マッチ売りの少女
前 陽子
マッチ売りの少女
■第1章
俺は……。
昔……。
って云ってもよー、七、八年くらい前の話だけどよーお。
親父と船に乗っていたんだっぺよっ。
親父は爺ちゃんから稼業を継いで、クソ、が付くくらい真面目な
親父だったから、どんどん船が大きくなってなあ、そりゃあ、金回
りのいいウチだったっぺよー。
俺で七代目になるって言ってたかなあ。
男は酒を呑みながら話を始めた。
長い話になる。
俺は修行だからってよー、マグロの遠洋漁業に出されて一年近く
帰って来なかったときがあってよー。
……あんときはまだ若かったし、なんも分からんかったからシンド
イはシンドイ仕事だったけど、まあ、頑張ったわけよー。
親父は大学に行きたかったくらい頭のいい奴でさあ、地元でもイ
ンテリ漁師って云われてて、……喧嘩の仲裁や離婚相談、遺産相続
のやり方なんか手解きしてたから浜の番長でな。
番長ったって、あれ、野球の……、横浜じゃあないっぺよー。
ハハハハハ。
親父の紹介で船乗ったとなりゃあ、カシラも俺にはまあ、甘かっ
ていうのもあったかも知んねえなあ。乗ってるときはそりゃあ大変っ
つうか、船の上じゃ、やることいっぺえあんのよー。マグロ獲れたら
直ぐに冷凍しなきゃなんないからよー。まるで船が工場みたいで、広
いし歩くし、迷子になるくらいよー。
でかい船でも海が荒れるとな、俺でも最初は気持ち悪くなったも
んよー。そんでも、カシラが一番風呂に入るときにはなあ、
「おい、キヨシ、一緒に入るべえ」って、一番風呂に入れてもらっ
たっけよー。組員には、
「新人に教えてやっから一緒に入るだけだべさー」
って言ってたけど、漁の話なんか一度もしたことなかったっぺなあ。
カシラが生まれた青森の話やら、俺の親父との昔話なんかをよー、
……俺は、カシラの背中流しながら聴いてたよー。
……そうよ。
そうそう、背中には鯨の入れ墨があってなあ、肩から腕にかけて
は波の模様がびっしりでよー、おったまげよー。
お前の親父は決して挿れなかったって……、云ってた。
俺んちのところの漁師はよー、昔はみんな挿れてたんだあ。
土左衛門になってシャコとかカニに喰われちまってもよー、軀の
一部でも出てくりゃ、墨でそいつかどうか判るっていうんで彫った
んだとよー。
地元のスナックで作ったカレンダーがあってよー、全身入れ墨の
男衆がふんどしいっちょで、十二枚、……前向きと後で、ひとりづ
つ立っていたっけよー。
上手いこと札(花札)の柄になっててよー、笑えるっぺー。
親父はまっさらだったからなあ。
でも、そういえば、ひいじいちゃんは挿れてあったなあ。
長生きしてたから、……子どもの頃だったけど、……薄くなって
たしヨレヨレだったから、皺なんだか模様なんだか分からなかった
っぺよー。ウワッハッハッ。
爺さまは女の人だった。
……うーん、なんだっけよー。
……あー、そうそう弁天さまかー。
『弁天の浩一』って呼ばれてたっけよー。
港に帰ってくると、カシラが「キヨシは生まれつきの漁師だ。才
覚がある」なんてオベッカ言うもんだからよー、そのあと直ぐに親
父の船の二番頭になったんだっぺよっ。
ウチにはちっちゃい船が四隻、……そいつは定置網用でなあ、朝
早く沖に行って仕掛けておいた網を引っ張って来んのよー。それは
ウチの浜のモンにやらせてなあ。大きい船は親父が魚群タンチ観な
がら遠いとこまで行くのよー。まあ、一泊二日ってとこかなあ。
八丈島の先まで行ってたときもあったっけなあ。
三宅くらいは二日おきくらいよ。
ところがよー、何年もしないうちによーお、俺の船も造ってくれ
っから、親父の船と二隻で行ってたんだっぺっ。
……俺は責任重大、って感じで気が重かったんだけどよー。
……魚が撮れなくなってきてたからなあ、頑張ったぺよっ。遠出し
ないと採算が合わないんだっぺよっ。
……海も変わっちまったよなあ。
定置はよー、地元のスーパーとかオカズ用みてえなもんでなあ。
昔はよー、定置にもマグロだってハマチだってハマってたときが
あったんだけどよっ。
……ホント、海は変わっちまったよー。
オカズはなあ、仲間の取り分で、雑魚含めて分け前を貰うんだあ。
それが旨いんだっぺよー。
俺は、雑魚がイッチャン(一番)好きだよーお。
キヨシは息つく暇もなく、喋りながら、少し突っかかると、
……酒を口に運ぶ。そして、ゴクンと響くと同時に喉仏が上下する
と、再びのべつ幕なしに話し出す。
話の中味に脚本も意図もなかった。
ときどき口にするタバコは、灰皿で死骸になっている。
長い話はまだ続く。
俺は潜りも得意だったからよー。
アワビやサザエなんかもやってたんだっぺよっ。
アワビったって、ミケ、なんてみみっちいのは近所にくれてやる
んだ。クロアワビは高値で売れるし、味も全然違うからねえ。
まっ、東京から遊びに来る奴は、ミケ出しても、旨い旨いってさ
っ、……ホント、都会のヤツは旨いもんを知らんよなあ。
おいおい、潜りは海女だけじゃないんだっぺよー。海士は女より
深く潜るからよー、車海老だって伊勢海老だっておてなもんよー。
夏場はアンマ、めぼしい魚は獲れねえから、俺だけ潜るの許され
てたんだっぺよー。
……潜りは、オヤジもやってたんだとよっ。潜水夫ってえの?
あのゴッツイ重いの着てよー、アクアラインの土台やってたんだ
ってー、おったまげよー。
だからかどうかは知んねえけど、親父は耳が片方いかれちまって
てなあ。声がデカいのなんのって、……そうでなくてもデカイのに
よー。母さんも元っからデカイのに、つられてデカくなっちまうか
らよー、ふたりで喋ってんとテレビなんか聴こえないんだっぺよー。
ウチはウルサイ、ウルサイ。ウルサイのなんのって……。
「なんでも聴こえてくんぞー。内緒話なんかできないっぺよー」っ
て近所からも云われてたもんだあ。
「今月やりくり大丈夫かあ?」って、……ハハハハハ、マジ、なん
でも聴こえてたんだっぺなあ。
なんで潜水夫なんかしてたかは、最近知ったんだけどなあ。
親父、……やっぱ若いときはよー、漁師なんかやりたくなかった
みたいなんだよなあ。東京へも出て来てみたかったんだろうと思う
よなあ、学校行きたかったのかもしんねえなあ。
……若いときは、まっ、そんなもんよ。
だから俺にはナニも云わないっぺよー。
……言えねえかあ。
ハハハハハ。
大きな声で笑いながらそう言うと、キヨシは大将の頭だけをやた
らと照らす逆三角形の蛍光灯を見詰めた。
二本の蛍光灯は色が違う。
手前は蒼白く奥は橙色で、橙色の明かりは大将の白髪のてっぺん
を金色に染めていた。
アンバランスな光の調合は、
……どこで狂っちまったのか。
……なにやってきたんだろうか、今まで。
……どうして、今、俺はこんなことをやってるのだろうか。
と思い巡らせる。
タバコの煙が青と橙色の混合に溶け込み、一層複雑な色になると、
暗がりの舞台で絶望の淵に悩むひとり演者のように、キヨシの顔に
影を創った。
照射角度が異なる光の向きは、
……母さんはどうしているだろう。
……親父は何を考えていただろうか。
……俺はなんとひねくれもんなのか、と責め立てる。
青と橙色の対照的な光は、逆三角形の前方後方と照らす向きが異
なり、家にも親にも背を向けた自分に似ているような気がした。
キヨシは猪口を鷲掴みにすると、首をグイッと後ろにそり返し、
その反動で口の中に放り込む。飲み干した猪口をカウンターに置く
や否や、銚子を握り締めた隣の女がすぐさま酒を注ぐ。
カウンターは黒光りしていた。
客の、幾つもの袖が、さぞかしいい雑巾になったことだろう。
肘をつくたびに、キヨシはいつもそう思う。
ところどころに煙草の燃え跡があり、抉られてでこぼこしていた。
窪んだ凹みは蒼白い明かりが反射して水が溜まって見える。黒くテ
カるカウンターには重厚感があり、一枚板の逸品物だと判る。
使い込んだ味とでも言うのだろうか、刻の経過とその質感は、優
しく肘を、――肘から伝わる丸みは温かさを、ーーだから、酒も料
理も旨く感じさせる、とキヨシは思っている。
「ウチのカウンターは黒檀の一枚板よー、三桁はくだらないシロモ
ンだあ」
大将が自慢するカウンターは、なんでも銀座の割烹で使っていた
高価な代物だそうだ。修行時代の先輩が一念発起で独立し、高級路
線で開業した店で誂えたものだった。しかし、五、六年後だったか、
宝くじの高額が当選すると、閉店の挨拶もしないであっさりとやめ
てしまったという。
「あんなに料理に厳しかった先輩が、すんなりポイってやめられる
もんなのかなあ。水商売は厳しいもんがあるけどねえ。実情は経営
も苦しかったんだろうけどさあ、それはどこもおんなじなんだけど
ねっ。……やっぱ金が入るとラクしちゃうのかねえ」
大将から聴いたことがあった。
大将は、あまり昔の話をしなかった。
大将は料理には一切手を抜かず、味にも深いこだわりがあった。
が、大将のこだわりには良く分からないことがある。
大将のこだわりたい気持ちは分かるが、場所といい店構えといい、
この店にそんなにいい一枚板の良し悪しが分かる客が来る筈もなく、
タバコで焦げ跡を作るような客層には不釣り合いだと、キヨシは思
っている。良く言えば一点豪華主義だが、長屋造りの居抜きの店に
は、カウンターだけが目立って浮いていた。それでも、器もその廃
業した銀座の店から譲って貰ったそうで、カウンター上の料理だけ
を見れば、……高級料亭に見えるかもしれない。
そこんところが、大将のこだわりなんだと、キヨシは納得してい
た。しかし、大将のこだわりは確かに料理の腕にも表れていたが、
……例えば競馬の予想もパチンコ台を選ぶのも、随分と変わったこ
だわりというのか、クセなのか、……なにしろゾロ目が好きだった。
昭和22年2月22日生まれが、そうさせていたのかもしれない、とキヨ
シは思っているが、それにしても、そこまでゾロ目で生まれてきたと
なれば、最もなことだろうと合点していた。
だからか、毎月11日、22日は酒類が半額で、……1月1日にはお年玉
が貰え、2月2日はお通しが二品、3月3日は女性半額デイ、 4月4日は、
理由はよく分からないがLGBTのLとBを抜いた日、……ゾロ目の日
は営業努力なのか、こだわりなのか、さまざまなサービスを展開した。
女性の日には珍しく女連れでやって来る客もいたが、大概は男だけで
埋まる店だった。この辺はゲイやオカマも多いところで、4月4日でなく
ても普通に来ていたから、いつからか4月4日は第二の老人の日になった。
「敬老の日」ではなく「尊老の日」と命名し、タコの桜煮、――京都の
老舗かなんかで出す大層な料理をこしらえた。軟らかく煮付けたタコは
老人でもすんなり食べられた。――高齢者は多かった。
競馬もゾロ目も好きな大将は、ゾロ目で当たった馬券を持参すれば芋焼
酎のボトルを無料にし、ゾロ目生まれの客には誕生日ケーキならぬ、デカ
どら焼きを作った。
10月10日は、あんこからおはぎを作った。
大将は和菓子を作るのも得意だった。
「呑み屋におはぎかよー」来る客はそう言いながらも、美味い美味いと言っ
て平げた。
2月22日は大将の誕生日だったがお祝いはせずに、お通し二品に、酒は半
額で、
「一等当たったら、今日来たモンで分けるからな」そう言って、宝ク
ジ五枚づつをくれていた。
大将は、あまり自分の話はしなかった。
だから、大将の誕生日を知る者は少ない。
キヨシもそういう性分だったので気が合った。
キヨシと大将とは、かれこれ八年の付き合いになる。
差しつ差されつ杯を傾けては零し、酔っ払った手酌で溢れさせては零し、
……このカウンターは、震える指先からどれだけの酒を飲まされたことだろうか、とキヨシは思う。
黒びかりのカウンターを改めて見ると、酒を呑みながらアンパンを頬張る親
父の顔が浮かぶ。
親父は、ひいじいちゃんの時代から使い込んでいた漆のテーブルを乾拭きす
るのが日課だった。乾拭きすると、自分で捌いた鰹の刺身で晩酌をする。決ま
った量を終えると、飯は食べずに水羊羹やカリントウを食べた。
なにしろアンコもんと酒が好きだった。
テーブルに映った親父の顔は、漆のテカった木目とちょうど目頭が重なり、
目玉から火が吹き出しているように見えた。
まるでウルトラマンのビームだ。
キヨシはクスッと笑う。
酒で湿ったカウンターの木目は、芯まで浸透し、布巾で拭いてもしっとりし
ていた。
キヨシは浮かび上がる木目の輪っかを指でなぞりながら、話を続ける。
……俺は高校中退。
学校の勉強は嫌いだった。特にテストはなあ。だって、あれって、暗記
だっぺー。
海に暗記は要らないからよー。
天気だって風向きだって、……海の下なんかよー、いくら経験があったっ
て狂うんだあ、ヨミがよー。
海面が穏やかでもなあ、黒潮の流れが目で見えるみてえに速いんだっぺよ
ー。潜ってても錘つけてねえとなあ、どんどん流れに持ってかれるんだっぺ
やー。実際なあ、船から観ると黒い大っきいドラム缶がよー、ゴロンゴロン
音を立てるように何百本も流れていくんだよー。マジ、黒潮って言ったもん
だっぺよー。
海水浴で何人も流されちまうもんだから、ロープ張るようになったけどなあ、……まっ、俺サマはへっちゃらだったけどなあ。
潮も毎日変わるんだよー。
さすがに親父の言うことは当たるっていうか、……キハダが来るぞーって
云えば、マジ、マグロが来るんだっぺよー。
潮の蛇行の内と外じゃあ、魚種も違ってなあ。下も上も違うんだっぺやっ。
イワシとかトビなんかは上の方で、キンメは下の下の底なんだ。
親父は空も解っててなあ、カンカンにおテントさん照ってるっていうのに、
雨が降るぞー、って云えばちゃんと降ってくんのよ―。
スッゴイよなあ。天気予報より当たっからなあ。
……そんでも一〇〇パー(セント)じゃないからよー。
キヨシはピッチが速い。
隣の女は、右手でビールのグラスを口に運びながら、左手で銚子を握り待ち
構えている。キヨシが首を斜めにすると、左手に力が入る。カウンターに猪口
が着地するかしないか、間髪入れずにそそぐ。
その間にキヨシがタバコを口にくわえると、ビール瓶の横にスタンバイして
いるライターで火をつける。その右手は、そのまま女のタバコにも火をつける。
その一連が幾度と繰り返していた。
母さんはよー、キヨシはお父さん似だから、頭はいいはずだから、高校卒業
して大学行って好きなことしろ、って言ってたんだけどよー。
……好きなことって、
……やっぱ海だから、
……海洋大学にでも行ってみようかとも思ったんだけどよー。
頭いいから博士かあ?
