第7話 悪魔の最期を看取りし者は


 絶叫を上げたギョロ眼の男は、そのまま錯乱したように身をひるがえして駆け出した。


「待て」


 アガトもすぐに後を追う。

 しかし、打ちつけた全身が、斬り裂かれた背中が、何よりも抉られた脇腹が激しく疼いている。押さえた手の隙間からドクドクとあふれている紅い熱に、そのまま四肢がフラついた。


 周囲の建物から喧騒が届く。

 荒事の気配に、近所の者が顔を出したのか?

 アガトは四肢に力を振り絞って、手近な路地に駆け込んだ。とにかく物陰から物陰へと、身を隠しながら移動する。

 ギョロ眼の姿はもうどこにも見当たらない。

 逃げ足の速い……否、そもそもアガトがまともに走れていないのだ。

 気をゆるめれば沈みそうになる意識を奮い立て、踏み出す足に全力を込める。


「……取り逃がしたのか? ……さすがに、失態が過ぎるな」


 自嘲の呻きで痛みをねじ伏せながら、ともかく進む。

 出血は一向に治まる様子がない。

 失血と痛みで発熱し、意識も霞んできている。


「……傷の再生が遅い……もう、そんなに衰えているのか……」


 思えば、こんな深手を負うのは久方ぶりだった。

 グレンの懸念通りに限界が近いのか? だとしても、こんなところで行き倒れてしまうのはマズい。


「……せめて、どこか人目を避けた場所に……」


 激痛をねじ伏せ、意識を研ぎ澄ます。


 けれど、あまりに血を流し過ぎていた。


 全身を重い倦怠けんたい感と寒気が襲っている。


 四肢の感覚はもうなかった。


 視界もボヤけている。


 ここはどの辺りだろうかと考えた。


 もう随分と走ったはずだ。


 いや、走っているか?


 歩いていたような気もする。


 そもそも、進んでいただろうか?


 わからなかった。


 アガトには、もう自分の足が進んでいるのかどうかもわからない。


 グラリと世界が揺れた。

 自分の身体が傾いているのだと認識できなかった。

 左半身が硬い何かにぶつかった感覚で、ようやく理解する。だが、それが壁なのか地面なのかは判断つかなかった。

 こぼれた吐息は深く力無く、何より、凍てつくように冷たかった。

 自分の中から熱が消えている。生命力が枯渇しているのだと感じた。


「……ああ、死ぬのか……」


 ぼんやりと、アガトは理解した。

 死ぬんだろう。たぶん、このまま野垂れ死ぬのだ。


「……まあ、死ぬなら……それで、仕方ない……」


 そうだ。仕方ない。

 だから受け入れた。

 生きている者は死ぬ。

 あっけなく死ぬ。


 彼はそれを散々に見てきた。

 否、その手で死をバラまいてきた。


 悪魔の騎士〝クルースニク〟の名のもとに、この国のため、この国に仇為す敵の命を、いくつもいくつも数え切れないほどに、この手で刈り取ってきたのだ。


 その果てに、今度は自分の命が終わるというだけ。


 ただ、それだけのことだと思った。


 感慨はない。

 後悔もない。

 焦りも悲しみも何もない。


 黒い太陽はミラの守護者。

 この国を守る。ただ、そのための機能。


 彼はそのためだけに生きてきた。そうあることが全てで、だから、こうしてそれが終わりを迎えたのならば……。


 ただ、その終わりを受け入れて、朽ち果てるだけのことだと、そう思ったのだ。


「……死ぬのが、怖くないのですか?」


 ふと、静かな声が、どこからか降ってくる。

 静かで綺麗な、どこかで聞いたその声に、アガトはゆるりと頷いた。

 死ぬのが怖くないのか?

 そんな問いの答えは、歴然だったからだ。


「……怖くない……」


 アガトは薄れかけた意識の中、それでもハッキリと断言する。


「……死ぬのは別に、怖くない……生きていても、何もない……だから、死んでも何も……変わらない……」


 顔を上げれば、ぼやけた視界に映る綺麗な姿があった。

 綺麗な、とても美しい誰か。


(何だ……? 天使でも迎えにきてくれたのか……?)


 神はあらゆる者の罪を赦し、天に召してくれるというのは、本当だったのか?

