夏温度
古鳥
お兄ちゃんとぬいぐるみ
「俺は次の夏を迎えられない。来年の夏はもう、俺には来ないんだ」
八月の終わり。眼下に広がるたくさんの屋台の光。祭ばやしの音が遠くから聞こえる。湧き上がる歓声。次いで聞こえた鼓膜を震わすその音に、その声はその言葉は、溶けて消えた。
暑さも和らいできたある夏の夜。空を覆い尽くしそうなほどの鮮やかな花火を背に兄は静かに微笑んだ。
その年、兄はあっけなくこの世を去った。まだ高校生だった兄に訪れた早すぎる死に周囲の人々は深く悲しみ、誰もが涙を流した。そして、兄が死んで初めての夏が来る。季節は、時間は、進み続ける。私の心を置いて。
* * *
「ひまり! 今日は夏祭りに行くぞ!」
綿が詰まった短い片手を天井へと掲げ、ローテーブルの上で堂々と仁王立ちをするのはクマのぬいぐるみだ。薄布で出来ている茶色の体は色褪せていて、所々が花柄や星柄、無地などの布でつぎはぎされている。
その光景をぼんやりと眺めながら、流れてきた汗を思い出したように拭った。
「……お兄ちゃん、教科書踏まないで、見えない」
「お前はまーた勉強か! このガリ勉め!」
「お兄ちゃんが毎日毎日遊びに連れていくから勉強する暇がないんだよ」
八月三十一日。快晴。明日から九月だというのに、いまだじりじりと身を焦がすような暑い日が続いている。しかしそれももう昼間だけで、朝晩の涼しさを思い出すと確実に秋は近づいているのだと感じる。姿は見えないが蝉も終わりの近い夏を謳歌するように元気いっぱい鳴いていた。
目の前で腕を組み、知らん顔をするこのぬいぐるみ。
夏を迎える前に亡くなったはずの兄は、なぜか私の大切にしているクマのぬいぐるみに乗り移っていた。
「しょうがねえなあ。オレが教えてやるからさっさと終わらせるんだぞ」
そう言って兄は勝手に解説を始める。こうなったら何を言っても無駄だろう。気付かれないようこっそりとため息を零す。聞き慣れたその声に耳を傾けながら、窓の外に広がる青い空に目をやった。
* * *
「……お兄ちゃん」
「なんだよ」
「あの、恥ずかしいよ」
「お前いい加減慣れろよな」
「だって……」
時折ちらちらと向けられる視線にいたたまれなくなる。浴衣と同じひまわり柄の巾着袋を手首にかけ、両手にはクマのぬいぐるみを抱いていた。自然と地面へと落ちていく目線も、少しでも隠せればという思いから強まるぬいぐるみを抱く腕も仕方のないことだと思う。
何かと外に行きたがった兄に私は毎日付き添った。ぬいぐるみになった兄を連れて行けるのは事情を知る私しかいない。一度、もういい加減にしてと反発したことがあった。その時兄は怒るでもなくすねるでもなく「そうか、ならひとりで行くわ」と呟いて部屋を出て行ってしまった。兄が簡単に引き下がったことに困惑しながらも、ぽふぽふと足音を立てて去っていく後ろ姿がちょっとかわいいと思ったのは内緒だ。
固まること数十秒。
大変なことに気が付いてしまった。クマのぬいぐるみが歩いているなんて、もしも誰かに見られでもしたら即通報、連日メディアに「かわいいのに口が悪過ぎる生きたぬいぐるみ」として取り上げられ、最終的に兄は研究室に放り込まれ一生をそこで過ごすことになるのでは……。
最悪の考えが一瞬で頭をよぎり、出て行った兄を追うため部屋を飛び出した。
兄は、私が開けた扉と廊下の壁に挟まれて大変なことになっていた。なんでも玄関のドアが重くて開けられず、これは無理だと早々に諦めて戻ってきたらしい。私はこの日初めて、兄の諦めの早さに感謝した。
「おいひまり、見えない。真っ暗なんだけど」
「わ、ご、ごめんお兄ちゃん!」
思い出に浸っている間に抱き潰してしまっていたらしい。顔に腕がめり込んでいた。
ぬいぐるみの体は痛みや温度を感じないらしい。それどころか息をする必要もないしご飯だってもちろん食べない。便利な体だと兄はカラカラ笑っていたけれど、私は少しだけ、少しだけ寂しいと感じてしまった。