新種の『さかなクン』かあ? ってなわけないっぺよー。
ウワッハッハッ、ヒヒヒヒヒ。
女は一緒に笑った。
コンロに向かう料理中の大将の背中も震えていた。
世界中の海を周る船にでも乗りたかったもんだよー。タンカーとか貨物じゃなくてよー。やっぱ、魚を獲りたかったなあ。
……今は、そういう船ないんだっぺよー。
……協定とかできちゃってなあ。
それかあ、養殖かなあ?
海の資源は、ホント無くなちゃって来てっからなあ。
アジもサンマも、イカも……、ホント獲れないんだっぺやあ。
ブリとかマグロとか流行ってるもんじゃなくてよー、新しい魚種を開発してみたかったなあ。
難しいかあ。
でもよー、なんせテストがダメだったからよー、二年の終わりに諦めたんだ。受験勉強なんか、まるっきし暗記だかんなっ。
……その年に遠洋に出たわけよー。
センコウはよー、自分が家まで教えに行くから頑張れ、お前なら出来る、って、ハッパかけたけどもよー。
俺にだって、得意不得意ってモンがあるしよー。
親父からはいろんなモン教えて貰ったけれど、英語なんてサッパよー。だいた
い日本人の漁師に英語なんて要らないっぺよー。
漁師はよー、代々漁師のうちだから教えて貰わなくても大体は分かるしよー。料理だって、特に魚料理はほとんどできたしなあ。
……なめろう、好きかあ?
俺んちのなめろうはよー、鯵とかトビ、もしくは半々で叩くんだけどなあ。生姜、長葱、青紫蘇、……アオトウ(青唐辛子)を入れると旨いんだあ。味噌と一緒に叩くんだけどなあ。
ウッまいぞー。
俺は、『ケイコ』のほうが好きだけどなっ。
女の名前じゃないっぺよー。
めぐむ子チャンじゃないっぺよー。
アワビの殻に叩いたヤツを敷いてよ、そこに青紫蘇乗っけて焼くんだっぺよー。中はほんのり生でよー、……それが、ケイコ!
キヨシはひとり合点に相手の顔色も伺わず、自分の話だけを、思いつくまま
順番なども気にせずに、熱燗を口に含んでは白い息を吐きながら話す。
「っぺよー」は、外房特有の言いまわしだ。
〇〇でよー、〇〇さあ、言葉尻は頭のてっぺんに上擦るように震える。まるでギャルが話しているようなイントネーションだった。
ギャルならまだしも、キヨシの育った浜ではイカツイおじさんもシワクチャのお婆ちゃんもギャル語を話した。
初めて聴くとヤンキー集団なのかと思うかも知れないが、聞き慣れてくると随分可愛らしい。
大きな「っぺよー」は静かな店に響き渡っていた。
石油ストーブが一台、入り口に置かれ、カウンター九席だけの愛想の無い大将の店は、キヨシともうひとりの二人だけだった。
普段なら肘がぶつかリ合うほどに補助椅子を出して、十人以上の満席だった。
超満員になったのは二十二人も集まったときだった。
全員が大将に顔を向け、斜に構えて鳥籠の鳥のように座る。丸椅子にお尻を半分づつ乗っけ、背中の裏からも手が延び、顔が覗く。
まるで二十二羽の文鳥のようだ。
それは、去年のクリスマス・イブの夜だった。
クリスマスなんて柄じゃない奴らばかりだが、世間が騒がしくなる催しゴトがあれば、ケーキやプレゼントを持ち寄りちゃんとやって来て、ゴージャスな馬鹿騒ぎをした。
いつもは無意味に戯れあい、ヒトの頭を撫でまわし、肩を揉んだりハグしたり、男同士で触れ合った。お金を持ってる奴が「これ、食えや」と奢ったり、「大将イレモノちょうだい」――タイムセールで買い込んだ惣菜やつまみのお裾分けが始まった。
気心が知れていて、だけど何処に住んでいるのか、どんな仕事をしているのか、必要以上に深入りはしなかった。
熱燗やら焼酎のお湯割りやらを、酔うためだけに呑みにくる連中からは、身体からほとばしる酒の匂いと体臭が入り混じり、酸素が薄くなった分、温度は上がった。だから、ストーブ一台だけでも寒いと感じたことは無い。
人生の悲哀の逆襲とでもいうのだろうか、無骨で豪傑な奴らには、凍てつく空気でさえ爆発させる熱気があった。たまに度が過ぎてしまったのか、魔が刺したのか、エグい傷を負ってしまい、ぐでんぐでんになると、性根は荒い奴らなのでいきなり豹変することもある。
「表へ出ろ!」と決まってなったが、キヨシはそこを上手いこと仲裁に入った。
表では既に隣の客が始めていたりする。
隣の客さえも、慌ててキヨシを呼びに来た。
気の荒い奴ら自身、心底突っ掛かりたくはないのだ。ここの客同士ならば分かってくれるだろう、という八つ当たりみたいな甘えがあることを、キヨシは持ち合わせの性分で察知していた。
キヨシはこの店では一番の若手だったが、シマを牛耳っているという事実はドスが効いたし、おっちゃん達を立てて話す愛くるしい黒目がちの少年っぽさは、キヨシを人気者にした。
キヨシはこの一帯でも知られた身分だった。
今夜はふたりだけ。
大将は聴き耳を立てる素振りは見せず、厨房の片隅の椅子で、黄色く光った競馬新聞を見ながらタバコを吸っていた。
蒼白い蛍光灯は眩しかった。
「こんばんは冷えるわねえ」目を細めながら女が言うと、
「おっ、俺、ションベン」
キヨシは思い立ったように用を足しに行く。
キヨシが出ていくと、さーっと冷たい空気が迷い込んだ。
冷たい空気は暖気を押し除け、カウンターの上を通り過ぎる。
目で追えるような透明な空気の流れは、煙草の煙を一掃すると、暫く沈黙が続く。
すると、天井からキンッ、キンッと、何かが弾けるような小さな音が聴こえてきた。大将と女は耳を澄ませるように、耳にパラボラの手をかざしながら、同じ動作で蛍光灯を見上げた。透明な空気が辿り着いた、橙色の蛍光灯あたりから「ボワーッ」と唸り声が始まる。
そろそろ橙色の蛍光灯の寿命なのだろうか。
ふたりは同時にそう思ったのだろう。
しばし、黙って橙色の蛍光灯を見詰めていたが、
「まだ、ビールでいいのかい?」大将が間を持て余すように、女に訊ねる。
「そうねえ、じゃあ焼酎のお湯割りをください。梅干し入れてもらえますか」
「あいよっ」大将は厨房から出ると女の背中を通り、石油ストーブのやかんからポットにお湯を入れる。
「芋かい?」
「はい、……濃いめで」
「そうだよなあ。あのピッチじゃあ飲まないとよー。今日はキヨシさん、楽しそうだっぺよー」
「あれ? 言い方移ってるじゃん」
ワハハハハ。
一緒に笑う。
「大将も一緒に飲みましょうよ」
「もう。飲んでるっぺよー」
ワハハハハ。ふたりはまた笑った。
女と大将はグラスをカチンと合わせると、
「よーし、今日は呑むっぺなあ」
「……っぺなあ?」
「そうだっぺかあ?」
ワハハハハ……。二人で照れ隠しに笑っていると、
「なんか楽しそうだっぺよー」キヨシが外の共同便所から戻って来た。
酔いのふらつきと見せかけ女の横に勢いをつけて座り、肩が触れるほどにくっ付いた。
早速、酌をして貰った酒を口に運ぶ。
女は芋焼酎のお湯割りをフーフーしながらひと口飲むと、今度は女が話を始める。
アタイはさあ、山形の雪の多い山ん中で生まれたんだあ。
月山の麓でねえ。裏なんだけんどねえ。
『おしん』って流行った朝ドラあるでしょ、あれには出てこなかったんだやー。おしんさんは有名になったから羨ましかったあ。
銀山温泉も酒田もテレビに出て来る所は全部知ってたけんど、アタイの棲んでた処は、だーれも知らないんだっ。
肘折のもっと奥でねえ、大蔵村っていう三〇〇〇人くらいの村の奥の奥……、ホント、陸の孤島でねえ。一晩で二メーターくらい雪が積もっちゃう。四メーターくらいのときもあったっぺなあ。
新庄から車でしか行けなくってねえ。
そうなったら手紙も食べもんも途絶えちゃうんだじゅー。
新庄のタクシーの運転手さんなんか、雪降ると、
「肘折には行かねえ、自殺しに行くようなもんだあ」って、絶対行かなかったからねえ。
寒河江からも来れるんだけんども、それこそ崖道でねえ。普段だって大変で、冬は完全に封鎖。日本一の悪路って言われてたみたいだじゅー。今も封鎖中かもしんねえなあ。
峠を幾つもいくつも越えると、山の底の、底―に村が見えて来んだじゅ。何度見てもおとぎ話みてえでよ。
山のそのまた山の、奥のその奥の、崖の向こうのそのまた崖のー……、あっ、それじゃあ話が初められねえかあ。
ウヒヒヒヒ。
女は悪戯小僧のように笑った。
焼酎を口にするとキヨシに肘で突かれたようで、話を続ける。
そんでもみんな仲良くてねえ。
大きな雪だるま作ったり、……あー、それは肘折の話だけどもよー。日本一だったんだじゅー。
あれっ? 世界一だったかもしんねえ。あんまり有名になんなかったねえ。そんだけ田舎だったんだっぺなあ。
そこんとこは蕎麦畑でねえ。
夏の終わりになんと、真っ白に、雪とは違う真っ白い絨毯になるんだっぺよ。きっれいだー。
蕎麦も美味いよー。有名な蕎麦屋さんが買いに来るかんねえ。
ばあちゃんの蕎麦は天下一品でねえ、蕎麦餅も蕎麦がきも……。
蕎麦屋はいつも満員で、遠いとっからわざわざ来ていたねえ、お客さん。その蕎麦屋に打ち方教えたのはアタイのひいばあちゃんで、キノコや山菜の場所教えたのはひいじいちゃんだじゅー。
温泉もいっぺえあるしねえ。
アタイは、ムラはすっきだあ。
肘折はねえ、湯量も豊富でねえ。泉質も一メーター掘るところが違うだけで、色も違っちゃうんだじゅー。同じ旅館の玄関側の風呂場と厨房の奥の湯船とじゃあ、色も味も匂いも違うんだべさー。真向かいの共同浴場もまた違う。もちろん効能もだよ。凄いっしょ。だから、その日の気分であっちこっち、って風呂さ入りに行くんだ。
古くから湯治場だったから、毎日朝市があってねえ。
お餅もつきたてで、んまかったよー。
むかしは、冬は、農家の人が長逗留してったっぺさー。
今は、観光客の方が多いんじゃないかな?
