第42話 月が綺麗




 ヨーロッパにでもあるオシャレな別荘、いや、豪邸もしくは邸宅と表現する方がふさわしい。その玄関で旅行用にと用意した履きなれていないスニーカーに足を入れ、扉かと思えるドアを開け、外へと出る。


 開けたドアから入る春夜の空気は、愛着のある着慣れたスウェットでは少し肌寒い。

 やはりガウンでも持ってくればよかった、と少し後悔はするが、少し体を動かす程度で今更に取りに行く気も無い。


 その空気を肌身に受け、自分が出た事で入り口のドアを閉めると、一歩、また一歩と足を進める。


 その進む目線には、玄関まで続く庭の踏み石を地面に埋め込まれたガーデンライトが照らし、所々には、レトロ調なポール型の外灯が豪華に彩る。それらが一際に優雅な空間を作り上げているかのようだ。


 それらの灯のお陰で深夜に関わらず、足場が見えないとの心配も無い。


 目線を横へと流すと、公園のような広い庭が目に入る。

 ライトアップされた庭木が美しく刈り込まれ、造形の全てに手入れが行き届いていのがわかる。それどころか、あまりにも丁寧に刈り揃えられているせいで、いくつかの樹木はプラスチックの造り物みたいにさえ見えた。


 その中心部には季節外れなプールが木の葉を浮かべ、すぐ隣には錆も無く綺麗にペンキが塗られた滑り台。その大きさと存在感が好奇心を擽る。 


 俺は徐に歩きだし、その上へと登り大きく両手を広げるとお腹いっぱいに息を吸い込んだ。今は風の音と、夜鳥の声しかない。その音すら身体に取り込めそうだった。


 気持ちいい。


 この高台に立地する邸宅の滑り台の上からは、ベランダからは見渡せなかった景色までも観える。その夜景と清んだ空気の調和、それらが素晴らしさを増幅してくれる。


 月夜の光は、少し離れた光源である街灯も勝てない程に、明瞭に海の姿を魅せてくれている。目を瞑ってみると、海の方から風が吹いているらしく、潮の匂いがした。


 ゆっくりと目を開き直し、遠くを見渡す。


 遠くに見える海面は、月の光を鏡のように反射し、水面鏡のように静かだ。

 ときおり風がなぎ渡り、川面に光の襞ひだを走らせた。波の静かな月明りの中、凪いだ海が夜空を映す。


 漁港の防波堤には無機質な光を振りまく古びた水銀灯がチカチカと点灯し、どこか幻想的。


 俺はしばらくそこに立って、景色に見惚れていた。




 ――なおやくん。




 そんな俺を呼ぶ声で、景色から目を離し後ろを振り返った。


 もちろん声でわかる。長年一緒にいるのだから当然だ。


 そこには、薄いカーディガンを羽織り黒く長い髪を靡かせた、美香がいた。


「何してるの?」


 不思議そうな表情で俺に問いかける、美香。


 突然に声を掛けられたせいなのか、もしくは普段では無い場所の、この雰囲気のせいなのかわからないけど俺の鼓動がドキっと高鳴るのを感じた。


「……ああ、散歩でもしようと思ったんだけどさ、此処が気持ち良さそうだったから。もしかして、登ったらダメだった?」


「ううん。そんな事は無いけど、寒くないの?」


「大丈夫。凄く夜景が綺麗で、夜風も気持ち良いよ」


「ふぅん。それなら私も一緒していい?」


「お、おう」


 一瞬吹いた風が美香の髪を乱すと、直すように指で耳に掛ける動作が色っぽくて少し動揺してしまった。


 結構な程に高い滑り台ではあり、美香は少しぎこちなく登って来た。

 俺の横まで来ると一緒に景色を見渡す。


「わぁ! 小さい頃この滑り台を使った記憶はあるけど、夜の景色がここまで奇麗に観えるんだね」


 そう言って、俺が最初にやったように両手を広げ大きく息を吸い込んだ。


 それから、あれは何?あそこは――と、話が盛り上がる最中、俺達は二人で滑り台の上で肩を並べて座っていた。その距離は触れそうな程に近く吐息まで聞こえそうだ。


 景色の話題から始まり、今回の旅行の話が進んで行く中で、徐に学生生活を振り返る。


「もうすぐ三年生だね。早いよねぇ」


「だなぁ。楽しい時間って直ぐ過ぎるよな」


 本当に楽しい時間は過ぎるのが早い。


 こうやって美香といるのも後一年なのかと思うのか、まだ一年もあると思うのか、どっちが良いのだろうかとの考えが頭を過る、と。



 ん? あれ?


