一 竹やぶ焼けた(二)

 辺りが真昼のように明るくなった。と同時に、じいさんの目の前に家が姿を現した。

 いや、家だけではない、家の前に立っているばあさんの姿までじいさんの目に飛び込んできたのだ。

 ばあさんは両目をかっと見開き、じいさんを見据えていた。

 じいさんは魂が体から飛び抜けそうなほど驚いた。

「ひええ!」

「ひええ!」

 先に悲鳴を上げたのはじいさんの方だったが、ばあさんも同じだけ大きな奇声を張り上げた。

 じいさんはいわゆる声にならない声、ほとんど息だけの声を絞り出して、

「なんだよ……!」

「じいさん、あれ!」

 ばあさんはじいさんの後ろの空を指差した。

 じいさんは振り返って、

「何だ、ありゃ……!?」

 ばあさんと同じように目を丸くした。

 目の上に手をかざし、細目になって眩しさをこらえながら、じいさんは空の中ほどから満月などよりも数倍大きい火の玉がゆっくりとこちらに向かって落ちてきているのを見た。

(まずい、このままじゃ……)

「ばあさん! 急いで家に入るんだ!」

 じいさんはばあさんの腕を掴んで家の中に駆け込んだ。

 まばゆい光は戸口から家の隅々にまで差し込み、ばあさんを胸に抱えたままむしろに突っ伏したじいさんには、目と鼻の先でのみが筵の上を飛び回っているのさえ見えたほどだった。

 どおーん!

 轟音が鳴り響いた。じいさんは耳を塞いだ。すると今度は頬がびりびりするほどの熱風が凄まじい勢いで戸口から吹き込んできた。じいさんは二度ほど咳き込んだが、口を開いた途端、喉だけでなく鼻の奥まで焼け付くように熱くなったので、そのあとはごくんと唾を飲み込んで咳をするのを必死でこらえた。

「くぅぅ……」

 じいさんの下でばあさんがうめいた。

「ばあさん、大丈夫か!?」

「大丈夫だよ……いったい何が起こったんだい?」

「おれにも分からねえよ……」

 じいさんとばあさんは少しのあいだ身動きひとつせずに、ただ耳だけをはたらかせて必死に家の外の様子をうかがっていた。

 やがてだんだんと光が弱まっていき、辺りは元の暗闇に戻った。じいさんには胸の中にいるばあさんの華奢な背中が、呼吸のたびに上下しているのが感じられた。ばあさんには闇の中、自分をきつく抱きしめているじいさんの腕のその意外なたくましさと、じいさんの荒い息づかいが感じられていた。

 もし二人が四十過ぎの「じいさん」と「ばあさん」でなかったら、新婚当時の――もう二人ともお互いに何て呼び合っていたのかも忘れた――若い二人だったなら、暗がりの中こうして身を固く寄せ合っている勢いで互いのからだをまさぐって、何かをおっ始めていたかもしれない。だけどいまの二人はもう十分すぎるほど大人だった。たとえ頭の片隅にそういう考えが思い浮かんだとしても、すぐに実行に移せるほどの体力も気力も無かった。要するにこの夫婦、だいぶだったのである。

 ただ二人はそれぞれ互いに「もし相手がそれを望んできたなら、必ずや応じるだろう」という点では意見が一致していた。もっともこの状況下では、当の本人たちは相手のそんな心の内など知りようが無かったのだけれども。

 相手の出方をうかがって、息をひそめている二人の鼻先に、何やら焦げ臭い匂いが届いた。

 じいさんははっと我に返った。

「何か燃えているぞ! 家か!?」

 じいさんはぱっと飛び起きて、家の外に向かった。ばあさんも身を起こしたが、彼女は自分が何をすべきか分からないのか、その場にぼけっと座り込んだままだった。

 外に出たじいさんは、ものが焼ける匂いとパチパチと火がはじける音が竹やぶの方から来るのを確認した。家にはまだ火の粉は飛んできていないようだった。

 じいさんはさっき見た火の玉の大きさからして、あれが落ちたのなら竹やぶはいずれ丸焼けになるだろうと背筋を凍らせた。

(おれとばあさんとでいくら川の水を汲んでかけたって、消えるもんじゃない……この風じゃ、あっという間に火の手はおれの家まで回るだろう……)

 じいさんは急にさっき自分の家(と中にいるばあさん)が潰れてしまってもいいなどと思ったことを激しく後悔した。

(おれがあんなことを思ったりしたから……)

 天の怒りに触れて、天は火の玉を寄越したのではないだろうか。

「じいさん」

 背後からばあさんのか細い声がした。じいさんはその声がとても優しく、まるで乙女のもののようだと思った。

 じいさんは静かに振り返った。暗闇にばあさんの姿は溶け込んで見えなかった。じいさんはそこに四十過ぎの年増女ではなく、十五、六の乙女が立っていると感じた。

(乙女だったばあさんがおれと連れ添って三十年近く……暮らし向きがいいときも悪いときも、おれの隣にはずっとこいつがいた。こいつは一緒になったときには本当に可愛い娘だった。おれが若気の至りで沼のほとりの小屋の女と出来ちまったときも、最初は怒り狂っておれを棒で叩きつけようとしたが、結局そのそぶりだけで、あとはひとり竹やぶの中に入ってしくしく声を殺して泣いていたっけ。あのときの震える小さな背中、はっとあげた顔の、幼さが残るまあるい頬に流れていた涙……おれはいまでもはっきりと思い出すことができるし、胸が痛む。それなのにそんな可愛い女を死んでしまえばいいと思ったなんて……)

 じいさんは目の前の闇を凝視して、愛しい女の輪郭を探し求めた。

 ばあさんの方からもじいさんの姿は見えないのか、ばあさんも黙ったままだった。

 ばきん!