でも、襖一枚で鍵が無いみたいな処が多いから、ダメな人はダメみたいでねっ、都会の人はさっ。だいぶ旅館みたいに変えてってるけんどね。
星も綺麗でねえー、掴めるみたいだじゅー。
空気も澄んでてねえ、……天然の炭酸水が沸いてる処があるんだよ。あんま、シュワシュワしてないけど味があって美味しいんだあ。
誰でも飲めるところがあってねっ、……肘折の先の黄金っていう処。アタイのウチはもっとその先。
アタイはムラが好きだったんだけんどねえ……。
女は話しながらときどき天井を見詰める。
橙色の蛍光灯が気にかかるのか、蒼白い光に目を細めるが、その
奥を我慢するように見ていた。
変わらずキヨシのお酌とタバコの火付けの手に休みはなかった。
大将は、空になったお湯割りのお代わりを差し出す。
梅干しは二つになった。
……でも、父ちゃんはいっつも居なかった。出稼ぎでねえ。
こどもの頃は冬場だけだったんだけんど、東京の方が山よりも稼げるからって……。
土方とかやってたんだと思う。建設現場で働いてた。
盆暮には帰って来てたんだけんどねえ。
東京のお土産は嬉しかったあ。お洒落なブラウスに、ヒールの高いリボンの着いた、リカちゃんが履いてたようなサンダルとか買って来てくれたっぺー。
アタイも長女だったし、お父ちゃんの助けもしたかったから、東京へ出てきたの。東京にも行きたかったからなんだけどねえ。
……お父ちゃんは、ずっと頑張っていたんだけどねっ。
……アタイの方が仕送りが多くなるとさ、いっぺんに遊び呆けてねえ。お母ちゃんは最初は呆れてたけんど、そんでも、なんも言わな
くなったし……。
まっ、結局アタイも同じ道になっちゃったのかなあ。
フフフ。
お父ちゃんの気持ちはすっごく分かるよ。責める気も無いしねっ。
アタイたちが弱虫なんだよね、きっと……。
でも、……でも、東京はやっぱ怖いとこだあ。
そう言うと、冷めたお湯割りを一挙に飲み干した。
大将が梅干しを足そうとすると、手で要らない要らないと振って、出来立ての熱いお湯割りを口にする。
女は、母親の話のところで少し涙ぐんだようだった。
顔を覗き込まれないためなのか、寂しくなったのか、銚子を握っていた左手をずらしキヨシの太腿に乗せた。
キヨシの右腿に手のひらを置いたまま、女は話を続ける。
村の原生林を真夜中一人で歩いてたって、怖いと思ったことはなかったけんど、……熊は賢いから自分から逃げていくし、お星さんの光だけで十分明るいし
ねえ。
アケビやらキノコ、……山の恵みは沢山あって美味しいし。
ワラビにコゴミ、ミズにギョウジャニンニク、しどけ……、あー、鍋にしたら、うんまい、んまいっぺー。
満月の夜になんとなあ、シラカンバの幹が銀色に光ってなあ、
……その先の洞窟には白く光るキノコが生えてんだあ。
アタイは夜の散歩が好きだったあ。
なーんも怖くなかったよー。
そうだよ、……トリカブトって知ってるけえ?
人が死んじゃうやつだよ。根っこの部分だけどね。
テレビでも、ときどき人殺しに使ったって、ニュースになるじゃあん。アレも咲いてるんだじゅっ。
アタイが見っけたんだけどね。
先生に言ったら、地元のテレビによく出る有名な学者先生がわざわざやってきてねえ、……本物だ、自生している、自然のものだ、って言ってたよー。
ヒト殺したければ教えてあげるよー。
ウワッハッハッ、ギャヒヒヒヒ。
……あー、帰りてえ。
笑いながらそう言うと、キヨシの右腿から左手を離し、銚子に移すと空なのに気付く。女は、
「大将、熱燗ちょうだーい」勢いよく言った。
今度は、笑い過ぎて濡れた目頭をおしぼりで拭きながら、
「今日は冷っえるねえ」女が言う。
「雪が降るかもなあ。便所は寒かったっぺよーお」
キヨシはとびきり熱い酒をちびりと口に含んだ。
暫く、通しの切り干し大根とひじき煮を噛む音だけの沈黙が続く。
女は、もうアタイの話はいい、アンタの話が聴きたい、という目
配せだけでキヨシを促した。酔いも廻り、濡れた目もとろんとして
いる。
大将が続いて煮込みを女に手渡す。
キヨシの合図ではなく、大将の機転だ。
大将のタイミングはいつもいい。
「客の顔に書いてあるんだとよ、何が欲しいかって」――食べなければお代は取らない。
ほとんどの客は黙って受け取り、食べた分は払っていく。
「ここは暴力飲み屋だから気を付けろよ。頼まないモン、どんどん寄こして来るからな」初めての客に、常連はそんな冗談を良く言う。
アクリルの下敷きに挟まったメニューの品数はまあまあ有るのだが、滲んで見えない箇所が多い。
壁にも黒板にも品書きは無かった。
「毎日仕入れで違っちゃうからね。新鮮なモン、季節のモン、……旨いモン食べて貰いたいじゃない」と言う。大将らしい。
確かにこだわりやの大将の料理は毎日異なり、手の混んだものも多かった。が、当初は黒板に書いてあったはずだ。
ただ面倒くさいだけだっぺよー、とキヨシは思っている。
だが、素材があれば食べたいモノ、味付けの要望、好き嫌い、なんでも作ってくれた。――そこんところは、キヨシの気にいっているところだった。
瓶ビールは入口にあるケースから自分で取って開けるが、だいたいは、入り口横が指定席のガッチャンがビール担当で、お店の人か、と思うぐらい手際よく用意してくれる。
ガッチャンには「まあ、イッパイ」と、みんなコップにお裾分けするから、結局ガッチャンは、ほぼほぼビール代はただ、の勘定だ。
大将は年に二、三度酔っ払うと、その時だけはよく喋るが、普段は客の話の合いの手だけで、いわば聞き上手、って奴だった。
有名料亭で板前をやってた時代があって、こだわりやの上に原価を考え、安い割にいい仕事をする。
自分の過去も自身のことも、語ることはしない無口なタイプだ。
無口になった理由をキヨシは知っていた。
――同じ穴のムジナだ。
キヨシこそムショには入ってはいなかったが、同じ香りがしていた。そーいう奴は大抵隠すことが上手くなって、はなから太い指だから、短い小指に気付いた者はいなかったし、マジマジ見た者もいなかった。
キヨシは女に促されたわけではなく、喋りたくて喋りたくて、……大将が酔っ払ったときの気持ちが妙に分かって、続きでない続きの話を続けた。
親父は八丈島の先までカツオを追いかけ、台風の進路が急に変わり、その前線が発達した荒海で遭難する。年々、海の資源は減少し、海の表層も変わった。更に東日本大地震直後は海の中の景色もすっかり変わり果てたという。それよりも何よりも風評被害ははなはだしかったから、近海の定置網はやめていた。
浜のモンは、キヨシの船と親父の船に分かれて乗り込んでいた。
キヨシは潜りの時期で、漁仲間の数人だけが残される。
運良く一家路頭に投げ出されることもなく、大きい船は売り、その残りの借金は貯蓄で完済した。親父の他にも二人ほど死んだが、死んだモンの家にはちっちゃい船と幾らかを包んで渡した。
そんでも贅沢出来るほど残っているわけじゃなく、母さんは民宿を始める。
母さんは掃除魔の綺麗好きで、料理も上手かったから人気の宿になり、通年民宿となっていった。
母さんっこのキヨシは初めは手伝っていたのだが、夏場には自分の部屋まで提供しなくてはならず、居場所を失うことに嫌気がさしていた。庭に離れを作ろうか、それとも家を改装しようか、と母さんはしつこくキヨシに相談したが、夏場以外は漁に出てしまうし、満室になるのは夏場だけだったから、勿体ないと思うキヨシは相手にしなかった。
魚料理が定評の宿には常連さんも定着し、絵を描きに来たり、ツーリンググループや釣り仲間、元旦の日の出を観に来る家族など、年間通して売り上げも安定するようになっていった。
母さんは声はでかいが、朗らかで笑い上戸で、母さんとは友だちみたいな仲のお客さんばかりで、相当楽しくやっていたものだ。
母さんにとってもいいことだと、キヨシは思っている。
だから、キヨシもお客さんの相手をした。
釣りグループにはポイントを教えてあげたり、ときには、ごく稀だけど船にも乗せてあげたりもした。
随分頼りにされて、釣った魚を捌き、山盛りのサザエのサービス、BBQの準備をしてやると、「センセイ、一緒に飲もうや」って、100グラム三千円はするだろう高い牛肉をご馳走になった。
「やっぱ、たまにはいい肉喰いてえよなあ」
漁師の家族は、実は魚嫌いが多い。
いつも見ているからなのか、食べ過ぎたせいなのか、しかし、単に飽きた、というのではないらしい。珍しいモノが揚がったときや最上級のモノはちゃんと食べる。
だから、漁師町には焼鳥屋やもつ焼き屋やらがやたらと多い。肉屋も多かった。
漁師たちは「肉なんかトンカツ以外は食いたくねえ、魚が一番よー」と云う者が多いが、トンカツでさえわさび醤油を掛ける。
刺身を三六五日食べ続けても飽きないし、なんなら朝ごはんに刺身でもいい、とほざく。
イカの獲りたては、朝ごはんにはもってこいだった。透き通ったコリコリした千切りに生卵をぶっ掛ける。
カツオも捨てるところなく、中落ちでさえ工夫して食べる。
青唐辛子と叩いてレモン汁を掛ける、マヨネーズ+醤油+一味、……漁師特有の食べ方があった。
「カツオは生姜でもニンニクでも……、一生飽きない。毎日食べた
いくらいよー」カツオ漁師は、こぞってそう云う。
マンボウの刺身はカワハギと同じように肝を絡めて食べる。
魚の子はなんでも旨い。タイだってムツだって、……ムツ子の煮付けは、タラコなんてモンじゃない。粒々はしっかりあるが、しっとりふんわり口溶けがいい。高級割烹のネタだった。
大将とキヨシにしか分かち合えないネタでもあった。
キヨシ自身は言うまでもなく、漁師そのものの、口だった。
しかし、夏場の魚が少ない時は客用に仕出し屋から買ってくる冷凍マグロなんかを出し、それを客は旨い旨いと言うものだから、……きっと、海の近くだから洗脳されてしまうのだろうが、そんな味オンチのデリカシーの無い奴らと付き合うのかと思うと、うんざりした。
潜ればアワビやサザエなんかは簡単に採れるのだが、さすがに貝ばかりでは飽きる。
やっぱサカナよー! とキヨシは思っている。
漁師として一人前にはなっていたが、漁獲が減り、このまま民宿の跡取りになるのだけは勘弁してもらいたい、というのがキヨシの本音だった。
まあ、母さんなら、ばあちゃんになるまでやっていけっから、いい商売だとも思う。母さんには合ってる仕事だ。
キヨシは将来を案じてなのか、自分の居場所がなくなってきたせいなのか、自ずと外泊が多くなっていく。
初めは近所の同級生や漁仲間のウチを泊まり歩いていたが、隣町の先輩のウチへその先の外洋時代の同期の仲間のウチへ、……その先へ、更に先の街へ、
……結局、東京へ漂流することになる。
気立ても愛想もいい母さん似のキヨシは友達も多く、泊まり歩いてはそのウチの家業を手伝ったりで、生活に困ることはなかった。
「ずっと手伝っておくれよ」と器用さも買われ、自動車屋には半年程長逗留していたときもあった。
しかし、キヨシの心の奥の……、昔、母さんが言った、……好きなことをしろ! が見つからない焦りが、釣り糸のダマのように固まっていた。
半年も手伝えば、あー、このままやっていくっぺか、と悩んだりもしたが、心の奥のカタマリはまだ確定はしてないのだが、明らかに、こんなんじゃない! ことだと感じ、区切りがつくと出ていった。
半年も手伝ったその自動車屋の社長はキヨシを気に入り、わざわざ特急に乗ってこの店まで飲みに来た。
今でも付き合いが続く仲になっている。
「キヨシさんは車の運転上手いからねえ」大将が良くそう褒めた。
常連たちと釣りやゴルフに出掛けるときの運転は、キヨシの役目だった。一級船舶の免許も持っているキヨシだから、エンジンもんは得意分野だ。
社長には息子もいたが、父親とは反りが合わず家を出てしまっていた。都市銀行の支店長をしているそうだが、息子の銀行との取引きさえ頑なに拒否しているほどの親子関係だったそうだ。
社長は一代で、千葉駅から程近いところに社員三二人を抱える自動車会社を経営していた。新車も売るが、中古車販売、車検整備など、どちらかというと技術が売りの会社だった。言ってみれば職人気質で、だからキヨシの手先の器用さや男気には惚れ惚れした。
将来は、いやいや直ぐにでもキヨシに社長を任せたいと思っていた矢先「俺はこの仕事向いてないっす」とあっさり断られてしまう。
煮え切らない気持ちが勝る社長は、それでも、と何度も説得しようと試みていたのだが、そのうち、
「キヨシさんにはキヨシさんの道がある」と大将になだめられ、挙句には、大将と馬が合うようになっていく。
大将とは二人で競馬場まで出かけたり、囲碁を打ったりしている。
社長のようにキヨシを絶賛する人が他にも居て、母さんから聴いてか、客の中には「うちの稼業を手伝っておくれよ」という東京からの誘いもあったそうだ。下町の金魚屋さんだそうで、
……サカナ違いだようなあ。違うか、オカドチガイだよ!
