第18話 砂上の楽園


               ※


 リュードは、初めてエシュタミラにきた時のことを思い出していた。

 二年と少し前のことだ。

 西のレグルス公国からの交易商隊、その警護兵として雇われ、エシュタミラ王都にやってきた。


 千年の歴史を持ついにしえの国。

 二百年の不戦を誇る泰平の国。

 さぞかし豊かで、住みよい都なのだろう。そう思っていた。

 いざこの眼で見て、その予想以上に平和な光景にハッキリと驚いた。


 人々には活気だけがあり、狂気はなかった。

 街並みは賑わいにあふれ、荒廃はなかった。

 道行く人々が笑っていた。楽しげに談笑していた。

 言い争っている者なんて居ない。

 殴り合ってる者も居ない。

 奇声を上げて暴れる者も、殺し合っている者も居ない。

 血の汚れなんてどこにもないし、倒れて死にかけている者も居なければ、死体なんてどこにも転がっていない。


 西の賢者どもが唱える〝永遠の楽園エリュシオン〟……そんな、この世ならざる場所に迷い込んでしまったのではないか……と、本気で戸惑ったものだ。


 王都の大商会の店舗にて、雇い主の商人が取り引きをしている間、リュードは積み荷の番をしながら〝平和な街並み〟という、まるで絵空事のような光景を、呆然と見つめ続けていた。

 呆然としながらも、長年染みついた戦士の感性ゆえ、身体はシッカリと警戒に身構え、神経は近づく気配に敏と張り詰めていた。


 だから、死角から近づいてきた漆黒のサーコートに対し、誰よりも早く振り向いて反応することができた。


『ほう……』


 何やら満足そうに、その黒衣の騎士は頷いた。


『オマエ、戦争は好きか?』


 琥珀こはくの瞳が、真っ直ぐに睨みつけてきた。


 戦争が好き?

 冗談じゃない。だから、否定を返した。


『戦場に帰りたいか?』


 馬鹿を言う。

 あんな地獄に帰りたいわけがない。だから、否定を重ねた。


 琥珀の瞳は、どこか小馬鹿にするように細められた。

 けれど、どうやらその眼鏡には適うことができたのだろう。

 リュードは、ブランシェネージュ家の後見により、嫡子の居ないアスタローシェ家に養子として迎えられ、爵位を授かり、そのまま黒陽騎士として仕官させられた。


 それは確かに大抜擢だいばってきではあるが、外地ではそう珍しいことでもない。

 戦争に明け暮れる外地では、戦場での働き次第でいくらでも出世の可能性はある。現に、厩番うまやばんから十数年で一国の王にのし上がった例もある。

 だが、この国では空前にして異例の大抜擢であったらしい。

 おかげで最初の頃はもちろん、確固たる実力を知らしめた今でもなお、多くの者……主に貴族連中から煙たがられている。


 ……が、そんなものはリュードにとってどうということはなかった。


 陰口は確かに気分が良いわけもないが、陰から矢弾が飛んでくるより遥かにマシだ。

 面と向かって皮肉げに嘲笑われるのは嫌な感じだが、斬り掛かられるより全然良い。


 リュードは、このエシュタミラの騎士となり、この平和な国に住めたことに感謝している。


 もしも────。


 この世で一番最悪なことは? と訊かれたら────。

 それは戦争だ。と、リュードは即答する。


 この世で一番最低な場所は? と訊かれたら────。

 それは戦場だ。と、リュードは断言する。


 物心ついた時からそう思っているし、知っている。

 家族をなくし、故郷もなくし、戦火の中で野垂れ死ぬところを、大陸を渡り歩く傭兵団に拾われた。そのまま傭兵として育てられ、傭兵として生きてきた。

 戦場で、戦争をしながら生きてきた。

 あれは、本当に、本気で、真剣に、真実に、最悪で最低だ。

 何が最悪最低だといって、あの最悪最低の中では、最悪最低なことばかりが迫ってきて、それに対して最悪最低で返さないといけなくて、そうして最悪最低なことをしているのに、最悪最低だといわれないのが、本当に最悪で最低なのだ。


