第8話 春間マリーと同棲生活
お風呂場から、シャワーを浴びる音が聞こえてくる。
『…………じゃあ、僕の家に、くる?』
その言葉に満面の笑みを浮かべた美少女、春間マリー。
僕は彼女を家へと連れ帰った。
それにしても大胆なことを言ったものだ。
普段の僕からは少し考えられない。
彼女を家へと誘ったときの自分を思い出して、ひとり赤面する。
「……いけない、いけない」
何がいけないのか自分でもわからないまま、2度3度と頭を振って火照った頬を冷ました。
大きく息を吐いて気持ちを落ち着ける。
お風呂場では彼女が鼻歌を歌っている。
「ちょっと近くのコンビニまで買い物に出てくるよ。
鍵を閉めて行くけど、直ぐに帰ってくるから、きみはゆっくりと湯船にでも浸かっていて」
シャワーの音が止んだ。
狭い浴室に明るい声が反響する。
「はーい。
いってらっしゃーい」
「うん。
いってきます」
玄関で靴を履き、扉を開けて外に出た。
さて、手早く買い物を済ませてしまおう。
コンビニに買い物に行く目的。
それは、彼女の下着や靴下なんかの調達だ。
デートのあと家へと帰ってきた僕たちは、少し遅めの夕食を共にした。
食後、ソファでゴロゴロと寛ぐ彼女に、お風呂を勧めた。
そのとき、ふとあることが気になったのだ。
転入してきてからこっち、なんやかんやでずっと、春間マリーはわが家にいる。
『ねぇきみ。
……そういえば、下着なんかはどうしているの?』
『にゃ?
変えてないよ?』
僕はあっけらかんとした様子の彼女に、頭を抱えた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「下着、買ってきたから、ここに置いておくよー」
お風呂場に声をかけて、コンビニで買ってきた使い捨てのショーツを脱衣所に置いた。
お風呂場から「はーい」という元気な声が返ってくる。
しかし最近のコンビニは便利なものだ。
これは今日初めて知ったのだけれど、いまどきのコンビニでは紙で出来た、使い捨てのショーツなんてものまで売られているのだ。
コンビニへと足を運んだ僕は、日用品の陳列棚に目を向けて女性用の下着や靴下を探した。
挙動不審になりながら、キョロキョロと辺りを見回す姿は、はたから見るとさぞかし変質者チックに映ったことだろう。
顔を赤くして小さくなりながら陳列棚に下着を探す。
そうして見つけた紙のショーツを手に取り、勇気を出してレジに並んだのだけれども……。
運が悪いことにレジの店員さんは女性の方だった。
僅かな逡巡。
もう諦めて帰ってしまおうか。
いや、それでは折角ここまでやって来た甲斐がない。
覚悟を決めて、俯いたままその女性用下着を差し出したのだった。
◇
「あぁ、恥ずかしかったなぁ……」
コンビニでのことを思い返しながら、赤くなった顔を手で扇ぐ。
とにかく買うべきものは買えたのだから、さっきのことはもう忘れてしまおう。
長々と回想に耽りながら、下着を届け終えた僕が脱衣所から出て行こうとしたとき、浴室へと続く扉がガチャッと音を立てて開かれた。
「おかえりなさい。
新しい下着ってどれー?」
「――ッ!?
き、きき、きみッ!?」
思わす慌てふためいた。
目の前に一糸纏わぬ姿の春間マリーが、艶めく髪に水滴を滴らせながら現れたのだ。
彼女は先ほどの僕みたいに、火照った体を手で扇いでいる。
頰を上気させるお風呂上りの彼女の姿は、なんとも艶めかしい。
見てはいけないと思いながら、その霰ない姿から目を背けることが出来ない。
彼女は固まったままの僕なんて気にも止めずに、普段と変わらない軽い調子だ。
「うに?
どうしたの、テル?
固まっちゃって。
それで、下着ってどれー?」
止まっていた僕の時間が動き出す。
反射的にバッと彼女から目をそらした。
「とと!
と、とにかく!
