第18話 春間マリーと終末の兆し
朝。
窓から明るい太陽の光が射し込んでくる。
僕は眩しげに目を細めて窓から顔を背けながら、ゆっくりと目を覚ます。
なんだか今日はいつにも増して春めいた、ぽかぽかとした日差しで、起きるのがちょっと億劫だ。
「……ふぁあ」
大きく欠伸をした。
温もりに名残を惜しむ身体をベッドから起こす。
背筋を伸ばして「んっ」と声を漏らしながら、伸びをもうひとつ。
そうして、やっとしっかり目を覚ました僕は、隣ですやすやと眠っている美しい少女、僕のマリーに視線を落とした。
「マリー、おはよう」
朝の挨拶を投げかけるも彼女は反応しない。
すぅすぅと寝息を立てたままだ。
小さく胸を上下させる彼女の寝顔を、穏やかな気持ちで眺める。
春間マリー。
僕の、掛け替えのないひと。
こうしてマリーを眺めているだけで、僕の胸は幸せな気持ちでいっぱいになる。
眠る彼女を一頻り眺めたあと、もう一度彼女を起こそうとする。
「マリー、朝だよ」
声を掛けながら指先を伸ばして、ふっくらとした頰をツンツンと指で突っつく。
「……んにゃ」
ようやく反応が返ってきた。
けれどもまだ彼女は眠ったままだ。
一向に起きる気配をみせない。
……あれ?
おかしいな?
思わず首を傾げてしまう。
いつもならこのくらいすれば、とっくに起きている頃なのだけど。
今度は細い肩を軽く揺すりながら、少しだけ声を大きくして目覚めを促す。
「マリー。
朝だよ。
おはよう」
「……うに」
うに?
雲丹はおいしいよね。
変な呟きを漏らしはするものの、マリーはまったく目覚める様子がない。
小さく丸まって眠るその姿は、まるで年老いた猫のようだ。
「……ええと。
仕方がないな」
僕は起こすのを諦めて、ひとりでベッドから這い出した。
今日は陽射しが暖かい。
だからきっと『春眠暁を覚えず』ってヤツだろう。
細い寝息を立てながら、気持ち良さそうに眠る彼女をベッドに残して、僕は自室をあとにした。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「……おはよう、テル」
朝というには、もう少し遅い時間。
彼女は挨拶をしながら、リビングへと降りてきた。
両手を猫の足のように曲げて、まだ眠たそうに目を擦っている。
「おはよう、マリー。
今日は随分と、ゆっくり寝ていたんだね」
「うん……。
なんだかね、眠くって」
「そっか。
この連休はいっぱい遊んだから、疲れが出たのかな?」
本日はゴールデンウィーク最終日。
僕たちは初日の温泉旅行を皮切りに、この連休を遊び回って過ごした。
というよりも、僕が無理を言って彼女を引っ張り回したかたちだ。
スポーツセンターやテニスコート。
バッティングセンター。
ゴルフの打ちっ放し。
彼女は体を動かすのが大好きだから、そんな場所を中心にたくさん遊んで回った。
だからこうして、彼女が疲れてしまうのも、不思議はないのかもしれない。
これは少し反省しないと。
「色々と連れ回しちゃって、ごめんね。
じゃあ今日は1日、家でゆっくりする?」
ブランチになってしまった朝のお味噌汁を温め直す。
トースターから小麦の焼ける芳ばしい香りが漂ってきた。
彼女は椅子を引いて座った。
だけどその動きは緩慢で、どこか気怠そうだ。
「んっと、家でゆっくりするのもいいけど、少し近所を散策したいな……。
私ね、テルの暮らしているこの街の風景を、見て廻りたいの」
「うん、そっか。
じゃあご飯を食べて少ししたら、出掛けよう」
焼きあがったトーストを彼女の前に置く。
本日のブランチはトーストとサラダ。
それに夕べの残りのお味噌汁だ。
自分のぶんのご飯を準備してから、マリーと対面になって椅子に座る。
「さ、食べようか。
いただきます」
「いただきまぁす」
こんがり小麦色に焼けたトーストに、アップル果汁の混ぜ込まれたクリームチーズを塗る。
これは先日輸入雑貨屋さんで、僕とマリーがふたりで選んで買ったものだ。
このクリームチーズは当たりだった。
りんごの甘みと酸味が、円やかなチーズの風味に程よくマッチしていて、かなりおいしい。
彼女も僕に倣って、トーストにクリームチーズを塗りはじめた。
すっかり馴染みになった、いつもと変わりのない、僕たちの食卓の風景だ。
けれどもその日は、いつもとは少しだけ違うことがあった。
「……ごちそうさま」
彼女がテーブルのお皿に、かじり跡のついたトーストを置いた。
「あれ?
マリー、もうお腹いっぱいなの?」
「うん……。
なんだか、お腹が空いてないの」
普段と変わらぬいつもの食卓。
けれどもその日。
マリーは初めて、食事を食べ切れずに少し残した。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「この公園、テルとバドミントンをした公園ね!」
はしゃぎながら、公園の中へと駆けていく。
そんな彼女を小走りで追いかけた。
追い付くと彼女は、少し肩を揺らしながら息を上げていた。
「どうしたのさ。
少し走っただけで、息を切らしたりして」
「うにゃ……。
どうして、かな。
少し、体が、重いの」
「……そっか」
彼女が息を整えるのを待った。
「もしいまバドミントンで勝負をしたら、今度こそはマリーに勝てるかもしれないねぇ」
「そんなことないの!