 待てよ……。


 クリスマス以降は、二人でこんなに親密に話した事なんて無かったよな……。


 やばっ、意識しだすと少し緊張してきた。



 気を紛らわす冗談でも言わないと、緊張が顔に出そうだ。

 そこで風呂場で沢村君が言ってた事を思い出した。


「さっきさ、智樹と沢村君と一緒にお風呂で話してたんだけど、沢村君が俺と美香がまだ付き合わないのかって聞くんだよ?」


「え?」


 そりゃ驚くよね。


「ああ、もちろん否定しておいたよ。ずっとみんなでいるからそんな風に思われてるのかな。勘違いされちゃってた見たいだけど、周りの人達もそう思ってたりして。ハハハっ」


 俺なんかとそう思われてる事自体が少し申し訳無いと感じて苦笑いをし、美香を見る。突然の俺の言葉に美香は、下を向き耳まで真っ赤にしてあからさまに照れている顔が俺の目に映った。


 その瞬間、俺は失言に気が付く。

 今まで美香達の恋愛事情には触れなかったのに、何気無く口走ってしまった事に後悔はするが、時すでに遅し。


「あ、いや……、ごめん。変な意味で言った訳じゃなくて、だな……」


 黙ってしまった美香に対し、苦し紛れの言い訳ですら上手く口から出ない。


「直弥くんは……、私と付き合ってると思われて、……嫌だった?」


 下を向いたままの美香が、ボソっと呟くように聞いてきた。


「へ? い、嫌とかじゃないけど……、俺なんかとそう思われてるのが美香に悪い気がしてさ……」


「そんなこと……」


「え……?」


 最後まで上手く聞き取れなかったけど、この雰囲気は夜の静けさが加わって非常に甘酸っぱく感じる。だが、そのせいで俺の高鳴る鼓動が美香にも聞こえてるようで恥ずかしい。


 今までこんな雰囲気も無かったし、気不味い。

 何か言わなければと、徐に空を見上げた俺は――、




「月が奇麗だな」




 ――っと、思いついた事を口走った。


 先程までの話題を変えるように、咄嗟に出た言葉だが美香は少し驚き何度か深呼吸をした後、俺へと目線を戻す。


「直弥くん、その言葉には違う意味もあるのを知ってる?」


「え?」


 違う意味?



「それはね、――”愛してます”って意味があるんだよ」


 あっ……。


「いや、そんな意味で言った訳じゃなくて……」


 確かに夏目漱石の逸話でそんな意味もあったなと思い出し、俺は何を言ってしまったんだと恥ずかしさの余りに目が泳ぐ。だが、美香は俺の方をジッと見たままに目を逸らしてない事に気付く。



「だったら、私は……”海が奇麗ですね”、と。返すね」



 そう言った美香は真っ赤にして身を捩り、悩ましいまでに柔らかい笑顔だった。


 一瞬見惚れるが、すぐに”愛してます”と言ってしまった事で恥ずかしさが込み上げてくる。だから美香の言葉の意味は何だろうとも考える余裕が無い。


「う、うみがきれいって……、確かに凄く奇麗だけど」


 その真意は俺にはわからない。が、そう誤魔化すしかなかった。


 美香はその言葉遊びの答えを教えてくれないままに、しばらく無言の間が続く。



 そして美香が突然俺の肩に頬を押いた。



 その行動に驚きで心臓が激しく動悸し、体がビクっと反応しそうになるが無理やりに抑え込む。


 今も俺の肩に美香の体温が伝わってくる。

 少し目線を落とすと風に流された長い黒髪が目に入る。


 美香からの初めての行為に、俺はどうして良いのかわからなくて目線だけを遠くへと移した。


 沈黙した時が静かに夜風と共に流れる。



 少しその時が続くと、俺の肩から美香の体温が消えた。

 目線を戻すと美香が俺の顔を覗き込んでいる。


 恥ずかしそうに顔を赤らめている表情ではあるのだけど、その眼差しは今迄に見た事も無い程に真剣だ。




「なおやくんから見て、……わたしって魅力ないかな?」


「え、あ、いや……、も、もちろん魅力的だと……」


「……それなら、私のことを、恋愛対象として見てくれてる?」


「えっ」



 その問いかけに、俺は完全にフリーズしてしまった。



 美香は顔を赤らめながらも俺から目を離さない。その表情は不安そうで今にも泣き出しそうに俺の返事を待っている。流石にその表情から察して冗談で言ってる訳じゃ無いだろう。


