第24話 黒の咆吼
王都を縦横に伸びる大通り、それらの交差する地点に設けられた大きな広場のひとつ。
そこで、
逃げ惑う多くの人々、倒れ伏し血を流す数名、それらの中心には、血まみれた長剣を振り上げる白コート姿。
その殺人者は、太陽紋を背負う王国騎士だった。
「フルド・ルゥ・レイナード……」
間違いない。あの名門貴族のお坊ちゃまだ。
だが、その気配が異様だった。
「ヒぅッキィぁアぁぁぁぁーーーーーーーーーッ!」
獣のように天を仰いで吼えたフルド。
人の声帯が発するには異質すぎる奇声だった。
空気を震わせる叫声に、怯え惑う市民たちの多くが身をすくませ、へたり込んでいる。
フルドが、ダラリと剣をブラ提げて歩き出す。その凶刃の向かう先に居るのは、怯えた市民たちだ。
市民に、騎士が殺意を向ける。
アガトにとって、それは絶対にあってはならない光景である。ならば、それを視認した時、彼はすでに広場に飛び降りていた。
「何のつもりだレイナード卿、なぜ市民に剣を向ける?」
立ち塞がって問い質した。
それは、あるいは悠長というものだったろう。だが、問い質さずにはいられなかった。
騎士は守りし者。
あの蒼天の下での約束が、アガトに教えてくれた。
なのに、目の前の男は騎士でありながら、守るべきものに刃を向けているのだ。
先刻にアガトが斬り捨てたラズバルド然り、なぜ、ミラの騎士が……!
「答えろレイナード! オマエはミラの騎士でありながら、ミラに仇為すのか!?」
対するフルドはうつむき、息を荒げ、抜き身の剣は未だダラリと提げられたまま。
異様な気配だった。
禍々しい、そして、覚えのある気配。
あのギョロ眼の暗殺者にそっくりな、そして、遠い過去にも向き合ってきた、ドス黒い気配だった。
「オマエ……!」
アガトの声音が底冷える。
ゆらりと、フルドが顔を上げた。
脈打つ血管が浮き走った凶相の中、ポッカリ空いたふたつの
眼球を失った双穴からこぼれ出ているのは、血液にしては黒すぎる、ドロリと闇色に濁った火炎のゆらぎ。
アガトは知っている。
このドス黒い炎の色彩を知っている。
直後、フルドは急加速で踏み込んできた。
石畳を蹴り砕くほどの踏み込み、その速度は明らかに尋常の域を超えていた。だが、その程度はこれまでも散々に向き合ってきたアガトだから、欠片も動じず迎え撃つ。
大上段から振り下ろされた亜音速の斬撃を、アガトは左手の盾で真っ向から打ち払った。
けたたましい金音とともに仰け反るフルド。眼窩からあふれ出る黒炎が全身を這い回り、残り火のように
〝────あらざるモノの黒炎────〟。
それはアガトが遥か昔に対峙した闇の色。そして、今も嘘をつくものの瞳にゆらぎ続ける黒い炎。
神代の悪魔たちを覆い尽くす
天地の摂理に反逆する者たちを
もしも、世界に意思というものがあるのならば────。
黒炎とは、世界から〝あらざるモノ〟とみなされた印だという。
世界の
だからこそ、偽りを抱き紡ぐ時、人は黒を宿すのだと、遠い昔にアガトは聞かされた。
だからこそ、人ならざる悪魔たちは、その身に黒をまとうのだと、遠い昔からアガトは思い知っていた。
その黒炎を、なぜフルドが身にまとっているのか?
悪魔の炎は遥か昔に駆逐されたはずだ。アガトが、最後の残り火であるはずなのに!
「……マゼンタ……!」
アガトが呟いたのは、ひとりの騎士の名前。
否、騎士だった者の名前。
あの裏切りの残響が、今、大きく跳ね返り戻ってきたのか!?