「よし、まずは射的だな。行くぞひまり」
「ええ、やだよ、私射的下手だもん」
「んなこと知ってるわ。オレがやるんだよ。ただ、この体じゃ銃は扱えない。それにぬいぐるみが動いてんのはまずいってお前が怒るからな、そこはバッチリ考えている。お前がオレの両手を持ちながら銃を構えればいい。オレが指示を出してやろう。そうすれば、な、なんと! ぬいぐるみと一緒に射的をするただの可愛らしい子供にしか見えない!」
「ただのイタイ中学生にしか見えないよ! お兄ちゃんのバカ!」
その後必死の抵抗もむなしく、私はぬいぐるみを抱えて射的をする羽目になった。兄はまるで悪魔のように景品を根こそぎ取っていき射的のおじちゃんを泣かせた。大量の景品は私が持ちきれなかったため、いつの間にか集まっていたお客さん達にあげることにした。そして店のほとんどの景品を正確無比な射的の腕前で奪っていったえげつないぬいぐるみ少女として語り継がれることを、この時の私はまだ知る由もない。
* * *
たくさんの屋台を二人で見て回った。兄は終始ご機嫌な様子で、いつもよりよく喋りよく笑った。お祭りの雰囲気のおかげか、それとも兄の楽しげなその空気に感化されたからか、私もいつも以上に笑顔だった気がする。
「あー、回ったなー」
腕に抱いた兄のその声は非常に満足そうだ。色々な屋台を回ったが私はあまり食べられるほうではなかったので、りんご飴を二つ買うだけに留めた。
「ひまり、今何時だ?」
私を見上げてくる兄を視界の端に捉えながら、腕時計を確認する。しばらくの沈黙の後、私は視線を落としたままぼそりと告げた。
「九時、ちょっと前」
「そうか。ならそろそろ打ち上げ花火が始まるな。花火が見やすいとこに移動するか」
その言葉にぎくりとする。
軽やかだった足取りが急激に重くなっていく。楽しいはずの世間話もだんだんと頭に入らなくなる。いつしか歩みが完全に止まってしまった私に、兄は首を傾げた。
「ひまり、どうした? 花火始まっちまうぞ?」
「行きたく、ない」
おそらくひどい顔をしているだろうその姿を見られたくなくて俯けば、お兄ちゃんは私の頬をぽふぽふと叩いた。
「なんで? お前、花火見たいって言ってただろ」
「花火、見たい。……でも、見たくない」
子供っぽいとは分かっていたがいやいやと首を横に振った。
花火が終わるあの瞬間が私はいつも苦手だった。だって、終わってしまう、楽しかった夏が。また来年、なんて言いたくないし聞きたくもない。夏なんて終わらなければいいんだ。私は、この夏だけでいいから。お兄ちゃんがずっと側にいてくれる、この夏さえあれば、私は、
「目を逸らすな、ひまり。終わりは必ず来るんだよ」
ふわりと髪を巻き上げるつむじ風が身体を包みこむ。突然のことに驚き、思わず緩んだ腕の拘束から兄が抜け出した。
「待って……、待ってお兄ちゃん! 行かないで!」
伸ばしたその手はわずかに届かず、空を切った。小さな体が林の中へと消えていく。もつれる足を無理やり動かし私はその後ろ姿を追った。
私だけが進めない。あの時からずっと、変わらずに私はここにいる。兄の死を受け入れられず、いつまでもあの夏に縋りついている。
悲しかった。辛かった。現実を見ることが怖くて、兄がいない家はとても静かで冷たかった。兄がいなくなったあの日から私はずっと泣かないようにしてきた。泣いてしまったら兄の死を、兄がいない現実を、受け入れてしまうような気がしたから。
上へ、上へ。
私はこの道を知っている。一年前のあの日、「誰にも言うなよ?」といたずらっ子のように兄は笑い、私の手を引いてくれた。今はもうない温かな手のひらを思い出し何かが溢れそうになる。私はそれを拒むように、強く、強く唇を噛んだ。
ふっと視界が開ける。
遮るものはもう何もない。一歩、一歩と、柔らかな草を踏みしめてその場所へ。
