第2話 春間マリーと春間テル
校内にチャイムの音が響き渡る。
これにて本日の授業はすべて終了。
放課後の到来である。
束縛から解放された同級生たちの間に、弛緩した空気が流れはじめる。
ホームルームを終えて担任の教師か教室を後にすると、途端に教室がザワザワとした喧騒に包まれた。
「ねえ、ねえ。
帰りどこか寄ってこうよー」
「お、いいね、いいね!
ファミレスがいいよ。
なんかいま、苺のフェアやってるんだってー」
「じゃあ春間さんも誘っていこうよ!
ねえ、春間さん!
いまからみんなでファミレスにでも寄って帰るんだけど、春間さんも一緒にどうかなぁ?」
クラスの女子が、転入生の美少女――春間マリーを取り囲んだ。
◇
『ねえ、テル!
私とね、私と、恋をしようよ!』
そう言って花が咲くような朗らかな笑顔を向けてきた彼女は、結局朝のホームルームからこっち、僕に話しかけてくることはなかった。
……いや、少し違うか。
厳密には、彼女は授業の合間の休み時間や、お昼の休憩時間の度に、僕のもとへとやって来ようとしていた。
けれどもその度にクラスの女子や男子に掴まってしまって、結局ここまで辿り着けないでいたのだ。
転入初日から彼女はもう、一躍クラスの人気者になっていた。
けどそれも無理はない。
彼女はあまりひとの容姿に頓着しない僕ですら、ひと目で意識を奪われるほどの美人なのだ。
少しつり目がちで、ぱっちりと開いた猫のような瞳。
北欧人顔負けの透き通った白い肌。
すっと通った鼻筋に、微笑みを絶やさない悪戯気な口もと。
仕草だって猫みたいに可愛い。
これで人気が出ないほうが、おかしいってもんだ。
お昼の休憩なんかになると、よそのクラスからも彼女をひと目見ようと大勢の生徒が押し寄せてきて、ちょっとした騒動になったほどなのである。
いつも教室の隅のこの席で、窓から外の景色を眺めて、言葉もなくパンを齧っている僕なんかとは大違いだな。
僕はそんな風に思いながら溜息を吐いて、根暗な自分を自嘲した。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
放課後になったいまも、彼女は大勢の人に囲まれ続けている。
みんな、春間マリーの興味を引こうと必死なのだ。
男子なんかは特にその傾向が強い。
そんな様子を横目に流し見ながら、僕は通学用カバンを掴んで家に帰ろうと席を立った。
「あっ!?
待って。
ちょ、ちょっと待っ――」
教室の扉に手を掛けると、背後から春間マリーに呼び止められた。
けれども僕は、声のした方向を
◇
「……ちょっと待って!
テルッ!
もう、待ってって言ってるでしょー!?」
帰路の途中、校門に差し掛かった辺りで、背後から強い口調で呼び止められた。
後ろを振り向き、声のした方を確認する。
するとそこにいたのは春間マリーだった。
彼女はぜぇぜぇと荒い息を吐き、肩を揺らしている。
走って追い掛けて来たのだろうか。
廊下は走っちゃいけないんだぞと、そんなつまらない考えが頭に浮かぶ。
「えっと……」
返事をするべきか少し迷った。
けれどもそんな必要もないかと思い直す。
帰ろう。
ふたたび、くるっと校門側に向きなおって歩き出した。
しかし――
「……ッ、テルったら!
無視したらダメなのよ。
もう、テル!
……このぉっ!」
背後からトテテと小走りで駆ける足音がする。
「てぇりゃっ!」
一瞬なにが起こったのかわからなかった。
だがどうも春間マリーが背中に飛びついて来たらしい。
「なっ!?
なに!?」
豊満なふたつの胸の膨らみが、背に押し付けられる。
柔らかな吐息が耳の後ろから僕の髪を揺らして、少しこそばゆい。
帰宅途中の生徒たちが彼女の突飛な行動に驚いて、僕らのほうを凝視している。
その視線のなかには、僕たちのクラスメイトのものまであった。
「お、おい!
なんなんだよ!?
は、離してくれ!」
いきなりなにをするんだこの子は。
背中に張り付いた彼女を振り払おうと、身体を左右に揺さぶる。
「ニャーッ!
いやよ!
話してくれるまで絶対に離れないんだから!」
「……わ、分かった!
無視しない。
もう無視しないから、離れてくれ!」
「絶対に?!」
「絶対にだ!」
不承不承ながら承諾すると、ようやく彼女は背中から離れてくれた。
◇
「……それで、なんなんだよ、きみ」
乱れた制服を直し、少しドギマギしながら彼女に向き直る。
すると彼女はひまわりが咲いたような満面の笑みを向けてきた。
一体なにがそんなに楽しいのだろうか。
「……僕になにか、用事でもあるの?」
「ねぇ、テル!
一緒に帰ろ!」
「それだけ?」
「うん!」
「……はぁ、分かったよ。
だけどテルって名前で呼ぶのはやめてくれないかな。
僕の名字は春間って、……っと、きみも春間なんだっけ?」
うんうん、と彼女が首を縦に振る。
あまり聞かない苗字なのに、被るなんて珍しいこともあるものだ。
「……じゃあもうテルでいいよ。
それで一緒に帰るって、きみの家はどこなの?」
「うにゃ?
