第10話 あなたとわたしの境界線


               ※


 アガト・ルゥ・ヴェスパーダは、悪魔の騎士〝クルースニク〟である。

 影に忍び、闇に生き、歴史の裏で王国の敵を狩る暗殺者。

 そんな彼にとっての日常は、息を潜め殺意を研ぎ澄まして敵を討つこと。すなわち〝暗闘〟の日々であった。常に意識を張り詰め、警戒を解くことは赦されない。彼が完全に意識を閉ざすのは、役目を終えて〝棺〟の中で眠りについている間だけだ。


 だからアガトは、今朝も近づいてくる気配を察知して目を開けた。


 廊下を歩いてくる気配。

 この一週間で慣れ親しんだ気配。

 アガトがいつものようにゆるりとベッドから身を起せば、同じくいつものように扉が軽くノックされた。


「どうぞ」


 アガトの返事に応じて、静とした足取りで入室してきた黒髪黒衣の少女。


「おはようございます、アガトさん」

「……おはよう、ユラさん」


 アガトが応じれば、ニッコリと微笑み返してくる蒼い瞳。

 出会った初日の、あの冷ややかさは何だったのかという穏やかさだが、この一週間、彼女の様子はずっとこんな甘やかなものだ。


(……いや、甘やかなだけってわけでも、ないんだけど……)


 回想に苦笑うアガトの傍ら、彼女はいつものように朝食を乗せたカートを押してくると、ベッド上に簡易テーブルを備え、テキパキと朝食の配膳をしてくれる。


「お身体の加減はどうですか?」

「だいぶ良くなってると思う」


 任務で負傷し、死に掛けたところをユラに助けられてから、今日までの一週間。怪我でロクに動けないアガトのために、彼女は本当に甲斐甲斐しく世話を焼いてくれていた。

 負傷の手当てを始め、紋章官としての業務の手引きや身の回りの雑事、果てはグレンへの連絡の取り次ぎまで引き受けてくれている。


「ユラさん」

「はい、何ですかアガトさん」


 アガトが呼び掛ければ、ユラはやわらかに微笑み返してくれる。

 本当に、初日のトゲトゲしい彼女とはまるで別人だ。

 何にせよ、恩人には深く感謝をするのが道理である。だから、その道理ゆえに、アガトは一礼して感謝を告げた。


「オレが生きているのは、ユラさんのおかげだ。ありがとう」

「いいえ、妻として、夫の負傷を労るのは当然のことです」


 微笑む蒼い瞳に黒い揺らぎはない。

 彼女にとって〝妻は夫に尽くすもの〟という言に嘘はないようだ。

 ならば、アガトも笑みを返した。


 そして、いつものように食事を終え、いつものようにユラが傷の手当てをしてくれる。

 ユラは医術、特に薬学の心得があるらしく、手ずから調合してくれた膏薬や飲み薬は、アガトの回復を大いに助けてくれていた。聞けば、彼女の兄は薬師くすしであったという。


「歳の離れた兄だったので、半ば親代わりでもありました。両親は、わたしが物心つく前に他界してしまったので」

「じゃあ、そのお兄さんに調合を教わったのか?」

「いいえ、兄もすでにおりません。八年ほど前に殺されました」

「殺された……」

「ええ、昔から要領の悪い人だったのですが、よりによってわたしの誕生日に……。その日は早く帰ってお祝いしてくれると約束していたのに、一向に仕事から戻ってこなくて……。痺れを切らしたわたしが職場に乗り込んでみれば、同僚の方々とそろって首をバッサリです。……ねえ? ヒドい話でしょう?」


 ユラの口調はどこか茶化すように、けれど、浮かべた笑みは力無い。

 その寂しげな微笑に、アガトは頷いて返す。


「ああ、約束を破るのはヒドいな」


「………………ええ、ヒドい話です」


 ユラの声音が沈み、蒼い瞳が伏し目がちにそらされた。


「ユラさん?」

「……いえ、ともかく、そんなわけなので、薬の知識は兄に教わったわけではありません。兄が残した資料などからの独学です。一時は、わたしも薬師を目指した時もあったのですが……やめました。長じてからわかったのですが、兄は、あまり真っ当な薬師ではなかったようなので……」

「どういう意味だ?」

「お天道様に顔向けできないという意味です。殺害された理由も、その辺りが原因だったのでしょう」


 薬師で犯罪というと、違法な薬物の調合や取り引きだろうか?