お風呂場に戻って!」
目を閉じながら彼女の背を押してお風呂場に戻した。
彼女はなにがなんだかわからないと不思議な表情をして、背を押されるままにお風呂場へと戻っていく。
浴室の扉を閉めて背中を向けた。
「……えっと。
もう私、お風呂から上がろうかなぁって思うの。
結構長く入っていたのよ?
でもまだ入ってないとダメかな?」
少し戸惑った声色だ。
そこで彼女はふとあることに気が付いた。
「あっ!?
そっか!
もしかして、テルも今から一緒にお風呂に入るの?」
なにかとんでもないことを言っている。
「えへへ。
早くテルもおいでー。
じゃないと私、のぼせちゃうよー」
「……な、なな、な!?」
陽気な声でお風呂場へと誘ってくる。
心臓がバクバクとうるさいくらいに鳴りだした。
「い、いい一緒になんて、入るわけがないじゃないか!
と、とにかく下着はここに置いておくから!」
もう耳まで真っ赤だ。
トマトみたいに赤くなった僕は、お風呂場に彼女を残して脱衣所を飛び出した。
そのままリビングへと戻った僕の手のひらには、彼女を浴室に押し戻したときの、直接その背に触れた暖かさが、まだじんわりと残っていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
翌日、僕たちは連れだって、近所のファッションセンターへと買い物に赴いた。
彼女の洋服やその他の諸々を購入するためである。
彼女はパジャマで眠るとき以外は、ずっと学校の制服を着ていた。
チェック地のベストとスカートに身を包んだ彼女の制服姿は、とても可愛らしい。
けれども、さすがにこれからもずっと、その制服1着という訳にもいくまい。
僕からウチに来るかと彼女を誘った手前もあるし、そういう訳で何着か、しばらく過ごせるだけの洋服なんかを見繕いにやって来たのだ。
「ねぇきみ。
僕は女子の洋服のことはよく分からないから、好きなのを選んでよ」
僕に服を選ぶセンスはない。
だから最初から洋服選びへの参加を放棄して、彼女に一任する。
「うん。
わかったの!」
返事をするや否や、彼女はキラキラと目を輝かせながら店内へと消えていった。
◇
このファッションセンターは、正直そこまで小洒落たお店という訳ではない。
例えば、昨日デートをしたショッピングモールに店を構える、お値段のお高いブランドショップなんかとは比ぶべくもない。
けれどもそこはもう我慢して貰おう。
僕にもご予算の都合というものがあるのだ。
「ね、ね、テル。
これなんて、どうかな?」
試着室のカーテンがしゃっと開く。
中から真新しい洋服に身を包んだ彼女が、ピョンと小さく跳んで出てきた。
制服姿ではない、初めてみる私服姿の春間マリーが僕に微笑みかけてくる。
彼女が選んだのは膝丈の白のワンピース。
端にレースが施された綺麗なAラインのワンピースだ。
その春めいた1着に着替えた彼女が、目の前でくるりと体を一回転させた。
彼女の動きに合わせて、ワンピースの裾がふわりと宙に舞う。
(……う、うわぁ)
あまりもの愛らしい姿に、返事をするのも忘れて、魅入ってしまう。
彼女が少し前かがみになった。
後ろ手に手を組みながら、ヒマワリのような眩しい笑顔で僕の顔を下から覗き込んでくる。
「ね?
私、おかしくない?」
上目遣いの彼女と目が合った。
僕は言葉を失ったままだ。
「お、おい。
見てみろよ、あの子」
「凄く可愛いわねぇ……。
モデルの子かなにかかしら?」
周囲から足を止めた買い物客の話声が聞こえる。
みんな一様に彼女の姿に見惚れているみたいだ。
そりゃあそうだろう。
だってこんなに可愛らしいひとは、僕もこれまで見たことがない。
「……?
テル、どうしたの?
やっぱり私、おかしかった?」
「――はッ⁉︎
い、いいと思うよ!
うん」
呆けていた僕は、やっと我に返り慌てて返事をした。
「えへへー。
ほんと?
似合ってる?
