第9話 春間マリーと帰り道
休みの明けた月曜日。
登校した僕は、今日も今日とて普段と代わり映えのしない無愛想な顔で、一日の授業を受ける。
教室の窓際、最後尾。
その席には、休憩時間になってもクラスの誰も近寄って来ようとはしない。
だから休憩時間になると、ぼうっと窓の外を眺めるか、机に突っ伏して寝てしまうかが、僕の日常だ。
……いや、日常だった。
というべきか。
「テルー!
さっきの授業ねー」
明るい口調で寄ってくる転入生の美少女。
彼女の名前は春間マリーだ。
彼女は休憩時間の度に僕の席へとやってくるようになった。
クラスでの僕の立ち位置だとか、自分の人気だとか、そんなことは彼女にとってどうでもいいことみたいだ。
なにがそんなに楽しいのか。
彼女はいつもにこにこと嬉しそうな顔をして、軽い足取りで僕のもとへとやってくる。
その度にクラスの男子たちが、僕を睨んでくるのである。
「……ちっ」
あ。
いままた誰かに舌打ちをされた。
当たりのきついクラスメイトのことを、正直なところ僕は少し疎ましく感じていた。
けれども春間マリーは男子たちの様子になんて、まるで頓着していない。
彼らを視界から追い出した彼女が、楽しそうに笑うたびに、ますますクラスの男子たちは目を逆三角形にしてつり上げた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
放課後の喧騒。
いつも通りの少し気が滅入る一日を過ごして、今日の授業は全て終わり。
一日中同級生の嫉妬の視線に晒され続けた僕は、首や腕をぐるぐると回して肩の凝りをほぐす。
「テェル!
一緒にかえろ!」
これももう恒例だ。
彼女と連れ立って帰路につく。
本日何度目になるかもわからない憎悪の視線が、背に突き刺さった。
けれども意識的に彼らの嫉妬まみれの視線を無視して、足早に教室を後にした。
◇
「今日の体育の授業はね。
大変だったんだよ。
……ホントに」
校舎を出てすこし。
校門に差し掛かる手前のあたりで、2、3歩ほど前を歩く彼女に話しかけた。
小さく嘆息する僕の顔を彼女が振り返る。
「にゃ?
なんのこと?」
「きみの応援のことさ。
今日の体育の授業は、男子がサッカーで、女子が陸上だったでしょ?」
隣に並んだ彼女が、斜め下から見上げるように顔を覗き込んできた。
僕は少し赤面し、照れ隠しにそっぽを向く。
彼女は顔を背けた僕に、まったくお構いなしに引っ付いてきた。
「それで、テルはどうして大変だったの?」
「うん。
きみ、今日は体操着がまだなくて、女子の体育の授業を休んでいたでしょ?」
彼女はうんうんと、肯いている。
「……それで、きみってば、女子の授業をちゃんと見学せずに、ずっと僕のことを、遠くから応援してたじゃないか」
「そうだよー。
先生に怒られて、私、大変だったんだから!」
悪びれもせずに胸を張る。
いや大変だったのは、僕のほうなんだけどなぁ……。
小さくため息を吐いた。
なにせ、本当に大変だったのだ。
男子の体育の授業は、言った通りサッカーだったのだけれど、同じグラウンドで授業を見学している彼女が僕を応援するたびに、敵チームどころか、味方チームの男子まで殺気だってしまう。
『おら!
春間ッ!
パスだぁ!』
嫉妬に燃えた彼らはそんな風パスを装いつつに、僕にシュートを撃ってくるのだ。
加えていうと、僕がサッカーボールをキープすると、その途端に競技がサッカーからラグビーに早変わりする。
そんなものだから、結局僕は、敵、味方、ボールの3つから逃げ回る羽目になってしまった。
腕に絡みついた彼女は、「応援、感謝してよねー」なんて言いながら笑っている。
なんとも気の抜けた笑顔だ。
そんな彼女の様子に、細かなことを気にしている自分がなんだか馬鹿らしくなってくる。
「……まぁ、いいや」
小さく嘆息し、表情を和らげて肩の力を抜いた。
◇
「あ、これ。
まだ春なのに、珍しいな」
家路を歩いていると、道端に
「んにゃ?
なに、なに?