とキヨシはおどけた。
キヨシの心の奥のカタマリは、変わらず固まったままだった。
だが、子供の頃の浜の想い出を振り返ると、絡まった釣り糸のダマは、少―しずつだが解けてゆく気がしていた。
キヨシの家の前の浜には、夏場は海の家が並んだ。
海開きにはちゃんと神主さんがやって来て、浜の中央に建ち、潮が満ちると海に浸る鳥居に塩を撒く。
鳥居の中に沈む夕日は観光写真にもなっている。
夏の祭りはそりゃあ賑やかで、里帰りした住人と海水浴客とでごった返した。人が多いのは好きじゃなかったが、屋台は並ぶし、祭りは、……特に神輿を担ぐのは、キヨシのステータスだった。
浜には、その年の成人男性を海に放り投げるという風習があり、キヨシは親父に次ぐ青年部の番長だったから号令を掛ける。
……おもいっきりぶん投げてやんのよー。遠くになあ。
……でもよー、海水浴の浜は好きじゃないっぺよーお。
女が酒を注ぐピッチがやや遅くなる。
キヨシは、ボワーっと唸る蛍光灯に気付いたようで、大将の頭の上を、焦点が合わないボワーっとした目つきで見ていた。
賑やかだった浜がボワーっと浮かぶ。
浜には一五〜一六棟ほどの海の家が建ち上がる。
海の家を仕切るのは大概ヤクザだった。
キヨシの親父は浜の番長だったから、組の長もキヨシの家に挨拶に来ていた。東京の東の方を束ねるその筋じゃ名が知れた親分さんで、その人が実にカッコよく、キヨシ少年には憧れだった。
刺青もなく、麻の白いジャケットを羽織り、夏だというのに襟の中にスカーフを埋めていた。シルバーの指輪が光り、Rolexの時計がチラッと垣間見える。
まるでIT企業の社長さんか俳優のようだった。
怖さなんてさらさらなく、どちらかといえば品格が在るオジサマだ。親父とは話も合うらしく、酒を飲みながら夏の前は必ず二泊、何年も続いた。
キヨシにはオーストラリアからやって来るサンタクロースのようなもので、一番新しいゲームや原宿でトレーナーなんかを買ってきてくれた。
親父がヤクザなんかと……、と初めは思っていたが、浜の活性化や利益の為にも必要で、暗黙の掟みたいなものだと、キヨシは小学四年生の頃だっただろうか、社会の仕組みを理解した(と思っている)。
――ヤクザはマチのためになるんだな!
その時から、キヨシには心の奥のカタマリがやっと見えてきたような気になっていった。
■第2章
今晩の酒は酔いがまわらない。
自分の話をこんなにも聴いてもらいたい、と初めて思った夜だった。時間軸は滅茶苦茶で、さして盛って話はしていないが、女は時折腹を抱えて笑った。
大将も釣られて笑った。
酒も止まらないが、話はもっと止まらない。
キヨシは思いつくまま、というより洗いざらいを言っておきたかった。
中古外車のセールスをやったときのハナシ、板前見習いをしていたとき、パチプロは長く続かない、ホストを三日で辞めたコト、ビルの窓拭きの怖さ、雀荘に勤めていた頃……、職は転々と変わり、結局なーにも身に付いていない。
だらしない、甲斐性のない自分を知って欲しかった。
嘘は嫌いだ。嘘をつくなら上手くなくちゃあならん。
――海の男はそんなもん、と思っている。
キヨシは話が上手い。
キヨシが居ると常連は長居になる。
両隣の店からは、キヨシが居るか暖簾越しに覗きに来る者も居て、キヨシが居ると、掛け持ちでやって来た。
「浮気すんじゃねえよ」と常連からはからかわれた。
「キヨシさんは落語家みてえだよ」大将がたまに言う。
けれど、自分ではそう思っていなかった。
人見知りだし、喋るのもあんまり好きじゃない。実際、他人(ヒト)には言っていないが、根本的に人間は信用していない。
自分を守るのは自分よ!
――海の男はそんなもん、と断定している。
キヨシの話が面白いのは、滅多に経験しないような場面と登場人物そのものが興味深いからだと思っている。
料理の話になると、カウンター越しに大将も聴き耳を立てた。
料理が上手いのは漁師の特技かもしれないが、海の食べ物には、イノシン酸、グルタミン酸など、いわゆる旨味成分が自然に備わっているから、漁師や漁師町育ちには板前が多い。
グルメも多いという。
……ちびっこのときから旨いもん喰ってるからなあ。
おやつがトコブシの砂糖煮よー。
中学の時なんかよー、学校帰りに浜でサザエ焼いて食うんだ。サザエだけで腹が膨れたっぺやー。ひとり三十個!
……スーパーのパックの刺身なんぞ喰わんよ。セントラルキッチンっていうの? そこでさあ、解凍してよー、時間経っててよー、水出てっからなあ。
キヨシは東京に来てから刺身を食べなくなった。
板前見習いのときは柵の端っこを味見する程度、……それから、大将の店と出会い「今日のはいいよー」と大将が進めるものなら食べた。
キヨシが魚の話を始めると、
「そんでそんで?」客は面白がって聴いた。
漁師は釣り人からすれば憧れだ。
日本の海岸線にはどれだけの釣り人がいるのだろうか。
猫も杓子も糸を垂れて『ひねもすのたりのたりかな』が、そんなに楽しいのだろうか。
キヨシには彼らの気持ちは分からなかった。
撒き餌をやたらと撒きやがって、海を汚すなよ。
小さい魚は無闇に獲るな。
必要以上に数で競うんじゃねえ。と思っている。
釣りが好きなくせに魚のことを知らない。
魚を獲るくせに料理をしない。捌けない。
……海はよー、オッサンたちのオモチャじゃないんだぞ。
……海はよー、生命の起源よー。地球の宝よー。と崇拝している。
海の話になるとどうも熱くなる。
キヨシは別の話題を探した。
「あれ、あの蛍光灯、もうすぐ消えんじゃねえかあ? 俺、買って来るっぺよー」立ちながらキヨシが言うと、
「あるある、予備あるんだよ。……消えてからでいいよ」
大将はキヨシの話が終わらないように、触れ合って並ぶ肩が離れないように、熱く絶好調のキヨシの話を促す。
今日は特別な日だった。
キヨシは、大将の呪文に掛かったように話を続ける。
外車中古車のセールスは成績が良かったようだ。
キヨシを愛してやまない社長は、わざわざ特急に乗ってやってくると、その頃のキヨシの武勇伝を懐かしそうに話した。
常連からは『キヨシさんの社長さん』と呼ばれ、社長も常連の一員になった。真意はご馳走してくれるからだと思うが、キヨシが世話になった恩を義理がたくする様子を知っていたから、奢りの分まで含め、社長を奉った。社長も満更ではなかった。
大将と社長は同い年で、二人で連んで遊ぶ間柄になっていく。
キヨシにとっては東京のオヤジとむかし世話になったお父さん、と言ったところだ。
何日か前だったか、有馬記念でふたりは競馬場まで出向き、肩を組んで酔っ払って店に帰って来たようだ。なんやら秘め事でもしているらしい! と常連のひとりが噂を流す。
キヨシは噂話はもとより、根拠のない話は聞かないようにしている。振り回されるのが面倒だったし、人の話には実は表と裏があり、実際のところを聴くまでやすやすと判断してはならない。
正義とはそういうものだ。
――海の男はそんなもん、と確信している。
しかし、この出所不明の内容は、キヨシに伝わることはなかった。
高揚するほど楽しく、これほど旨い酒はないと感じながら、酌して貰った酒を再び口にすると、キヨシは話を続ける。
客を横に乗っけて、先ずそのへんを走るのよー。
外車なんてあんまエンジンが良くないっぺよー。めちゃくちゃ中古だしね。
だいたい中古の外車欲しがる奴って、カッコつけが多いっぺよー。
特に女なんか連れて来ると、知ったかぶりばっかしててよー、クルマのことなんかサッパ判ってないしよー。
長―い緩やかな坂道ばかりを選んで走るわけよー。
「走りいいでしょう!」
「これは中古でもだいぶいいクルマですよ」
「カブトムシでもここまでスムーズなのはあんまりないですねえ」
「部品も特注で、整備はバッチリなんで……」って……。
そりゃそうだよー、坂道降ってんだからいいに決まってんじゃんよーお。
ハハハハハ。
次は、男の横に女を座らせて男に運転させんのよー。
「運転お上手ですねえ」
「この車。お似合いですねえ、って、ご婦人の方がお似合いですかねえ」
そんでOK!