 だが、それにしては、この御使みつかいの姿は、闇に馴染なじんでいる。

 黒い髪、黒い衣服、蒼白い死人のごとき肌。

 それは天使というよりも、どちらかといえば、悪魔のように思えた。


(……ああ、そうか、それはそうだよな……)


 アガトの死際に、天使が舞い降りるわけがない。

 悪魔の最期を看取るのは、同じく悪魔に違いない。


「……死ぬのが、辛くないのですか?」


 美しい悪魔が、美しい声で問うてくる。


「……別に……ただ、オレの命が……終わるだけだから……」


 今まで彼が終わらせてきた命と同じく、今度は彼が終わるだけだから。


「……ああ、そうか……と、そう思うだけのことだ……」


 眼前にたたずむ美しい闇が、微かに息を呑んだ。


「……あなたは……」


 綺麗な声が、綺麗なままに、暗く濁る。


「……あなたは、なぜ、死ぬのですか……?」


 感情に濁った声。

 憤怒と憎悪、嫌悪と侮蔑ぶべつ、そして激しい憤懣ふんまん焦燥しょうそう、そんな暗く黒い感情に濁り果てた問い。


 なぜ死ぬのか?

 この〝死〟に、どんな意味があるのか?

 そんなことは……。


「……さあ、よくわからないな……」


 生きている意味もわからない幽霊のような彼だから、死ぬ意味なんてわかるわけがない。


 守りし者になれと言われた。

 そのためだけに、生きてきた。

 だから、国を守る騎士として振る舞い続けた。

 それだけだ。

 そこにはアガトの意思も、望みも、何もない。

 うつろに始まり、虚ろにさまよい、虚ろに終わる。

 ただ、それだけのこと……。


(……けど、そうだな。アイツとの約束を果たせないのは……残念なのかな……)


 蒼天の下で交わした、あの約束────。


 溜め息と共に見上げたのは、真逆なまでに暗く沈んだ夜の闇。その夜影の中で、たたずむ人影が低く吼えた。

 低く、暗く、深い怒りに震えた声が夜闇に滲む。


「ふざけるな……ッ、そんな最後は、ゆるさない……」


 人影が、アガトの胸ぐらを締め上げた。

 白く美しいかおが、間近からアガトを睨みつけてくる。

 憤怒を込めて、憎悪を込めて、嫌悪と侮蔑と敵意と殺意と、あらゆる黒い感情を渦巻かせながら、それでもなお、その姿は美しく、声音は濁りながらも凜と響き渡った。


「死は恐ろしいんです! 死は苦しいんです! 辛くて、痛くて、耐え難いものなんです! それなのに、あなたは……!」


 熱い雫が、アガトの頬を濡らした。

 蒼い瞳からこぼれ落ちた、熱い、とても熱い雫。

 眼前の悪魔がこぼした、涙の雫。


「あなたは死に怯えるべきだ! 死をいとうべきだ! 死に苦しみ、嘆き、もがき、のたうち回ったその果てに己の罪悪を思い知り、後悔にさいなまれながら息絶えるべきだ! それを……!」


 美しき黒髪の悪魔は、死に逝く白髪の悪魔を、睨みつけて糾弾する。



「悪魔のくせに安らかに逝くなんて、わたしは、絶対に赦さないッ!!!」



 赦さない。赦すわけにはいかない。

 罪深い者が、罪を償うことなく召されるのは赦されない。

 絶対に赦してやるものかと、澄み渡る蒼い瞳が断罪を叫ぶ。


 アガトにはわからない感情。

 覚えのない衝動。

 何かが赦せず、何かを憎み、果たせぬ何かに嘆き悲しむ。

 アガトにはわからない。

 わからないけれど……。


 その蒼い瞳が涙に濡れているのは、何だかとても、堪え難かった。


 目の前で苦しみ嘆く悪魔は、本当に悲しそうだったから……。


 悪魔ですらもこれほどに悲しませているアガトは、真に赦し難い最悪の悪魔なのだろう。なら、その罪を償わずに逝くことは、確かに赦されるべきではない。


 けれど、ならば、どうすれば償うことができるのか?


 この美しい悪魔の悲しみは、どうすれば消してやれるのか?


 虚ろでカラッぽな心で懸命に考えながら、アガトの意識は、ゆっくりと暗闇に落ちていった。


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