どうしたの?」
この草はいわゆる、猫じゃらしの草と呼ばれる夏の植物だ。
「……ん。
ちょっとこの草には思い出があってね」
僕はその草をみて、白猫のマリーを思い出していた。
それはマリーとの大切な、夏の思い出だ。
マリーはこの猫じゃらしの草が大好きで、生前、夏になるとよく学校帰りに何本かこの草を引っこ抜いて、家で僕の帰りを待つマリーに持って帰ってやっていた。
マリーは化学繊維で作られたオモチャの猫じゃらしよりも、この狗尾草の方がお気に入りだった。
僕はよくマリーの目の前で、この草をユラユラと揺らしてやった。
するとマリーは、頬っぺのマズルをぷっくりと膨らませながらお髭をピンと立たせ、爛々と目を輝かせて、勢いよく飛びついてきたものだった。
お尻を振って獲物に狙いを定める姿なんて、とても可愛かった。
「なんだか、懐かしいな」
呟きながら、猫じゃらしの草を1本引き抜く。
「ニャッ!」
すると隣の彼女に、引き抜いた草をいきなり叩かれた。
「きゅ、急に、なにをするんだよ」
猫じゃらしの草を背中に隠す。
「……えっと、なんとなく?」
彼女が曖昧に返事をする。
でも視線は猫じゃらしに釘付けのままだ。
なんとなくって、なんなんだろう。
僕は試しに彼女の目の前で、その草をユラユラと揺らしてみた。
「……ん。
……んんん。
……んにゃ」
彼女の視線が、揺れる猫じゃらしを追いかける。
しばらくそうして揺らしていると、彼女が脚をもじもじさせ始めた。
どうやら、うずうずしているみたいだ。
「ニャッ!
ニャ、ニャッ!」
揺れる草を叩こうとしてきた。
でもその動作をいち早く察知して、再び背中に猫じゃらしの草を隠してしまう。
すると彼女は僕の背中に腕を回して、草を叩こうとする。
今度は頭の上に手を伸ばして、猫じゃらしを高く持ち上げた。
こうすれば彼女の手は届かない。
それでも彼女は諦めずに「ニャ! ニャ!」と変な声で手を伸ばし、僕の身体に纏わり付いてピョンピョンと飛び跳ねている。
「ちょっ、ちょっと!
きみ!」
彼女はふぅふぅと息を荒げ、瞳孔を開きながら目を輝かせている。
揺れる草に狙いを定めて、一層激しく僕に纏わり付いてくる。
「ちょ!
待って、マリー!
わかった、わかったから!」
観念して腕を下した。
すると即座に彼女に猫じゃらしの草を奪われた。
◇
「どう?
満足した?」
一頻り猫じゃらしの草で遊んだ彼女は、ふぅふぅと息を弾ませている。
とても満足気で楽しそうで、なんだか気持のいい笑顔だ。
「うん!
猫じゃらしで遊ぶの久しぶりだったから、すっごい楽しかったぁ」
「……なんというか、まるで猫を眺めてるみたいだったよ」
その言葉に彼女が笑う。
本当にこの少女は、猫のようだと思う。
なんと言うか、行動が突飛でまるで読めないのだ。
「あ、そうだ、テル。
さっき、私のことを、マリーって呼ばなかった?」
「……いや、呼んでないよ。
きみの聞き違いじゃないかな」
「えー、そんなことないよ!
マリーって呼んだのよ?」
聞き違えかなにかだと思うのだけれど、彼女は確信しているみたいだ。
そうだったかなぁ。
記憶にはない。
思い出そうと考え込む僕の手に、彼女が触れた。
「前にも一度ね。
私のことをマリーって呼んだのよ?
私、気付いてたんだから!
ねぇテル。
私のこと、マリーって呼んで?
前みたいにマリーって呼んで欲しいの」
言われてみれば、ずっと僕は彼女のことを『きみ』としか呼んでいなかった。
「ね、ね、テル。
私ね。
再会してからずっと、テルが私のこと、どうして名前で呼んでくれないんだろって不思議に思っていたのよ?
私、マリーってちゃんと名前を呼んで欲しいんだぁ。
だって大好きなテルが付けてくれた名前だもの」
少し気恥ずかしくはあるけど、そこまで言うなら名前で呼んであげよう。
別にこれまでだって、意識して名前を呼ぶことを避けていた訳じゃないのだ。
「えっと……」
照れながらもおずおずと口を開いた。
彼女は期待に瞳を輝かせている。
「マリ――」
あれ?