俺が乗っけたら、ほとんど成立。
ラックなもんだったなあ。
キヨシさんの社長も同じ話をしたが、キヨシの話っぷりの方が断然面白かった。
板前時代はキヨシの賄いが美味いと評判になったという。
見習いは、皿洗いや掃除、買い出しの手伝いに調理器具の準備、それからしばらくすると、料理の下準備を任されるようになる。
野菜の下ごしらえや魚が捌けるようになると、賄いを作る担当になった。キヨシは魚の捌きは当然プロだったから、誰よりも先に賄いを作るようになる。普通は余り物やアシがついたものなどの処分になるが、魚を熟知していて人懐っこいキヨシには、業者は余分に置いてってくれた。
メニューにない、実家のレシピで作る賄いは親方も絶賛で、「店に出そうか、このメニュー」と言うくらい一目置くようになる。
……カツオの捌き方なんか、反対に親方に教えてやったかんなー。
外房漁師特有の理に適った捌き方なのだ。
頭を切り落とす前に、はらわた部分を三角に抉る。臭みのある内臓を二等辺三角形に切り落とすと、そのまますんなり頭も外れる仕組みだ。
本当はやっちゃいけないことだが(勿論店ではやっていない)免許は持っていないが、キヨシは河豚も捌けた。
クサフグは良く網に引っ掛かり、キヨシの親父は良く煮付けや一夜干しにしてくれた。
……河豚はなあ、種類によって毒のあるところが違うんだっぺよー。
クサフグはなあ、特に皮に多いんだあ。
……河豚のあかちゃんには毒はないんだぞー。海の掃除屋さんで、ご飯食べてるうちに、それが毒に変わっていくんだとよー。
河豚の時期になると、河豚免許を取得している大将との河豚談義は欠かせなかった。
沖縄には通称アカウオという猛毒の魚がいて、それがすこぶる美味しいという。今度食べに行こうという約束を交わしている。
夏場にも河豚は獲れるのだが世間は食べない。焼き河豚だって美味いのになあ、と言っては、大将は河豚を焼いてくれた。
青唐辛子の効いた醤油だれにつけて焼くと実に美味しい。
女は興味津々に聴いている。
賄いばかりを作っていた或る日、親方からは正社員になって表に立ってみろ、と言われるようになる。
が、その三週間後、キヨシは店に行かなくなった。
客と話しながら料理を作るのは好きじゃない。
黙っていていいと親方は言ってくれた。
寡黙な板前はそれはそれで好む客もいる。
だいたい話は慣れだ。お客さんには腕も磨かれるが、話もついて来るようになっていく。そう、親方は考えていた。
しかし、キヨシは頑なだった。
酔っ払いや能書き言って喰ってる奴の前に居るだけで反吐が出た。
……酔っ払うときはこういう店じゃあないっぺよー。TPOを考えろやー。
……魚のこと判ってねえのに偉そうなこというんじゃねえよ。
と思ったが、お客さんは神様だから言っちゃあならぬ、と思うと余計に腹が立つ。親方には、実家の料理の担当になったと嘘をつき、惜しまれながら辞めた。
大将は腕もさることながら、ペラペラ喋らないし、客の話は聞くし、偉いもんだなあ、とキヨシは尊敬している。
大将が河豚の煮凝りをそっと差し出す。
「大将には頭あがないっす」キヨシの好物を出されると、キヨシはいつもそう言った。
大将の煮こごりはゼラチンを殆ど使わない。河豚皮のゼラチン質だけをやさしい出汁で固めるから、すぐに溶けだす。ポン酢ももみじおろしもつけずに、辛子をほんの少し乗っけて食べる。
「大将には頭があがないっす」キヨシはまた言って、つるんと喉に押し入れた。
紅(べに)は山の子で、初めて食べた煮こごりをゼリーより美味しいと言ってから、お湯割りを口に含んだ。
山形の名産品紅花から、お父さんが命名したという。
紅らしく、普段でも頬っぺたのとんがったところだけが赤いが、酒のせいでこけし以上に真っ赤になっていた。
肘折こけしは可愛いと言っていた紅に、
「紅ちゃん、こけしちゃんみたいだっぺよー、なあ、大将」
「本当だあ、前髪揃ってめんこいよー」
「やっだー!」
紅は照れて恥ずかしそうにすると、耳たぶまで染まった。
煮こごりの後は、河豚サラダに河豚の唐揚げ。
「河豚サラダなんて初めてだあ」
「唐揚げ美味しい!」
紅は骨にしゃぶりつく。親指と人差し指を交互に舐めると、またしゃぶる。
「次は鍋だかんなー。まだまだだかんなあ」
キヨシは大将と目を合わせると、嬉しそうに微笑む。
「今日の河豚はさあ、河岸の知り合いに頼んでおいたのよー。白子が入ってたからよお」
「大将には頭が上がんないっす」――決まり文句のキヨシ。
白子だけを潜らせポン酢につけて食べると、キヨシも紅も無口になった。白子の滑らかさは胃の中も心の奥も、全てを清らかにしてくれるようだ、とキヨシは思う。
紅の本名を知る者は居なかった。
あだ名はルージュ。
色っぽい仕事の源氏名なのか隠語なのか、いつしかからそう呼ばれるようになった。
キヨシは酔っ払ってもあまりシモの話はしなかった。というより好きではなかった。女性経験が少ないわけではない。
この店にもそれズキの客がやってくると、キヨシは上手く話を逸らし話題を変えていく。大将は。ありがとう、という合図を目で送った。
ホストを三日で辞めたのも、女がこんなにもスケベな生き物だったのか、と気持ちが悪くなったことからだった。煽てられるとその気になって、Hな話ばかりを求めてやって来る女の本性は、人間所詮スケべよ! と言っているキヨシにとっても想像を絶した。
男同士のそれとは全く違うのだ。リアル? というのでもなく、描写が露骨? というものでもない。男のアレを生き物にしたり、ちっちゃいとか大きいとか物体に捉えたり、気持ち悪がったり、粗悪に扱う女の例えはおぞましかった。そりゃあ、受動的な女と能動的な男とでは根本的に異なるだろう。しかし、男だって受動的になりたいときだってあるし、頭はそう思ってもダメなときだってある。
経験の少ない女に限って男は勝手だと言うし、塔が立ってる女は自分がどれだけいくかを見せびらかす。そんなもん、見せびらかすもんじゃないっぺよー。とキヨシは思うが、そういう女の話はよくよく聴いていると、実際のところ分かっていないような気もした。
寂しいんだろうなあ。こんな女じゃ抱いてやりたくないっぺよー、と思いながらも、
(好きな女には男はいつだって頑張るものよー)
紅の肩の温もりが心の中でそう言わせる。
男だって一緒にいきたいに決まってる。それが愛なんだ!
ふと、親父と母さんの夜の営みに変換されて、顔がブルっと震えた。
キヨシは元来硬派だ。
――海の男はそんなもん、信念としている。
笑うと目が一直線になって、持ち前の愛嬌と人懐っこさは、キヨシの可愛らしさを増幅させた。ゴツい身体に似つかわしくないほど、キヨシは純心だった。
母さんが風邪を引くと、母さんが大事に育てる植木や花に水をくれてやった。大将の誕生日には、大将が好きだという都忘れの花を店に飾った。
母さんも大将も紫色の花が好きだった。
だから、ではないが、キヨシもりんどうや桔梗が好きだ。特に小さな野のすみれが好きだった。アパートのキイホルダーには、土手の片隅に咲いていたすみれのアクリル封入が付いている。
花の名前はさほど知らないが、紅が懐かしそうに話す山形の里には、雪が溶け春になると、さぞかし綺麗な花が咲き乱れるのだろう、と想像した。一緒に行ってみたいとも思う。
男だって美しいもの綺麗なものを好むし、男だって苦手なもんが
あるもんだ。
――海の男はそんなもん、と思っている。
キヨシの話は、仕事の話の続きになる。
ホストの先なのか後なのか順番は分からない。
競馬でスッテンテンになった翌日、日払いの窓ガラス拭きのバイトに行った。家賃分が貯まるまでの十日間は我慢したのだが、高所恐怖症だということを実感して辞めることになる。
キヨシの里に高層ビルや高い山はない。
海に潜るのは五十メートルぐらいはへっちゃらだったが、高いところに登ったことはなかった。そういえば、五歳の頃、東京タワーに家族で行ったとき、母さんに抱っこ抱っこと泣いてせがんだことを、親父はニヤニヤしながら、大人になってもしつこく言った。
膝より上が透けている所に立つと脚が震えた。
後楽園のジェットコースターも高尾山のロープウエイにも、都庁の無料展望階に誘われても行かなかった。だから、アパートはいつも一階だ。家賃も安いし塩梅もよかった。
地に足着けて生きるんじゃ! はじいちゃんの口癖だった。
――海の男はそんなもん、と誓っている。
海なのに、地? かとも思うけれど……。
可愛げは男としてもありだと思うが、怖がりの部分はキヨシにとっては、コンプレックスだと自覚していた。
実は、高いところもそうだが、お化けが怖かった。
ガキ大将たちとお寺の賽銭箱をひっくり返し、小銭を盗んだことがあった。幾らもなかったことだけしか覚えていない。確か七人で割り勘にしても百九十一円だった。
それがばれて、母さん達とみんなで寺に謝罪に行くのだが、
「今度そんなことしみろ。墓から死んだ人がやってきてお前の枕元に立つんだからなあ。便所からは手が出てきて引っ張り込まれるんだぞー」父さんから鬼の表層で、幽霊のように腕を垂らしながらそう言われてから、お化けが怖くなった。トラウマとなってしまったようで、いい大人になっても、怖くてたまらなかった。
――こんな話、言えるかよー。と考えながら、キヨシは話を中断するかのように、黙るくらい喉越しのいい白子を紅に掬う。
「ほーんと、んまいんだじゅう。なーんだ、これ」
紅は酔いもなんのその、……次のてっちり、締めの雑炊まで平らげる。
酒は、大将自作のひれ酒に代わっていた。
キヨシも満足だった。
ひれ酒の香ばしい香りは、食欲も話もコロコロ転がしてくれた。
紅もコロコロ良く笑った。
大将が店の暖簾を外す。
今日はクリスマス・イブだった。
大将は店を暗くすると、蝋燭が灯るケーキとナイフを並べる。
「わっ、すっごいねえ」紅は大喜びだ.
零時が回る。
キヨシの誕生日として用意していたものだった.
「もう、今日だよ。……キヨシさん、誕生日おめでとう」
「おめでとう、おめでとさんー」
大将と紅は拍手をすると、バースデイソングを歌い始める。
キヨシは嬉しかったが、
「俺よー、クリスマスって嫌いなんだっぺよー。……なんだか淋しくなちゃうんだよなあ」とつっけんどんに言った。
大将――「いいからいいから。蝋燭消して!」
紅――「クリスマスじゃないって、キヨシちゃんの誕生日だって」
キヨシはケーキに顔を近づけると、口を尖らせた。蝋燭の高さに口元を合わせると息を吹きかけ、唇を細ばめたまま言う。
「なんだか悲しくなっちゃうんだよなあ。なんでかよー。……だいたい、俺、……クリスチャンじゃないしよー。……だいたい、あのキラキラしてんの好きじゃないのよーお。木によー、あんなチャラチャラ光るのくっ付けてよー。俺が木だったら怒るっけどよー。邪魔くせえよなあ」
「キヨシちゃん照れてるウ」紅が茶化す。すると、
「メリークリスマス」
「ハッピーバースデイ」
「キヨシさんお誕生日おめでとうございます」いつもの奴らがどっと押しかけ、あっという間に二十人の満席になった。
去年と同じ、ぎゅうぎゅう詰めのクリスマスになった。
客が来なかったのは『キヨシさんの社長さん』と大将の計らいだ。
秘密を知った常連達もずっと隠し通した。良く黙っていられたものだと感心する大将は、シャンパンを差し入れる。
「キヨシさんの社長さんのプレゼントだぞー」
「おおー!」
「いい誕生日だあ!」
「違うよクリスマスだろー」
「両方だよー」
「そんじゃあ、もっと縁起がいいやあ」
「おめでとう」
「メリークリスマス」
「キヨシさん、ご相伴に預かります」
一挙に勇ましい、いつもの風景になった。
二五日がキヨシの誕生日だと、初めて知る彼らだった。
大将が暖簾を外したのは、入っていいぞ、の合図になっていたらしい。
大将たちの、大人の、否、どちらかと云えば親心で企んだことだった。企みは親のみぞが知る、と大将たちは思っているだろう
が、勘のいいキヨシは初めから気付いていた。
ふたりだけの河豚コースやケーキの用意があるわけがない。知らなかった、気づかなかったまま、さらっと静かに帰ろうと思う。
そう思ったときだった、橙色の蛍光灯がプッツ、と微かな音を立てて消えた。キヨシが天井に目をやると、紅も気づいたようだった。
キヨシが頷くと紅はウインクで返す。
「俺たち帰るわー。今日はみんなありがとねえ。おしっ、べにー、
帰るぞー」
「おやすみなさーい」
「おめでとうございましたー」
「いいクリスマスをー」
背中を押しのけるように後ろを蟹歩きするキヨシたちを、常連たちのバイバイと拍手が見送る。
「お代は要らないよ。社長からだ」大将は片目をギュッとつぶりながら言った。
「ありがとうございます」いつもの、アザッす! ではなく、ゆっくり丁寧に、キヨシは卒業式みたいなお辞儀をした。
キヨシが店の戸を閉めると、
「なんかさあ、クリスマスじゃなくて結婚式みたいだったよなあ」
「じゃあ、今のはバージンロードかあ?」
「うっへー、キヨシさんおめでとう!」
「お幸せにー」
「キヨシさーン、カンパーイ!」
常連たちは馬鹿みたいにはしゃぎ、喜んだ。
「よーし、朝まで呑むぞー」大将が言う。
大将の目にはうっすら涙が滲む。
消えた橙色の蛍光灯は、大将の頭を照らさなかったから、涙は光らなかった。
霙まじりのツンと張った空気の帳の中へ……、キヨシと紅は店を後にした。
霙は細かい粉雪に変わる瞬間だった。
目を凝らして街灯の斜めに降り注ぐ光る部分を視ると、徐々に水分が乾いてくるのが見てとれた。気温も平行して下がってくるようだった。けれど、酒と、紅に語った熱量は身体の芯に留まり、キヨシはまったく寒くなかった(ように感じた)。でも、さっきまで触れていた肩が離れて歩いていると、この先の交差点で二手に分かれてしまうのではないだろうかと、悲しい結末が過ぎる。
「紅ちゃん、寒くないかい?」
「寒くないよ。……でも、おしっこしたくなっちゃった」
「ありゃあ、我慢できるかい? ……駅のそばのファミレス行こう」
キヨシはそう言いながら、『ヨッシャー!』と心の奥のカタマリのあたりでガッツポーズをした。
キヨシは紅の肩を覆い、早足の手伝いをする。
キヨシはまだ紅と離れたくなかった。
朝まで一緒に居たかった。
