4章【幽霊騎士は虚ろに守る】
第22話 兄ならば偉大たれ
往来を歩むフルド・ルゥ・レイナードは、とてもイラついていた。
夕暮れを過ぎた街並み。
大通りから外れたこの辺りは、それでも人通りはそれなりに多く、ちょうど行き過ぎようとした町人風の男と、フルドは何げなく視線が合った。
途端、フルドは町人の胸ぐらをつかみ上げると、低い声音で怒気を叩きつける。
「キサマ、何だその眼は?」
「は? え……?」
突然のことにうろたえる町人、その腹部に、フルドは容赦のない膝蹴りを見舞った。反吐を撒き散らして倒れ込んだ町人に、周囲の者たちが騒ぎ出す。
だが────。
「ああ……? 下民どもが、このフルド・ルゥ・レイナードに文句があるのか?」
剣呑な眼光でグルリと睨めつけながら名乗った大貴族の家名と、その白いサーコート姿に、周囲は息を呑み後退る。
「……フン、文句がないなら見るな、わずらわしい……」
フルドは酒臭い息で吐き捨てつつ、倒れた町人の脇腹を蹴り上げた。
のたうち呻く姿にはもう興味はないとばかりに、そのまま早足に脇の路地へと入っていく。
別に逃げ出したわけではない。
ただ、喧騒が……何よりも自分に向けられる注目が、言った通りにわずらわしかったのだ。
「まったく、ムカつく連中だ……」
心底からの憤慨を込めて、フルドは吐き捨てた。
脳裏に浮かぶのは〝眼〟だ。
自分に向けられている様々な者の眼差しが、彼をイラつかせている。
それは例えば親族たちの眼であり、例えば周囲の騎士たちの眼であり、例えば民衆たちの眼であり……そんな様々な者たちが向けてくる眼差しが、彼をジクジクと
侮蔑、嫌悪、敵意、
「……クソッ……
宵闇の裏路地を
酒精の熱が喉を焼くわずかの間だけ、焦燥が和らいだ。が、それはすぐに何倍にもなってブリ返してくるのだ。
ズキリと、右肩に痛みが疼く。
脳裏によみがえったのは、昨日のこと。あの紋章官候補との撃剣試合での醜態。フルドは悠々と勝負を挑み、無様に敗れ去った。
あの時、多くの騎士たちから向けられた好奇の眼差し、マシロから向けられた敵意の眼差し、リュードから向けられた軽蔑の眼差し……。
だが、何よりもフルドを苛んでいるのは、アガトの紅い眼差しだった。
敵意でも軽蔑でもない。あれはただ、理解できないものに困惑する眼。
オマエのことがサッパリわからない……と、そういう眼だった。それは幼い頃から幾度も幾度も向けられてきた眼差しと同じもの。
〝……兄上は、どうしてそんなに……〟
弟が彼を見る時と、同じ眼だ。
オマエは何をしているんだと問い質す眼光。責めるのではなく、哀れむのでもない、ただ、ただ、何をやっているのだと問い掛けてくる眼。
優れた弟。人格も能力も、知識も智恵も、人望も人徳も、貴族としてあらゆる全てが兄を
レイナードの家督を継ぐのは弟の方が相応しい。
誰もがそう思っているだろう。
きっと、弟自身もそう思っているに違いない。
脳裏に焼き付いている弟の眼。
なぜ、無能なオマエが嫡子なのだ……と、冷ややかに苛んでくる空虚な眼差し。
「くッ、弟のクセにフザケおって! 兄の無能がそんなにオカシイか!」
「ああ! 不可解だな! 兄とは偉大であらねばならない! 弟を守れる強き者であらねばならない! 無能な兄など、存在そのものが理解不能である!」
高らかな笑声が周囲に
前方、路地を塞ぐように仁王立ちしている長身の影があった。マントとフードで人相を隠した、あからさまな不審者。
「な、何者だ!?」
「うむ! 兄である! 無能なる
男は断言と共に大股で歩み寄ってくる。フルドが無様に尻餅をついたのは、酔いからではなく、単純に気圧されたがためだった。
ズイと差し伸べられた左手が、フルドの頭を鷲づかむ。
ギリリと込められた力に身もだえた彼の双眸を、フードの男は間近に覗き込んできた。
「問おう! 汝は弟が憎いのか? 弟など居らねば良いと思うのか?」
「……ッ、ガ……ぐぅッ……!」
締め上げられる痛みにもがきながら、しかし、フルドが眼を見開いているのは、苦痛よりも恐怖からだった。
直近に寄せられた男の顔、夜闇とフードに陰って窺えぬその顔は、ただ、その双眸だけが
紅い瞳────。
その色彩はあのアガトの眼光と同じ色。
同じ紅色でありながら、しかし、眼前の輝きは空虚と呼ぶには程遠い、ハッキリと猛々しい感情に燃えている。
「優れた弟への劣等感、劣る自身への焦燥感、実に度し難いな! 汝も兄ならば、弟の優れたるを讃え、有能なるを誇れ! その上でなお尊き兄たらんと精進せい!」
ギリギリと万力のごとき力を五指に込めながら、男はなお高らかに声を張り上げる。
「重ねて問おう! 汝は、強く優れた兄になりたいか?」
鋭く、そして力強い問い。
腹の底を震わすその問いに、フルドは激痛に苛まれながらも、心の底からハッキリと渇望する。
「……わ、私は!」
「いや、答えはどうでも良い。汝の想いには、全く興味ナシである」
心の底からどうでも良さそうに
ゴクリと、フルドの喉が鳴った。
「兄より優れた弟など存在しない。すなわち、兄は弟より優れていなければならない。汝には、存在する価値はないということだ。さて、それでも汝は、存続することができるのか?」
侮蔑の笑声とともに、男が手を離す。
拘束を解かれたフルドは、大きく天を仰いで────。
その双眸が、ギョロリと見開かれた。
否、見開かれたのではない。
眼球が大きく肥大して迫り出しているのだ。
内側から膨張する瞳。それは紅く、紅く、血のように紅い輝きを宿す。
その色はアガトと同じ、たたずむフードの男と同じ、深紅の色彩。
次の瞬間、パツンッと紅色が爆ぜた。
膨張に耐えかねて破裂した眼球。フルドは絶叫を上げて両眼を抑える。その哀れにも無様な姿に、フードの男は高らかに声を張り上げた。
「うむ! 弱者確定! 汝は、存続すら
響く笑声の意味など届かぬままに、フルドの意識は、漆黒に燃え上がる何かに塗り潰されてしまった。
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