 確かに、身内が薬の犯罪に関わっていたのなら、同じ職に就くのは社会的にも弊害があるのかもしれない。

 もちろん、心情的なものもあるのだろうが、そういう心の機微は、アガトにはピンと来ないことだった。


「……でも、ねえ、アガトさん? 兄は、殺されるほど罪深い人だったのでしょうか?」


 微笑を浮かべて、ユラは問い掛ける。


「わたしは優しい兄しか知らない。両親もおらず、頼れる人もおらず、兄はいつもわたしのために必死で、頑張って……本当に不器用で、お人好しな人でした。だから、今でも思うんです。兄は騙されて、悪事の片棒を担がされていたのではないか? 利用されていただけなんじゃないのか? そう思わずにはいられないんです…………ねえ、アガトさんはどう思いますか?」


 そうかれても、アガトには判断しようがない。

 アガトは、ユラの兄を知らない。


「さあ、よくわからないな」


 首をかしげて、そう答えた。

 ユラの笑顔が、微かに揺らいだように見えた気がした。


「……どうであれ、兄が罪を犯したのは事実です。それでも、わたしにとっては大切な家族でした。そんな大切な人を失った日の悲しみは、今でも忘れられません」


 ユラの瞳が、真っ直ぐにアガトを見つめて告げる。

 そんなものなのだろうか……と、アガトは再び首をかしげた。

 例えミラにとって害となる者であっても、家族や友人などの関わりある個人からすれば、その死は悲しいものなのか……。

 家族の居ないアガトには、やはり、つかみかねる感覚だった。


(……いや、家族はできたんだった)


 目の前に居るユラ。アガトの妻となった少女。

 妻である彼女が死んだら、アガトも悲しむのだろうか?

 少なくとも、彼女の蒼い瞳を見れなくなるのはイヤだと思ったが、それが悲しみの感情なのかは、やっぱりわからなかった。


 そうこうしている内に、手当てを終えたユラが微笑み頷いた。


「お待たせしました。経過は、だいぶ良いみたいですね」


 ギョロ眼の男との戦闘で負った負傷。背中の傷はもう完治しているが、問題は左脇腹の深い刺し傷。縫い合わせた傷は塞がりきっておらず、痛みも残っている。

 一週間も経って、まだ癒えきっていない。

 かつてのアガトであれば、考えられないことだ。

 それでも、あの深手が一週間でここまで癒えているのだから、未だ人間離れしているのは事実。


 悪魔の騎士。


 その異称は、伊達や酔狂で呼ばわったものではない。


「まだ、寝てなくちゃダメか?」


 そんな悪魔の騎士に、いかにもおそるおそる問い掛けられ、ユラは困った顔で苦笑った。


「本当に、しょうがない旦那様ですね……。ですが、あまり寝たきりなのも良くありませんし……そうですね、少しでしたら大丈夫でしょう」


 渋々ながらもそう許可を出してくれた。

 実際、いつまでも寝込んではいられない。紋章官候補としても、クルースニクとしてもだ。そもそもアガトは騎士として叙任されてからこちら、まだ騎士団本部に顔を出してすらいないのだ。


 一応、あれから新たな事件は起きていないようだが、取り逃したギョロ眼の行方も気掛かりだ。失態の謝罪や報告など、直接グレンに会って話すべきことも色々とある。


 ひとまず、今日はグレンを訪ねてみるか……と、気概を込めるアガトに、ユラが念を押すように言い聞かせてくる。


「くれぐれも、オイタはなさらないでくださいね」

「わかっている」


 真剣に頷きながらも、早速にベッドから下りるアガト。

 その忙しない様子に、ユラは微妙な笑顔で小首をかしげたのだった。


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