「オォォガァぁぁぁぁアぁーーーーッ!!」
フルドが獣の咆吼を上げる。全身の筋肉が衣服を引き裂いて膨張する。
破れ裂けた白コートを振り回して豪腕が唸りを上げるのと、アガトが再び盾を構えるのは同時だった。
鐘楼の大鐘を
アガトの身体は冗談のように吹き飛ばされる。
広場に設けられた露店を吹き飛ばし、外壁面に積まれた貨物に突っ込んだ。砕け散る木箱やタルが緩衝材になったおかげで、石壁への直撃だけは免れたが……。
「あの姿に、この腕力……やっぱり、黒炎の力なのか……?」
そうなのだろう。
いずれにせよ、その脅威は歴然だ。
アガトは急ぎ
睨んだ先には、虚空を見上げて首を巡らせているフルドの異形。
視覚が潰れ、音や匂いで周囲を探っているのだろうか? 何にせよ、その意を市民に向かわせてはならない。
「おい! こっちだ!」
叫びながら、盾で石畳を殴りつける。
途端、ビクリとこちらに向き直ったフルドは、咆吼を上げて斬り掛かってきた。
迎え撃とうとしたアガトだったが、
「……ッ!」
新たに感じた殺気に神経を張る。
夜空に響いたふたつの風切り音。左右上方から迫るそれらを、構えた盾で薙ぎ払い、打ち落とした。
響いたのは甲高い金属音。地面に落ちたのは二枚の曲刃。あのギョロ眼の傭兵が使っていた異形の短剣と同じ物。
(どこから投げてきた!?)
点在するランタン塔に照らされた広場、見回した範囲にそれらしい姿はない。
なら、周囲の建物か?
外周や路地の暗闇か?
弧を描く変則軌道からは容易には読み取れない。
探ろうとするアガトを、フルドの凶刃が襲う。ギリギリで身をかわしながら抜刀したところに、さらなる曲刃が飛んできた。
すぐに刃をひるがえし打ち払った。
だが、そこに重なったのはフルドの唸り声。肥大した豪腕が
再度の鐘撞き音が鳴り響く。
盾で受けた鉄拳は、止めることは叶わずに振り抜かれる。
衝撃に盾を保持しきれずに取り落とし、アガトの身体は宙を舞った。
周囲に上がる悲鳴、逃げ惑う気配。
喧騒の輪が少しでも遠ざかっているのは
地面に叩きつけられたアガトに、夜気を裂いて新たな曲刃が飛来する。さらに前方からは怒濤のままに迫りくるフルドの姿。
両方への対応は間に合わない。
ならば、迫る曲刃はくらうつもりで、より脅威であるフルドを迎え撃とうと身構えたアガト。
だが────。
飛来する曲刃の軌道が、やけに高かった。
「狙いは別か……」
曲刃の軌道の先には、転んで泣いている幼い少年がいた。
ならば、守りし者は、それを守らねばならない。
逡巡も惑いも有り得ぬままに、アガトは全力で地を蹴った。少年を狙って弧を描く刃を、空中で打ち落とす。
必然、着地するよりも先にフルドの斬撃が唸りを上げてきた。
迫る凶刃を前に思考を走らせる。
剣は振り切っている。
盾は取り落とした。
身をひるがえそうにも空中では叶わない。
(力は使うなってグレンに言われてるしな。万策尽きたかな)
絶体絶命だというのに、アガトがのんびりと溜め息を吐いたのは、迫るフルドとは別に、気配がもうひとつ近づいていたからだ。
曲刃ではない。
もっと大きく激しい斬撃の気配が迫っている。
飛び込んできたのは黒い影。
そいつが振り上げているのは身の丈を越える大剣。その長大な刀身が、突進力と遠心力のまま、断頭台の刃のごとき縦斬りで割り込んできた。
鋼と鋼が衝突する高い金音が響き、フルドの剣が半ばから砕け散る。
振り下ろされた大剣の切っ先は、その勢いのままにズドンと石畳を打ち砕いて突き立った。