キヨシの部屋に連れて行くか、紅の家に行くか、……どう切り出そうか、白子を掬いながら考えていた。しかし、もう少し酔わないと声に出して云えない気がしていたし、一方的な感情だけでは紅に失礼だと思っていた。
二十四時間営業のファミレスに行くことにする。
大将の店は、二十一軒の店舗で管理する共同便所を使う。
男用の小便器が四つ剥き出しで、奥に大便器の箱が二つあり、女は其処を利用する。ここ界隈の女性客は慣れっこで、用を足す男の背中にぶつかりながらオシッコの音も気にせず大胆に使用していた。
紅もさらさら気にする性格ではなかったが、ルージュだと分かると、酔っ払いの男たちは卑猥な言葉を投げ掛けた。彼女はそんなことにも動揺しないが、用を足しながら振り向く奴が居て、何度か引っ掛けられたそうだ。だから、極力我慢していた。
ファミレスに着くと、紅はトイレに直行する。
キヨシはまるごとレモンサワーをふたつ頼む。
戻った紅は「もうお酒は要らない」とも言わず、キュイキュイ口にする。周りの客もいい加減アルコールに汚染されて、深夜のファミレスの恒常的な背景にふたりも染まった。
「喉が乾いちゃっったよね。ひれ酒美味しかったー、ケド、喉が乾いちゃったよ。日本酒は喉が渇くよー。あー、美味しい」
紅はそう言うと、レモンサワーを飲み干し、氷をマドラーでカラコロかき混ぜながら話を始めた。
「……田舎じゃ、じいちゃんなんてさあ、熱燗と焼酎の水割りを交互に呑んでてさあ。めっちゃ体に悪いよねえ。でもそれが旨いんだってさっ。……仕舞いにばあちゃんが『ハイ、お酒』って水を渡すんだけどね『あー、酒は旨い旨い』って、もう酔っ払っちゃってるから分からなくなってるんだよねえ。面白いでしょ。ばあちゃんの悪知恵は働くからねえ」
「爺さんも婆さんも豪傑なんだっぺなー」
ふたりは笑いながら、おかわりのグラスをぶつけた。
「グラタンも頼んであるっぺよー」
紅は、東京に来るまでグラタンを食べたことがなかった。
さっきの河豚の煮凝りの喉越し、白子の気絶するほど美味かったこと、……こんなに笑ったのは久し振りなことなどを、キヨシと同じように田舎の言葉で応答する。
北山形最上地方の方言と外房の会話は、怠惰な澱んだ空気の中でもピカピカに弾けていた。
キヨシは、さっきまでのじゃ足りねえ、……自分の過去も、考えていることも、悩みも、ぜーんぶぶつけて洗いざらい分かってもらいたかった。悪い癖も、怖がりのことも、恥ずかしい部分でさえ、カッコ付けずに正直になりたかった。怒っても欲しい、馬鹿だねえとも言って欲しかった。衣服を脱ぎ捨て、身体を繋げて、それでも足りなければ心を抉って、なんなら心臓に噛み付いてくれていい、
――俺を理解してもらいたい。心の奥のカタマリのあたりで必死にそう思っていた。
キヨシはこのシマを仕切るきっかけから話し始める。
ヤクザの話など、普通の人なら未知の世界でいくら説明しても理解出来ないだろうし、ハナからキヨシみたいな人間には近寄ろうともしない筈だ。
漁師らしく黒く焼けた顔に骨太のガタイ、スポーツ刈りの茶髪は半分黒毛になっている。ピアスこそしてないが、職業病的な歩きかたや振る舞いは、短い経験にも関わらず一丁前だった。
なのに紅は全く怯むことはない。
大将の店での話や気遣いの細かいキヨシの素を既にキャチしていた。それに、キヨシにはウルトラマンのビームのような魔力があった。
――笑うと無くなっちゃう目だが、その目からは鋭い光線が発し、殺虫剤でゴキブリが死ぬかのように、コロンとヒトを惹きつける不思議な力を放っていた。
漁師の慣習なのか浜の掟なのか目上の人を必要以上に立て、高校は中退だが、海以外のことにも物知りで頭の回転も速い。
紅は紅のレントゲンの眼で、その素を映し出していたのだろう。
常連さんからは頼りにされ『キヨシさんの社長さん』は一時間半も掛けて特急電車に乗ってやって来る。そんな人望のある人間力の深さは、キヨシだからこそだとも思っている。
クリスマス生まれは、一層予言めいて神秘的にも思えた。
まるごとレモンサワーがフレッシュグレープフルーツサワーに変わっても、キヨシは話を続けた。
海の家を仕切っていた親分がカッコよくて、頭が切れて、ピアノが上手で憧れだった。赤ん坊の頃からの付き合いになるという。
親父とは意気投合し、家族ぐるみで交際する間柄になっていく。
親分を、親父はタカと呼んでいた。
小倉生まれだがその筋の家ではなく、タカさんのお父さんは校長先生だったそうだ。お母さんはピアノの先生で、だからタカさんもピアノが弾けた。
ある日ドカンと大きな荷物がやって来て、それは二五日のクリスマス、――キヨシの誕生日のプレゼントは木目のアップライトのピアノだった。
ピアノが来るのは分かっていた。
普通の家じゃ床が落っこちると言い、親父と二人で土台を足していたのをキヨシは見ていたからだ。
母さんの方がウキウキしていたことを覚えている。母さんもこどもの頃は、ピアノを習っていたらしい。母さんの実家にはピアノがあったが、あれは姉さんのだからね……、ときどき実家に行っては弾いていたが、もう弾けないなあ、と寂しそうに話していたのを思
い出す。
タカさんはギターも上手で、母さんがピアノを弾いて、みんなで童謡や演歌を歌った。親父は演歌しかダメなので、親父がいないとビートルズやジャズもやった。
インテリ漁師の家からピアノの音が聴こえてくるようになると、セレブ漁師と呼び方が変わる。
キヨシはソナチネでやめた。嫌いではなかったが、恥ずかしさの方が勝ったし、ピアノよりも海で遊ぶ方が面白かった。
だから、すっかり母さんのピアノになった。
民宿を始めた母さんには、合唱グループのお客さんもできて、母さんは、商売なのか趣味なのか、いつもはつらつとしていた。
タカさんのお陰だ。
タカさんは魚の販売ルートも拡大してくれた。料理屋に直送したり宴会用にホテルが特注してくれたりした。
母さんの菜の花漬けは人気商品になり、今でも注文が入る。
或る冬の寒い日だった。
親父の電話一本でタカさんは部下を引き連れやってきた。
隣の港で大きな遭難事故があり、一斉総動員して捜索する。
タカさんは部下を束ね、海岸線班、海上班のチームを作り、地元漁師と一緒に捜索してくれた。警官も感謝するほどだった。
それからというものキヨシの浜の海の家が壊されると、隣の浜にも行って、ゴミ拾いをした。今でも綺麗な浜の海として有名になっている。
二〇日、海の日が終わると、新品の浜からキヨシとタカさんは沖まで競走する。こどものキヨシにわざと負けるタカさんは嫌いだったが、誰もいない海に二人だけで泳ぐ気持ちよさは、思い出すだけでいまだに快感だった。
子供に優しく、なんでも買ってくれたから好きになったのではない。ちゃんと筋を徹す人だった。同業者以外には全く手を触れない。それどころじゃない。不自由な人に手を貸し、いくつかの施設にも援助していた。
組の事務所には不登校やグレて立ち直れない若者がいたが、飯を食わせ、学校の勉強ではないが、箸の持ち方から食事の作法、挨拶の仕方や靴の脱ぎ方など生活面には厳しく教育していた。
組に残すのはのっぴきならない事情を抱えている奴らだけで、殆どは世の中に送り出していたそうだ。
親父から話は全部聴いていた。
親父は親父で、組の儀式の伊勢海老やパーティー用の大漁旗なんかを贈っていた。漁で珍しい魚が獲れると急ぎ宅急便で、すぐさまお返しの日本酒と虎屋の羊羹が三日後には贈られて来た。
正月、盆暮れには母さんの大好物のすき焼きセットがやってきて、母さんが採ったひじきや海苔を送り返す。そんなやりとりは長年続いていた。
この辺の集落はみんなそうだが、キヨシの家は鍵など掛けたことはなく、タカさんは誰も居なくても、居間で犬のタロウを膝に乗せてひとりビールを飲んでいたりする。親父も母さんも全く気にせず、
近所のウチよりよっぽど信頼しているようだった。
タカさんは二年前に亡くなるのだが、黒い集団の葬儀に親父の弟と母さんはVIPとして呼ばれる。送り迎えの黒い車が家の前まで来て、タカさんの家に着くと黒服の男たちが両側に列を作っていた。
列は棺の前まで続き、
「映画みたいだった。映画とまるっきしおんなじだっぺやー」と母
さんは帰ってくると興奮して言った。
親父の葬儀には、泣き崩れていたタカさんの背中をさすることさえできなかったことを、キヨシはいまだに悔やんでいた。
……海で溺れたとか。
……そんなはずはない。
タカさんは九州の海辺育ちだった。泳ぎは得意だった。沖までキヨシと何度競走しただろうか。いつもわざと負けたけれど、達者な泳ぎっぷりだった。
死んだ理由を母さんからも組の奴らからも聞いてはいなかった。
……殺されたに違いない、とキヨシは思っている。
新しいボスは、親分の葬儀にキヨシは徴集しなかった。
母さんに会えると期待していたキヨシだが、自分の進む道を提示してくれたに違いないと、今頃になって感じていた。
キヨシは殺した奴が憎かった。
けれど「うちに帰っておいで」という母さんからの電話口で、拳を握ることしかできかったことを恥じらっていた。
「俺は、弱っちいのよー」
キヨシは、今日初めて情けなそうな顔をした。
「キヨシちゃんは弱っちくないよ。強いよっ」
紅は力強く励ました。励ましたつもりだったが、もっとマシな言い方ができなかったかと、紅の方が情けない顔になる。
しみじみした空気がふたりの顔の間を漂う。
ふたりは同時にフーッと、ため息が混入するタバコの煙を吐いた。
キヨシはタカさんの死も去ることながら、タカさんという呼び方の謎を思い出していた。
「なんでタカさんって言うんだあ? タカって言う名前じゃないっぺよー」ある日、キヨシが親父にそう訊ねると、
「カエルの子はカエル、って言うのはお前のことだあ。……タカさんは父子鷹だから、タカさんなんだっぺやー」
慌て生まれて初めて、キヨシはことわざ辞典を引っ張り出したことがある。意味は分かったが、だけど、なんでタカさんて呼ぶのか、その真意をいつか聞こう、聞こうと思っていた。それにキヨシは、俺はカエルだが親父は鷹だと思っている。そのことも告げよう、伝えようと思っていた。更に、タカがカエルを産
んだらなんて言うのか? トンビがタカを産む、の反対のことわざはいくら探しても見つからなかった。
「もう、なーんにも聞けねえなあ。もっともっと聴きたいこと、教えてもらいたいこと、いっぱいあったんだけどよー」
キヨシは、今日初めてか弱い声を出した。
「瓜の蔓にはなすびは成らぬ。……じゃあなかったっけっかなあ」
ハッとして、キョトンとなって、キヨシは紅の顔をマジ顔で見つめる。
「確かそうだったと思うよ。アタイ、じいちゃんに聴いたんだもん。
……だってさあ、瓜も、んまいっからねえ。アタイ、マクワウリ、だーいすきだったから良く覚えてる」
「紅―、紅は賢いなあ。おったまげよー」
ふたりは顔を見合わせながら笑う。
束の間のしみじみした空気は、酔っ払って寝込んでいる隣の隣の憂鬱そうな中年のカップル席へと移動していった。
気を取り直せたキヨシは話を続けた。
高所恐怖症で長続きしなかった窓ガラス拭きの仕事を十日間で辞めたキヨシは、下町の雀荘で働かせて貰うことになる。
キヨシは麻雀も強かった。
親父の漁師仲間からは面子が足りなくなると、中学生の頃から駆り出され、……上京すると小遣い稼ぎに賭け麻雀をして足しにした。
プロ雀士も考えなかったわけじゃない。
雀荘では客にお茶やお菓子を出し、灰皿を変え、お酒を飲む人にはつまみを作って出した。
「下手な飲み屋よりぜんぜん美味しい」と、酒の肴はビールを注文する客を増やし、売り上げが上がって店長は喜んだ。
此処でも面子が足りないと応戦する。しかし、掛け麻雀だから、負けては店の売り上げが下がり、常連客にボロ勝ちすれば心傷を悪くする。言ってみれば、正に長けてなければ務まらない仕事なのだ。
キヨシはだんだん朝寝坊、と言っても朝夕逆転の生活だったのだが、起きれなくなってきた頃、組の一員から誘いを受ける。
此処はタカさんの息が掛かっている地域だった。
漁師みたいな奴で、……料理が上手くて、……麻雀も滅法強い。
可愛げがあって、……でも、根性もありそうで、……何より金に困っていそうだ。仕事を探してる。……と、子分から聴いて、タカさんはやって来た。
「そっからよー。久しぶりの再会でなあ。抱き合ったっぺよー。ごま塩頭がロマンスグレーになっててなあ。相変わらずカッコよかったぺなあ」
オーストラリアからやってくるサンタクロースは、タロウみたいにキヨシを抱っこするのが好きだった。
どうも子どもができなかったらしい。この辺は親父は最後までハッキリ言わなかった。抱っこする度に、小さいころから毎回同じことを厳しい口調で言った。
「キヨシ、絶対刺青だけは挿れるなよ」
「キヨシ、ギャンブルだけで稼ごうなんて考えるなよ」
「キヨシ、真っ当な人間なんてそうはいないさ。みんな間違えることもあるんだよ。でもよ、ちゃんとテメエで飯食えよ」
この三拍子がお決まりだった。
タロウはキヨシに嫉妬してなのか、タカさんのあぐらの膝の上にクーンクーンと鳴いて鼻を乗せた。
「なあ、タロウ。キヨシちゃんは親孝行してくれるかなあ?」
タカさんはそう言いながら、タロウの頭をよく撫でていたっけ、と思い浮かべる。
だから、タカさんみたいになればいいものだと、海しか知らないキヨシは思っていた。それは心の奥のカタマリになる筈だとも考えていた。
しかし、固まった糸が解けそうになった頃から、カタマリの芯は様子が違って見える。こんがらがった釣り糸のダマは、釣りたい釣りたい、……早く竿を投げ込みたい、……あー、苛つく、とは思わず、……焦らず、……落ち着いて、……無心になれば、糸口が見つかることを知っている。
釣り師は、……あー、あんなもんは素人だけどなあ、……漁師は気が長いもんよー。
――海の男はそんなもん、とキヨシは思うようになった。
でも漁師はよー、機敏な行動しなきゃ魚は逃げて行くし、一瞬で判断しなきゃ命に関わるしなあ。せっかちに動かないとダメなんだっぺやー。だから短気なところもあるんだよなあ。
――海の男はそんなもん、とキヨシは観念していた。
目の前に居る紅を見つめながら、
心のカタマリを見直そう!
