青空、今度こそ本気で命の危機

 急上昇した黒竜はそのスピードを上げ、最初こそ悲鳴を上げた青空そらだったが途中からはただただしがみつくことだけで精いっぱいだった。正直、振り落とされていない現状が奇跡的でもある。これが火事場の馬鹿力というものなのか、と思う余裕すらなかった。


 相当の速度で飛行しているため青空の体に当たる風が痛く感じた。手綱を握って、というよりはおはぎの首にしがみついた状態で青空は耐えた。


 周りを気にする余裕はなかった。

 あの場にいた黒竜らは一斉に飛び立ち、一心にとある方向へと飛んでいた。なにかに惹き付けられるように。脇目も振らずに彼らは上空を移動していった。

 やがて黒竜らはオランシュ=ティーエのはずれにある、とある火山口へと吸い寄せられた。何かに陶酔したように黒竜の集団のうちの何頭かが、ぼこぼことマグマが噴き出る火口の中へ突進していく。


 青空を乗せたおはぎはかろうじて理性を取り戻したのか、火口の真上で急停止をした。それからきょろきょろとあたりを見渡す。


「と……とまった……」


青空はようやく止まったおはぎに、心底胸をなでおろした。

 しかし安心したのもつかの間。体にまとわりつく熱気の正体に気が青空は付き凍り付いた。


「ななななんで!」


 真下は赤かった。テレビでしか見たことが無いような、元気いっぱい絶賛活動中のマグマがぼこぼこ噴き出る火口の真上でおはぎがふよふよと浮いている。


「おーほっほっほっほ」


 上からもはやおなじみと言っていい高笑いが聞こえてきた。見上げると案の定、本日も金髪をきっちり縦ロールにセットしたヘルミネの姿があった。同じく今日もこぼれんばかりの胸を半分ほど見せびらかすようなドレスを身にまとっている。


「ヘルミネさん」

 ヘルミネは青空の目の前に降下した。

「このドラゴン用またたび、略してドラマタは良く効きますわね。ドラマタの成分を魔法で増幅をした薬で黒竜たちをおびき寄せましたのよ。それもこれも、メス豚のあなたが黒竜乗りに挑戦していると聞き付けて思いついた作戦ですの」


 ヘルミネは黒い薬の瓶を青空に見せびらかした。この薬を上空から黒竜の飼育場へ漂わせ、黒竜たちを火山へとおびき寄せたのだ。


「ドラマタをたぁぁっぷりと染み込ませたお人形をマグマの中に放り込んでやりましたのよ。けれど、さすがは黒竜。酔っぱらっていても危険を察知して立ち止まるとは。やりますわね」

 何頭かそのまま死のダイブを決行した黒竜もいたけれど、おはぎは人形がマグマに沈んだ直後に正気に返った。

「さあ。おじいさまがハディル様を足止めしてくださっている間に、ちゃっちゃと終わらせますわよ!」


 ヘルミネは瞳を爛々と輝かせ、体を上へ浮上させる。

 両手を広げ、その数拍後風が巻き起こる。青空は目の前で起こる魔法を見ていることしかできない。青空の中にあるハディルの魔力はまだ彼女の思い通りにはできないからだ。


「きゃぁぁぁっ」


 風は刃となり青空たちに襲い掛かる。おはぎは器用に上から降り注ぐ風の刃をかいくぐる。

 かまいたちのようなするどいそれは他の黒竜にも襲い掛かる。掠ればただではすまない。実際に風魔法の直撃にあった黒竜は無残に体を切り刻まれそのままマグマへと落下をしていく。青空は周りを気にする余裕も無かった。


 おはぎは次々と襲い来る風の刃から逃れようと縦横無尽に飛んだ。青空は必死におはぎの首に掴まる。

 一陣の風がおはぎへ向かう。早くてよけきれないと思ったとき。


「きゃぁぁぁっ!」


 おはぎの背中から青空は宙へと放り出される。

 落ちる―。

 そう思った瞬間、青空の体が何かに受け止められる。透明な風船の中に閉じ込められたようだ。


「そう簡単には殺さないわ。わたくしが自ら、落として差し上げますわ」


 ヘルミネの魔法だった。

 すぐ上にヘルミネがいた。酷薄な笑顔を浮かべ、青空を蔑む。


「おーほっほっほっほっほ! これで邪魔者は完全に消えるわ。わたくしは、ついに魔王の隣で妃になるのよ! わたくしこそが魔王の妃としてこの世界に君臨するのよ!」

 高笑いが耳をつんざく。突如空を包んでいた膜のようなものが消えた。


「あっ―」


 落下する。

 そう思ったときには青空の体は重力に従って下へと落ちていた。下からの熱気を感じた。死ぬ。そう思った。


 熱い。あんな高温のマグマの中に落とされたら一瞬で死ぬだろう。それなのにどうして今この瞬間を長く感じるのだろう。これが俗に言う走馬灯というやつなのだろうか。


 人生二十年だったけれど、たしかに長く感じるほどには色々とあった。ほぼお菓子しかつくっていなかったけれど。そうだ、こちらの世界でつくった砂糖を試したかったな。ルシンとヒルデガルトったら全然帰ってこないんだもん。それからハディルのこと。彼にお花見の楽しさを教えてあげたかった。青空の頭の中はこんな時なのに忙しかった。


