ハディルとの約束

 次に青空のいた地球とこちらの世界との次元が近づく日が迫るにつれて青空は物思いに耽る時間が長くなっていった。

 レギン城での生活は楽しい。ハディルは相変わらず魔王としての覇気には欠けるけれど、今の世の中このくらいのやる気の無さの方がちょうどいいのだとはディーテフローネの意見。確かにやる気がありすぎて世界征服を企まれるのも大変だ。

 彼のために美味しいお菓子をふるって、なぜだかしょっちゅう顔を見せに来るようになったディーテフローネにもお菓子を振る舞い、ヒルデガルトの砂糖生産事業にちょいちょい意見をしたりと、青空自身もなにかと忙しい。


 その忙しさの合間に思い出すのは日本のこと。

 砂糖を買った帰り道に青空は異世界に召喚された。みんな今頃青空のことを心配しているだろう。両親と妹、それから友達たち。近しい人たちの顔を思い浮かべると、青空はどうしようもなく日本へと帰りたくなる。けれども、それと同じくらいこちらの世界に後ろ髪をひかれる。


 青空に優しく触れる深紅の瞳の青年。彼と別れることを考えると身を引きされそうになる。

 彼が青空を自身の腕の中に抱いて、青空に元の世界に帰るよう言ったのは異世界との距離が最も近づく日の前日の夜のこと。


「青空。おまえは一度あちらの世界へ帰れ」


 ベッドの上で後ろからハディルに抱きしめられる形で、青空は彼の声を耳元で受けた。

 穏やかな声だった。それでいて小さな子を諭すような優しい音だった。青空はハディルの声をずっと耳元で聞いていたくなる。


「ハディル様は……」


 寂しくはないのですか、と続けようとしてやめた。そんなことを聞いてどうする。

 青空は胸が張り裂けそうになる。郷里を懐かしく思う気持ちある。けれどもそれと同じくらいこの身を抱く男のことが恋しい。離れることなんて考えられない。

ずっとずっと青空は二つの世界で迷っている。だって、一度離れたら簡単に来られるところではない。


「この異世界召喚は青空の意思ではなかった。心配する者が元の世界にいるのだろう?」


 ハディルの胸の中に体を預けながら、青空は自分の鼓動が大きく波打つのを自覚した。彼の腕の中にいると心が安らぐのに、今は駄目だった。涙が盛り上がる。心が張り裂けそうになる。二つの世界など、どうして存在するのだろう。


「だけど……」

「己惚れではないのなら……青空は俺のことを恋しく思ってくれている。そうだろう?」

 ハディルの言葉に青空はこくりと頷いた。

「あなたのことが好き」

 青空はハディルにしがみつく。いやいや、と頭を横に振る。駄々っ子のような青空の髪の毛をハディルがゆっくりと撫でていく。


「俺も青空が好きだ。青空、聞いてくれ」

 いつになく真剣な彼の声に、青空は彼の身から体を離した。

 暗がりのなか、深紅の瞳と視線を絡める。


「明日が終わると、次にあちらの世界と近づくのは千百二十五日後だ」


 ハディルの言葉に青空は瞳を瞬く。彼の話の意図が読めない。

 ハディルはふっと口元を緩めた。いつの間にか、彼は青空の前でよく表情をくつろげるようになった。


「暦読みに調べさせた」

「どうして?」

「青空。千百二十五日後に変わらずまだ俺のことを好いているのなら。そのときは俺の元に来てほしい」


 そうして、今度こそ本当の妻になってほしい。彼はそう続けた。

 本当の妻、という部分で青空は顔を赤くする。

 毎日一緒のベッドで眠っているのに、青空とハディルはいまだに清い関係のままだから。


「ハディル様」

「次に会うとき、俺はもうおまえを離さない」


 そう言ってハディルは青空の指に指輪をはめた。赤い石がはめ込まれた指輪だった。薄い明かりの中、彼の瞳の色と同じ色の宝石が鈍く輝いている。ハディルはその代りに、と青空の指にはまっている翻訳指輪を外した。外されてもハディルの言っていることはそのまま理解できている。

