第19話 春間マリーと春の終わり
コンロにかけたお鍋が、ことことと音を立てている。
くつくつと煮えた白がゆに、溶いた卵を回し入れてから味を整える。
最後に刻みネギを振ろうとして、ふと思い付いた。
「んー。
マリーはきっと、青ネギより、鰹節のほうが好みだよね」
急遽レシピを変更して、刻みネギのかわりに削り節を料理に散らす。
「よし。
朝ご飯のたまご粥、出来上がり、と」
お粥に乗せた鰹節が熱で踊っている。
匙でひと掬いして味を確かめる。
うん、いい出来だ。
ベッドで眠るマリーのもとへと朝ご飯を運ぶ。
冷めないうちに持って行ってあげたい。
「マリー、入るよー」
声をかけて、自室のドアを開いた。
「……なんだ。
起きてたんだ」
彼女はベッドで上体を起こして、ヘッドボードに背をもたれ掛けていた。
窓からぼんやりと外を眺めている。
ゴールデンウィークの連休明け。
月曜の朝。
マリーはもう、ひとりでは立ち上がることすら出来なくなっていた。
◇
あんなに動き回るのが大好きだった彼女が、いまやもう、見る影もない。
彼女のすぐ側、ベッドの脇に座って、サイドテーブルにたまご粥を乗せたお盆を配膳する。
「さ、マリー。
お粥を作ってきたよ」
たまご粥をひと口ぶんほど匙に掬い、彼女へと差し出した。
マリーは猫舌だし少し熱いかも知れない。
火傷をしないようにふぅふぅして粗熱をとる。
「ごめんなさい、テル。
私、なんだか食欲がわかないんだ」
「……うん、いいよ。
なら食べたくなったら言ってね。
温め直すから」
お粥に匙を戻す。
「ね、テル。
学校は?」
窓から景色を眺めていた彼女が、顔をこちらに向ける。
僕は彼女に微笑みかけた。
「休もうかな、と思って」
「……いいの?」
「いいんだよ、今日くらい」
「……うん」
それきり僕とマリーの会話は途絶えた。
◇
ちゅんちゅんと、窓の外からスズメのさえずりが聞こえてくる。
平日遅めの朝の住宅街には、騒然とした雰囲気はない。
時々、通りがかったご近所さんの話し声が、わずかに聞こえてくる程度だ。
「……もう、出歩けなくなっちゃったね」
彼女がポツリと呟いた。
僕は
「うん。
でも家でも、楽しいことはたくさんあるよ!」
家のなかで、動かなくても楽しめることというと……。
少し考えてみる。
「そうだ。
居間で一緒にテレビでも見ようか?
ソファまで運ぶよ。
まだ観ていない番組を、いくつか録画してるんだ」
「んーん。
テレビはいいや」
彼女はゆるゆると、首を横に振った。
ならと、続けて提案をする。
「だったら、ボードゲームでもどう?
ガイスターとか。
良いオバケと悪いオバケの駒を、秘密にしながら取り合うやつ。
マリー、あれ得意だったでしょ?」
彼女が思案する様子をみせた。
あごに指を当て、形の良い眉を寄せて「むむむ」と唸る。
「うん、それなら出来そうだね。
テル。
ゲームして遊ぼっか」
「うん!
よしきた」
ベッド脇から立ち上がり、クローゼットの隅にしまってあるボードゲームを取って戻ってきた。
シーツにゲーム盤を広げ、オバケの駒をマリーに手渡す。
彼女は受け取った駒をなんだか楽しそうな様子で並べていく。
「えへへ。
私ね。
このゲーム、テルより強いんだよねぇ」
「いまのところはね。
まだ負け越しているけど、僕だって少しずつ上手くなってきたでしょ」
「ふふん。
まだまだ、だけどね!」
楽しそうに微笑みかけてくる。
なんだかその笑顔が、僕には随分と久しぶりのように思えた。
◇
僕たちは、ゲームを楽しむ。
今回の勝負もやっぱり、マリーのほうが僕よりも強かった。
彼女が、オバケの駒を持ち上げた。
「えへへ。
このオバケで、テルのオバケを取っちゃえば、また私の勝ちねー」
いわゆる詰みの状態だ。
どうやらまた僕の負けらしい。
彼女は指で摘んだ駒を動かそうとする。
そしてその駒をポロリと落っことした。
「……あれ?」
彼女は小さく首を傾げながら、もう一度駒を摘み上げようとする。
けれどもふたたび、その駒をポロリと取り落としてしまった。
彼女は指の隙間から転げ落ちた駒を見つめて、そっと手を下ろす。
僕はそんな彼女を静かに見つめる。
マリーが力無く笑った。
「……あはは。
もう、駒も持てなくなっちゃったね」
無言で彼女の駒を拾い上げた。
そしてその駒で、僕の駒をひとつ取る。
彼女はそんな僕の行動をなにも言わずに見守っている。
僕は彼女に微笑みかけた。
「さ、これで今回のゲームはマリーの勝ちだよ。
やっぱりマリーは強いよね」
「……うん」
「じゃあもう1回、ゲームをしようか」
「でも、私。
もう、駒を持てないよ」
「大丈夫だよ。
僕がマリーの代わりに、駒を動かすから」
明るく話す僕に、彼女がおかしそうに笑いかけた。
「ふふふ。
そうしたら、どの駒が良いオバケで、どの駒が悪いオバケか。
全部、テル、わかっちゃうじゃない」
儚く笑うマリーに、殊更に僕は、陽気な声を張り上げた。
「大丈夫さ!
