第16話 殺意の回想


               ※


 兄は、いつものように困った笑みを浮かべていた。

 ユラもまたいつものように、兄の困り顔を睨み上げて叱りつける。

 もうこれで何度目なのかと、いい加減にしてくれと、ユラは眉根を寄せ、口を引き結び、自分は怒っているのだと主張する。


 そんな彼女を前に、兄はバツが悪そうに頭を掻いていた。


『……うん。……でもね、ユラ、あの人は財布を落として困っていて、だからね……』


 財布を落として困っています、少しでもいいのでお金を貸してもらえませんか?


 稚拙な街頭詐欺の常套句だ。姑息すぎて逆に珍しいくらいだろう。

 そんな子供でもわかる詐術に、どうして引っ掛かるのだ!


『……うん。……でもね、もしかしたら、本当に困っているのかもしれないだろう?』


 兄は真顔でそんなことを言う。

 あきれた人だと思った。

 そんな調子で、いったい何度繰り返せば気が済むのだと憤った。

 今回だけではない。兄は何度も〝困っている人〟に手を差し伸べ続けている。

 もちろん、中には本当に困っていた人も居たかも知れない。

 だが、真っ当に困っている人ならば、普通は教会なり役所なりに頼る。道行く他人に金を無心したりはしない。


 それに、兄の〝善行〟は受け身に留まらない。

 兄は駆け出しの薬師くすし。ただでさえ収入は低いというのに、相手に請われて代金をツケにするなど日常茶飯事だ。もちろん、そのまま逃げられ踏み倒されるところまでふくめてのこと。

 最近、大手の商家に雇われたおかげで収入だけは安定してきたものの、むしろ、その善行には拍車が掛かっている。収入に比例して、被害も増しているのだ。


 不器用なお人好し。


 それが兄に対する世間の評価であり、ユラ自身も同意する兄の性質。

 両親を早くに亡くしながら、それでも頑張ってユラを養ってくれている兄。それには本当に感謝しているし、尊敬もしている。

 ……しかし、だからこそだ。

 兄の愚かなまでのお人好し振りが、腹立たしくも心配だった。

 疑うことを知らず、人の悪意に鈍感で、世界は優しさでだけ満たされているのだとでもいわんばかりの、善良な人。


 それは、それ自体はとても尊いことなのかも知れないけれど……。


 そんなことでは、いつか必ず取り返しのつかないことになる。

 姑息に小銭を巻き上げられる程度では済まない。最悪の事態を招きかねないのだと、ユラは懸命にいさめた。


『ハハハ、ユラはスゴいな。これじゃあユラの方が、オレのお姉さんみたいだ』


 兄は脳天気なまでに穏やかに笑う。

 ユラはあきれを重ねて睨み上げた。

 誰のせいで自分が気を揉んでいるのかと、ちゃんとわかっているのかと、抗議を叫んだ。

 小柄なユラに反して、無駄に背の高い兄。それを睨みつけるには、文字通りに見上げなければならず、それでも足りなくて、つま先立ちになって精一杯に背伸びしていた。


 見上げるほどの身長差……なぜ?


 確かにユラは小柄で、兄は長身だが、それにしたって差があり過ぎる。

 これではまるで、自分が幼い子供のようではないか……と、そう思い至ったところで、ユラは気がついた。


(……これは夢だ……)


 そう、夢だ。

 過去に過ぎ去ったいつかの出来事を夢想しているのだ。それは少し考えれば明らかで歴然だった。


 だって眼の前で兄が笑顔で困っている。

 もう居ないはずの兄がそこにいる。

 夢だ。

 昔の夢だ。

 まだ、兄がそばに居た頃の記憶だ。


 けれど────。


 だったら、これはいつの記憶なのだろう?


 疑念は、ユラの中にジワリと嫌な怖気を生む。

 兄は、ゆるりとひざまずき、小さなユラに目線を合わせて微笑んだ。


『本当にごめんよ。可愛いに、我ながら情けない兄だよな』


 真っ直ぐにユラを見つめて、そう言った。


(……ああ……)


 理解は、さいなむ怖気を、濃く、重く、彩ってくれた。


『お詫びに……って言うのはアレだけど、帰ったらたくさんお祝いをしよう。贈り物は……そうだな、髪飾りなんてどうだろう? ユラの髪は黒くて綺麗だから、白い花の飾りなんて、良く似合うと思うな』


