかける。「時として助け合いも必要だよ」と。そうだ、助け合いを恥じる必要などない。そもそも人間社会とは人々の持ちつ持たれつの関係で成り立っているというではないか。
「早希、私もプリント見せて」
「どうぞ」
早希のプリントを見たことで、私は自転車から新幹線に乗り換えたような感覚を得た。これが助け合い。1+1=2であるが、一人の力が1であるとは限らないのだ。おそらく早希の力は10万くらいある。10万+1=10万1。スカウターがあれば早希を計測した途端に壊れてしまうことだろう。
「うん? このパソコン、なんかうまく入力できないんだけど」
「それ、USキーボード」
「US? アメリカ仕様ってことか?」
「そう」
「へぇー、面倒くさいな……ああ、ここがこれで、こっちがこれで……なるほどね。あれ? 次はインターネットに接続できないんだけど」
早希はUSキーボードの入力問題には対処できたらしいが、今度はインターネットに接続できないという問題にぶつかってしまったらしい。インターネットと言えば、私たち競プロ部は隣のパソコン部のWi-Fiルータに接続している。
「私も接続できない。たぶんパソコン部側の問題」
玲奈が自分のパソコンを開きながら応えた。
「はあ、まじかよ。しっかりしてくれよなパソコン部」
勝手にインターネット環境を間借りしておいて結構な言い草である。どうすればこんなに大胆で神経の図太い性格に育つのだろうか。早希の親の顔が見てみたい。
「ちょっとパソコン部に話聞いてくるわ」
そう言うと早希は足早に部室を出ていった。
「インターネットがないと競プロもできないね」
「だけど本を読むことはできる」
玲奈は競プロに関する分厚い書籍を読み始めていた。その手があったかと私も本棚から本を取ってこようと思ったが寸でのところでやめた。どうせ私のことだから本を読んだところで少しも理解できないだろう。私は昔から実際に自分で体験してみないと新しいことを吸収できないのだ。
「何か新しいこと分かった?」
「コンテストでは回答の正誤判定を自動でやってくれるらしい」
「へえ~、すごいことそれ?」
「たぶん」
玲奈もそのあたりは良く分かっていないらしい。まあそれでもおそらく凄いことなのだろう。そう言えばセンター試験のマークシートなども全部自動で正誤判定をしているはずだ。それと同じようなものだろうか。いや、だぶん何か違う気もする。
そんなことを考えている間に早希が帰ってきた。
「早かったね」
「おう。なんかルータが故障したらしい。これから電機屋行って新しいやつ買ってくるからそれまではインターネットは使えないってさ。困るよなあ」
早希はもうすでにパソコン部のインターネット環境を自分のものだと本気で思っているらしい。
「それでどうする? 競プロの過去問はまた今度?」
「他のインターネット環境を探す」
「そうだよな。やっぱりやるんだったら今日やりたいよな」
玲奈と早希は競プロの過去問に対してかなり乗り気のようだった。私として明日でもいいかなと思っていたが、二人がそんなにも乗り気ならばその波に乗らないこともない。
「あっそうだ。私のバイト先来るか? 喫茶店なんだけどインターネット使えるぜ」
早希がポンと手を打った。
早希のアルバイト先は今時の喫茶店らしく、無料のWi-Fi環境が整備されているらしい。オリンピック関連で交通機関や公共の場でもそういった場所が増えてきた。ありがたいことだ。
「行く」
玲奈がすぐに荷物をまとめ始めた。
「そうだね。じゃあお邪魔しようかな。近いの?」
「ああ、すぐそこ。歩いて三分くらい」
「近くていいね。そこで私もアルバイトしようかな」
「まじで? マスターに話つけとくよ」
「話が早すぎる」
軽い気持ちでアルバイトの話を出したが、早希の力があればあっという間に働くことになってしまいそうだ。準備をしておかねばならない。
私たちはインターネット環境を求めて、早希がアルバイトとして働いている『高野喫茶店』に向かうことになった。
■■■ つづく ■■■
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