第30話 愚者たちの幻想


               ※


 王国騎士団本部内の騎士団長室にて、机に向かったグレンは、黙々と作業を続けていた。

 各資料、各報告、現在の大陸情勢、そしてこの国の現在、交易状況、資源、軍備……それらあらゆる情報をまとめ、検算検討し、ひたすらに練り上げ考察し、まとめ上げていく。


「……さて、こんなものを書き上げたところで、果たして意味があるのやら」


 ウンザリ愚痴りながらも、ひたすらに作業を続け、全てを終えた時にはすでに夜が明けていた。


 グレンは大きく息を吐き、最後に書簡を一通、したためる。

 いつも通り、飾らぬ文章で簡潔に用件をつづり、封書にしたそれを小さな金属管に収めると、机上で丸まっている黒猫の首輪に着けた。


 窓を開ければ、黒猫はニャーとひと声鳴いてから飛び出していく。

 あの黒猫は特別に訓練された、伝令犬ならぬ伝令猫。王都のような市街で書簡をやり取りするには有用だ。


 グレンは身だしなみを整え、騎士剣を腰に佩き、最後にぐるりと室内を見回した。


「さて、行くとするか」


 独りごちた声音は、グレン自身でも驚くほどに淡泊だった。

 廊下に出れば、本部内の浮き足だった喧騒がすぐに伝わってくる。


「無様だな……」


 嘆息は改めて鋭く、グレンはその喧騒には構わずに、己の目的のために廊下を進む。


 昨夜、王都ではふたつの事件が起きた。

 ひとつは、アレッサ領主ヴォルカ・ルゥ・ラズバルド子爵の暗殺。

 もうひとつは、名門貴族の嫡子にして王国騎士フルド・ルゥ・レイナードによる市民への無差別殺傷。

 そのために騎士団は朝から対応に追われている。

 とはいえ、騎士団本部で騒いで何が解決するわけでもない。黒陽騎士を始め、数少ないまともな騎士たちは対応のために出払っている。

 つまり、ここで忙しげに慌てている者たちのほとんどは、無意味に騒いでいるだけだ。


「無様だ……」


 グレンはもう一度、今度は噛み締めるようにゆっくりと吐き捨てた。

 もう少しでも、まともに事態を捉え、向き合う者がいてくれるかと期待していたのだが……。


「結局、いたずらに掻き乱しただけか……やはり、この国はもうダメだな」


 皮肉もあらわに口の端をつり上げ、先を急ぐグレン。

 ふと、玄関ホールで、ひとりの女騎士と鉢合わせた。


「あ、御父様」

「ふむ、マシロか……公務中は父と呼ぶなと厳命したはずだが?」


 グレンの鋭い眼光に、マシロはすぐに姿勢を正して敬礼する。


「失礼致しました、グレン閣下」

「うむ、厳に努めよマシロ公女。それで、月光騎士団に招集でも掛かったのか?」

「いえ、ですが昨夜のラズバルド子爵暗殺の件を踏まえ、個人的に王女殿下の警護強化を……と」

「ほう、夜明けを待っての参上とは巧遅なことだ。火急という言葉の意味を改めて吟味せよ」


 鋭い叱責を投げて行き過ぎようとしたグレンだったが、ふと、立ち止まってマシロをかえりみた。


「……マシロ公女、オマエが騎士となった目的は何だ?」


 静かな問いだった。

 静かだが強い、それはマシロというひとりの騎士の在り方を問うもの。

 ならば、マシロは真摯な憧憬を込めて返答する。


「はい! 私は、グレン・ルゥ・ブランシェネージュ閣下のような正しき騎士になり、ミラを守りたいのです!」


 そのために、剣に誓いを立てたのだと、マシロは宣言した。


「私のような、正しき騎士に?」

「はい!」

「そうか……」


 グレンは、やはり静かに頷き、きびすを返す。


「浅慮だな、騎士道はあきらめろ。オマエに守りし者の才はない」


 ハッキリと断言し、後は一顧だにせずに歩き去る。

 果たして、背後の愛娘がどのような顔をしているものか、そんなことは知ったことではなかった。


 別に今のは厳しい叱咤でも、賢しげな教訓でもない。

 歴然たるグレンの本音だ。


 女に騎士が務まらぬなどとは思っていないし、親として娘に別の道を望んでいるわけでもない。ただ純粋に、マシロ・ルゥ・ブランシェネージュに騎士道は務まらぬと判断したに過ぎない。


「私のような騎士になりたいだと? バカバカしい。かえるの子は蛙……とは、東方の言葉だったか……確かに至言だな」


 まして、井の中で大海を知らぬのだから救い難い。果たして、大海を知った時、マシロはそれでもなお〝守りし者〟たらんと戦うのか? それとも、その上でなお父と同じ道を選ぶのか?


「アガト、オマエはどうだ? 真に現実を見た上で、なおオマエは黒い太陽で在り続けるのか? 守りし者でいられるのか? ……まあ、いずれこの国に未来がないのは変わらんがな」