言葉が出ない。
何故だか言葉に詰まった。
もう一度、今度はしっかり意識して彼女の名を呼ぼうとする。
「マ……」
ダメだ。
やはりマリーという名前が口をつかない。
何故だろう。
たったひと言、『マリー』とほんの短いその名前が、何故、僕の口から出てこないのだろう?
たしかに女子を下の名前で呼ぶことに気恥ずかしさを感じてはいる。
でもそれとは少し違う気がする。
「…………そうか」
考えて、そして気付いた。
僕にとっての『マリー』とは、白猫のマリー、ただその1匹だけなのだ。
ほかの誰かをマリーと呼ぶことに、心の奥で抵抗を感じている……。
彼女は相変わらず期待に満ちた目で僕を見ている。
そんな彼女から顔を背けた。
「も、もういいじゃないか、そんなことは。
さ、もう行くよ。
……きみ」
前を向き、先に立って、帰路を歩き出した。
「もうっ。
テルったら、ケチなのね!」
膨れっ面をした彼女の拗ねた言葉が、後ろから僕を追いかけてきた。
◇
帰りの道すがら、僕たちは寄り添って特に言葉もなく歩いていた。
そんなふたりの静寂を、彼女から破る。
「ね、テル。
少し寄り道をしていい?」
「うん、別にいいけど、どこに寄り道をするの?」
「えっとね、神社!
クラスの女の子が言ってたんだけどね。
この辺りに、恋愛成就で有名な神社があるの」
ああ、あそこの神社か。
聞いたことのある話だ。
ただ恋愛成就なんて僕にはまるで関係のないことだったから、頭の隅に追いやったまま、そんなことは忘れてしまっていた。
「恋愛成就の神社になんて行って、どうするつもりなの?」
「それはもちろん!
テルと私の、恋の成就を願うんだよ!」
彼女はいつも通り明け透けに話しながら、朗らかに微笑んだ。
◇
「えへへー。
……うへへー」
嬉しそうに手のなかのものを眺めて相好を崩している。
「……そんなに嬉しかったの、それ」
「えへへー。
うん!」
満面の笑みが返ってきた。
彼女が大切そうに胸に抱いているもの。
それは御守りだ。
彼女は『恋愛成就』と書かれたそのピンク色の御守りを、嬉しそうに何度も眺めながら、指で擦ったり、目の前に持ち上げたりして、ニヤニヤとしている。
その御守りは、先ほど神社で、僕がプレゼントをしたものだ。
僕との恋愛成就を願う、なんてからかってくる彼女に、当の僕から恋愛成就の御守りを贈るなんて、なんだか変な感じがする。
けれども彼女も喜んでいるのだ。
細かなことはこの際、脇に置いておこう。
ピンクの御守りを胸に掻き抱えた彼女が、真っ直ぐに目を見て、想いを届けようとしてくる。
「ね、テル。
私はテルのことが、好き」
「い、いきなり、なにを言い出すんだよ」
うろたえた僕の顔はいま、茹でたタコのように真っ赤になっていることだろう。
こんな赤くなった顔を彼女に見られるのは、少し恥ずかしい。
でもきっと大丈夫だ。
だって今はほら、夕暮れどきだ。
僕の顔はいま、沈み始めた太陽に赤く照らされている。
きっと彼女は僕が顔を赤くしているのは夕映えのせいだと、勘違いしてくれるだろう。
「テルは、私のこと、好き?」
真っ直ぐに見つめてくる視線から、目を逸らした。
「そ、そんなこと聞かれても、わからないよ」
彼女は僕の不甲斐ない返事にも気落ちした風はなく、また寄り添って腕を絡めてきた。
「えへへ。
テルはあったかいね」
「……うん。
あったかいね」
どうやらもう、さっきの話は終わりみたい。
好きだの嫌いだのと問われても、まだはっきりとしたことは自分でもわかっていない。
だから少しほっとした。
「さあ、家に帰ろう」
「ね、今日の晩御飯はなににするの?」
「そうだねぇ……」
そうして僕たちは、繋いだ腕を離すことなく、夕陽に伸びるふたつの影をひとつに重なりあわせて、家路をゆっくりと歩いた。
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