私の家は、テルの家だよ?」
うん?
目の前の少女が、なにかおかしなことを言い出した。
春間マリーの家は、僕の家?
「……なにが言いたいのか分からないけど、結局、きみの家はどこなの?」
「うにゃにゃ?
だから私の家はテルの家なのよ?
橋向こうの大きな一軒家。
それが私とテルの家。
ねぇ!
また前みたいに、ふたりで暮らそうよ!」
結局は、そういうことか。
僕はこれみよがしに、盛大な溜息をついた。
こんな綺麗な少女が、一体なぜ僕なんかに付き纏うのかと訝しんでいたのだけど……。
なんということはない。
結局、からかわれていただけなのだ。
彼女の顔をじっと睨んで告げた。
「……そういうの、他所でやってくれない?
きみは美人だからさ。
そういう悪戯でも両手を振って乗ってくる男子なんて、大勢いると思うよ」
くるりと後ろを振り返り、彼女を置いて歩き出す。
「あ、待って、テル」
背を向けてそそくさと歩き出した僕の後ろを、小走りになった彼女がついて来ようとする。
「ついてくるなよ!」
「――ッ!?」
思わず声を張り上げた。
急に雰囲気を変えた強硬な僕の態度に、彼女は息を呑み、身を竦ませる。
「……もう。
ついて、来ないでくれ……」
春間マリー。
彼女のその名前や仕草は、どうしても僕に思い起こさせる。
共に日々を暮らし、笑いあい、暖めあい、そして最期を見送った、僕の最愛の存在――
白猫のマリーのことを。
今度こそ完全に彼女に背を向けて、足早にその場を歩み去る。
彼女はそんな僕の後ろ姿を、中途半端に手を伸ばしながら、「ニャー」と小さく呟いて見送った。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
夜。
辺りがすっかり夕闇に包まれた頃。
僕は自室でぼうっと呆けたように、窓の外をみていた。
いまの季節は春。
日中は随分暖かくなってきて、汗ばむほどの陽気が差す日もあるのだけれど、夜になるとまだ少し冷え込んで、薄手のカーディガンを1枚羽織りたくなる。
そんな頃合いだ。
自室で休んでいた僕は、少し肌寒さを感じて、開け放していた窓を閉めようと窓枠に手を掛けた。
そしてはたと気付く。
窓から見下ろした先。
玄関脇のそこに、蹲る何者かの人影があることに。
「……えっと。
……誰、ですか?」
すると太ももを抱えて両膝に顔を埋めていたその人影は、座り込んだまま顔だけを起こして、こちらを見上げてきた。
「……や、テル。
こんばんは」
顔を上げた人物。
それは昼間、僕が冷たく突き放した少女、春間マリーだった。
思わず困惑してしまう。
どうして彼女がウチの庭先で蹲っているのだろう。
「……き、きみ。
一体そこで、なにをしているの?
いつからそこにいるんだ?」
「ずっといたよ。
テルが家に入れてくれるのを待ってるの。
……ねえ、テル。
おうちに入れて。
また前みたいに一緒にふたりで暮らそう?」
話しながら彼女が、右手を猫の前足のように曲げて、目を擦った。
僕はその言葉を聞いて、ついかっと頭に血が上った。
まだ、僕をからかい足りないのだろうか。
そんな……。
そんな僕のマリーを彷彿とさせるような仕草で、そんなことを言うのか。
「……か、帰ってくれ!
どこかに、どこかに行ってくれよ!」
頭に血を上らせて声を荒げる。
大声に驚いたのか、彼女はぱちぱちと目を瞬かせた。
「帰れ!
お願いだから、どこかに行ってくれ!」
彼女は立ち上がり、背を向ける。
しかし2歩、3歩と歩いたところで足を止めた。
戸惑いながら振り返ろうとする彼女の背中に、容赦のない言葉を投げつける。
「行けよ!
行けったら!
……お願いだから、どこかに行ってくれよ!」
彼女は強い言葉に背を追われて歩き出す。
力のないとぼとぼとした足取りで、夕闇のなかへと消え去って行った。
その後ろ姿を見送ったあと、自室の窓を閉め、居た堪れなくなって、抱えた膝に顔を埋めた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
春間マリーを追いやったあと、僕は自室で俯きながら、白猫のマリーのことを思い出していた。
両親が寄り付かなくなってしまったこの広い家で。
ひとりでは、がらんとして持て余してしまうこの大きな家で。
いつも一緒にいてくれたマリー。
表情をなくしてしまった僕に、笑顔を取り戻させてくれた、悪戯好きな僕のマリー。
いま、僕はどんな表情をしているのだろう。
怖くて鏡は見られない。
でもきっと、死にかけていた僕の心を救ってくれたマリーに、胸を張って顔向けできるような表情はしてないだろう。
「……僕は、どうすれば良かったんだろう」
下を向いたまま、ぽつりと呟いた。
何度もこちらを振り返りながら去って行った、春間マリーの頼りない背中が、頭から離れない。
そうして思う。
どうすれば良かったんだろう、ではない。
どうすれば良いんだろう、だ。
きっと、まだ終わってなんかいない。
そしてどうすれば良いか、その答えもわかっている。
「……彼女を、探さないと」
俯いていた顔を上げる。
そして僕は、薄手のカーディガンを手にとって立ち上がり、部屋から飛び出した。
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