 グレンは心底からくだらなそうに、口の端を歪めて歩き続けた。


 王城の正門をくぐる。

 王国騎士団長の登城を門衛が止めるわけもない。

 入城した後も同様、誰もグレンの歩みを阻まない。

 そもそも、阻む以前に衛兵の数が圧倒的に少ない。要所の出入り口に一名ずつが立っているだけだ。

 エシュタミラ城に敵襲などありえない。ならば、それに人員を割くのは国費の無駄でしかない。それがこの数百年のエシュタミラの常識だ。


 騎士団がヒマなのは、平和の証である。


「それ自体は、ああ、確かに喜ばしいことなのだがな」


 その平和が、当たり前に存続する必然だと錯覚しているから、それをおびやかす敵の介入を容易に赦してしまうのだ。


 一年前に王が襲撃された時も、

 八年前に王妃が毒殺された時も、

 二十年前にあの愚か者が為した、最悪の裏切りの時も────。


「くだらんな。本当に、くだらない……」


 毒突くグレンがたどり着いたのは、王城裏手に建つ礼拝堂。

 その地下には広大な霊廟れいびょうが広がっている。


 歴代の王たちが葬られ祀られた石棺の並ぶ地下霊廟を、グレンは拝礼のひとつもせず、厳かとは程遠い歩みで進んでいく。


 やがて霊廟の最下層最奥にたどり着いた。

 エシュタミラ初代国王が眠る玄室に降り立ったグレンは、やはり、墓標には見向きもせぬまま、その背面に設えられた鉄扉の前に立つ。


 千年の時を経ながら、錆ひとつ浮かず色褪せぬ黒金の両扉。

 描かれた大きな太陽紋、その中央にある鍵穴に、代々の騎士団長が引き継いできた鍵を差し込んだ。


 鍵といっても、見た目は人差し指ほどの細長く平たい金属板だ。

 世俗に見る錠前とはあきらかに異質なそれが淡く発光し、重厚な鉄扉がひとりでに割れて開き始めた。


 仕組みも原理も皆無な神秘の機巧。

 グレンは初見こそ息を呑んだが、今となってはもう慣れたものだ。


 扉をくぐれば、そこに拡がるのはもうひとつの玄室。

 壁や床を構成するのは、扉と同じ質感の金属だが、その材質が何であるのかはわからない。


 神代の昔から存在する場所。

 あるいは神の手による創造物かもしれぬ古代の遺構。


 原理不明の照明に薄青く照らし出されたその室内は、床を、壁を、天井を、巨木の根の如き何かが覆い尽くすように這い巡っている。

 それらが這い伸びる根源、奥に祀られ鎮座するのは、巨大な黒曜石をくり抜いたかのごとき、美しくも異形なる漆黒のひつぎ


 今は空っぽであるその棺の前に、ひとりの少女が座していた。

 雪のように白い肌をした小柄で華奢きゃしゃな体躯を、対照的な漆黒の司書官衣で包んだ、黒髪の少女。


