第21話 宝物
アガトは、ユラと共に王立図書館への帰路を歩んでいた。
夫婦連れ立っての家路なわけだが、しかし、互いに無言のままだ。
アガトは、盗み見るように傍らの少女を窺う。
揺れる黒髪越しに見るユラの貌は無表情。真っ直ぐに前方を望む蒼い瞳もまた同様に。薄紅色の唇は不機嫌に引き結ばれてはいないが、笑みに綻んでもいない。元より、生真面目な彼女のこと、それはいつも通りというなら、いつも通りの表情ではある。
だが────。
(……怒ってるよな。やっぱり……)
アガトは胸にわだかまる後ろめたいものを吐き出すように、深い溜め息をついた。
あの後……つまりは、フルドとの試合を大失態で終えた後のこと。
アガトは、リュードとマシロに後の対応を頼み、とにもかくにもユラを連れて騎士団本部を出たのだ。
実際、あの場に居てもできることはない。むしろ邪魔にしかならない。騒ぎを収めるためにも、フルドを刺激しないためにも、早急に立ち去って正解だったろう。
グレンには、改めて報告と謝罪に向かわねばならない。
それはそれで実に気の重くなることなのだが、今のアガトにとっては、それよりも重大な問題があった。
アガトは、意を決して傍らの少女に謝罪を告げる。
「ごめん、ユラさん……」
「何がですか?」
「いや、試合だよ。上手く負けなきゃいけなかったのに……」
「そうですね。本当に、あなたは要領が悪すぎです」
全くもって、その通りだ。
返す言葉もないとはこのことである。
「……怒ってるか?」
おそるおそる問い掛ければ、ユラはニッコリと、穏やかな笑顔で吐息をひとつ。
「いいえ、怒ってはいません」
アガトの眼を真っ直ぐに見上げて、そう言った。
蒼い瞳。
黒いゆらぎなどない、その澄んだ眼差しに、アガトはむしろ戸惑いすら抱いて問い返した。
「怒っていない……のか?」
「怒ってませんよ? 怒ることなんてないでしょう? だって、アガトさんは頑張ったじゃないですか。頑張ってダメだったことは、仕方がないです」
「けど、今朝のことも……」
「あれは……その、寝ボケていただけです。申し訳ありません」
ユラはさも心苦しそうに謝罪しながら、アガトの左頬に触れてくる。打った頬を気づかうように、労るように、そっと撫でてくる。
あるいは────。
今朝の一件を、その後の流れを……〝寝ボケていただけです〟で片付けるのは、それこそフザケた話なのかもしれない。
けれど、頬に触れてくれる彼女の手の温もりは、心地良かった。
抱いた心が、感情が、相手を安んじることがある……そう、ユラが言っていた。実際、あの時に彼女に触れられた脇腹の痛みは和らいだ。
なら、今の彼女もまた、確かにアガトを気づかい、労ってくれているのだろう。
アガトは眼の前のユラを見る。
彼女は優しく穏やかな笑顔を浮かべて、アガトを真っ直ぐに見つめ返してくれている。
その瞳の蒼は濁っていない。今の彼女は、嘘をついていない。
「……キミは、怒っていない?」
繰り返した問い。
「はい、怒ってはいません」
蒼い瞳のままに、繰り返された肯定。
ユラは怒っていない。
さぞかし怒らせてしまっただろうとビクついていたアガトは、深い安堵を抱いて、その事実を噛み締める。
良かったと思った。
彼女が蒼い瞳のままに微笑んでくれるなら、それでいいと思った。
「そうか、怒っていないのか……」
本当に、本当に良かったと、アガトは現に胸を撫で下ろした。
それは端から見れば、いかにも気弱で情けない姿だったので、ユラはくすりと笑ってあきれをこぼす。