 竹が爆発する音がした。じいさんは驚いて竹やぶの方を振り向いた。

(どうする? これから何をするのが一番いい? この女と逃げるか……?)

 じいさんはばあさんと手を取り合ってどこまでも走り逃げていく自分を想像した。その想像の中では二人は結婚したての若い男女の姿で、互いに信頼し合い、住み慣れた家を、故郷を捨てて行くというのにどこか楽しげで、四つの瞳には希望の光が輝いているのだった。

「じいさん、そこにいるのかい?」

 再びばあさんの声がして、じいさんの腰を細い何かがつついた。それはばあさんの指先だった。

 じいさんは竹やぶの方を向いたまま後ろ手でその指をぱっと掴んだ。ばあさんの指は一瞬びくっとひっこみそうになったが、じいさんは手に力を込めてそうさせなかった。

「ああ、いるよ。おれはここにいる」

 じいさんは手の中のばあさんの指を一本ずつ自分の指でなぞっていたが、急にそのばあさんの手をぐいとひっぱって、ばあさんの体を自分の胸に抱き寄せた。

 じいさんはぎゅうとばあさんを抱きしめて、

「そしておまえがここにいる。ああ、ほかに何も望むもんか」

と、ばあさんの耳に囁いた。

 ばあさんのはっと息を飲む音が聞こえた。

 じいさんの頬にばあさんの頬が触れた。その頬が動き、何やらばあさんが言おうとしたとき、

 ざあーっ!

 突然大雨が降ってきた。雨粒の大軍に不意打ちされ、じいさんとばあさんは、あっと声を出す間もなかった。二人は体中が痛くなった。雨はすぐ止んだ。

 もうぐっちょり濡れてしまった二人は、家に駆け込むこともせず、まだ体を寄せ合ったまま、茫然とそこに立ち尽くしていた。

 いつの間にか強風は止んでいた。そしていま、一陣の柔らかな春の夜風が、二人の濡れた頬をくすぐった。

 だがそれは香気を含むものではなかった。先ほどまで漂っていた竹が焦げた匂いとは別の、思わず鼻を覆いたくなるような嫌な匂いが漂った。じいさんはそれを、鍬の先が雨に濡れたときの匂いを強くしたもののようだと思った。

 唾をごくんと飲み込んだじいさんは、

(いったい何が焼けたんだ……? それにこの急な大雨……本当に天がどうにかなっちまったんじゃないか?)

 また風が吹き、濡れた二人の体は一気に冷えた。じいさんの腕の中でばあさんが震えた。じいさんはその体を包み込むように懐深くへと抱え直した。じいさんの鼻の中にばあさんの髪の匂いが入ってきた。じいさんはその匂いを懐かしいと思った。

(ああ、こんなふうにこいつの髪の匂いを嗅ぎながら、眠るのが惜しいと思った夜がおれにもあったな……。いつの間にかそんなことは全く思わなくなっていたけど、こいつの髪の匂いはあの若い日々のときのものと、全然変わっていないような気がする。だいたいこいつは子を産んでないせいか、白髪はまだ少ないし、腰もちっとも曲がっていない。一方のおれはどうだ? おれは毎晩こいつを抱くのを楽しみにしていたあの若いときのおれと、何が変わっちまったんだろうか……?)

 じいさんは鼻の奥がつんと痛くなり、おまけに目に涙が湧いてきたのが分かって、ぎりっと歯を喰いしばった。

(こんなことを考えただけで泣きたくなるなんてそれこそ年寄りじゃねえか、くそ! おれはまだそんなに老けてねえぞ。絶対にもう一花ひとはな咲かせてやる! ……ところでいまおれは「もう一花」と思ったが、そもそもこれまでのおれの人生に花が咲いたことなどあったのだろうか?……)

「じいさん」

 ばあさんに呼ばれてじいさんはやっと我に返った。

「じいさん、もう家に入ろうよ。いまの雨で竹やぶが焼けることはなさそうだし、嵐も止んだよ。あたしゃすっかりこごえちまったよ」

 ばあさんはじいさんの胸をぐいと押して、じいさんの腕の中から出ていった。

 じいさんはすたすたと家に帰って行くばあさんの足音を聞きながら、とぼとぼと歩き始めた。

 家の竈の火はまだ消えていなかった。そのわずかな灯りを頼りに、じいさんとばあさんは濡れた着物を脱いで体を拭き始めた。

 じいさんは竈から漏れる炎のゆらめきに、とぎれとぎれに怪しく照らされるばあさんの乳房を見て、思わず手を伸ばしそれをぐっと掴んだ。

 途端にばあさんは、

「はぁ!?」

 と声を上げて、ぱんっとその手を払い落とした。

 じいさんはびっくりしている自分にびっくりした。とっさにじいさんは何か面白いことを言わなくちゃと思った。なぜそう思ったのか自分でも分からなかったが、とにかくそう思って頭を猛回転させた。だが何のせりふも思いつかなかった。

 ばあさんがふふ、と笑った。

「何がおかしいんだよ」

 じいさんはやっと口から出てきた自分の言葉が妙に甲高いのを聞いて、言わなければよかったと後悔した。

 ばあさんはもうあははと笑い出していた。

「さっき言ったろ? あんたの考えてることは分かるって。あんた、あたしたちはもう年寄りなんだよ。四十過ぎのじいさんとばあさんだ。さあ、それを思い出したんなら、今夜はもう寝ることだね。まったくこの年になるとすぐ熱出したり鼻水出したりして、おまけになかなか治らないんだから。明日の朝起きたら一番に、竹やぶがどうなっているか見に行くとしようよ。はぁ、あたしゃなんだかどっと疲れた。眠い眠い。おやすみ、じいさん」

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