第3話 春間マリーと春の訪れ
心ない言葉を投げつけ追いやってしまった彼女、春間マリーを探して、僕は家から飛び出した。
夜の住宅街。
肩で風を切り、息を弾ませながら、必死になって彼女の姿を探す。
近所の公園からコンビニエンスストア、24時間営業のファミリーレストランまで。
高校生の女の子が訪れそうな場所を、しらみ潰しにして探し回る。
けれども結局、どこにも彼女の姿を見つけることは出来なかった。
◇
肩を落として、うちへの帰路をとぼとぼと歩く。
これだけ探し回ったのに、見つけることが出来なかったのだ。
きっと今頃彼女は僕をからかうのに飽きて、自分の家に帰ったのだろう。
なら明日学校で、酷い言葉を投げかけたことを謝ればいい。
そうやって気持ちを誤魔化しながら、僕は自分を無理に納得させた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
家への帰路。
その道すがら。
僕は白猫のマリーのことを思い出していた。
マリーは生前、よく家から脱走をしていた。
それがマリーとの不幸な別れに繋がったわけなのだけれど、いまはそのことは置いておこう。
とにかくマリーはよく脱走をして、そういうとき、僕はその脱走に気づかないことが何度かあった。
『あれ?
窓が開いている。
閉め忘れたかな?』
小首を傾げながら窓を閉めたら、表に抜け出していたマリーを家から締め出してしまった。
なんてことが、ちょくちょくあったのだ。
そんなときにマリーはいつも、我が家から一番近い路地の電柱の影に隠れて、僕が迎えに来るのをジッと待っていたものだった。
◇
春間マリーを見つけられなかった僕は、力ない足取りでトボトボと帰路を歩く。
締め出されたマリーが、いつも隠れて迎えを待っていた路地は、もう直ぐそこだ。
ふと思い立って、マリーとの思い出のその路地を覗いてみた。
…………。
…………いた。
覗いた先。
薄暗い路地。
目を凝らしてみると、その路地の電柱の影に隠れて、蹲っている人影が見える。
人影は脚を抱えて座り込み、両膝に顔を埋めている。
僕は彼女を驚かせないように、そっと足を忍ばせて近づいた。
手に持った薄手のカーディガンを、顔を伏せて丸くなった彼女の細い肩にふわっと掛ける。
「……きみ。
こんな所に蹲って。
……ホントにもう」
その人影――春間マリーは顔を上げて、僕の瞳を真っ直ぐに見つめた。
目を細めて微笑みかけてくる。
「やっぱり、迎えに来てくれた……。
もう、テルったら、遅いんだから」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「ご飯作っておくから、きみは先にお風呂に入っていて」
コンロにかけた手鍋の火加減を調節しつつ、春間マリーに声をかけた。
火にかけているのは、作りかけのお味噌汁だ。
「はーい」
さっきまでとは打って変わり、元気な返事である。
落ち込んだ様子のない声色にほっと胸を撫で下ろした。
彼女には、女物のパジャマを渡してある。
それは母が家を出るときに置いていったものだ。
下着の替えまでは当然ないのだけれど、そこはさすがに勘弁して貰おう。
もし仮に替えがあったとしても、彼女もクラスメイトの男子から、そんなものは受け取りたくないだろう。
「よし。
火加減はこんなものかな」
沸き立たない程度の弱火に調節してからお鍋に蓋をする。
これで後は出来上がりを待つだけだ。
「えっと。
ほかには、なにを作ろうかな……」
僕は献立を思い浮かべながら、お風呂場へと向かう彼女の背中を見送った。
◇
ところで彼女は今晩、ウチに泊まることになった。
我が家はがらんどうだけど、幸いにして部屋数だけは多い。
それに、母が元々使っていた寝室には、天蓋付きの大きなベッドだって置いたままだ。
まあ、そのベッドの足の部分は随分と前に白猫のマリーが爪研ぎをして、ボロボロにしてしまったのだけれど、それはもう勘弁してもらおう。
ベッドそのものの機能には、なんら支障をきたしていないのだし、そもそも天使のように可愛いマリーのしたことである。責められるようなことではない。
路地の電柱の影に蹲って迎えを待っていた少女、春間マリー。
彼女は改めてその住所を問いただしても、「私の家はテルの家だ」と、その一点張りで譲らなかった。
僕はもう、そんな彼女の強情さに根負けをしてしまって、膝を抱えて座り込む彼女の手を引いて立ち上がらせてから、「今日だけだからね」と、念を押してうちに招いたのだ。
彼女は差し伸ばされた手にとても嬉しそうにしたあと、ゴロゴロと喉を鳴らして僕の腕に寄り添ってきた。
「……はぁ。
これで良かったのかなぁ……」
どうにもこう、彼女の強引さに、なし崩し的に丸め込まれている気がしてならない。
◇
「テルー!