「何ですかもう。ミラを守護する英雄様が、そんなにうろたえて……」
どうにも仕方のない……と、穏やかに微笑んだユラ。
けれど、その笑顔がわずかに霞んだ。
「……? ユラさん?」
アガトは呼び掛ける。
ユラはすぐに笑みを
「……本当に、あなたは仕方のない方です……」
囁くように微かな声だった。
それは儚いほどに弱々しく、力無く、ならば、何か声を掛けるべきなのだろう。
アガトはそう思い、けれど、何と声を掛ければ良いのかわからず、モタついている内に、ユラは浅い吐息をひとつ。
「さあ、帰りましょうアガトさん。早く戻らないと、図書館はまだ会館中なんですから」
気を取り直すようにそう言って、彼女は歩みを早めた。
結局、その後は特に会話もないまま。
微妙に気マズい空気の中で、図書館に帰り着いた。
ユラは司書の業務に戻り、アガトは紋章官としての勉学のため、奥の司書室に向かう。
司書室は、司書官が執務を行う部屋であり、用は事務室である。
書類資料を収めた書架と、各職員の机が並んでいるのだが、今は他に誰も居ない。
午後の昼下がり、来館者の多い時間帯だ。職員たちは皆、ホールや蔵書庫の方で就業しているのだろう。
アガトはいつものように書架から資料を取り出そうとして────。
ふと、ユラの机に置かれている書物に眼を留めた。
「これ……」
薄い装丁の絵本。その表紙に描かれているのは、剣と盾を持った骸骨の騎士。夜の荒野を背景に、ぼんやり立ち尽くしている姿。
〝幽霊騎士の冒険〟
着任初日、図書館受付に置かれていた絵本だ。最初に見た時もそうだったが、なぜだかアガトは、妙にその絵本が気になった。
幽霊騎士。
その言葉が、表現が、奇妙なほどに胸を疼かせる。
なぜだかわからない。わからないけれど、気になるのだ。
気がつけば、アガトはその絵本を手に取り、吸い寄せられるように表紙をめくっていた────。
〝幽霊騎士はカラッぽの騎士、心がないから怒らない〟
〝右手に剣があったけど、たたかう敵はいなかった〟
〝幽霊騎士はカラッぽの騎士、心がないから怖がらない〟
〝左手に盾があったけど、まもる仲間はいなかった〟
〝幽霊騎士はカラッぽの騎士、心がないから悲しまない〟
〝泣いている誰かがいたけれど、首をかしげてサヨウナラ〟
〝幽霊騎士はカラッぽの騎士、心がないから喜ばない〟
〝ようやく見つけた宝物、ボンヤリ見つめて考える〟
〝幽霊騎士はカラッぽの騎士、心がないから欲しがらない〟
〝ようやく手にした宝物、価値がわからず捨てちゃった〟
〝幽霊騎士はカラッぽの騎士、心がないから夢もない〟
〝フラフラさまよう旅の果て、道の終わりで立ち止まる〟
〝右も左も行き止まり、回れ右して歩き出す〟
〝幽霊騎士はカラッぽの騎士、心がないから何もない〟
〝何もないままくり返す。何もないからくり返す〟
〝おんなじことをくり返す〟
〝さいしょとおわりをいったりきたり〟
〝けれども、もう、宝物は見つからない〟
〝見つからないけどかまわない。心がないからかまわない〟
〝いつかどこかでうずくまり、そのまま動かずオヤスミナサイ〟
「……………………」
最後のページを読み終わったアガトは、ゆるりと絵本を閉じた。
絵本というものを読んだのは初めてだったが、なるほど、その名の通りに、主体は絵であるのだろう。
主人公らしき骸骨の旅路を描いた絵に、短い文章が添えられている。物語自体は実に短くて、読み終わるまであっという間だった。
(暗い話……なのかな?)
