第14話 その瞳は黒く揺らぎて
※
寄り道を終えたアガトが王立図書館に戻ったのは、正午をいくらか過ぎた頃だった。
図書館の正門をくぐり、玄関大扉に向かう道すがら、彼はしみじみと嘆息する。
潜入任務。
それは身分を隠し、あるいは存在そのものを
そのために何より重要なのは、目立たぬこと。
騒ぎを起こして注目を集めるなどもってのほかだ。
(わかってはいる。わかってはいるんだけどなあ……)
アガトはまたも騒ぎを起こしてしまった。
潜入任務なのに、全く忍べていない。しかも、今回は言い訳無用の喧嘩沙汰である。リュードが仲裁に入らなければ大事になっていただろう。
グレンからは、皮肉どころか明確に叱責を受けるだろうが、まあ、それは自業自得だ。
問題なのは────。
左の脇腹がズキズキ疼いている。さっき衣服をまくってみたら、包帯に血が滲んでいた。
少し、傷が開いてしまっているようだった。
幸い大したことはないようだが、それでも、傷が開く無茶をしたのは揺るぎない事実。
(怒られるんだろうなあ……)
アガトは気配を消しつつ、開け放たれた玄関から館内を覗き込む。
図書館は普通に開館中。当然ながら、黒髪の司書は他の職員とともに業務をこなしていた。
それを確認したアガトはきびすを返し、裏手にある職員用の勝手口に回る。そちらからならば、ホールを介さずに上階の居住フロアに上がれるからだ。
三階の奥がアガトの自室。
この図書館は規模の割りに常勤の職員が少なく、さらに住み込みなのはユラと館長だけだ。そして、館長は業務出張でここしばらく不在のため、居住フロアには人気など皆無。アガトは誰に見つかることもなく、自室にたどり着くことができた。
ベッドに腰かけ、まずは安堵の吐息をこぼす。
さっさと傷を処置してしまおうと、サーコートを脱いだのだが……。
ふと、廊下を歩いてくる気配を察知した。
もちろん、誰なのかなどわかりきっている。
やがてノックなしで扉が開け放たれ、入室してきたのは、やはり黒髪黒衣の少女。
「う、ユラさん……」
「はい、ユラです。そのまま動かないでくださいね」
どちらかといえば緊張で固まってしまったアガトに、笑顔で歩み寄ったユラは、丁寧に手際良く上着を脱がせに掛かった。
受付を覗き込んだ時に、気づかれていたのだろうか?
バツが悪くて眼を伏せるアガトに、けれど、彼女は可憐な笑顔のままで傷の処置を始めた。包帯を解き、張りつけた膏薬の布を剥ぎ取り、滲んだ血を丁寧に拭ってくれる。
されるがままになっていたアガトだが、何はともあれ謝罪する。
「ごめん……」
「何がですか?」
「いや、無茶して傷を開いてしまったのが……」
「そうですね。オイタをなさらずに……と、約束しましたのに。約束を破ることは、ヒドいことなんですよ?」
ユラは浅い溜め息とともに、
ならば、笑いたくて笑っているわけではないのだろう。
「怒ってるか?」
「はい、怒っています」
華やかな笑顔で肯定された。
やっぱりだった。
彼女は、不機嫌な時ほど露骨な作り笑いを浮かべる。そのことを、アガトはこの一週間で思い知っていた。
最初の数日こそ大人しくしていたアガトだったが、ある程度回復してからは、ジッと休むことに堪えかね、怪我を構わず何度も出歩こうとし、その度に彼女から笑顔で叱られて、どんどん笑顔の度合いが増していき、最終的に満面の笑顔でベッドに縛りつけられたのだ。
そして、今の彼女もまた、ニッコリと満面の笑み。
アガトは武器を構えた相手に怯みはしない。敵に殺意を向けられてもうろたえない。
けれど、彼女に睨まれると、大いに怯んでしまう。腹の底が落ち着かず、胸の奥が奇妙にザワつくのだ。蒼い瞳が黒いゆらぎに濁るのを見ると、どうにも落ち着かない。
ふと、真顔になったユラが、脇腹の傷に触れてきた。
「手当て……という言葉は文字通り、こうして手を患部に当てると楽に感じることからきているそうです。実際には、何の治癒効果もない気休めのはずなのに……」
ユラは囁きながら、そっと傷を労るように、優しく掌を当てる。
包帯越しに感じる温もり。
気休めのはずのそれは、確かに傷の痛みを和らげてくれているように、アガトは感じていた。それこそ、自分の手で押さえている時よりも、遥かに楽に感じる。
「手を当てるだけで傷が癒えるわけもない。ですが、こうして触れる温もりや感触が、心に作用して安んじる。そういうこともあるのです。もちろん、その逆も……」
ユラは当てていた手を離し、居住まいを正す。
その瞳が真っ直ぐにアガトを見つめてきた。
「アガトさん、ユラはあなたの妻です」
改めて確認するように、ゆるりと宣言する。
