一 竹やぶ焼けた(一)
その日は夕暮れから風が強まり、やがて来る春の嵐を、人里離れた竹林のそばに住む一組の夫婦に予感させた。その夫婦、「じいさん」と「ばあさん」の小さな家――いわゆる
ばあさんは家の中にある四本の柱のうち、一番太い北東側のものにしがみついて天井を見上げては、この家がそのうちぺちゃんと
ばあさんといっても、彼女はまだ四十代だった。そんな彼女の伴侶であるじいさんも、彼女より三つ年上なだけだった。そう、今じゃ昔のこの時代、男も女も結婚は早かった。じいさんは十八の時、ばあさんは十五の時に二人は結婚したのだった。いや、させられたのだった。もちろん、それぞれの親によって、である。
そんな二人のあいだにもしすぐ子どもが出来ていたとして、その子が十代後半で結婚し、そしてその子にまたすぐ子どもが出来ていたなら、二人は四十代で孫持ちの、間違いなく「じいさん・ばあさん」になっていたはずだった。だから現実には子どもも生まれず、孫も無い二人ではあったけれども、周りからじいさん、ばあさんと呼ばれることに特段の抵抗はなかった。簡単に言えばそういう時代だった、ということである。
さて、一方のじいさんは何をしていたかというと、彼は同じ家の中で、隅の方に敷いた
昼間でも薄暗いこの竪穴住居の、夕闇忍び込むいまこの時、
じいさんはその妄想に、「実はばあさんは喰ってはいけない里の
ばあさんはその「ふっ」を聞き逃さなかったようだ。暗がりからばあさんの、筍の皮を剥いだときのような、びりびりとした声がした。
「何がおかしいんだい?」
「いや、何も」
じいさんはへらへら笑みを浮かべながら答えたが、その表情もこの半分闇の中ではばあさんには見えなかったはずだった。
すると今度はばあさんがふっと笑った。
じいさんは尋ねた。
「何がおかしいんだよ」
「ふん、何も。というより、こうなったらもう何もかもおかしいね。まったくこんな嵐が来る夜だってのに、あんたはへらへら笑ってるんだからね。あたしがこんなに家が壊れないかと心配してるっていうのにさ。まあ、あんたのことはさ、もう三十年近くも一緒にいるんだ、分かり過ぎるほど分かってるってもんだよ。どうせまた昔のくだらないことでも思い出してたんだろ。それが分かったからさ、ああまたかって、あたしもつい笑っちまったんだよ」
「くだらないことだって? 何のことだよ」
「言いたかないね。あんたにはおかしくても、あたしにはちっともおかしくないことだってあるんだからね。いんや、おかしくないことだらけだね。あんたのおかしいことって言ったらさ、ほら、あの沼のほとりの小屋の女……」
「ばあさん、ばあさん! 言いたくないんだったら言わなくていい。おれも聞きたくないよ。もうやめだ、やめだ」
じいさんは立ち上がり、
「家の周りを見てくる。ばあさん、柱を頼むよ」
「頼むって何だい? あたしに柱を支えてろってかい?」
じいさんは返事をせずに家の外に出た。
外はもうすっかり漆黒の世界だった。夜空は一面雲で覆われているのか、星一つ無い。もちろん月も出ていない。目の前に広がる暗闇はいったいどこまでが空で、どこからが地上なのか、じいさんには分からなかった。
じいさんは後ろを振り返った。そこには今出てきた家があるはずだったが、家の形は完全に闇に溶け込んでいて、やっぱりじいさんにはどこからどこまでが彼の家なのか分からずじまいだった。
風は吹き
じいさんは頬をひっきりなしにいたずらする耳周りのほつれ髪を手で押さえつけながら、家があるはずの場所をまっすぐ見つめて呟いた。
「潰れちまってもいいか……」
じいさんが大きな溜息をついたその時だった。
ぴかっ!
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