第23話 遥かなる蒼
※
ミラに仇為す者を滅殺するために、ずっと戦い続けてきた。
永い永い時の中を、ひたすらに戦い続けてきた。
始まりの記憶はもう憶えていない。
今や最初の戦いの記憶は遠すぎる。
一千年────。
もちろん、実際に意識を保って過ごしている時間はほんの一部に過ぎない。それでも、あるいは、だからこそなのか……。
始まりの記憶は彼方に遠ざかり、薄れて掻き消えている。
そもそも、古い過去には、思うところが何もない。
感じ入るものがないのだから、記憶に残るわけもない。
ただ、ただ、仇為す者を斬り捨てる。
そのために生み出された悪魔の騎士は、愚直に真っ直ぐに〝お役目〟を全うし続けた。
ミラを守るために、エシュタミラという居場所を守るために、仇為す敵と戦い続けた。
脅威を排除すれば、王城地下の〝棺〟で眠る。
そして、再び仇為す脅威が現れたなら、呼び起こされて剣を取る。
戦い、眠り、目覚め、戦い、また眠る。
繰り返し、繰り返し、気の遠くなるほど繰り返された戦いの螺旋。
けれど────。
ある時、そこにささやかな変化が起きた。
蒼く澄み渡る空の下で、あの太陽を背負った少年は、晴れやかに笑って言ったのだ。
〝騎士として、守りし者として、この国を守る。それがオレの夢だ〟
そのために、力を貸して欲しいと、少年は悪魔の騎士に手を差し伸べてきた。
その手を取った時から、悪魔の騎士の戦いは、確かに変わったのだ。
それまでは、ただ戦うために戦い続けていた悪魔の騎士は、戦いに意味を求めることを初めて知った。
揺るぎない意思で、揺るぎない眼差しで、真っ直ぐに前を見据えて歩むあの少年は、本当に輝かしくて、まぶしかった。
少年が目指している輝かしい何かを、自分も共に目指している。
その事実が、悪魔の騎士に、熱い何かを感じさせてくれた。
自分も、この輝かしい少年のような強く気高い騎士になりたいと、そう思った。それはどうやら、虚無の悪魔が自ら抱いた、初めての願いであるようだった。
だから────。
今宵もアガト・ルゥ・ヴェスパーダは、〝
標的にはあっさりと対面できた。
当然である。
グレンがあらかじめ御膳立てした状況。アガトは指示された場所に出向いて、指定された標的を斬り捨てる。
ただ、それだけの単純な〝お役目〟だった。
今宵の目的地は、王都に設けられた来賓用の官舎のひとつ、その三階角部屋である。
窓を斬り裂いて床に降り立ったアガトに、標的である壮年の王国騎士はいかにも驚いた様子で向き直った。
「な、なな、何ヤツであるかッ!?」
驚愕に上擦った
「エシュタミラ黒陽騎士、アガト・ルゥ・ヴェスパーダ」
「こ、黒陽騎士だと!? 何を貴様……!」
「エシュタミラ王国騎士にしてアレッサ領主、ヴォルカ・ルゥ・ラズバルド子爵に問う。オマエは────」
「やかましいわクセ者めが!」
口上を半ばで遮り、ヴォルカが怒声を上げて抜刀してきた。
真っ向から斬り下ろされたそれを、アガトの剣が抜き打ちに受け止め、押し払う。
「ぐぉ!」
衝撃に仰け反ったヴォルカ。
後ろに倒れそうになった彼の胸ぐらを、ズイと伸びたアガトの左手がつかみ引き寄せた。
「────オマエは、ミラに仇為す者か?」
中断された口上の続きを問うアガト。
問いを続けるために、そのためだけに転倒を支えられたのだと気づいたヴォルカは、思いっきり表情を引き攣らせた。
「ッ!? 何のつもりだ貴様! フザケおって!」
「……その敵意をもって返答と判断する。なれば、我は誓いのもとに剣を取り、御身に尋常なる決闘を申し込む」
「は? け、決闘? さっきから何なのだ貴様は……!?」
混乱し狼狽するヴォルカを、アガトは力任せに突き放した。
開かれた間合い。
大きくたたらを踏んだヴォルカが体勢を整えるのを待ち、剣を構え直すまでを見て取ってから、アガトはゆっくりと己の剣を眼前に立てる。
「剣の無礼……いざ!」
悪魔の仮面越し、紅い眼光に殺意が宿る。
ゆるりと腰だめに構えた剣刃は、直後に閃き、ヴォルカの首を瞬に
鮮血を噴きながらくずおれるヴォルカの身体。床に転がる生首は、最後まで困惑に歪みきったまま。
「…………た、あなた、何を騒いでいらっしゃるのですか?」
部屋の外から近づいてくる気配に、アガトはすぐに床を蹴り、窓から飛び出した。軽業よろしく身をひるがえして、壁面の縁に張り付く。