 例えば、人を殺すのは最悪で最低なことだ。誰だって知っている。

 だから、人を殺すのは罪であり、ひとりでも殺せば殺人者として罰せられ、ふたりも殺せば殺人鬼とののしられ、それ以上殺せば悪魔とさげすまれる。


 悪いことが、悪いことだと認識されている。

 実に真っ当な環境だ。

 それが普通だ。それが当然だ。

 普通なことが当然に通る、素晴らしいことだ。


 しかし、戦争ではその普通が歪む。

 戦場ではその当然が通らない。


 戦場でひとりを殺せば勝者で、

 それ以上殺せば強者で、

 皆殺しにすれば英雄になれる。

 殺せば殺すほどに、誉め讃えられるのだ。


 普通は〝殺せ〟といわれたら、〝できません〟と応じる。

 なのに、戦場でそう応じると〝臆病者〟と罵られる。

 そして、本当に最悪で最低なことに、臆病者は、勇敢なる勝者たちによって、殺されていくのだ。


 誰だって死にたくないし、殺されたくない。

 それが普通だ。けれど、その普通は相手を殺さなければ通せず、通らなければ当然のように殺されるのだ。


 最悪で最低なことが、普通で当然なことへとねじ曲げられていく。

 それが戦争で、それが戦場で、だからこそ、本当に、本気で、真剣に、真実に、最悪で最低なのだと、心の底からそう思う。


(仮初めの平和? 張りぼての平穏? 実に結構なことじゃないか)


 仮初めだろうが張りぼてだろうが、平和で平穏には違いない。最悪で最低な中で、最悪で最低なことを繰り返すしかなかった日々に比べれば、この国は素晴らしい楽園だ。


 だから、心の底から思う。


「このエシュタミラは、平和だ」


 王国騎士団本部、その中庭のベンチ。

 背もたれに大きく身を預けながら、リュード・ルゥ・アスタローシェはしみじみと呟いた。

 降りそそぐ真昼の陽光が実に心地良い。

 回廊を歩いていく三人連れの女騎士が居たので、リュードはニッコリ笑って手を振った。それに気づいた彼女たちもまた、可憐な笑顔で会釈して立ち去っていく。

 できれば追いかけて食事にでも誘いたいところだが、向こうは職務中のようだったし、ここは我慢だ。

 真ん中に居たカールヘアの娘がスゴく可愛かったので、今度改めて誘おう……と、内心に決意しながら、リュードはなおグッタリのんびり身体を伸ばす。


(外地ならムサ苦しいばかりの軍隊が、ここでは実に華やか。平和って素晴らしいね)


 その平和な国に仕官できたことは、重ね重ねも幸運なことだった。


 ただ────。


(みなさんの平和ボケっぷりが、思っていたよりもヒドいんだよねえ……)


 内心にぼやきつつ、口の端を下げる。

 エシュタミラはこの二百年、戦火に巻き込まれていない。

 どこからも攻め込まれていないし、どこにも攻め込んでいない。

 それは、海腹と山岳地帯に囲まれた天然の要害という幸運と、隣接した周辺国と同盟して和平を結び、経済支援と技術交流を主軸とした、外交努力による賜であるという。


(けど、それにしたって、この国の軍備はお粗末すぎる……)


 王都など主要市街の警備態勢はそれなりだが、それ以外はもう全然ダメだ。


 そもそも兵士の練度が低すぎる。

 実戦経験は圧倒的に不足しているし、そもそも兵として使い物になる人員が少なすぎる。以前にグレンも嘆いていたが、最精鋭たる黒陽騎士の直属部隊でなければ、野盗討伐もままならないのだ。

 それでもこの国に野盗や山賊の被害が少ないのは、あくまで治安の高さにより、ならず者の数自体が少ないゆえなのだ。


 そして、もっともヒドいのは国境防衛。

 ある意味、国防における最重要項目が、まともに機能していない。普通に考えて、そんな状態の国が存続するなど有り得ないことだ。


 しかし、このエシュタミラは健在だ。

 二百年、他国から攻め込まれていない。


 エシュタミラを攻めるには、まず周辺国のいずれかを落とさねばならない。とはいえ、その周辺国自体が攻めてきたらお手上げだろう。


 しかし、周辺国が裏切ったことはない。

 外交努力による和平ゆえ?

 二百年間、あるいは千年間の永きに渡り、本当に、誰ひとりとして、それを破ろうとしなかったのだろうか?