 優しく頭を撫でながら、そんなことをのたまう。

 あきれた話だった。祝う当日に何を言っているのだろうか。そういうことは、事前にこっそりと準備しておくものだろうに……。


 本当に不器用な兄だと、あの時のユラはあきれたのを憶えている。


 ずっと、憶えている。


『じゃあ、いってくるよ』


 笑いながら仕事に向かう兄。

 その背中に、ユラは叫ぼうとした。

 いかないでくれ、いってはいけない、プレゼントなどいらない、祝ってくれなくていい、ただ、このままここに居て欲しい。それだけでいい。

 今日だけは、どこにもいってはいけないのだと、そう懸命に声を張り上げようとした。


 けれど、声は出ない。

 追いすがろうとした手脚は動かない。

 当然だ。

 これは過去のことだ。

 あの時、そうしなかったのだから、今、そうできるわけがないのだ。

 そして、過去のことだからこそ、今のユラは、この後どうなるのかを知っている。


 この後に起こった。あの惨劇を知っている。


 薄暗い広間。

 兄の職場である製薬工房。

 植物、薬品、そして用途のわからぬ様々な機材が並ぶ中、薄闇の中でなお赤黒く濁った何かが、そこら中にあふれている。

 人が倒れていた。

 知らない人たちが倒れていた。

 首を斬られた死体。首がないので誰なのかわからない。けど、首があってもわかりはしない。兄の職場の人間には会ったことがない。だから、転がる首を確認する意味もない。


 それよりも、それよりも、それよりも……!


 工房の片隅にたたずむ影があった。

 黒いサーコートをまとい、黒い盾を背負い、白い髪に白い仮面をつけて、白刃をブラ提げた…………悪魔の騎士。


 その足下には、首を斬られた兄が居た。

 首が無いけれど、兄だとわかった。


『……黒い太陽は、ミラに仇為す者を赦さない……』


 白い仮面が、静かに淡々と告げた断罪の言葉。

 その手に握られたのは、兄の首。

 呆然とした表情を浮かべた兄の生首。

 なぜ自分が斬られるのか? そもそも、何が起きているのかも理解せぬままに命を絶たれたかのような、危機感のない死に顔だった。


 あの時のユラは、声を張り上げた。

 焦燥と混乱のままに、嘆きを上げた。

 悪魔の手から兄の頭を奪い取り掻き抱いて、倒れた骸にすがりついて泣き叫んだ。


 過去の記憶。忘れられない記憶。

 脳裏に胸裡に深く焼き付いた、悪夢のような現実。



「……お兄ちゃんは、お人好しが過ぎるから……」



 こぼした嘆きには、喉を震わせる確かな実感があった。

 次いで胸の奥からこぼれ出る吐息の感覚。夢想にむせび泣いていた彼女は、現実でも同じく嘆いていたのだろう。


 自覚と同時に、ユラは目を覚ました。


 悪夢からの唐突な覚醒。

 弾かれたように顔を上げてみれば、そこは自室のベッドではなく、王立図書館の受付だった。


 なぜ?

 居眠りしていたのか?


「その……だ、大丈夫か……?」


 傍らから呼び掛けてくる声があった。

 戸惑うように力無く、相手をどう気づかえば良いのかとオタつくようなその感じは、夢想に夢見た、お人好しな誰かを思い起こさせる。


 けれど────。


「ユラさん?」


 覗き込んできたその顔は、ユラの兄ではなかった。

 白い髪に紅い瞳をしたその姿に、ユラは喉を引き攣らせる。

 兄ではない。

 彼は兄ではない。

 それなのに、なぜ、兄のようにユラを気づかってくるのか……!?


 寝起きの混乱か? それとも鬱屈していた感情の発露か?

 気がついた時には、ユラの放った平手が、アガトの頬を激しく打ち据えていた。

 眼を見開いて驚愕したのは、打たれたアガトよりも、打ったユラの方。


「……ぅぁ……ッ……!」


 細く白い喉が、かすれた呻きに震える。


 ごめんなさい……と、謝罪を唱えたつもりだった。


 すみません、寝ボケていたんです、本当に申し訳ありませんでした……と、そう唱えようとした。

 肩をすくめて神妙に謝って、打った頬を気づかい手当てして、甲斐甲斐しくも健気な妻として、いつものように振る舞おうとしたのだ。


 ……なのに、できなかった。


 謝るどころか、眼を合わせることもできなかった。

 理性で命じているのに、身体が従ってくれなかった。心が応じてくれなかった。

 紅い瞳が、ユラを見つめている。

 戸惑い、驚きながら、それ以上に、心配そうに見つめてくる。


 それが、その事実が、どうしても……


 ユラは唇を噛み締め、立ち上がる。

 無言のままにうつむき、歩き出した。彼の紅い瞳から逃れるために、この場を離れる。


(……何をやっているんですか……! わたしは…………!)


 内心に渦巻いた激しい焦燥、腹の底から込み上げた激しい自責と後悔。

 せっかくここまで尽くしてきたのに、健気な新妻を演じてきたのに、自分から台無しにしてしまうなんて……!


 これではダメだ。

 すぐに戻って、今からでも謝るべきだ。

 理性ではわかっている。そんなことはわかっているのに────。


 ユラの歩みは止まらず、振り返ることもなく、荒げ乱れた呼吸に急き立てられるままに、今はとにかく、あの憎らしくも懐かしい面影から、遠ざかりたかったのだ。


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