一緒に見つけよう! とキヨシは思う。
さすがに酔いが回ったのだろうか。キヨシの目は、笑ったときより一層無くなっていく。瞼が閉じる寸前なのか、細い一直線になった。
外はしらじらと、粉雪は風の無い空間にフラフラ漂っていた。
二五日、クリスマスの朝になっていた。
「キヨシちゃん、帰ろう」紅が言う。
■第3章
「キィーヨーシー、こーのよーるー、ホーシーはー、……あっ、もう朝だっぺー」
キヨシは紅に肩組みされて、つまづきながら歩く。
紅の身体はアッタカイ。
「俺はよーおぉ、クリスマスなんて大嫌いなんだっぺよー。……クリスチャンじゃないんだっぺよー。俺んちは浄土真宗だっつうのー。……ケーキなんか要らない、っつうのおぉー」
腰が砕けて足が順番に出て来ない。
気持ちは悪くない。
吐き気もしない。
だけど、肋骨の奥に目一杯、――頭の中からは、はみ出しそうなくらい、――おそらくタンポポの綿毛だと思うけれど、それが埋まっているような、今までに味わったことのない、気持ちのいい痒さを感じていた。
紅の柔らかさは歩く振動を和らげ、肩組みから垂れ下がった右手は、紅の乳房の生温かさを感じていた。
「キィーヨーシー……、……」
「分かった分かった。もう少しだから」
キヨシは何度も何度も繰り返す。
「俺んちはよー、ちゃんと誕生日は祝ってくれたけどよー、……毎年売れ残りのアイスクリームケーキだっぺよー。アイスクリームケーキは嫌いじゃなかったけどよーおぉ。『おめでとう、清君』って描かれたホワイトチョコレートのよー、名前が載ったケーキが食べたかったっぺよー」
「あんれー、さっき、そういうケーキだったじゃあん」
「そうか、……そか、そうだったペよー」
キヨシは嬉しかった。
人生で嬉しかった出来事がくるくる周り始める。
親父から新しい船を造ってもらった日、タカさんと泳いだこと、社長から認められたとき、……大将と料理談義した夜、店の奴ら、……目が回っていることも実感していた。
なのに、気持ちも頭の中もしっかりしていることにも気付く。
「俺はよー、ホントは『聖』だろうがよー。……親父は何を感がえていたんだっぺなあ」
キヨシは照れてそう言ったつもりだった。が、紅の温もりがあまりにも優しく伝わり、……親父の顔が、……親父の後ろ姿が、……次々に浮かび上がる。
親父に会いたい。
言い忘れていたこと、聴きたかったこと、教えてもらいたかったことが沢山有り過ぎた。
なんで死んでしまったのか、……漁協の無線室の一夜、熱帯夜の汗臭い部屋を思い出す。交代で無線を交わし、蚊取り線香の煙の中で家族が心配そうに寄り添う。翌朝、二人の遺体は引き上げられたが、親父の遺体は出てこなかった。
だから墓に親父の骨は無い。
空の墓に語りかけたって、仏壇の写真に喋ったって、親父は居ないのだから、……キヨシは家に居なくても同じだと思うようになる。
こじつけだと思われるから口外はしていないし、きっと、乙女チックだとか、馬鹿か? それともロマンチストだねえ、顔に似合わず……、とか言われるに決まっていると思うから、余計黙っていたのだが、親父と通っていた岬の飛び島でのことを信じていた。
港の先の手彫りの小さなトンネルを抜けると、引き潮の間にだけ渡れる飛び島が在った。漁の帰り、天気がいいと親父と良くそこへ行った。
大海原に向かい、岩に背中をもたれていると、空も太陽も独占できた。空にも太陽にも一番近いところだった。別に、なに話しするわけでもなかったが、一度、親父の描いた不思議な絵について訊いたことがある。
油絵が趣味だった親父は、海の向こうから自分とキヨシが島の先端に腰掛け、釣りをしている絵を描いた。ほとんどは山とその前の崖で、崖には波がぶつかり砕ける。
波は寄せては離れ、ぶつかると砕ける。
その様は当に此処で、良く描けていた。
海と山が画面一杯に広がり、小さな飛び島の中のふたりは更に小さく、二センチもなかったが、ブルーと黄色のヤッケは、明らかに親父とキヨシだと分かった。
「沖からじゃなきゃあ、見えないっぺやー」
「えっへー、そうかい。オレには見えるんだなあ。オレはここが一番好きだよーお。浜も好きだけどなあ。何しろここが日本で一番好きなんだっぺやあー。よーく飽きないもんだっぺなあ」
親父は水平線の波頭を眼で追いながら話を続ける。
「此処はなあ、ちょうど寒流の最後がやっと辿り着くところなんだっぺやあ。宮古沖、……せいぜい流れて来ても銚子沖でよー。黒潮と合わさるとよー、いい漁場だろうが」
「あー、魚種は豊富だっぺやあ」
「そうだろう、だからこの浜はいっぺえいろんな魚が獲れるんだあ。……昔、じいちゃんから聴いたんだけどもよー。この飛び島の先でなあ、ほら、あそこ、……岩が顔出してるところあっぺやあ、波がぽちょんぽちょんしてるところ……」
「あー、あれなあ。潮が引けると見えるっぺよー」
「そーよー。……あそこの下に神さんが居るんだとよー。その神さんって、なんでもうちの先祖だって話だあ」
「えっ? それって人間だったんだっぺかあー?」
「そーよー。浜の鳥居があるっぺ? あの柱がもう一本あってなあ、その柱に括り付けられて沈められたんだとー」
「オッソロシイ話だっぺなあ」
「いんやー、漁場を豊かにしようって、……じいちゃんの話だと、あれー、俺の爺様だっぺっさー。そのじいちゃんのひいじいちゃんが夢枕でそうお告げを聴いたとかで、……だからそのじいちゃんのひいじいちゃんがあそこに居んのよー」
「会ったことあんのかあ?」
「あるわけないっぺよー。いつの時代だっぺよー」
「潜ってみたことあんのけー?」
「あるわけないっぺよー………あそこの潮目は難しいところでよー、岩が多いから船でも近寄れないんだっぺよー」
親父とそんな話をした。
キヨシはそのときのそのまんまを、親父役と自分の声で再現する。
紅は黙って聴いていた。
紅に肩組みされたまま、もつれる足を踏みしめながらゆっくり進む。頭はしっかりしていたが、どうやら腰が抜けているようだった。
紅は、腕をキヨシの腰に巻き付け脇腹を五本指で握り締め、肩から垂れる右の手首を精一杯の力で引っ張り歩く。
ふたりの頭はうっすら白く、歩く先にフワッフワッという音を立てるかのように織り重なる雪は粉雪で、その粉が見えるようだった。
「そんで……? そんで、その神さんどうしたんだあ?」紅はお父さんの話の続きが聴きたかった。
「そんで? ……あー、誰も辿り着けないところだから親父も行ったことがないんだっぺよー。でもなあ、親父はじいちゃんのじいちゃんのじいちゃんの、……アレ? 何回目だあ? いいかあ。その人柱になったじいちゃんの代わりになって、そこに居るんだっぺやー。……だから会えないんだっぺよー」
「お父さん寒くないんかねえ」紅がぽそっと呟く。
「……、死んだらオレはそこに居るからよー、って親父言ってた。
この浜も海も、……守んのは俺んちの役目なんだとよー」
「海の底じゃあ、寒いっぺなあ」紅は大きく叫ぶ。
「寒いよー。寒いっぺよー。俺は寒がりだっからよー。紅ちゃん、さっむいよー」
キヨシは紅に甘えたかった。
眠った子供のように力を解いて、紅に抱きついた。
「紅ちゃーん、俺はよー、だらしないんだっぺよー。どうしようもない弱虫なんだっぺよー。……お化けが怖いんだっぺよー。今でも、夜にオシッコ行けないんだっぺよー」
キヨシはなんでもいいから叫びたかった。
紅を抱っこしてギューっとしたかった。
かたく抱き合うと、紅のいい匂いがする。リンスか香水か分からないが、母さんとは違ういい匂いだった。
すると、腰は抜けているのに呂律は回っていないという変なことに気付き、一番教えたくなかったことを言ってしまった、と恥ずかさが込み上げる。
「お化けなんているわけないでしょうよー、プッフ、ファハハハ」
紅はさすがにおかしくなって笑った。
「おっかしいかあ。……紅は笑ってる時がイッチャン(一番)、カッワイイゾー」
キヨシは嬉しくなって、目頭が震えた。
ふたりは手を繋ぎ歩き始める。
シンコペーションに歩くふたりの合唱『聖この夜』は、リズムが取れていなかった。雲に隙間ができて、映写機の光のように差し込む朝日を正面に浴びながら、こどものように大きく手を振り『聖この夜』は紅の家まで続いた。
雲に余った分だけの粉雪が、申し訳なさそうに舞い落ちる。
紅の家に着くと、必然と欲求が倍増させ、ふたりは重なった。
■第4章
下町の路地の、その先の細くなった路地を、更に曲がった窪みに男たちがたむろっている。
『マッチ売りの少女』――ボール紙に描かれた看板がボストンバッグに立て掛けてあり、女がひとり、タバコを吹かす。
縁取りがあるマジックで描かれた『マッチ売りの少女』のロゴは、天地も間隔も揃い、煉瓦風のバックに文字が蔦で絡まっている。ヨーロッパの古い街角に似合いそうだった。イラストレーターが描いたんじゃないかと思えるぐらいの出来だった。
男たちはそんなもんにお構いなしであろうに、女のせめてもの美意識なのだろうか。
女は、第九で歌う合唱団のような黒いロングスカートを履いているが、スカートは第九のそれより膨らんでいた。仁王のように股を広げて立ち、真っ赤なマニュキュアは煙草を持つ手には似合っていたが、顔とは不釣り合いだった。
女は、裸電球の反対側の空を見上げタバコを吹かすが、肺の奥まで吸い込んでいないのが煙の色で確認できる。
ときよりスカートが揺れると、女はタバコを吹かした。
『マッチ売りの少女』の下にはやや小さな字で、《一本 千円》と書いてある。
「最近ショバ代を払わない女が居る。女の見ケ〆をやって来い!」
シマを預かるキヨシは、新しいボスに言われてやって来た。
歳はキヨシより、どう見ても十歳は上だろう。
派手な化粧のファンデーションに、一本の深い皺の彫り筋を、裸電球が照らしていた。
女は千円札を受け取ると、すぐさま胸の谷間に忍ばせる。
男にマッチ棒一本を持たせると、フラメンコのドレス捌きのように托し上げ、スカートの中に男を押し込む。
しゃがんで男はマッチを擦る。
女は股を広げている。
下着は着けていない。
男の中には五千円払うからと言って、五回擦る奴も現れ、順番待ちが列を作った。ときには横に寝かされ、まあ、いいお金を貰っているのだろう、もっと股を広げろ、だ、ライターにさせろ、だのという輩も出てきて、常連さえ出来る窪みになった。
女は話相手はしない。――ただ黙っている。
アソコも触らせない。――ただ見せるだけだった。
男たちはそれでも礼儀正しく? 暗黙の規則に殉じていた。
女にはさまざまな噂が飛び交った。
――この商売の前は高級ソープで働いていたそうだ。
――バックに暴力団がついているから、ヤバイことをやったら大変なことになるぞ。
――浅草のストリッパーで、追い出されたんだって?