 聞けばこの石、彼の魔力を魔法で結晶化させたものだという。ついでに翻訳機能の魔法も埋め込んだと言われた。お守り代わりに持って行けと彼は囁いた。


「一度おまえを元の世界に戻すから、誓いの儀式はできない。これはその代りだ」


 すべてはあれからはじまった。あのとき青空の中に植えられたハディルの魔力は、〈光の剣〉によって青空の体の中から消え去った。そのあと、彼は青空の中に改めて魔力を入れることをしなかった。

 青空は指にはまった指輪に視線を落とした。

 青空の瞳に涙が浮かんだ。


「次は……ずいぶんと間が空くのですね」

「一定の周期ではないからな」

「わたし……忘れませんよ。ハディル様のほうこそ、わたしのこと忘れちゃうんじゃないですか」

「そんなことない。俺が青空のことを忘れるはずがないだろう」

「だって……」


 最後は駄目だった。言葉にできなくて青空はぽろぽろ泣いた。涙は勝手にあふれてくる。だって、だって。三年だなんて長すぎる。こんなにも愛おしいのに。

 ハディルは涙に濡れた青空の頬にキスをしていく。涙をぬぐうように青空の目じりに優しく唇で触れていく。この人をずっと独り占めしたい。もしも、もしも青空のいない間にお妃候補がわんさか湧いたらどうしよう。彼の腕も胸も全部青空のものだ。他の誰にもわたしたくはない。


「浮気……したら怒りますよ。わたし……怖いですからね」

「しない。俺には青空だけだ」

 ハディルはキスの合間に青空に真実を言う。

「わたしも、あなただけです」


 青空はベッドの上に押し倒され、ハディルはゆっくりと青空の唇を奪った。

 何度も何度も二人はキスを交わし合う。

 眠るのがもったいなくて、その晩は随分と遅くまで起きていた。


 翌日ハディルが青空を元の世界へ戻すことをディーターたちに告げると、彼らは特に驚いた様子もなく粛々と彼の決定を受け入れた。青空は拍子抜けしたがすぐに考え直した。おそらく、ハディルは随分と前からそのことについてみんなに話していたのだ。


 青空は一番最初にこの世界へやってきたときと同じ服に身を包み、ハディルの描いた世界を渡る魔法陣の真ん中に佇む。周りにはこの世界で知り合った魔族と黄金族の姿がある。

 全員が青空との別れを惜しみ、レイでさえ「次に会うときはちゃんと妃として扱ってやる」と言った。


 名残惜しかったが、ハディルが魔法を発動させる。

 青空の真下に描かれた魔法陣が力を持ち始める。淡く光を放ち、やがて青空の体を包んだ。

 青空は何もない空間に放り出される。すぐ傍らにハディルの姿がある。二人は手を繋いでいた。


「青空。魔法を組み込んだ。おまえがすんなり元の生活に戻れるよう、できるだけ時間を逆行した。多少の誤差はあるが、行方不明期間が短い方がいいだろう」

「ハディル様。なんだか、最後までお気遣いありがとうございます」

 そういえば昨日そんなことを話したっけ、と青空は恐縮した。

 元の世界に戻れるのは嬉しいけれど、突如行方知れずになった青空が数か月後にふらりと戻ればちょっと色々と言い訳に困るとかなんとか。


「気にするな。俺は魔王だ」


 なぜだかハディルの声は少しだけ得意そうだった。

 青空はくすりと笑った。最後は笑って迎えたい。彼には青空の笑顔を刻んでほしかったから。


「ありがとうございます。わたし、ハディル様に出会えてよかったです」

「俺もだ。青空」

 世界が変わる。青空の両足がぴたりと地面に着地をする。


―青空。愛している―

 耳元で声が聞こえた。


「ハディル様!」

 青空は叫んだ。


 最後の最後でそれは卑怯だ。

 しかし、彼の姿を見つけることはできなかった。


 気が付くと青空の目の前には見慣れた日本の住宅街が広がっていた。竜も魔法もない、マンションや一軒家が立ち並ぶ平和な住宅街。街の一角。


(もどってきたんだ……)

 こうして青空は日本の日常へ再び戻ってきた。

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