こうやって……。
こうやって、目を瞑りながら駒を動かすから!」
声が震える。
奥歯をきつく噛みしめて、ギュッと目を瞑り、上を向いた。
だって……。
そうでもしないと、いまにも目から涙が溢れ落ちそうだったから。
こんなときに泣き顔をみせて、マリーを不安にさせたくなどない。
彼女は僕の様子を、穏やかな瞳で見守っていた。
◇
「ね、ね、テル。
あれやって。
『恋人座り』」
「いいけど、膝枕じゃなくていいの?」
「うん。
いいの」
マリーのお願いを叶えるため、ベッドに上がる。
ヘッドボードにもたれ懸かり、彼女をすっぽりと胸に抱いた。
彼女は力の入らない身体を、僕に預けてくる。
「やっぱり、膝枕より、こっちのほうが暖かいね」
「うん。
そうだね」
ふたりして無言のまま、お互いの温もりを感じ合う。
彼女の優しい温もりが、胸から体中に伝わってくる。
マリーの手を取った。
力の入らない彼女に代わって僕のほうから、繋いだその手をキュッと結ぶ。
このまま時間が止まってしまえばいいのにと思う。
けれど時の流れは誰にも公平で、そして無情だ。
砂時計の最後の砂が落ちるように、時が過ぎゆく。
しばらく言葉を交わさずにいた僕たちだったけれども、不意に胸のなかで、彼女がポツリと言葉を漏らした。
「……私ね。
幸せだったんだぁ」
マリーは穏やかな声で、話し続ける。
僕は黙って耳を傾ける。
「私ね。
テルに拾って貰えて、死んだあともこうしてもう一度テルに会えて、私は、本当に幸せだった」
自然と、彼女を抱いた腕に力が籠もった。
「うん……。
僕もだよ。
僕はね、マリー。
きっと僕はきみにね。
一生分の幸せを貰ったって思うんだ」
マリーが穏やかに微笑みながら、問いかけてくる。
きっともう、これが最後の問いかけだ。
「ね、テル。
私がいなくなっても、もう大丈夫?」
「……うん。
大丈夫」
「ホントに?
もう笑えなくなったりしない?」
「うん、本当だよ。
僕はね。
マリーがいなくなっても、きっと笑っているから……。
きっともう、笑うことをやめてしまったりなんか、しないから」
「そっかぁ……。
なら、安心した」
彼女は小さく息を吐いてから、僕の胸にしな垂れかかり、そっと瞳を閉じた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
マリーと僕が身を起こすベッドに、陽の光が差し込む。
今日の陽射しは暖かい。
季節は春というには少し遅く、初夏というには少し早い、そんな頃合いだ。
僕たちはベッドに座りながら、抱き合って、ただお互いの温もりを感じ合う。
穏やかなときが流れる。
けれどもそんな柔らかなときは、不意に終わりを告げた。
「ねぇ、テル。
そろそろみたい」
僕は彼女の言葉に「うん」とひと言だけ応えた。
彼女は、振り返って僕の顔を覗き込みながら、最後のお願いをする。
「ね、テル。
笑って?」
マリーの顔をみた。
そしてなんとか笑顔を作ろうとする。
けれども僕は、表情を歪めてしまって、どうにもうまく笑うことが出来ない。
彼女はそんな僕を、穏やかな微笑みで見つめている。
途端に僕の瞳から、ボロボロと涙が溢れでた。
なんとか涙を堪えようとするのだけれども、両目からは僕の意思に反して、堰を切ったかのように次から次へと涙がこぼれ落ちて、一向に収まる気配がない。
マリーはそんな僕に、少し困った顔で微笑む。
最後のときにまで、マリーを困らせるなんて、本当に僕はダメなヤツだ。
涙で歪む視界のなか、瞳に焼き付けるように真っ直ぐに彼女を見つめた。
マリーを笑顔で送り出すんだ。
そうして僕は、涙で顔をくしゃくしゃにして、喉を詰まらせ、しゃくり上げながらも、無理やりに笑顔を作って、彼女へと向けた。
マリーが薄れていく。
少し困った様子だったマリーが、僕がみせた不器用な笑顔を見つめている。
そして最後にはその顔に、いつもの花のような笑顔を咲かせてくれた。
マリーが消えていく。
「ありがとう、テル」
最後にその言葉を残して、マリーは、春霞が薄れて消えゆくように、僕の前からその姿を消した。
僕の腕には、マリーを抱いたその温もりだけが、いつまでも消えずに残っていた。
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