口々に語り継がれた。
語り継がれる噂話は、男たちの勝手な物語になってゆく。
――山形の相当奥深い山奥から出てきたんだそうだよ。可哀想になあ。こんな可愛い子がなんでこんなことしてんだろうなあ。
――って、アンタも来てるじゃんか、このスケベ野郎。
――母親は男を作って出て行ったらしいぞ。カエルの子はカエルなんじゃないか、アバズレってことだよ。
――父親だって出稼ぎの現場で死んだんだろ。ホント可哀想じゃねえか。稼がせてあげないとな。
――えっ、アル中で死んだって聴いたけど。
――稼がせてるって、俺なんか週ニだぜ。
――なんでもよっ、多額の借金があって、組から無理強いされてるんだろ?
――いやいや、イッパシのプロだよ、あいつは。
――以前、野坂昭如の本で読んだことがありましてね、こういう商売は昔からあるそうですよ。
客の中にはアカデミックな人間もいて、並ぶ男たちに得意そうに説明する者も現れる。
男たちはさまざまな想像をし、連想ゲームのように噂は憶測を越えてゆく。
女だけじゃない。――実は男も噂話が好きだった。
本当のコトは誰も知らない。
名前も知らない。
真っ赤なマニュキュアと血を含んだような口紅から、いつしかルージュと呼ばれるようになっていた。
ロングスカートの中がこもらない、夏場は涼しい真夜中だけに不定期に、秋からは週三日ほど、冬場はほぼ毎日立っていた。
稼ぎどきで賑わうのが師走だったから、『マッチ売りの少女』と屋号というのか、愛称が付けられた。おそらく、野坂昭如の本を読んだという、白髪の老人が命名したのだろう。
女はそれに便乗して看板を作った。
女も満更ではなく、髪型を三つ編みにしたり、チェックのショールを巻いたり、意識するようになる。
そんな或る日、キヨシは長い列に並ぶ。
先にどうぞ、という男たちには遠慮して三〇分並んだ。
キヨシの仕事に対するルールだ。
現場は必ず自らが体験し、確認する。
キヨシは一本を擦ると、見ケ〆の件を説明するために飲み屋の場所を耳元で囁いた。大将の店だ。化粧は落としてこいよ、必ず来るんだぞ、を付け加えた。
キヨシは先にビールを飲んで待つことにする。
深夜二時過ぎた頃だった。
「こんばんは。遅くなってすみません。お待たせしてすみません」
戸が開くとそう言いながら女がやってくる。
キヨシは目を疑がった。
本物のマッチ売りの少女がやってきたのではないかと思ったからだった。童話の絵の中から抜け出てきたばかりの、こけしのような小さな顔立ちに三つ編み姿の女は、子供の頃、母さんに読んでもらった絵本そのままの少女だった。
女は、キヨシの隣の椅子を少しずらして横に座る。
「ビールでいいか?」キヨシが言うと、大将がグラスを差し出す。
両手で持ちながら、
「ありがとうございます。お疲れ様です」と言うと、女は一気に呑み干した。
「ぶっはー。ういー、おいしい」上唇に泡をつけながら思わず出た言葉だったが、「あっ、すみません」とすぐに付け加える。
「いける口だなあ。いいねえ」キヨシは大瓶を軽々しく持って酌をし、一杯分残った瓶を女に渡すと、熱燗の徳利に持ち替えた。
ひとくち呑みながら、本題に入る準備をした。
シナリオは考えていた。
このシマのハナシと事情、ルールと掟の違い、挨拶料という初診料金みたいなモノの意味、相場と歩合、――その取り立て方法、シマと付き合っていく方法、そしてキヨシの身分と立場。
酒を呑みながらだが、丁寧に、あたかも営業マンのように説得力のある口調で始めた。
女は両手を膝の上に重ね、キヨシの話を黙って聴いていたが、キヨシの猪口が空になるとお酌をし、タバコを咥えるとライターで火をつけた。
手酌でビールを注がない女の気持ちを察し、大将が栓を抜いた新しいビールを、キヨシも女に酌をする。
話とお酌は交互に交差した。
キヨシは、徳利を両手で持つ女の指先にドキリとし、注ぐときに首を傾げる女の横顔に胸の奥がつかえたような気分に襲われた。
いきなりストーリーの順番が狂う。
キヨシは、気遣いの出来る女の気立てと、頷く度に伏し目がちの睫毛に漂う物悲しさを感じ取ると、内容なんてどうでもいいやと投げやりになった。
説明から質問に変わる。
女もビールから勧められた通りに酒になり、キヨシの質問に真摯に答える。
何年生まれで何処で生まれたかなどと、野暮な聴き取りはしない。
刑事じゃあるまいし……、悪いことをやっているとも思わない。
事情を抱えているのは当たり前のことだ。
責め立てる気もない。責め立てる身分でもない。
初めて、なのだから分からないに決まっている。
初めて、はズブの素人だという事実だ。
最終的な軀は売り物にはしないというプライド、この辺りには知り合いが居ないこと、昼間も働いていること、それでも逞しさを持ち続ける覚悟と根性、……女は、女の運命と必死にひとり戦うひたむきさに、……同情なのかいたわりなのか、キヨシにはいつの間にか優しい口調になってしまう気持ちが芽生えていった。
それから、キヨシと女はたびたび逢うようになってゆく。
女は仕事を引き上げると一度家に戻り、化粧も落とし、セーターにスカート、ポニーテールでやってくるようになる。
キヨシとの約束だった。
『マッチ売りの少女』だとは誰も気付いていなかった。
常連たちとも気さくに話した。
けれど自分のことやキヨシとの馴れ初めなどに触れたことはなく、
訛りも控え東京人になっていた。
キヨシと紅は……、今夜はふたりだけ。
だからこそ、今日は、……今晩こそ語り合いたかったのだ。
紅も幾つか職は変わった。
コンビニの早朝バイトをしてから、倉庫のピッキングを掛け持ちした。三年続けていると、仕事の早さや正確さが買われ、同列企業のコールセンターを紹介されることになる。しばらくすると応対や好感度が認められ、時給がはるかにいいクレーム部門に配属されることになった。
しかし、逆鱗に触れたように怒り狂う客や、謝っても一向に納得しない電話口の相手が興奮してくると、つい方言で捲し立ててしまう。
クレーム部門にクレームがついた。
結局、元の受注部門には戻れずに辞めさせられてしまう。
中卒で学歴は無く、親戚も知人も頼れる者は居らず、東京では保証人も出来ない。
仕事は相変わらずバイトの掛け持ちだった。
中学卒業後、高校に行けという母親の意見に背き、不動産会社に就職することになった。田舎でも名前は知る大手不動産会社と喜んだのも束の間で、上京し寮に落ち着き、いざ働き始めると、そこは大手不動産会社の名前を誇大告知した孫請け会社に過ぎなかった。
やらされたのは、アパート共用部分の掃除や退室後の片付けなどの清掃員が主な仕事で、駐車場整備の際は交通誘導員にもなった。
宅建資格をとって貴方も不動産鑑定士になろう! なんて誘い文句があるはずもない。デスクに座ってパソコンをいじくったのは、誓約書や保険加入などの個人情報を入力するときだけだった。
紅はいしくもオフィスレデイになれると期待を持って上京するのだが、寮は四人部屋で、迎えに来る車に押し込まれると会社が管理する関東近県のアパートへ送り込まれるだけだった。
寮ではいじめにあったらしい。
会社ではパワハラにあったらしい。
が、紅は悪口を言いたくない性格なのか、思い出したくないのか、そこを辞めた理由はハッキリとは言わなかった。
それから、寮を追い出された紅は高額報酬という広告に誘われ、キャバクラやスナックに身を委ねるようになっていく。けれど、賃金のピンハネや警察沙汰に巻き込まれたりと、東京が怖くなってゆくのも無理はないかもしれない。
が、紅はポジティブ思考なのだろう、それとも闇雲に生きるしかなかったのだろうか、騙されたとか怖い目に遭ったとか、過去の出来事はサラリと流した。
とにかく仕送りをするのが重要目的で、一万円札を数えるのに夢中になったという。
父親は品行方正で働き者だった。
田舎の人らしく慎ましく、身の回りの品にしても衣類にしてもゴミになるまで大切に使い込んだ。
「雪国の人はだいたいそうだじゅー」と紅は言った。
父親は同郷の先輩の保証人になり、詐欺まがいの借金をこさえてしまう。それでも頑張っていたから、盆暮れにも帰省せずに働いていた。しかし、先輩は行方をくらまし、東京に呼び寄せ暮らしていた奥さんとは離婚。その後、一家離散となっていた。
肩代わりをするだけで、家に仕送りが出来なくなった父親が遊び保けるようになったのを、紅は「私も気持ちが分かる」と言った。
糸が切れるように、……何もかもがバカらしくなったのだろう、生きてりゃそういう時ってある、と紅は父親の気持ちを代弁した。
そんな矢先、父親は胃潰瘍で入院することになり、紅は上京した。
うっすらボケが始まっていた。
母親も里では、雪の季節は内職やら共同浴場の管理、春になれば畑仕事に山菜採りなどをばあちゃんと一緒に勤しんでいた。
兄弟は七つ年下の弟と十歳違いの妹がいる。
とってもいい子だそうだ。
父親が入院してまもなくだった或る日、共同浴場の脱衣場で、母親はレイプされてしまう。酔っ払いの観光客で、地方新聞には掲載されたそうだ。ムラでは、母親本人はもとよりばあちゃんも弟たちも辛かっただろう。でも、紅には連絡してこなかったという。
紅は涙を堪えながら言った。
ブナの林で首を吊った、という噂が広まる。
「でも、生きてるって、……ばあちゃんは賢い人だから、きっと、母ちゃんは北海道のおじさんの処にいるって、……ばあちゃんがどっか遠くに行かしたんだっぺ。アタイはそう思ってる。ばあちゃんは、そういう人だべさ」
紅は手前の眩しい青白い蛍光灯に目を細めるが、眉毛をしぼませ、自虐的に奥の消えそうな橙色の蛍光灯を見据え、唇を震わせながら大きく口を開けて言った。
東北の人はあまり口を開けないで喋るから、キヨシは紅の会話にやっと聴き慣れて来た頃だった。
父親は入院中に認知症になり、ときどきしか自分のことも紅のこともわからない状態で、母親の話はしていない。
住民票は東京へ移していたから、今はいい施設に入居している。
「東京はいいとこさ、そういうところは……」それだけでも助かっている、と紅は言った。
キヨシの酒に任せただらだらな長話とは反対に、紅は簡潔に話をする。河豚のアラをしゃぶりながら上手に話した。その間にも、キヨシの器に取り分け、酌をし、ライターをかざした。
キヨシの心の奥の塊りがモゾモゾし始めたのは、紅の気配りや気立の良さと、そもそもこの子はなんて賢い子なのだろう、母さんにどこか似ている、と思ったからだった。そして、心の奥の固まりが解け出したのは、どんな境遇にもひたむきで我慢強く、決して他人のせいにしない、なんて明るい子なのだろう、明るくコロコロ笑う紅の顔は母さんそっくりだ、と感じたときだった。
ベッドの中で、キヨシは初めて紅に訊いた。
「紅は何になりたかったんだっぺやー?」
「アタイ? アタイねえ、中学んとき旅館の中居の手伝いしてたんだあ。女将さんが優しくって、かっこよくってねえ。……お客さんが喜んで帰ると嬉しくってねえ。あれは疲れも吹っ飛ぶよねえ。女将になるのは無理だから、田舎に帰ってか、……ううん、何処でもいっから中居さんになりたいんだあ。料理も勉強できたら、なおいいねえ」紅は目を輝かせる。
紅は五歳年上だったが、顔の部品はこけしのように小さく、和服を着たら似合う、鼻ぺちゃ美人だった。
キヨシは鼻の高い、特に鷲鼻のような大きな鼻は好きじゃなかった。
「人間は顔じゃねえよ」と言いながらも、やっぱり母さんに似てる女を好きになる。
クリスマスの朝、キヨシの心の奥の塊は噴火した。
ふたりが結ばれたキヨシの誕生日の朝、キヨシの心の奥の固まりはスルスル音を立てるように解けていった。
「紅だったら、外房の海も迎えてくれっぺよー!」
その後、
――キヨシは清になった。
――ルージュは紅になった。
――ふたりは同じ苗字になった。
了
《四〇〇字詰原稿用紙 一九八枚程度》
マッチ売りの少女 前 陽子 @maeakiko
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