第17話 空の誓い


               ※


 王国騎士団本部、その騎士団長室。

 座したグレン・ルゥ・ブランシェネージュは、今日もまた多忙の様子だった。机上の書類にペンを走らせる動きは精緻に迅速に、文書を読み取る視線も、同様に揺るぎない。

 しかし、そんな状態にあっても、この厳格な大騎士は、ちゃんと会話に耳を傾けていたのだろう。


「……要するに、新婚早々に夫婦喧嘩というわけか?」


 ひと通りの話を終えたところで、彼は盛大な溜め息を吐いた。

 対するアガトは困惑のまま、左の頬を軽く押さえて首をかしげる。


「喧嘩……、なのかな……?」


 喧嘩だとしたら、何が原因だったのだろう?

 わからない。

 わからないので、もう一度状況を整理してみることにした。


 それは今朝方のことだった────。


 アガトが、いつものように図書館の開館作業を手伝おうとホールを訪れてみれば、受付に座したままウトウトしているユラの姿があった。


 彼女が居眠りとは珍しい。疲れているのだろうか?


 他の職員たちは書架や閲覧席の方に回っており、気づいていないようだった。

 なので、自分が起こそうと思って近づいたアガトは、戸惑った。

 椅子に座し、ややうつむき加減になって眠っているユラ。その閉じたまぶたから、涙がこぼれていたからだ。


 泣いているようだった。


 改めて見れば寝顔はどこか苦しげで、寝息も乱れている。

 悪夢でも見ているのだろうか?

 なら、すぐにでも起こした方が良いのかも知れない。

 アガトは彼女の肩に手を伸ばそうとして、瞬間、彼女の唇が動いた。


『……お兄ちゃんは、お人好しが過ぎるから……』


 そう呟いたように聞こえた。

 そして、そのまま眼を覚ました彼女はハッと顔を上げ、アガトと眼が合った。


『大丈夫か?』


 アガトは呼び掛けた。


 そうしたら、頬を引っぱたかれた。


 口を切ったりするほど強くはなかったが、決して弱い威力でもなかった。なぜ打たれたのかわからなかった。そして、打ったユラの方こそが、驚愕した様子で眼を見開いていた。


 蒼い瞳。

 相変わらず綺麗なその色彩と見つめ合うこと、数秒間。


『……ぅぁ……ッ……!』


 微かに呻いて顔を背けたユラは、そのまま席を立って歩き去ってしまったのだった────。


 ……以上が、今朝起きた全てである。


 アガトはわけがわからぬままに、とにもかくにも開館作業を手伝ったのだが、その間も彼女はアガトと距離を置き、会話はおろか、眼も合わせてくれなかった。

 彼女の機嫌を損ねたのは明らかだった。

 ならば、自分の何がいけなかったのかと考えた。


 泣きながら眠っていたユラ。

 それを起こそうとしたアガト。


 それだけであり、それ以上に何があったわけでもないと思う。

 考えても、悩んでも、ぜんぜんわからなかったので、こうしてグレンに相談しにきたのだ。


「何がいけなかったんだろう……」

「さて、聞く限りでは何が悪かったようにも思わんな。いて言うなら、夫婦喧嘩の相談のために、新米騎士が執務中の騎士団長を訪ねている、この状況が問題だな。相変わらず、オマエは天然が過ぎる」

「…………ああ、ごめん……じゃなくて、申し訳ありませんでした」


 素直に謝罪するアガトに、初めて書類作業の手を止めて顔を上げるグレン。だが、その眼差しは多分にからかいを含んだ、親しげなものだった。


「冗談だ。本気で怒っているなら、話を聞く前に叩き出しているさ」


 穏やかな笑声をこぼして、書類作業を再開する。


「……まあ、何だな。普通に考えるならば、居眠りを見られたのが嫌だったのか……泣き顔を見られたのが腹立たしかったのか……寝起きで気が立っていたのか……。いずれにせよ、オマエはあまり細君を安んじてはいないようだな」


