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年季の入った扇風機がカラカラと虚しく回る音が部屋に響く。古ぼけた木のテーブルの上では透明な液体が入ったガラス瓶が汗を流し、染みを作り始めている。シュワシュワと子気味良い音を立てながら上へ上へと上がっていく泡を目で追っていた。
からり。
炭酸の海に閉じ込められたビー玉が、揺れる。
音を立てないようにそっと顔を上げれば、テーブルを挟んだ向こう側では二人の男がぐったりとソファへ身体を預けていた。
「あっちい……。ちょ、志信、俺んとこに全然風こないんだけど。その扇風機ちゃんと回ってんの?」
「回ってるわよ。昨日アンタにぶっ壊された扇風機が息も絶え絶えね」
「いやあれは違うんですよお、志信サン。だってまさかね、すっ転んで扇風機にチョップかますとか、この彰さんだって想像してなかったよ?」
「修理代はこの前のアンタの取り分から引いとくから」
「待って待って話し合おう! 人類皆兄弟、話し合えばきっと理解し合えるって!」
「理解もクソもねえんだよ! というかオマエはさっさと私から借りた金返せや!」
「あの……」
おずおずと声をあげれば、四つの目が揃ってオレを見つめた。ソファの肘掛を強く掴んで、今にも逃げ出そうと浮く腰をなんとか押しとどめる。
「あらごめんなさい、話の途中だったわね。やだわあ、もう私ったら。おほほほほ」
片腕一本で軽々と男を締め上げながら、柔らかい表情で振り返るこの人は志信さんだ。男性ではあるのだが女性のような口調で喋る。丈の長い派手な布の下に、ゆったりとしたパンツを履いたその服装はチャイナ服だと教えられた。仕事が私生活に影響を及ぼした結果なのだとか。
「いやあ、空気読んでくれてマジ助かったわ」
一方、Yシャツの襟から覗くどこか不健康そうな白い首を擦りながら息を吐いたのは彰さんだ。鳥の巣を思わせる黒髪につい目を奪われていると、垂れた瞳で居心地悪そうに視線を寄越してきた。
「それで、お前は何が聞きたいんだっけ?」
「理由です。あなた達がオレをあそこから助け出した理由」
「ああ、そう。理由、理由ねえ」
固く目を閉じ眉間の皺をつまみながら、理由、理由かとぶつぶつと呟き始めた。そうして扇風機がのろのろと首を振るのを三回ほど見送った後、その人は突然パチンと指を鳴らした。
「そうだ、あれだ、仕事だ。俺達ってさ、何でも屋をやってんだよね。そんでお前は今回の依頼のターゲットだったわけ。どぅーゆーあんだすたん?」
自信満々に人差し指を向けながら堂々と嘘をつくその姿に、どう反応することが正解であるのかオレには分からなかった。それともこれは、自分の何かを試されてでもいるのだろうか。
戸惑いを隠すことが出来ないオレの様子を含め、これまでの一連の流れを傍らで見守っていた人物は大きくため息を吐いてからがっくりと項垂れた。
「アンタってほんっとさあ……。いえ、やっぱりいいわ、伝えたところでどうせムダよね」
横から飛んでくる文句も慣れたものなのか、全てを無視しながら志信さんはオレに向き直る。膝の上で優雅に組んだ手に顎を乗せながら、困ったように柔く微笑んだ。
「あのね冬麻くん、実は今回の件、あなたをある場所に無事に送り届けるまでが依頼なの。けれどその場所は、ここからずっとずっと遠くにあって膨大な時間を必要とするわ。その間は私達と一緒。だから、心配しないで」
ね? と柔らかな口調で、真っ直ぐに紡がれた嘘に面食らう。どうやらこの人は、オレが彰さんの嘘に気付いていると分かっていながら、嘘に嘘を重ねたらしい。とは言ってもおそらくそこには真実も混ざっていたのだろう。
きっと二人にはそれほどまでに言えない理由があるのだ。ならばこれ以上は聞いても無駄であろう。今の段階ではこれが彼らなりの精一杯の譲歩なのだ。記憶はないが助けられたという事実は胸にすとんと落ちて収まっていた。
自分が単純なのか、彼らの独特な雰囲気がそうさせるのか、この人達は信用に値すると空っぽの頭が無責任にも告げている。今はそれで充分だった。