「片や獣の形相で吼える半裸の大男、片や悪魔の仮面で顔を隠した黒装束、いずれも不審極まりないけれど……まあ、状況は一目瞭然だよね」
突き立った大剣を片手で引き抜き、背に担ぐように構えた赤毛の乱入者。彼がまとうのは、金色の太陽が刺繍された漆黒のサーコート。
黒陽騎士の第九位、リュード・ルゥ・アスタローシェ。
周囲では彼の配下なのだろう兵士たちが、市民を避難誘導しているのが窺えた。あの転んでいた少年も無事に保護されているのを見て取って、アガトは安堵する。
リュードも、同じく笑って頷いた。
「王国騎士団大原則ひとつ……〝士道に背くまじきこと〟……。子供の危機に身を挺する黒い貴方、素晴らしい騎士道だね。なら、それに襲い掛かる方はまさに外道。はい、実にわかりやすい。じゃ、そういうことで!」
口調は爽やかに、だが、闘気は鋭く、リュードは瞬時に身をひるがえす。担いだ大剣が一文字に振り放たれて、眼前のフルドを薙ぎ払った。
吹き飛んだフルド。
だが、上がった血飛沫は少なく、響いた音も硬く鈍い。
「あれ?」
その手応えの異様に、薙ぎ払ったリュード自身も疑念をもらす。
見やった先、フルドはまさに獣のような姿勢でもがいていた。
寸前で飛び退いたのか、折れた剣で防いだか、いずれにせよその身は両断されることなく、健在だった。
ボロボロに裂けた衣服の胸元から除くのは、鮮血にしてはドス黒い色。異様な色彩は胴体だけではない。同じく眼窩から黒い血を垂れ流すその顔を見やって、リュードは眉をしかめた。
「フルド坊ちゃま……か? ごめん、前言撤回、ぜんぜんわかりやすい状況じゃないね。説明してもらえると助かるんだけど」
疑念を問いながらも冷静に身構えるリュードに、アガトは盾を拾い上げながら首を振る。
「悪いがうまく説明できない。あんたには、アイツがどう見えてる?」
「どう……って、黒い血を流しながら凶暴化した、突然マッチョマン?」
どうやらリュードには黒い火花は見えていないようだ。
アガトにしか知覚できていない。ならば、やはりあれは〝あらざるモノの黒炎〟なのだろう。
「キミのそれ、良く見るまでもなく黒陽騎士の装束だよね。その髪といい、まさか……」
「気をつけろリュード、刃を投げてくる伏兵がいる」
問いを遮った警告は淡々と、反して盾を振る動きは迅速に、飛来した曲刃を打ち払う。その金音で初めて飛来物に気づいた様子のリュード。
「はい?」
戸惑う間にも次の曲刃が飛んでくる。
しかも、別方向からだ。
再びアガトが弾き落とした刃光を睨んだリュードは、次いでぐるりと周囲を見回しつつ、思いっきり口角を下げた。
「冗談だろう……。こんな夜闇にまぎれた変則軌道、読めないよ」
「なら、飛んでくる刃はオレが防ぐ。あんたはレイナードを討て」
新たな曲刃を叩き落としながらのアガトに、リュードは苦笑う。
「ま、順当だね。了解だよ」
大剣を振り上げ、大きく息を吸った。
「全隊に告ぐ! 総員は民間人の退避、現場の封鎖に徹せよ! 戦闘の加勢は不要! 重要だからもう一回言うけど、邪魔だから近づかないでくれよ!」
大音声の号令に、向こうから駆け寄ろうとしていた王国兵たちが、狼狽しながらも了承の叫びを返す。
兵たちの返事が響いた時には、リュードはすでに地を蹴っていた。
突進のままに身体を一回転させ、大剣を振り薙ぐ。
身体ごと浴びせた剛の一撃、それをフルドは折れた剣で受け止めた。
型も構えもない。ただ、力任せに受け止めただけ。衝撃にフルドの腕が折れてねじ曲がり、浮き出た血管が黒い飛沫を噴く。
