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古鳥

204 No Content


「――見るな」


 悲鳴と怒号が己の耳を支配する。数秒前に存在していたあらゆるモノが一瞬で壊されていく、そんな世界でオレは確かに聞いたのだ。

 ひどく優しいその声を。

 奪われた視界。瞼に触れた手のひらは冷たく、温度というものを感じさせなかった。そうして抵抗もできないままに身体を後ろへと引き倒される。直後、鼓膜を破らんとする乾いた音がすぐ側で響いた。

 今のは、ああ、そうだ。発砲音、だ。

 何かが地面に崩れ落ちる鈍い音を聞いたのを最後に、オレの意識はぷつりと途切れた。


「……あ、起きたわよ」

「え、うそ。ちょっと待って、まだ青信号……」

「いいからアンタは前だけ見てろ!」

 賑やかな声が遠くのほうで聞こえる。意識はゆるゆると時間をかけながら浮上していく。視界はまだぼんやりとしていたが、緩慢な動作でぱちりぱちりと幾度か瞬きを繰り返せばそれは少しずつ鮮明になってきた。

 背中に触れるのは心地が良いとは言い難い固い感触だった。傷と汚れが染み込む天井には腕を伸ばせば手が届きそうだ。窮屈なこの場所に、自分の身体は押し込むように入れられていた。折りたたまれた足の先では、突き抜けるような青い空が窓越しに広がっている。

 どうやらオレは、車の後部座席に寝かされているらしい。


「おはよう坊や。目覚めはいかが?」


 突如頭上から降ってきた高い声に、意図せずひゅっと喉が鳴る。存外すぐ側に人がいたらしい。いや、揺れ動く車内で自分は荷物のように横たわっているのだから、車を走らせる者がいるのは当たり前か。

 無意識に庇っていた頭から、両腕をゆっくりとずらしていく。興味深そうに細められた切れ長の瞳と視線が交じる。助手席から身を乗り出しているその人物は随分と中性的な顔立ちをしていた。後ろで一つに纏められた長く艶やかな黒髪と、詰襟に飾りボタンが特徴的な民族衣装も相まって、男性なのか女性なのか見分けがつかない。

 不躾な視線を送り続けるオレに気分を害した様子もなく、むしろその唇には面白いものでも見つけたかのように茶目っ気溢れる笑みが滲んでいた。

 暫しの静寂が車内を包んでいたが、隣でハンドルを握る男が小さく鼻を鳴らしたことでそれはあっさりと破られた。

「んなの聞かなくても分かんだろうが。いきなり視界にオカマが入ったんだぞ? そりゃあ目覚めも最悪だろうよ、なあしょうね……いだだだだだだ!」

 わざと地雷を踏みにいく程には信頼関係を築き上げているのだろう。遠慮ない力で片耳を引っ張られながら情けない声を出すその男は、涙目のままちらりと一瞬オレを見やった。

 宵の空を思わせるそのインディゴの瞳が、なぜだか強く胸を打った。

「あー、あれだ。お前、何を覚えている? 自分の名前は思い出せるのか?」

 そう問いかけられてからようやく気付く。今自分が持っている情報が不自然な程少ないことに。

「なまえ。オレの名前は確か、とうま。ああそうだ、オレの名前は冬麻だ。あとは、しろ。壁と天井と、ベッドの白。それから白衣を着た、おとこ、が……?」

「分かった。もういい。それ以上は、いい」

 固い声で言葉を遮られ、オレの思考はそこで無理やり停止させられる。

 なぜか苦い表情で唇を噛んだ男は、それきり何も言わず黙りこくってしまった。そんな男の態度を咎めているのだろうか、隣からは激しい小言が飛んでいる。

 そういえば、オレはどうしてこんなところにいるのだろう。それにこの人達は一体誰なんだ。敵意は感じなかった。むしろこの短時間の接触において気遣うような色すら感じられた。彼らはオレを連れて、何の目的で、どこへ行こうというのだろう。

 なにより――

 聞いているのかいないのか、ぞんざいに言葉を返す男の後ろ頭をぼんやりと眺める。


 オレは一体、誰なんだろう。


 名前はかろうじて覚えていた。けれど、己を形成していた中身が見つからない。年齢も姿形も、これまでの生活も、自分足り得る信念も価値観ですら、ありとあらゆるものが自分の中から消え失せてしまっている。自分は確かにここにいるのに、オレという存在を思い出すことが出来ない。


 ああ、オレは、空っぽなんだな。


 窓の外では、太陽に迫らんとする巨大な入道雲がうねるように天を突き上げながら夏の訪れを知らせていた。

 いまは、今はまだ。

 どこまでも澄んだ空の青も、目の眩むような夏の日差しも、駆け抜けるように移り変わっていく鮮やかな景色もオレはただ、今はまだ、この目に映る全てを拒否した。


(204 No Content.『内容が空』)

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