5章【幽霊騎士は狂えない】
第29話 兄弟
今日を生き延びることが全て────。
そんな単純で過酷な日々を生きてきた。
昨日を振り返る余裕も、明日を見据える猶予もない。
空腹と寒気に
それが、彼の日常だった。
別に、それが特別に不幸だったとは思わない。
同じようなヤツはいくらでもあふれていて、都市の路地裏や寒村にいる大多数はそんなもので、なら、それはこの大陸ではごく一般的な、当たり前の境遇なのだろう。
だが、当たり前だからって耐えられるわけもない。大多数が同じだからって我慢できるわけもない。
辛いものは辛いし、苦しいものは苦しい。
だから、強くなろうと思った。
他には何もなかったし、頼れるものは己だけだった。
だから、強くなるしかなかった。
力は良い。
強さは素晴らしい。
拳で殴れば誰もが傷つき、刃で斬れば誰もが血を流す。
血を流せば、貴族も富豪も騎士も市民も、みな等しく死に絶える。
武の前には、身分の貴賎も貧富の格差も意味を成さない。
だから、強くなろうとした。
どんな方法でも良いから食らいついた。
今を生き延び、己を存続させる力になるのなら、あらゆる全てを受け入れた。
そんな彼だから、外道の魔術士たちの実験体になったことは
結果、彼は悪魔のような力を身につけた。
桁外れの
あの魔術士たちのおかげで彼は強くなれた。
その点については素直に感謝していた。
だが、あの魔術士たちが、最悪最低最下劣の外道たちだった事実には変わりなかった。
だから、悪魔のごとき力を得た彼が、その力で最初に引き裂いたのは、己を悪魔の如くに変えてくれた、あの外道の魔術士たちだった。
連中が、どこの国の者だったのかはわからない。
あるいは、秘密結社や邪教団の類であったのかも知れないが、いずれその素性は知らないし、知ろうとも思わなかった。
力の前には、あらゆる命が平等に死に絶える。
それが世の真理にして摂理。
その理を、身をもって思い知らせたに過ぎなかった。
これまで連中が散々に踏みにじり弄んできた、取るに足らない大多数の者。彼と同じ〝持たざる者たち〟の代わりに、思い知らせてやったのだ。
そして彼は流れの傭兵となり、己の強さを振るい続けた。
己の武を示し続けた。
そうすることが心地良かった。そうせずにはいられなかった。彼にはそれしかなかった。
けれど────。
本当に、彼にはそれだけしかなかったのだろうか……?
「……兄ちゃん……」
聞き
「……兄ちゃん……しっかりしてくれよ……兄ちゃん……」
繰り返し呼び掛けてくる声、どこか力無くかすれたそれに、彼はハッキリとイラ立ちを抱いて呻きを返す。
「……何だウザレ、その情けなき声は……汝は強き我の弟であるぞ……ならば、常に堂々と、力強く声を張れ……」
強く張り上げたつもりの彼の叱責は、だが、弟と同様に弱々しいかすれ声だった。
彼は眼を開けたが、視界がぼやけて良く見えない。
起き上がろうとしたが、四肢の感覚が痺れて鈍く、さらには腹部に尋常ではない激痛が走っていた。
その激痛に、彼はようやく思い出す。
彼……イザクは、クルースニクに腹を貫かれたのだ。
そして無様に意識を失っていたのだろう。
つまり、イザクは敗北した。
イザクの武は、より強い武の前に敗れ去ったのだ。
だが、不可解だった。
敗北したのに、なぜ、イザクは今も生き存えているのか?
「ああ……兄ちゃん……よかったぁ……眼え覚めたんだねぇ……あぁ……よかったなぁ……」
かすれたウザレの声。
その深い安堵に満ちた弱々しい声音に、イザクは理解する。
「……ウザレ、汝、よもや我を連れて逃げ出したのか……!?」
一瞬で怒髪天を衝いた。
冗談ではなかった。武は真理だ。彼にとって、全てに平等たる世界の摂理なのだ。
勝てば生き延び、負ければ死に絶える。そうでなくてはならない。そうでなくては理が通らない。
「ウザレ! 汝は我が弟でありながら、兄を
未だ視界はぼやけ、四肢は痺れたまま。それでも無理矢理に声を張り上げ、腕を振り上げ、弟の襟首をつかみ上げる。
眼がかすんでいようが関係ない。彼にとっては親愛なる家族だ。その気配も姿も容易に察知できる。
あの外道の魔術士たちのもと、数多の実験体たちの中で、たったふたりだけ生き延びたイザクとウザレ。
血の繋がりはなくとも、血より濃い絆で結ばれた兄弟。
武に生きるイザクが、この世でただひとり、共に在ることを赦した者。
その最愛の弟が、なぜ、兄の誇りを踏みにじったのか!?
「答えろウザレ! どういうつもりだ! 返答次第では汝といえど、我は……!」
「……うん……ごめんよぉ……兄ちゃん……でも、兄ちゃん……が、死ぬのはぁ、イヤだぁ……」
今にも消え入りそうな声音が、明確な嘆きを吐いた。
「……死なないでくれよぉ兄ちゃん……兄ちゃんはぁ……オイラの……兄ちゃんで……何があっても、最強だから……生きて、生き延びて……だから……ごめんよぉ……」
呻きが徐々に小さく細く、それに比例するように気配がかすむ。
眼を閉じても容易にわかる弟の気配が、その馴染み深い気配が、どういうことか、感じ取れなくなっていく。
「……ウザレ……!」
理解できぬ事態に、想定外の状況に、イザクは呻きを濁らせた。
「……兄ちゃん、兄ちゃんは負けてなんかいない……兄ちゃんは……ずっと……」
消え入りそうな囁きは、祈りにも似てひそやかに掻き消える。
イザクは紅眼を大きく見開いた。
身体の痺れが薄れ、視界が晴れていく。
引き換えるように、全身の軋みと腹部の激痛が強くなっていく。
そしてイザクが認めたのは、虚ろに半開きとなった弟の瞳。胸ぐらをつかみ上げられたまま、グッタリと宙吊られるように脱力した弟の姿。
流れ出た
気配の消えた弟、息づかいも鼓動も感じない。
すでに物言わぬ骸に成り果てているのが歴然だった。
命は果てる。
負ければ果てる。
ウザレは、あの赤毛の騎士に敗北した。
イザクが負けたせいで、イザクの敗北に気を取られたせいで、ウザレは致命の一撃を受けてしまった。
敗北したイザクを助けるために、ウザレは己が身を捨てた。
「……愚か者だ」
しみじみと吐き捨てる。
「……我は、愚か者である!」
愚かしい。
何と愚かしい。
イザクは兄でありながら、その敗北のツケを弟に押しつけて生き延びたのだ。
愚かしい、本当に愚かしいことだった。
つかみ上げていた弟の骸を、イザクは強く掻き抱く。互いの骨肉が軋むほどに強く抱擁したが、当然、骸が物申すことはない。
死した弟は戻らない。
「ウザレ……強き弟よ。愚かな兄は、愚かゆえに赦しは請わぬぞ」
イザクは兄である。兄は強くあらねばならない。
ならば、生き延びて為すべきは、ただひとつだった。
傍らに置かれた長柄の斧槍をつかみ、立ち上がる。
四肢がフラつくが、長柄を杖とつくことはしない。断じてしない。弟の骸も取り落としはしない。
もうこれ以上、誇りも
「ウザレ、
それが持たざる者が手にした、ただひとつの真理。そして、ただひとつ残った摂理である。
イザクはその紅い瞳を見開いて、東に昇り出す太陽を、強く、強く、睨みつけた。
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