 寝起きに顔を見たら、思わず殴ってしまう程度には、嫌われているということだろう。


(嫌われていたのか……)


 少なくとも、ユラがアガトを愛していないのは確かだ。けれど、嫌われているとは思わなかった。


(だってなあ……)


 アガトのことが嫌いならば、なぜ結婚など望んだのだ? しかも脅迫してまでだ。


「……わけがわからない」


 再度の疑念はしみじみと、そんなアガトに、グレンはいかにも脱力した苦笑いを返した。


「わからんのなら、当の相手に訊くしかなかろう。いずれ、こういう場合は平謝りするしかない。怒りの原因を察することもできない不甲斐なさもふくめ、平身低頭で謝り倒せ」

「騎士なのにか?」


 言葉で謝るのはわかるが、ひれ伏して頭を下げるのは、騎士としてどうなのか?

 そう思ったアガトだが、眼の前の大騎士はキッパリと肯定を返す。


「騎士だからこそだ。少なくとも、オマエは守るべき伴侶の心を、守ることができていない。それは騎士として恥ずべき失態だ。地べたに額を擦りつけて、不明を詫びるべきだな」

「そうか……」


 他でもないグレンが言うのだから、それが騎士道なのだろう。


「とはいえ、私も女性の扱いに長けている自信はない。あるいは、愚直に謝ることが相手の神経を逆撫でることもあるだろう。そうなっても、私を怨むなよ」

「自信がないのか? 妻も娘もいる、名門貴族の当主様だろうに」

「名門貴族の当主だからな。妻とは見合いの政略婚。娘に接した記憶は、教育や指導の時ぐらいしか憶えがない。別に妻子をうとましく思っているわけではないが、正直、家長としての義務感以上の感情は、持ち合わせていないな」


 確かに、王侯貴族であれば、惚れた腫れたで結ばれる婚姻の方が珍しいだろう。婚姻は家を栄えさせる手段であり、子育ては血筋を存続させるための手段であるのが常だ。


「愛していない相手と結婚するってのも、そう不自然なことじゃあないんだな」

「少なくとも、珍しいことではないな。だが、どうした? まさかオマエ、好きでもない女を妻にしたのか?」

「そういうわけじゃない……と、思う」


 別にアガトはユラを嫌ってはいない。

 彼女が色々と世話してくれるのは助かるし、彼女と一緒に居ると、何だか落ち着く気がする。何より、彼女の蒼い瞳は綺麗だ。


 けど、それが好意……愛情なのかというと、よくわからなかった。


 いずれにせよ、ユラの怒りの原因はぜんぜん見当がつかない。ならば、グレンの言う通り、平身低頭で謝り倒すしかないのだろう。


 そうしてアガトが苦悩している間にも、グレンの書類作業は微塵みじんも止まっていなかった。


「……忙しそうだな」

「ん? ああ、そうだな。どうにも、厄介事が多すぎる」


 グレンは書類束を一瞥いちべつし、大きく溜め息を吐いた。


「以前、オマエにも指摘された国境防衛の強化と、兵員増強の件。過日にようやく取りまとめたのだがな……審議に掛けた途端に、各方面から猛烈に反対された」


 これらは抗議の陳情だ……と、書類束を叩く。


「反対?」


 アガトは首をかしげる。 

 なぜ反対されるのか、わからなかったからだ。


 エシュタミラの国境の守りは、あまりに脆弱だ。

 砦はおろか、ろくに防壁もない。防衛設備といえば見張りのやぐらぐらいしかなく、それすらも数えるほどで、あまつさえ兵は常駐しておらず、巡回監視しか行われていない。穴だらけにもほどがあるザル警備なのだ。