 調べてみれば、そんなことはないのだとすぐにわかる。


 たどれる二百年の間にも、周辺国でエシュタミラ攻めを主張した君主や将軍はそれなりに居る。が、その誰もが、その主張を押し通すことなく、不慮の事故や病に倒れているのだ。


 実に、幸運な話だ。

 怪しいほどに疑わしい幸運だ。


〝古の国たるエシュタミラは、悪魔の騎士に守られている〟────。


(……丸っきりの御伽噺というわけじゃあ、ないのかもしれないね……)


 王立図書館の放火未遂と、密偵殺害の件然り。

 あれ以降も、外地と行き来のある商人の失踪や、郊外の森で狩人の殺害事件が発生している。

 それらに共通しているのは、いずれも外地と情報のやり取りをしていた形跡があること……すなわち、密偵やそれに準ずる存在だった可能性があるわけだ。


 調べれば、過去にも同様の事件は起きているのかも知れない。

 いや、もしもあったなら、記録なんて残っているはずがない。


「黒い太陽は、ミラに仇為す者を赦さない……」


 降る陽差しに両眼を眇めながら、ゆるりと唱えてみた。

 それは悪魔の騎士〝クルースニク〟の御伽噺、その中に語られる有名な台詞だ。


 悪魔の騎士。それはただの御伽噺だとしても……。

 悪魔の騎士という役目を担う何者かは、本当に居るのかも知れない。


 いずれにせよ、昨今のエシュタミラは不穏だ。

 続く事件だけではない。リュードの勘が……最悪の戦争で磨かれ、最低の戦場で培われた、生存本能ともいうべき感性が、そう告げている。


 平和な国。

 平穏な国。

 けれど、その泰平はいつ崩れ去ってもおかしくはない砂上の楼閣であるのだと、外地からきたリュードは思い知ってもいるのだ。


(……けど、だからって、あの最悪で最低な日々に戻るのはゴメンだよ)


 ならばこそ、この砂上の楼閣ができるだけ長く形を成していられるよう、こぼれ落ちる砂を地道に掻き集めることに努めるしかない。


 深刻な思考に割り込んだのは、腹から響いた空腹感。

 リュードは苦笑いつつ、ベンチから身を起こす。

 まずは腹ごしらえでもしようか、と、立ち上がったところで、回廊を歩く白い姿を認めた。

 ここでは珍しくもない太陽紋の白コート姿、けれど、髪まで真っ白な騎士なんて他には居ない。


 ウワサの紋章官候補、アガト・ルゥ・ヴェスパーダ。


 成り上がりの新参者にも偏見なく接してくれる、数少ない貴族だ。

 ならば、親睦を深める良い機会であろう。

 そう思い、声を掛けようとしたのだが、アガトの歩みは思いの外に速く、すぐに角の向こうに消えてしまう。


 リュードは急ぎ彼の後を追おうと駆け出して……。


「アスタローシェ卿」


 傍らから呼び掛けてきた声に、ビタリと踏み留まった。

 仕方ないことだ。何せ呼び掛けてきたのは女性の声だったのだ。

 ならば、男児としても騎士としても、無視するわけにはいかないというものだ。


 笑顔で向き直れば、そこにはふたりの少女が立っていた。

 ひとりは、茶金の髪をお下げに結び、豊満な肢体を白いサーコートで包み込んだ女騎士、マシロ・ルゥ・ブランシェネージュ。

 もうひとりは、長い漆黒の髪と、雪色の肌が印象的な細身の少女。

 ニコニコと穏やかに微笑んでいるマシロと対照的に、黒髪の少女の方は、いかにも途方に暮れた、物憂げな様子で立ち尽くしている。


「すみません、実はアガトく……ヴェスパーダ卿を探しているのですが、見かけませんでしたか?」

「ああ、それなら……」

「おお! これはこれは紋章官殿! 奇遇ですな!」


 リュードの返答をさえぎって響いたのは、騒々しくも居丈高な声。とはいえ、それはこの場で上がったものではない。声はリュードが指し示そうとした廊下の先、要するにアガトが歩き去った先から響き渡っている。


「この声は……」

「フルド坊ちゃま……?」


 リュードとマシロは呻くように呟きつつ、互いに顔を見合わせる。


 フルドが、アガトに接触している?

 いったい何の用で?


 全くもって、嫌な予感しかしなかった。




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