「青空!」


 走馬灯の割にはやけに臨場感のあるハディルの声だと思った。彼の、こんなにも切羽詰まった声なんてこれまで聞いたことも無かったのに。


 青空がまさにマグマに呑まれようとしていた瞬間。


 下からの熱風と恐怖で気を失いかけていたとき。寸前でハディルが青空の下に回り込み、彼が青空を抱きかかえた。あと一歩遅ければ青空はマグマの中、というところだった。


 ハディルはすぐさま結界を張ったが、まるで息を吐き出すかのように活発にうごめくマグマがハディルの背中に当たる。

 ハディルは眉根を寄せた。ハディルの体は自己再生能力が高い。先ほどザイフェルト家の当主に刺された腹の傷もすでに塞がれていたが、傷を負った直後はそれなりに痛覚を刺激される。

 青空を助けたハディルは自身の背中のやけどには頓着せずに真上に浮上する。


「青空!」

「……ハディル……様?」

 青空は寸前のところで命が助かったことを理解した。

「遅くなってすまない」


 ハディルは青空を自身の胸に押し付けた。青空はハディルの胸の鼓動を聞いてようやく安堵した。彼が来てくれたからもう大丈夫だと身体の力が一気に抜けた。

 一方のハディルは逃げようとするヘルミネを魔法で絡めとり、空中で拘束した。


「俺が間違っていた。おまえのことは最初から殺しておけばよかった」

 ハディルは低い声でヘルミネに言い放った。

「ハディル様! いい加減目をお覚ましになってですわ。わたくしは、あなた様のことを想って!」


 ヘルミネが媚びる口調でハディルに許しを請う。その体は自由が利かず直立不動のまま。ヘルミネはなんとかハディルの魔法から逃れようと試みるがびくりともしない。


「御託はいい。俺のためではないだろう。ただ魔王の妃という立場が欲しかっただけということくらいは知っている。そして、おまえは間違えた。おまえは、俺の妃に手を出した。青空は、俺のものだ。おまえは魔王に喧嘩を売った」


「わ、わたくしは……そんなつもりは」

 ヘルミネの顔がみるみるうちに蒼白になる。


 ハディルは力を解放していく。己が受け継いだ原初の混沌の力を。魔王の力を、この場で解き放つ。それは魔族の者たちが本能で恐れる闇を統べる者の力だった。

 ハディルは青空を腕一本で小脇に抱えなおした。


「今すぐに、死ね」


 ハディルは死刑執行官のように淡々と告げ、己の腕を払った。

 すると魔法でできた槍がヘルミネの背後に無数に現れる。

 黒い槍はまがまがしい気配を帯びている。

 青空の目にもはっきりと映っている。身動きができないヘルミネをハディルが一方的に殺そうとしている情景が。


「ハディル様? まさか、ですよね」


 青空は慌てた。

 青空の感覚でいえば、悪いことをした人間は警察に捕まって、それから色々と手続きを経て裁判にかけられて刑が確定して……というごく一般的な日本人のもつそれと同じもの。いくら魔王だろうと偉い人の鶴の一声で死刑なんて駄目だ、と反射的に思った。


 ヘルミネは青い顔をしてくちをぱくぱくと動かしていた。彼女は体が動かせないのだ。魔王が本気を出せばこのくらいたやすいこと。それを彼女はいま己の体自身で身をもって実感している最中だった。


 青空はハディルを仰いだ。

 そして息を呑む。

 ハディルの容貌が明らかに変化していた。目は血走り、口からは太く鋭い牙が生えている。赤い瞳がまがまがしく鈍い光を帯びている。前に突き出した、片方の腕はふと久保王朝をして衣服が破れている。太い血管が何本も浮き出ており、指先の爪は鋭く伸びている。


「ハ……ディル……様……?」


 青空は思わずつぶやいた。

 ハディルのようで、彼はハディルではなかった。青空は無意識のうちに身震いをした。


 黒い槍がヘルミネを襲う。

 このままでは彼女が死んでしまう。

 目の前で起こっていることが信じられなかった。青空の眼前で、大変なことが起こっている。映画のワンシーンのような光景が、今まさに起ころうとしている。


「だめ――――っ‼」


 青空は反射的に叫んだ。ただハディルを止めたかった。それだけだった。

 青空の声にぴくりとして、ハディルが身を動かす。今まさにヘルミネの背中を黒い槍が貫こうとする瞬間だった。ぴたりと寸前でとまった槍はそののち霧散した。黒い霧のように塵となって。


「……青空」

「っ……」

 青空はびくりと身を震わせた。


 背中に手を回しているハディルに、青空の恐怖が伝わったのだろう。

 彼は瞠目した。青空は反射的に視線を逸らしてしまった。

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