そもそも資料や報告書ではない〝物語〟というものを読んだこと自体が初めてのアガトだから、イマイチわからない。
ふと、近づいてくる気配を感じて、アガトは入口の扉に眼を向ける。
(この気配は……)
軽いノックの後に入室してきたのは、やはりユラだった。
アガトに用があったのか。それとも、書類か資料でも取りにきたのか。わからないが、彼女はアガトが手にした絵本を見て、微かに息を呑んだ。
「アガトさん、その本……」
「ああ、ごめん、勝手に読んでしまった」
アガトは謝罪しつつ、絵本を机上に戻す。
だが、ユラはそもそも、勝手に読んでいたことを見咎めたわけではないようだった。
「……どうでしたか?」
少し弱々しいそれは、絵本の感想を求めたものだろう。
正直、アガトは面白いとも面白くないとも思わなかったが、ひとつ、得心していた。
「この幽霊騎士は、確かに〝騎士〟なんだと思った。私情に駆られず、物事に動じず、ただ、守りし者として真っ直ぐに前を見据える。それは、見事な騎士の在り方だ」
素直に答える。
だが、ユラは深い溜め息とともに、首を横に振った。
「そうでしょうか? わたしは、そうは思いません」
「……? 騎士じゃないってことか?」
「ええ、だって、書いてあるじゃないですか……〝たたかう敵はいなかった〟〝まもる仲間はいなかった〟……この幽霊騎士は〝守りし者〟ではありませんよ」
冷静な指摘。
言われてみれば、その通りだった。
戦わず、守らない者を、騎士とは呼べない。改めて考えれば明確だ。
なのに、アガトはぜんぜん気がついていなかった。当然のように流していた。
なぜなら、この幽霊騎士の在り方に、とても共感できたからだ。
呆然としてしまったアガトに、ユラは少し困ったように小首をかしげて、歩み寄る。
「この物語、わたしは、とても
「虚しい?」
「はい。ただ、ただ、意味も何もないままに、夜をさまよう幽霊の騎士。とても、虚しいです」
ユラは囁きながら、アガトを真っ直ぐに見上げてくる。
「ねえ、アガトさん。この幽霊騎士が捨ててしまった宝物って、何だったんでしょうね」
「宝物か……」
「ええ、宝物です……。心がないから価値がわからず、捨ててしまった宝物……もし、この幽霊騎士に心があったら、それを失う苦しみと痛みを、理解できていたかもしれません。心があったなら、宝物を捨てずに、守ろうとしたかもしれません……」
微笑んでいるユラ。
微笑んでいるのに、楽しそうでも嬉しそうでもない、虚ろな微笑。
「アガトさん、あなたの宝物は、何ですか……?」
囁くように静かな声が、アガトの胸を疼かせた。
宝物。
大切な宝物。
騎士にとってのそれは、きっと守るべきもので、守りたいものだ。なぜなら、騎士とは守りし者だからだ。
なら、アガトにとってのそれはエシュタミラ、この国だ。
それが守るべきものだ。
けれど、それは本当に守りたいものなのだろうか?
国を守る騎士になれと言われた。
だから守り続けている。
ただ、それだけなのに……。
例えば、アガトはエシュタミラを守れぬことを嘆くだろうか? 失うことが辛いだろうか?
アガトはわからない。
そもそも何かを悲しんだことがない。
辛いと思ったことがない。
(……ああ、もしかして、そういうことか……)
幽霊騎士はカラッぽの騎士。
同じく心がないから、アガトは共感できたのだろう。
アガトには宝物がない。
心がないから見つからない。
だったら……と、アガトはユラを見る。
その綺麗な蒼い瞳を見つめて、思う。
彼女の大切な宝物を、アガトは守りたいと思った。
アガトは騎士で、騎士は守りし者だから……。
「ユラさん、ユラさんの宝物は、いったい何だ?」
「ふふ、わたしの宝物ですか? ええ、わたしの大切な、大切だった宝物……」
ユラは
「わたしの宝物は、もう、どこにもありません……」
〝────あなたが、首をかしげて捨ててしまいました────〟
ニッコリと見上げてくる蒼い瞳。
そこに黒いゆらぎはない。
全く、ない。
「ねえ、アガトさん。わたしは……あなたの宝物になりたいのです」
澄み渡る瞳で虚ろに笑いながら、彼女はアガトの胸に頬を寄せた。
愛する相手に寄り添うように、
愛する相手を慈しむように、
愛していないアガトに寄り添い、慈しんでくれる彼女。
なぜなのかはわからない。彼女の大切な宝物を捨ててしまったらしいアガトに、なぜ寄り添ってくれるのかわからない。
わからないけれど────。
この蒼い瞳の少女が、アガトの宝物になってくれるというのなら、守り抜こうと思った。
幽霊騎士はカラッぽの騎士。
心がないから、人の痛みもわからないのだった。
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