 元より、国の規模に比して、総兵力が圧倒的に少ないエシュタミラ。王都以外の警備体勢については、各諸侯に一任しているのが現状だ。

 平穏な時勢ならともかく、大陸中に戦乱の波が荒れている現在、一刻も早く防衛線の構築が必要なのは歴然だろう。


 なのに────。


「誰が、反対しているんだ?」

「主に、貴重な血税を納めてくれている国民の皆様。それから、エシュタミラ千年の平和を愛する有識者の皆様。現に守護を務めている諸侯は〝自分たちの力が信に足らぬのか?〟と、率直にお怒りだ……他にも挙げればキリがない。そもそも、賛同しているのは黒陽騎士や一部の貿易商ぐらいだ。王陛下も、意識が戻れば賛同してくれるとは思うがな……」


 要するに、外地の事情を直接に知っている者だけということだろう。


 千年王国エシュタミラ。

 その天然の要害たる地形と、近隣諸国への外交努力、そして、黒き悪魔の暗躍により、長い繁栄を誇り続ける国。

 特にこの二百年、この国は直接の戦火に巻き込まれていない。

 だから、確かにわからないでもない。

 迫ってもいない戦火に備えて軍備を整える資金があるなら、それを市街整備や、民の福利厚生に当てる方が有意義と考えるのだろう。


「……いわく〝いたずらに兵力を増員し、武装を揃え、あまつさえ国境に防衛砦などを築くのは、北のウルクレイア、西のレグルスを始め、長年友好関係にある同盟国への信頼を揺るがしかねない愚行。エシュタミラは侵略戦の準備を整えているなどと、いらぬ誤解を招きましょう〟……まあ、その通りだな」


 苦笑うグレン。

 確かに、苦笑うしかない話だ。


「この前のアスガルド軍は、ウルクレイア領から進軍してきたんだぞ?」

「ああ、だが、ウルクレイアは今もなお健在で、我がエシュタミラの同盟国だ。国際的にも、それが事実であり、この国の民はそう信じている」


 エシュタミラを陸路から攻めるには、まず、隣接した同盟国を攻めることになる。ゆえに、同盟国が健在である内は、エシュタミラは安泰である。多くの者たちの共通認識だ。


 しかし、過日のエシュタミラ軍は北から現れた。


 進軍経路のウルクレイア軍は、討ち倒されてしまったのか?


 そんな報は届いていない。


 ならば、可能性は、三つ。


 ひとつ……アスガルドは、ウルクレイアの防衛網に察知されることなく、隠密にて行軍してきた可能性。


 ふたつ……経路上のウルクレイア兵は、襲撃を報せることもできずに鏖殺おうさつされ、その事実をまだ誰も知らないという可能性。


 そして三つ目は……行軍するアスガルド兵を、ウルクレイアは阻むことなく見送ったという最悪の可能性。


 ひとつ目の可能性は、一応は、ないとは言い切れない。

 どの国も領地の隅々まで支配と管理が行き届いているわけではない。山岳地帯や、森林部は未開の地も多い。

 だが、進軍経路と思しき荒野地帯には、ウルクレイアの砦がある。五千の軍勢が、それを放置したとは考え難いだろう。元より大陸制覇を唱えるアスガルドだ。侵攻上の土地は端から攻め落とせば良い。


 ふたつ目は、まず、有り得まい。

 アスガルド軍が国境に現れたのは十日以上も前だ。ならばウルクレイアが抗戦したのはそれ以前となり、それほど長期に砦の陥落に気づかぬなど、考えられないだろう。


 そして三つ目は、最悪ながらも、可能性としては一番高い。

 その場合は、ウルクレイアが密かにアスガルドと盟を結んだか、あるいは隷属しているか……。いずれにせよ確かなのは、ウルクレイアの存在は、もう守りの当てにはならないということだ。


「ウルクレイアが裏切っている可能性を告げることは?」

「無駄だな。決定的な証拠がない。アスガルド軍の襲来をなかったことにした以上、状況証拠も主張できん。それこそ国交をおびやかす妄言だと、切って捨てられるだろう……と、そう思いながらも、一応は審議に挙げたが、こうして現に切って捨てられた」