明るい茶の髪が風に揺れている。温かな光を宿したその瞳は、私を優しく見つめていた。
「おにい、ちゃ……」
その唇に微笑みをたたえながら、紺色の浴衣に身を包んだ兄がゆっくりと空を指差した。つられるように星一つ見えない真っ暗な空を見上げる。
花火が、上がる。
耳に響く、心地の良い破裂音。大輪の花が夜空を埋め尽くす。何種類もの光が混ざり合い、キラキラと空を彩った。
「きれいだなあ」
ぽつりと呟かれたその言葉は不思議と花火の音の中でもはっきりと聞こえた。
花火を仰ぎ見るその大きな背に、掠れた声で私は問うた。
「行っちゃうの?」
兄は振り返らない。
「そばには、いてくれないの?」
声が、どうしようもなく震える。
「……もう、会えない、の?」
兄は何も言わない。ただゆったりとした動作で私に向き直り、寂しそうに笑った。それが全ての答えだった。
だめ。待って、やだよ。視界がぼやける。いやだ、いや。泣きたくなんか、ない。認めたくなんか、ないよ、お兄ちゃん。
「ひまり! 来い!」
両手を大きく広げて、まるで太陽みたいな笑顔でお兄ちゃんが笑うから。私はその瞬間、全てを忘れてお兄ちゃんの腕へ飛び込んだ。
言いたいことがたくさんあるのに、何一つ言葉が出てこない。文句の一つでも言ってやりたかった。それなのに、この優しい温度に胸がいっぱいになって何も言えなくなる。ずるいよ、お兄ちゃん。
「なあひまり、ごめん。お前を置いていって、ひとりにして、ごめん。……ごめんな」
それは、いつも自信に満ち溢れていた兄からは想像もできないほどの弱々しい声だった。
少しだけ顔を上げれば、ぽたりぽたりと頭上から雫が降ってくる。兄の肩越しに見える色とりどりの花火と、私の頬へと落ちてくる雫がとてもきれいだった。
その時、一際大きな花火が上がった。花火の音とあちこちから上がる歓声に紛れるように、兄は小さく小さく呟いた。きっと誰にも聞かせる気なんかなかったのだと思う。けれど私には聞こえた。確かに、聞こえたのだ。
「――生きたかった」
その、願いが。
「おにいちゃ……、わっ」
突然顔へと押し付けられたそれは、あのクマのぬいぐるみ。もう何年も前に兄に貰った、大切な、大切な子。
「ははっ、お前、すごい顔になってるぞ」
押し付けられたぬいぐるみのせいで前がまともに見えなかったが、隙間から一瞬だけ見えた兄の顔も、涙でくしゃくしゃだった。
自然と笑みが零れる。
「お兄ちゃん、大好き」
ピタリと動きが止まり、ゆっくりとぬいぐるみが離れていく。その向こう側には少しだけ照れくさそうな表情を浮かべる兄がいた。
「……おう、ありがとな、ひまり」
終わりが近い。夏の終わりが、もうすぐそこまで迫っている。私は笑えるだろうか。笑って兄を見送れるだろうか。
ううん、大丈夫。きっともう、大丈夫。
私の顔を見て、兄が小さく頷いた。そして、天高く、真っ直ぐに空を指差して兄はとびっきりの笑顔で叫んだ。
「ひまり! 見ろ! 上がるぞ!」
兄の指差す遥か真上、その日一番高く上がった花火が夜空に咲き乱れた。
「……ばいばい。バイバイ、夏お兄ちゃん」
忘れない。私はこの夏を、兄と過ごしたこの奇跡のような夏を一生忘れないだろう。
ボロボロのクマのぬいぐるみは、もう動くことも喋ることもなかった。もしかしたらあの日々は夢だったのではないかと思うほど、最後の八月はあっけなく、当たり前に終わっていった。けれど巾着袋に入れておいたはずの二つのりんご飴はなぜか一つになっていて、私をとても驚かせた。そういえば、兄はりんご飴が大好きだった。もしかしたら兄も今、この空のどこかで私と同じようにりんご飴を舐めているのかもしれない。
来年はどんな夏になるだろうか。甘い甘いりんご飴を舐めながら、兄がいるであろう空へと思いを馳せた。
夏温度 古鳥 @furudori
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