テルは運動苦手だから、私の方が勝つの!」
息を落ち着かせた彼女は、僕の挑発的な軽口に乗ってくる。
やっと調子が出てきたのかもしれない。
縋るような気持ちで願う。
「……バドミントンのセット、持ってくれば良かったね」
僕がそう言うと彼女は少し無言になった。
なにかの想いに耽っているように見える。
「バドミントン……。
楽しかったな」
「えっと、マリー?」
「ううん、なんでもないの!
今日はバドミントンはいいや。
それより、散歩を続けよう?」
彼女がくるりと背を向ける。
ゆっくりとした足どりで歩きだす彼女の後ろ姿に、僕も続いた。
◇
街を歩き回った僕たちは、やがて河川敷へとたどり着いた。
河に架かる橋を眺めながら、前を歩いている彼女へと声をかける。
「マリー。
ほら、あの橋。
僕らが喧嘩したときにマリーが柱に隠れて、丸くなっていた橋だよ」
彼女は振り返って頰を膨らませる。
見事な膨れっ面だ。
「もう、テルったら!
喧嘩なんてしてないのよ」
「あはは。
ごめん、ごめん。
そうだったね」
「ほんとにもう!
でもわかればいいの」
「うん。
あのときはごめんね、マリー」
彼女は膨れっ面をもとの綺麗な顔に戻して、柔らかく微笑みを浮かべた。
穏やかな表情で空を見上げる。
「……いいの。
どんなことでもね、テルと私の、大切な思い出だと思うから」
「……うん。
そうだよね」
静かに頷きあいながら、微笑んでみせる彼女に僕も微笑み返した。
「それよりね、テル。
私、なんだか少し疲れたから、休憩してもいいかな?」
彼女の言葉にまた少し違和感を覚えた。
今日の彼女は朝から少し様子がおかしい。
……隠そうとしているみたいだけど、なんだかずっと、気怠そうなのだ。
「じゃあ、少し座ろうか。
ベンチなんかはないから、直接、草の上に座っちゃおう」
彼女は「うん」と頷いてから、河川敷の草に、直接お尻をつけて座った。
隣に並んで、僕も草原へと腰を下ろす。
僕たちは隣り合い、そのまま自然と肩を寄せ合う。
特になんにも語らわない。
でも彼女とこうしていられるだけで、胸が暖かくなってくる。
彼女も、僕と同じ気持ちでいてくれたら嬉しいな。
向こう岸を眺めながら、僕はそんなことを思った。
◇
「じゃあ、そろそろ、散策を再開しようか」
先に立ち上がって、お尻についた草をぱんぱんとはたき落とす。
「うん!
テル、次はどこにいく?」
彼女も頷いてから立ち上がった。
「とっとっと……。
あれ?」
けれども一度立ち上がった彼女は、腰が砕けたみたいに、その場にぺたんと尻餅をついた。
「えへへ。
脚が、痺れちゃったの」
頬を指先で掻きながら、彼女はもう一度、立ち上がろうとする。
けれどもまたよろよろとよろめいて、パタッとその場に腰を落としてしまった。
「……あれ?
脚に、力が入らないや」
マリーが困ったように笑う。
そうして何度も立ち上がろうとしては尻餅をつく。
僕はそんな彼女を見つめる。
いま、僕の目の前で、また彼女がよろめいて倒れた。
「…………」
――来るべきときが、来たのだろう。
僕は無言でマリーのもとへと歩み寄り、片膝をついて背中を向けた。
「はい、マリー。
どうぞ」
「……うにゃ?」
「僕が、マリーをおぶって歩くよ」
背を向けてしゃがみ込み、そのままじっとしてマリーに負ぶさるように促した。
彼女は少しだけ考える素振りを見せたあと、小さく頷いてから、僕の背中に体を預けた。
両脚に力を込めて、彼女を背負い、立ち上がる。
背中に、脚に感じる、マリーの重さが愛おしい。
僕はその重みに、不意に涙が込み上げて来そうになったのだけれど、ぎゅっと目を閉じて、涙が溢れてしまうのを堪えた。
◇
マリーを背におぶりながら、街の散策を続ける。
途中すれ違うひとたちが、僕たちふたりを奇異の目で見てきたけれども、僕もマリーもそんな視線は気にならない。
彼女を背負って街を歩き回りながら、「ここは、僕がよく買い物をする雑貨屋さんなんだよ」だとか、「ここのスーパーは、何度もマリーと一緒に来たことあるよね」だとか言って、背中のマリーに話しかける。
彼女も「へー、そうなんだぁ」だとか、「このスーパーは、色々と商品があっていいのよねー」だとか、その都度楽しそうにして、僕の話に相槌をうった。
「……ね。
……ね、テル」
「うん?
どうしたの?」
「私ね……。
もうすぐ、いなくなっちゃうんだぁ」
会話が途切れたとき、背中のマリーがそう言った。
僕は前を向いたまま、振り返らずに応える。
「……うん。
知ってるよ」
そう告げると、彼女は少し驚いた様子をみせた。
「知って……、たんだ?」
「……うん」
「いつから?」
「なんかね。
あの不思議な場所で、マリーの記憶をみたときにね……。
わかっちゃったよ」
ゆっくりと応えた。
すると彼女は「そっかぁ」と短く呟いて、僕の背中から空を仰ぎ見た。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
街の散策を終え、家へと帰り着いた。
玄関で、背中におぶった彼女を床に降ろす。
「うなー。
お散歩、楽しかったぁ」
彼女が大きく伸びをした。
そんな姿を微笑ましく見守る。
「疲れたでしょ?
ベッドまで僕が背負おうよ」
「ううん……。
自分の脚で、歩きたいの」
マリーははっきりと言い切った。
脚に力を入れて立ち上がる。
ゆっくりと、けれども、しっかりと地に足をつけて、彼女はベッドへと歩いていく。
そうしてそれが、マリーがひとりで歩いた、最後の歩みになった。
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