自分でも気が付かなかったがどうやらずっと気を張っていたらしい。零れる笑みをそのままに肩の力を抜いた直後、ふと自身の指先が震えていることに気が付いた。それを自覚した途端、震えはいっきに全身へと伝わっていく。ぐらりと視界が揺れ、息すら上手く吐き出せなかった。
支配するのは、心を真っ黒に塗り潰していくものは、目の前に横たわる深く巨大な恐怖だった。
「あなた達は、オレについて何も知らないの?」
オレは自分に関する記憶を持っていない。それはなぜか。自分の心を守る為の防衛本能か、それとも不必要なものであると脳が認識したのか。きっとどちらかが正解だった。なぜなら自分の存在意義、それだけは最初から、望まずともはっきりと覚えていたのだから。
「――『パスワード』、だろ?」
からりからりとラムネの中で浮かぶビー玉を転がしながら、つまらなさそうにその人はオレの問いに答えた。
軽やかに鳴り響く夏の音が、記憶を鮮やかに蘇らせていく。
この脳には、あるパスワードがインプットされている。
オレの脳をいじった白衣の男は感情の伴わない声音で告げた。
『パスワードはお前自身も知らない。ある条件を満たした時、初めてお前はそのパスワードを知ることができるだろう。同時にそれは他者にパスワードが知られる危険性も多分に孕んでいる。だが、それだけはあってはならない。絶対にあってはならないことなんだ。なぜならそれは、私がお前に託したそのパスワードは――』
「『世界を創り変えてしまえる、禁忌のデータを手に入れる為の鍵なのだから』。白衣の男は、オレに中にあるパスワードについてそう説明したよ。だからオレはデータを手に入れるための鍵として、この先ずっと狙われ続けるのだとそう言っていた。白衣の男は、オレの、父親、は」
すまない、すまないと、父さんは涙を流していた。パスワードを頼むと、データを奴らに渡してはいけないと、どうか生き続けてくれと震える両腕でオレの体を強く抱きしめた。
真っ白な部屋に、爆発音と共に銃を乱射しながら男達が押し入ってくる。その誰もが「パスワードはどこだ」と狂ったように叫び、オレの世界だったそこを蹂躙していった。放たれた弾丸が父さんの心臓を貫くその瞬間、父さんが泣きそうな顔で、そしてひどく安心したように笑ったのを鮮明に覚えている。それはオレが、この人達に助け出されると分かっていたからだったのだろうか。
「二人とも、いつかきっと死ぬ。そして後悔するんだ、オレと一緒にいることを選んだこの選択を。だから――」
だからオレを放っておいて、その言葉を最後まで口にすることはできなかった。
まるで緊張感のない、茶化すような二つの笑い声が耳に届いた。
「ちょっとちょっと、キミは俺達を誰だと思ってんの?」
「あらやだ。そこそこ名前も売れてきたと思ってたけど、私達もまだまだなのねえ」
「えっと?」
困惑するオレの前で不敵に唇をつり上げるその人達には、戸惑いも怯えも一切見られなかった。代わりにその瞳には、いっそ楽しんでいるとも思える程の強く眩しい光が浮かんでいた。
ああ、そうか。この人達はもう、全てを受け入れていたんだ。この先きっと不幸しかもたらさないであろうオレを、側に置けば自分達の命を危険に晒しかねないであろうオレをこの人達は全て理解した上で、それでも手を差し伸べようとしてくれているんだ。
「あり、がとう」
零れ落ちた言葉は、いつの間にか始まっていた二人の言い争いにより彼らの耳に届くことはなかった。いや、きっとこれでいい。感謝を伝えるのは全てが終わったその時にしよう。
世界中の者を敵に回すかもしれないオレという存在を受け入れ、その上オレが抱いていた不安をあっさりと取り払ってくれた。
知らなかった。常識をいとも簡単にぶち壊し、笑いながら飛び越えていってしまう、こんな人達がいただなんて。恐れを知らない、こんなぶっとんだ人達がいただなんて。
「はは、ったく、こんな人達予想できるかっての!」
心の底から込み上げてくる喜びのままに、腹を抱えてオレは笑ったのだった。
(500 Internal Server Error.『サーバ内部のエラー』)
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