 手元の書類をすがめ見て、グレンは鼻を鳴らした。


「陛下が昏睡されたままでは、王命としてゴリ押すこともできん。そもそも砦を築いても、配備する兵員が居ない。やるならば、強制徴兵も並行せねば意味がない」


 王命による建設と、王命による徴兵。

 大陸諸国ではそう珍しくもなく、難しくもないことなのだろうが、このエシュタミラではそうはいかないようだ。王が病に伏しているゆえだけではなく、根本的な国民性による部分が大きい。


 エシュタミラは、千年の平和を誇る不戦国家。

 この国の多くの民は、自ら武器を手に取ることを良しとしない。

 無理矢理の徴兵は、民意を損なう。その上で、兵を鍛え、軍を再編しなければならない。しかも、鍛えるのは新兵だけではない。そもそもからエシュタミラ軍は素人集団なのだ。


 必然、大規模な変革となり、国家全体が一丸とならねば成し得ぬ困難なもの。国王が病床に伏し、さらに民意を損なった中で、成せるものではないだろう。


 戦いを忌避きひする姿勢、それ自体は素晴らしい、誇るべきことだ。

 だが、向き合った相手が、今まさに武器を振りかざしている場合は? それでもなお、戦うことを放棄することは正しいのか?


 一概に、どちらがで、どちらが非であるとは断言できないのかもしれない。が、少なくとも、この国の者たちが、現状を理解していないことは確かだった。


「世は戦国乱世。その事実は認識していても、実感はしていない。この国にとって戦火とは、対岸の火事でしかない」


 己の身を焼かぬ炎は、熱そうではあっても、熱くはない。


「この国が浸かっている〝ぬるま湯〟が、いつ煮立ってもおかしくないほどに、対岸の炎は燃え上がっているのだがな……微睡まどろみが長すぎて、現に煮立つまで気づけぬと見える。

 過日のアスガルド軍、オマエに追い払わせたのは間違いだったかもな。いっそ、現に攻め込まれてみれば、皆の眼も醒めるであろう」


「そんなことはない。攻め込まれれば、民が傷つく。民が傷つけば、国もこぼれる。オレたちは騎士で、騎士とは守りし者だ。グレン、オマエがオレに撃退を命じたことは、間違いなんかじゃない」


 アガトは即答した。

 この国は平和である……その幻想を〝悪魔の騎士〟が背負える内は、背負い続けるべきだ。


「だからさ、問題はないよ。敵がきたなら、またオレが迎え撃つ。ウルクレイアの現状が知りたいなら、オレが潜入して調べて来よう」


 いつものことだ。

 ずっと繰り返してきた〝お役目〟だ。

 ミラの代わりに剣を取り、ミラの代わりに血を流す。


〝……黒い太陽は、ミラに仇為すものを赦さない……〟


 それが、黒き悪魔が誓った使命であり、背負いし十字架である。


「オレは〝クルースニク〟だ。ミラを守るために存在する悪魔の騎士。そうだろう? グレン」


 真っ直ぐに見すえてくる紅い双眸に、グレンは込み上げた何かを律するように、ギュッと眼を閉じた。

 口の端を苦々しく歪めた上で、肯定する。


「……ああ、その通りだ。オマエは、守りし者として、守るべきものを守る……」


 それが〝クルースニク〟であり、〝悪魔の騎士〟なのだ。


 吐息は浅く短く、グレンはゆるりと眼を開けた。


「……なあ、アガト……」


 琥珀の瞳が、紅い瞳を見つめて告げる。


「……オマエには、期待しているぞ……」


 いつもの眼差しで告げられる、いつもの言葉。

 そこには、今日も黒い揺らぎはない。


 ならば────。


 アガトはいつものように、決意をもって頷いたのだった。


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