直後に、室内から女の悲鳴が響いてきた。
「なッ! あ、あなた! あなたッ! どうしてこんな……!!!」
混乱と驚愕と悲哀とがゴチャまぜになった悲鳴。
おそらくは、ヴォルカの奥方だろう。今回の王都出頭に同行していたのは承知している。が、指定されたのはあくまで子爵のみ。その家族や部下たちに関しては、何の命令も受けていない。
ヴォルカ・ルゥ・ラズバルド子爵。
貴族の悪習だけを体現したような男。
国境防衛の地であるアレッサを預かりながら、その防衛の任を長らく軽んじた挙げ句、自身の日々の享楽のために法外の税を徴収し、領民に苦痛を強いてきた暗愚の領主。守りし者でありながら、守るべきものを
万死に値する……と、グレンは断じた。
グレンが言うのだから、その通りなのだろう。
だが────。
室内から響いてくる深く激しい嘆き。
密かに中を覗き込めば、物言わぬ首を抱えた夫人が、首のない骸にすがりついて泣きじゃくっている。
涙に濡れたその双眸に、黒い揺らぎはない。
愛する者を失えば悲しい、それが道理らしい。
ならば、彼女はヴォルカを愛していたのだろう。騎士としても領主としても愚かな悪党であったが、妻にとっては良き夫であったようだ。
国にとっては害悪たる者。
騎士として赦されざる者。
なのに、その死を嘆く者がいる。
チクリと、アガトの胸の奥が疼いた。
このような光景はこれまで幾度も見てきた。けど、このように胸が疼くのは初めてだった。
(いや、違うか……)
疼いてはいたのかも知れない。疼きの感覚そのものには覚えがある。
なら、これまではそれを意識していなかった……できていなかったのかもしれない。
〝……大切なものが傷つくことは、悲しくて苦しいんです……〟
ユラの言葉を思い出していた。
彼女の言う通りなのだろう。他者の情動が己に、己の情動が他者に、それぞれ作用する。そういうことは、やはりあるようだ。
なら、あの時、ユラの瞳が黒く濁っていたのは、嘘であったのは別の事柄だ。
すなわち────。
アガトが傷つけばユラも傷つくという、その点が嘘だったのだろう。
(なら、良かった)
アガトは静かに安堵する。
自分が傷ついても、ユラが傷つくことはない。戦いに身を置き、常に負傷の危険を担う者として、それは喜ばしいことだと思ったのだ。
喧騒が近づいてくる。
騒ぎに気づいた者たちが部屋に集まり始めたのだろう。
アガトは窓の
(……オレが死んだら、ユラさんは泣いてくれるだろうか……)
アガトは建物の屋根から屋根へと飛び移りながら、ふと、そんなことを考えた。
ユラ。
アガトの妻になった少女。アガトに尽くしたいと言いながら、アガトを愛してはいない少女。
彼女は、アガトの死を前に泣いてくれるだろうか?
(そんなわけないよな……)
泣いてくれるわけがない。悲しんでくれるわけがない。
それは当然だ。
愛する家族を失えば悲しい。けれど、彼女はアガトを愛してはいないのだ。否、それ以前の問題だろう。
アガトは、彼女の大切な宝物を捨ててしまったそうだ。
そうと知らずにとはいえ、赦されることではない。失った宝物は、もう二度と見つからないのだ。
だから、アガトが死んだ時に、ユラが悲しむわけがない。
むしろ彼女は喜ぶだろう。
曇りのない蒼い瞳で、心の底から笑ってくれるに違いない。
(なら、それは良い終わりなんだろうな……)
ユラには笑っていて欲しい。
黒い揺らぎに濁った作り笑いではなく、蒼い瞳が美しく澄んだままの、本当の笑顔でいて欲しい。
だから、そんな終わりも悪くない。
アガトは素直に、そう思った。
相変わらず謎なのは、なぜ、ユラがアガトの妻になったのか? その根本の疑念だ。
なぜ、ユラは愛してもいないアガトを助けたのだろうか?
なぜ、アガトに尽くすのだろうか?
なぜ、アガトの宝物になってくれるのだろうか?
(やっぱり、よくわからないな……)
考えながら夜空を駆けていたアガトは、ビクリと足を止めた。
彼方から喧騒が響いていた。
大勢の悲鳴と怒号、命の危機に慌てふためく気配。
「……何だ?」
アガトは喧騒の方へと急ぎ駆け出した。
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