私、可愛いかな?」
「ほ、ほんと。
似合ってる。
……うん、か、可愛い」
たじたじになってしまった僕は、彼女の言葉にオウム返しをするのがやっとだった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「お茶碗と、お箸はこれでオーケー。
……後は、歯ブラシっと」
ぶつぶつと口に出しながら、日用品を次々と買い物カゴに放り込んでいく。
洋服を買い終えた僕らは、次は近くのスーパーまでやって来ていた。
隣には、買ったばかりのワンピースを着た春間マリーが、なにかの歌を口ずさみながら軽い足取りで並んでいる。
「ららららー。
ふふふふーん」
「これで日用品は大体揃ったかな。
じゃあ次は、晩御飯の材料を見に行こうか」
「ごはん!
おいしいの食べたいの!」
カートを引いて、食材コーナーへと移動した。
「ね、ね、テル。
これ、なぁに?」
手に取った商品を突き出してくる。
それはオイルサーディンだ。
なかでもこのオイルサーディンは、イワシをオイルに漬け込む前にしっかりと燻製してあるから、燻製していない普通のものと比べて香りも味わいも良い。
実はひそかに僕もお気に入りの商品なのだ。
「それはね、燻製オイルサーディンだよ。
結構いけるやつ」
「燻製オイルサーディン?」
「うん。
イワシのオイル漬けなんだけど……。
あ、そうだ。
家にまだ、パスタが結構残ってるね。
今日の晩御飯はそのオイルサーディンでパスタをつくろうか。
炒めたキャベツもたっぷり入れた、おいしいやつ」
「お魚の料理ね!
うん、たのしみなの!」
オイルサーディンの瓶をかごに放り込んでから、腕に抱きついてくる。
彼女とくっついたまま買い物を続ける僕は、とびきりおいしいパスタを作ってやるんだと、心の中で息巻いた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「テルー。
お皿、水に浸けておくね」
「ん、お願い」
食後。
僕はソファに座って、テレビを見ながらまったりと寛いでいる。
いま観ている番組は、ツリーハウス職人たちが、四苦八苦しながら、樹上に家を作り上げ、顧客に届けるまでを取材したバラエティ番組だ。
アメリカで製作されているこの番組は、出演者の驚きや喜びの表現が、一々大袈裟で面白い。
ゆったりとソファに腰を沈め、のんびりとテレビ画面を眺める。
そうして食休みをしていると、食器を流し台の水に浸け終えた彼女が、僕のもとまでやってきた。
「ね、ね。
なにを観ているの?」
尋ねるなり彼女は、ソファに寝そべって、その頭を膝に預けてきた。
「アメリカのバラエティ番組だよ
。……って、本当にきみは、膝枕が好きだねぇ」
「うん。
大好き。
だって、テルのお膝ってあったかいんだぁ」
彼女は膝に頭を預けたまま、視線を上げた。
僕は少し苦笑をしてから、「えへへ」と笑う彼女の顔に視線を落とす。
「晩御飯は、おいしかった?」
「うん!
とっても!
また食べたいなぁ」
「そっか、良かったよ。
オイルサーディンはまだ残っているから、また今度作ろうね」
彼女は「やったぁ」と嬉しそうに声を上げてから、僕の膝に顔をうずめた。
◇
会話が途絶えた。
膝にはゴロゴロと喉を鳴らす、猫みたいな少女。
テレビ画面のなかでは、職人らしいアメリカ人の大男が、熱心にツリーハウスの魅力を語っている。
吹き替えのその音声に紛れて、リビングの壁掛け時計から、秒針がチクタクと動く小さな音が耳を掠めていく。
時間の流れがやけに穏やかだ。
いつもは黙っていると、実際以上に広く冷たく感じるこの部屋に、いま僕は、まったく寂しさを感じない。
ソファに深く腰を掛け、テレビを観ながら、なんとなしに膝に頭を預ける彼女の髪を撫で付けた。
白猫のマリーを撫でつけていたような、柔らかな手付きで。
「うにゃ」
「あ、ごめん」
慌てて手を引っ込める。
彼女が膝に埋めていた顔を上げた。
「いいのよ?
もっと撫でて」
彼女は僕に頭を向け、淡い栗色の髪を差し出してくる。
「……えっと」
おずおずと手を差し出した。
そして僕は、白猫のマリーを撫でるような優しい手つきで、そっと彼女の髪を撫でた。
彼女は心から幸せそうな微笑みを僕に向けた。
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