「ふむ、目を覚ましていたのか。それでも騒ぐどころか怯えている風もないのは、素晴らしい胆力だ。さすがは悪魔に嫁いだ娘よ」


 歩み寄ったグレンは、皮肉げな笑みでユラを見下ろした。

 当のユラは手脚を拘束された状態ながら、それでも背筋を伸ばして堂々と、その蒼い瞳で、己を拉致した男を睨み上げた。


「ここはどこです?」


 実に落ち着いた声音で問われ、グレンはなお感心しつつ返答する。


「王家の地下霊廟、その最奥にある遺跡だ。悪魔の眠る場所、平時のクルースニクが休眠する〝時忘れの黒棺〟……要するに、オマエの夫の実家だよ」


「……時忘れ……ですか」


「そうだ。この棺は中で眠る者の時を止める……そういう古代の神器だ。黒き悪魔の騎士はこの棺で眠り、いざ倒すべき敵が現れたならば呼び起こされ、敵を葬ればまた眠る。そうして永い時を戦い抜いてきた。

 まあ、現在のアガトの弱体を見るに、この棺は名の通りに時を忘れているだけで、止めているわけではなかったようだがな」


「時を……なら、あの人は……」


「そうだ。アイツは千年前から存在するが、アイツ自身は千年の時を知らない。必要とされた時、必要な間だけ目覚め、用が済んだら眠る。実質は十年も生きておらぬだろう。生まれてからひたすら戦いしか知らぬ……おかげで、その精神の何と幼いことか、救国守護の英雄たる威厳の欠片もない。オマエも、さぞかし手を焼いていたのではないか?」


 ふくみ笑うグレン。


 ユラは眼を閉じる。

 これまでのアガトとの日々を回想しているのか?

 あるいは、思い出したくもないと、ねじ伏せているのか?


「……その悪魔を目覚めさせ、倒すべき敵を伝え、再び眠らせるのがあなたの仕事ですか?」

「ふむ、然り。なかなか聡明なお嬢さんだ。代々の騎士団長……ブランシェネージュ家の当主が担ってきた責務だ。悪魔の騎士の目付役……千年の長きに渡り、受け継がれ繰り返されてきた国防の大役だよ」


「……彼は、悪魔なのですか?」


 眼を閉じたままに呟かれた問い。


「それは、悪魔とは何かという定義によるな」

「そうですね……では言い直します。彼は、人間ではないのですか?」

「それもまた、人間とは何かという定義によるだろう。仮に、ここで私が〝アガトは人間だ〟と答えたなら、オマエはアイツを〝悪魔ではない〟と断じるのかね?」


 グレンはさもくだらなそうに笑声を吐き捨てた。


「……そうですね。あの人は家族の仇。なら、わたしにとっては憎い悪魔に他ならない。けれど、不可解ですね。あなたは、あの人がわたしにとって仇だと知っていたのでしょう? なのに、なぜ彼を図書館に配し、さらにわたしを案内役になどしたのですか?」