「ユラはあなたのことを想い、あなたのことを気づかい、あなたの身を案じております」
小さく首を傾けて、ほころぶように微笑する。
さっきまでの露骨な笑顔とは違う。まるで笑うことを恥じ入るかのような、ささやかな微笑。
「ですから、あなたが傷つけば、わたしも傷つくのです」
「ユラさんも、傷つく……?」
「はい、現に怪我が伝染するわけではありません。血が流れ出るわけでもありません。けれど心が痛みます。大切なものが傷つくことは、悲しくて苦しいんです」
心の痛み。
傷の痛みや呼吸の苦しさではない苦痛。
それは、アガトには良くわからない感覚だった。
理屈としてはわかっている。
親しい者の死に涙する人々や、傷ついた仲間のために苦しむ者たちも多く見てきた。
ただ、アガト自身がそういう感情の揺れを体感したことはない。
そうだ。
アガトはかつて、大切な友人の涙を見た時にも、何も感じなかった。
嘆き悲しみ、
アガトはこれまで生きてきた中で、心が痛んだことがない。
(いや…………)
身体の苦痛ではない心の疼きを、彼は確かに抱いたことがあるような気がした。それもごく最近のこと。誰かが嘆いている姿が、何だかとても堪え難くて────。
「アガトさん」
呼び掛けてきたユラの声に、アガトの追想は中断された。
「どうか、もっと御自愛くださいますよう」
アガトを見つめる瞳。
この部屋で向き合ってから、そこにはずっと黒いゆらぎがある。
つまり、今も、彼女は嘘をついている。
果たして、どこからどこまでが嘘なのか、それとも、全てが偽りであるのか?
わからない。
わからないが、アガトにとってはそれら言動の真偽よりも、綺麗な蒼い瞳が黒く濁っているという、そのことが残念だった。
彼女には偽りなく笑っていて欲しい。
その美しい瞳を、曇らせないでいて欲しい。
そう思いながら、アガトは脱ぎ捨てていたサーコートに手を伸ばす。その内ポケットから取り出したのは白い花の髪飾り。十枚ほどの柳葉形の花弁で象られた、シンプルだが精緻な意匠の彫金細工。
〝……花束とか装飾品とか、女性への贈り物としてはその辺が定番よね……〟
そんなマシロの助言に従い、騎士団本部からの帰りに購入してきたものだ。
手にしたそれを、ユラの髪に挿す。
思った通り、白い花の色彩は、彼女の黒髪をより綺麗に映えさせた。
当のユラはキョトンと呆気に取られつつ、髪に咲いた花飾りにゆるりと触れた。
「あの……これは?」
「いや、ここしばらくのお礼と、今回のお詫び……かな」
正直な返答。正直すぎて色々と問題のあるそれに、ユラは脱力した溜め息をこぼす。
「物で機嫌を取ろうとか……わたしも、ずいぶんと安く見られたものですね」
「いや、そういうつもりでは……」
否定しようとして、だが、アガトは口ごもる。
彼はユラに笑顔になって欲しかった。それは機嫌を取りたかったということで、ならば、結局は同じことだと思ったのだ。
「ふふ、冗談ですよ。愛する旦那様がくださったものが、嬉しくない妻がおりましょうか。ありがとうございます、アガトさん。大切にしますね」
そう言って、華やぐように微笑んだユラ。
だが、その双眸には黒い炎が揺れている。
「……オレが傷つくとユラさんが苦しむのは、オレを愛しているからなのか?」
「はい、あなたを愛しているからです」
ドス黒く濁った瞳のままで、彼女は可憐に頷いた。
アガトを愛してはいない。贈り物も嬉しくない。
けれど、寄り添い尽くしたいという想いに嘘はない。
本当に、わけがわからなかった。
一週間前、初めてこの部屋で目覚めたアガトに、彼女が突きつけてきた交換条件。
秘密を公言しない代わりに、彼女を妻にすること。
アガトはその条件を受け入れた。
受け入れるしかなかった……というわけではない。他にもやりようはあったろう。最悪の場合、口封じに始末することだって考えたし、最初はそのつもりだった。仮にグレンに次第を報告すれば、
だが、彼女は条件を呑めば決して口外しない。それが嘘ではないのは確かだった。
アガトは必要なら相手を殺すことをためらわない。
だが、必要のない殺しはしたくない。
無益な殺生は騎士道に反する。
だから、結婚するだけで良いなら、それで構わないと思った。
アガトは改めてユラを見る。いつもアガトを真っ直ぐに見つめてくる、彼女の蒼い瞳。
アガトはその色彩を見ていると、蒼天を見上げた時と同じく、心が揺れる。そんな綺麗な瞳をした彼女を、殺したくない。
理由はわからないけれど、そう思うのだった。
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