発揮する筋力に、肉体が耐え切れていない。
あきらかなオーバーパワー。
それでもフルドは意に介さず、そもそも介する意思が消え失せた様相で、狂った獣そのままに雄叫びを上げた。
「正気でも正常でもないね。じゃ、こっちも手加減なしだ」
リュードは大剣をさらに二転、三転と振り薙ぎ叩き込んだ。
空を引き裂く剛剣。だが、振るうリュードの姿は舞うように華麗。
重く長大な大剣の刀身を、リュードは基本的に遠心力に任せて振り抜いている。流れに逆らわず、勢いを殺さず、ゆえに太刀筋は単純に、されど迅速に重厚に、それは相手の防御もろとも粉砕し、両断するであろう剛剣の大旋風。
受け止めるフルドの身体は歪み、軋み、どんどん骨身を削られていくのだが────。
「……ッギァァァァガァァァァーッ!」
それでもフルドは悲鳴のごとき咆吼を上げ、折れた剣を振り回して荒れ狂う。腕はねじれ、胴はよじれ、足はひしゃげ、肩は砕け、それでもなお壊れた四肢を暴れさせて抗ってくる。
しかも、負傷した傷が不自然に
「これ、どうなってんだい? まさか不死身とかじゃないよね!?」
「だとしても、斬り続けろ」
警告とともに、アガトはリュードの側頭に迫っていた曲刃を打ち落とした。そのまま身をひるがえして盾をかざし、背後に飛来する曲刃を弾き落とす。
「ここで止めなければコイツは民を襲う。不死身だろうが何だろうが、斬り続けるしかないんだから斬り続けろ。どんな悪魔や怪物だって、斬り続ければ必ず死ぬ」
発言の間にも、アガトは剣を振るい、盾を構えて、曲刃を打ち落とし、弾いていく。
「悪魔に怪物ですか、話がブッ飛んでてドン引きだよ……けど」
リュードは鋭い呼吸を一度。
「ここでコイツを止めないと民を守れない。そこについては、完全に同意だね」
改めて鋭く研ぎ澄ました剣気を込めて、大剣を振り放つ。
余計な疑念や思考はひとまず退けておいて、目の前の敵を撃ち倒すことだけに集中すると決めたのだろう。
大きく振り薙いだ大剣に、受け止めたフルドの剣がついにその手から弾け飛ぶ。身をひるがえしたリュードは、振り抜く剣撃にさらなる勢いを込めた。
「いい加減に倒れようかレイナード卿! 潔くないにもほどがあるぞ!」
唸りを上げた大剣が、肉塊の胴体を横一文字に薙ぎ払う。
大きく吹き飛んだフルド。石畳に墜落した硬い衝撃と、何かが限界を迎えた破砕音。
かろうじて原型を留めていたフルドの頭部が突然に爆ぜ飛び、連鎖するように全身が弾け飛んだ。
無数の肉片となって広場に飛び散ったフルドの身体、さすがにもう蠢く様子はない。
リュードは振り抜いた大剣を地面に突き立てて停止させ、大きく息を吐いた。
そこに飛来した曲刃を、アガトの剣が打ち落とす。
見れば、周囲には同様に打ち落とされた刃が無数に散っている。リュードが大剣を振るっている間に飛んできたものは、アガトが宣言通りに全て防ぎきっていた。
「……スゴいね、もしかして、余計な加勢だったかな?」
「いや、さすがに三人同時に相手取るのは無理だ。必要な加勢だった」
「……三人?」
アガトの返答に眉音を寄せるリュード。
周囲を窺ってみるが、新たな曲刃が飛んでくる様子はない。民の避難は済んだようだし、周囲にはアガトとリュード以外に気配はない。
気配はない。はずだったのだが────。
「ふむ、愚か者にしては持ちこたえた方か……」
何者かの思案げな声が、広場に響き渡った。
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