シャワーって、この蛇口を回せば出てくるのよねー?」
お風呂場から当たり前のことを尋ねられた。
その声に「そうだよー」なんて、生返事をしながら、今晩の料理の献立を考える。
僕ひとりならカップ麺でも食べて、それを夕飯にしてもいいのだけれど、さすがにお客様にまでカップ麺をお出しするわけにもいくまい。
そういうことで、ひとつ、手料理でも振る舞うことにしたのだ。
僕は高校生の男子だけれど、ひとり暮らしの期間が結構長い。
だから割と料理はできるほうなのだ。
「ふむん。
豚コマと春白菜があるね」
冷凍庫と野菜室をざっと調べる。
つい先日、肌寒さを感じた日に、ひとりで鍋を作った残りの食材を見つけた。
これなら豚と白菜のミルフィーユ煮が作れる。
底が深めのフライパンに、豚コマ、白菜、豚コマ、白菜の順番に食材をミルフィーユ状にして敷いていく。
一層重ねる毎に、塩と黒胡椒を振ることも忘れない。
そうして食材を重ね終わってから、最後に白だしを少しだけ垂らしてからフライパンに蓋をして火にかけた。
ちょっと簡易的な料理だけれど、時間も遅いし、もうこれでいいだろう。
◇
くつくつと、コンロから豚肉と春白菜の煮える良い香りが漂ってきた。
お風呂場からは、しゃーっとシャワーの流れる音が僅かに聞こえてくる。
その香りを嗅ぎ、微かな音をBGMにしながら、今度はお味噌汁の出来を確認する。
僕のお味噌汁は、出汁入り味噌で簡易的に作るものなのだけど、それでも無いよりは随分とマシだろう。
お味噌汁の味をみようと、お汁を掬った小皿に口を付けたとき――
「ぎにゃあああぁぁぁ!!!!」
シャワーの音を覆い隠すほどの、大きな叫び声が聞こえてきた。
「テ、テテテ、テルー!
あっつ、あっつい!?
熱いのでたぁー!」
叫びながら、お風呂場から春間マリーが飛びだしてくる。
その光景をみて、僕は吹き出した。
「――ぶはぁッ!?」
彼女は素っ裸であられもない姿だ。
全部丸見えである。
耐えきれずに口に含んだお味噌汁を盛大に吹いてしまう。
「ちょ、ちょっと⁉︎
ちょっと待って!
服!?
ふ、服を着て!」
手で目隠しをしながらあわあわする僕に、彼女が飛びついて、ギュッと抱きついてきた。
「ふなー!?
熱いよぅう!
テルー!
テルゥー!」
――ッ!?
熱いだって!?
その言葉に、はっとした。
見れば、彼女の粉雪のように白い肌が、肩から胸にかけて真っ赤になっている。
「まさか!
熱湯を被っちゃったの?!」
僕は正気を取り戻した。
大変だ!
早く手当てをしないと痕が残ってしまう!
泣きじゃくる彼女を、お風呂場まで連れ戻し、急いでその体を冷水で冷やした。
今度は冷たさに声を上げる彼女を宥めすかし、赤くなった肌を冷やし続ける。
どうか、火傷の痕が残りませんように……。
そう祈る。
こんな綺麗な肌なのだ。
酷いことになったら目も当てられない。
冷水をあててしばらくすると、彼女の肌の赤みが引いていった。
ほかに火傷になりそうなところはないか確認する。
……うん。
どこも大丈夫だ。
すこし水膨れなんかにはなるかもしれないけど、痕が残ったりはしないだろう。
……良かった。
ホッと息を吐いてから気付いた。
春間マリー。
道行く誰もが振り返る、超のつく程の美少女。
そんな彼女が、惜しげもなくその裸体を目の前に晒し、尚且つ、僕にその体を抱き抱えられていることに。
「はわ……!
はわわわわ……。
はわわわわわわわわわわわ!」
テンパった僕は、彼女をお風呂場に放り投げた。
慌ててキッチンへと駆け戻る。
僕が立ち去ったあとのお風呂場から、放り投げられた彼女の「あいた!」という非難めいた声が上がったけれども、真っ赤にした僕はもうこれ以上なにをすることも出来なかった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
お風呂から上がってきた彼女に、もう熱湯なんて被ってしまわないようカランの使い方を教える。
それからふたりで遅めの夕食をとった。
彼女は僕の作った料理を、おいしいと話して嬉しそうに食べた。
こういう風に誰かと食卓を囲むのは、随分と久しぶりだ。
猫のマリーが生きていた頃は、よく食事どきの僕のお箸は猫パンチの餌食にされていたものだけど……。
そんなマリーの可愛らしい行動を思い出して、少し愉快な気持ちになる。
テーブルに頬杖をつきながら色んなマリーを思い出す。
気付けば春間マリーが、じっと僕を見ていた。
「……どうしたの、こっち見て」
「なんでもないのよ?
いま、テルが笑ったなって思って」
「それだけ?」
「うん、それだけ。
ねぇ、私ね。
あれからテルのことずっと見ていたんだけど、テルが笑わなくなったから、私どうしたのかなぁって……。
そう思ってたのよ?」
「……なんのこと?
それに僕は、笑ってなんかいないよ」
頰にあてた手を離す。
僕が笑った?
……どうだろう?
彼女の気のせいだと思うのだけど、正直よく分からない。
「えー!?
絶対いま、テル笑ってたよ。
ほらテル、もっと笑って!
私、テルは笑ってるほうが好きなんだぁ」
椅子を立った彼女が、笑顔で抱きついてくる。
「ちょ、ちょっと!
きみ!
やめて、やめてってば!」
「嫌だよー!
やぁめないっ!
にゃははは!」
彼女はくっ付いたまま朗らかに笑っている。
それにつられて、僕もつい大きな声を上げてしまった。
なんだか懐かしいような気分になる。
「こ、こら!
マリー!
ダメだって。
やめなってば、あははは!」
いつの間にか、たしかに、僕も笑っていた。
笑い声を上げながら僕は、こんな風に誰かと笑い合うことが、とても、とても幸せなことなんだって……。
そんな当たり前のことを、今更ながらに思い出していた。
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