 だが、何て答えたら……、いや、流石に馬鹿な俺でも美香の言いたい事は理解できる。なら、ここは誤魔化すとこじゃない。長年思ってはいたけど口にだせなかった気持ちを伝える時だ。それすらも出来ないなら男じゃない。


 しかし、ここまで美香に言われないと本音を伝えられないとは情けない。

 この状況で初めてその勇気が出た自分が、本当に情けない。



 今まで美香の気持ちを考える振りをして、自分の気持ちから逃げていた。

 ――所詮は俺なんて。智樹になら。モブだから。貧弱だから。――そんな子供染みた程度の低い言い訳。


 トラウマを植え付けられたあの事件以来、好意的な目に疑念を抱き、そんな人達を恐れた。それからは自身の容姿にコンプレックスを抱き、智樹への憧れを抱き続けた。

 それでも美香に智樹に沙織は、俺を俺として接してくれた。


 だから4人の関係性に心地よい生活が崩れ、ひとりぼっちになる事を恐れた。


 だけど何より、美香に思いを伝えて拒否された時が一番怖かった。



 沙織に言われた決めつけるなって言葉が、今になってやっとわかった。


 ――全て、思い込みで自己完結してしまっていた事を。


 伝えないと、伝わらない。


 いや、もう独りよがりの解釈はやめよう。


 後の事は今考えるな。思い続けた事を伝えるんだ。




 俺は――。



「わたしは――」


 美香が俺の答えを聞く前に続きを伝えようとしたので、俺は咄嗟にその続きは俺から伝えるとの気持ちで、無意識に美香の唇に人差し指を押し付けていた。


 初めての美香の唇の感触が指に伝わってくる。


 柔らかくて、暖かくて、それに気付いた俺はハッと我に帰る。何てことをしてしまったんだと思う気持ちもあるが、今更だ。





「俺は、美香が好きだ」






 今まで隠しきっていた思いを素直に伝えた。



 その瞬間、美香は泣きそうで不安そうな表情から、いつものように自然な笑みを浮かべた。



「よかった。私も直弥くんの事が大好きだよ」



 ――その、言葉と一緒に。



 あれ?


 何か思ってたのと違う。凄くさっぱりした感じだけど、もしかして俺の勘違いだったのか?


 それなら、超恥ずかしいんだけど……。


 呆気に取られていると、美香は目線をプールへと向けた。





 その直後――――。





 俺から離れ、滑り台の上から季節外れの冷たいプールへと滑りだした。


 ザパーンっと音を立て寒い水中へと落ち、姿が見えない。



「―――美香ッ!?」



 咄嗟に俺も助けに行こうと立ち上がったところで、美香が水の中から飛び出した。


「ぐすっ、ぐすっぐすっ、よ、よかったぁ。ホントによかったぁ」


 外灯と月明かりに見える美香は、泣いていた。


 それを見た俺はすぐにプールへと飛び込んだ。

 泣いている美香の肩を抱きプールから出そうとすると、そのまま俺の胸に美香が顔を押し付けてくる。


「ぐすっぐすっ、嬉しい。嬉しいよぉ。ぐすっ……わ、わたしね、ずっと不安だったの。どんなに頑張っても私に興味をもってくれないのかなって。凄く不安だった」


「そんなことない!」   

      

「でも、でも、違ったんだね。だからね、さっきの言葉が、本当に、本当に嬉しいの。なのに我慢出来なくて、泣いちゃって……、ぐすっ、嬉しいのに、泣き顔なんて見せたくなかったのに……、結局こんなに近くで見られたら……。ぐすっ、えへへ……飛び込んじゃった意味なかったね」


 泣き止まないまま、俺の胸に顔を埋め、思いを伝えてくれた。


「ごめんな。俺に勇気がなくて、ほんとゴメンな」


「ううん。私もちゃんと伝えられなくて、ゴメンね。それとね……、海が奇麗って意味だけど……、あなたに……溺れて、いますって、……ことだよ」


 

 照れた仕草で泣き笑いしている美香は、キラキラと光りの水を纏い凄く綺麗だった。






 この時から、俺は――。


 モテる親友達の影に隠れているモブだけど、主人公のような恋が始まった。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

モブでも恋がしたい! 蓬蓮 @hourensou

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