 八年前、ユラの兄たちの始末を命じた当人であるグレンは、当然、ユラのことも知っていた。


「なぜも何も、そもそもそれが手配した理由だ。憎い仇を前にしたオマエがどんな行動を取るにせよ、それに相対したアガトがどうするのか、そこのところに興味があったのだ」

「彼を、試したのですか?」

「アイツもいい加減、己の愚かさを理解するべきだろう。悪魔であれ人間であれ、アイツの人格は悪い意味で無垢が過ぎる。あんなザマでは、まともな社会生活など望めん」

「社会生活……ですか?」

「そう、人の社会で生きるために、それに馴染まねばならない。その〝棺〟は壊れている。もう使えんのだ」


 黒き悪魔の時は、もう止められない。

 ユラはゆるりと眼を開け、グレンを見上げる。


「悪魔にも、老いや寿命はあるのですか?」


「知らん。が、だからこそだ。永遠に生きるにせよ、いずれ死ぬにせよ、人の世で営むならばその理には殉ずるべきだ。私は目付役として、最低限の務めを果たしているのだよ。

 ……もっとも、よもやオマエたちが夫婦になるとは思わなかったぞ。オマエの方は、いずれ寝首を掻くつもりで嫁いだのだろうが、受け入れたアガトもどうかしている。まあ、アイツにすれば数え切れないほどこなした〝お役目〟だ。殺した相手などイチイチ憶えてもいないか……それとも、憶えていた上で気にしなかったのか? だとしたら、何とも救い難いな」


「あなたは、何がしたいんですか? 何を考えているのです?」


「オマエこそ何を考えている。私は、アガトにオマエの兄を殺すことを命じた者だぞ。すなわち、私もまた憎い仇のはずだが? ずいぶんとおとなしいな」


「心外ですね。これでも腹の中は煮えくり返っていますよ。当然でしょう? 隙あらば、すぐにでもその喉笛を喰い千切って差し上げたいです」


 ユラはグレンを睨み上げる。

 愛する家族を死に追いやった仇、この八年間怨み続けた敵だ。憎くないわけがない。


「くく、恐ろしいな。まあ、待っていろ。じきにくだらぬ寸劇が見れる。あるいは、その煮えた憎悪が少しは晴れるやもしれんぞ」


「寸劇……ですか?」


「寸劇だ。それもド三流の茶番劇だよ。〝国賊の内通者、ユラ・フォルトナーを霊廟に捕らえた〟……そう記した書簡をアイツに送ってある。エシュタミラの守護者クルースニク様は、さて、どんな顔で現れるかな?」


 さして興味もなさそうに、グレンは乾いた笑みで首をかしげた。

 興味がないのに、なぜそんなことをしているのか? そもそも彼の態度は終始が終始、つまらなそうに斜に構えたものだ。

 いったいグレンがどういうつもりなのかは、ユラには憶測しかできないが……。


「彼が、わたしを助けにくることはありませんよ」


 アガトがくるわけがない。それはわかっていたので断言した。

 あのようなやり取りをした上で、助けにくるわけがない。助けにくる理由がない。


 そもそも────。


「あの人は、わたしを何とも思っていない。妻にしたのだって、ただ成り行きを受け入れただけ。わたしがあなたに捕らえられたと知っても、〝ああ、そうか〟と、頷くだけでしょう」


 わかりきったことだ。

 思い知ったことだ。

 一時は妻と受け入れた女とはいえ、その身を案じる心がアガトにあったなら、そもそもユラはこんなみじめな思いをしていないのだ。

 ほだされるような情がアガトにあったなら、ユラは憎悪と復讐心のやり場に惑ってはいないのだと……自嘲に微笑む彼女に、しかし、グレンはなおキッパリと断言する。


「アイツはくるさ。オマエがどう思っていようと、アイツはくる。何があったかは知らんが、あの悪魔はオマエに執着しているようだからな」


「……? 何を言って……」


 問い返そうとしたユラは、しかし、彼方から響いてきた激しい足音に息を呑んだ。


 足音────。


 そう、足音だ。

 誰かがこの場に向かって走ってくる足音。速く、強く、急き立てられるように慌ただしいそれは、すぐに大きく迫って響く。


 黒い影が、開け放たれたままの玄室の扉をくぐって飛び込んできた。


 薄青い光の中で、金属の床を激しく踏み締めて急停止した漆黒の影。黒衣に黒コート、白髪に白面を被った異装。


 その悪魔の騎士を、ユラは不本意ながらも、良く知っていた。


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