プトレマイオスへの道

そせじ番長

プトレマイオスへの道 短編

豊沼洋吉が畏山を訪ねたのは四十も半ばになってからのことだという。

 豊沼は一年前に母に死に別れた。父は若い頃にようを悪化させてすでに亡く、母一人に育てられた。苦学して旧制中学を出た豊沼であったが、そんな母との別れは癌という名の病でやってきた。


 母がはじめて大量の血を吐いたのは、共和二十一年の梅雨のころである。

 往来の真ん中で水たまりにドボドボと鮮血を噴き出しているところを、警邏中の巡査に助けられ、安田町の陸軍病院に運び込まれた。

 その頃の豊沼は町工場を経営し、自らの設計した紡績機械を客に売る商売をしていた。豊沼は商談中にその報を聞き、先方の厚意もあって、二時間後に病棟の母を見舞うことができた。

 母は吐血も治まり、洋吉の顔を見たときは安堵の表情を浮かべていたが、仕事を切り上げてきたと聞いたとたん怒りだした。

「おまえはお国のために働けばええんじゃ」

中年と言われる年齢になっても、その言葉に洋吉は途方にくれた。

 その後、病院に足繁く通う豊沼を、母シゲは何度も追い返している。男の一大事は何事かと隣の病棟まで聞こえる大声でどなった。

 もうそのときは、それはどうしようもなくなっていた。

 ほどなく、母は死んだ。

 洋吉は商談で赤江におり、死に目に会うことはかなわなかった。

「洋さんはね、おかあさんにもうしわけないとずっと思ってたからさ」と専務取締役の安藤克美は喪服の家内に向かって語った。

「これからもっと自分が働いて、楽をしてもらうんだってときに逝っちゃったからね、洋さんのしょげかたは正直見てられなかったよ」

苦しんで逝ったのだと聞いて、洋吉は顔を歪ませて悔やんだ。


 畏山は奥蔵半島の中央に位置する死火山であり、死の世界とつながっているという伝説がある。

 正院年間に天甲宗の恵方大師が修行場をひらき、不浄から離れた森の深奥に無量寺が建立された。そこにいつからか、イタコと呼ばれる霊能者が集まるようになった。

 イタコは未婚の女性であり、死の世界の住人と話すことができると言われている。かれらは近隣の市町村に住まい、大祭などの時期に集まって、この世の人々とそうでない人々を橋渡しするのである。

 共和二十三年の夏の大祭に豊沼の姿があった。

 豊沼は母の死を契機にすこし性格が変わっていた。

 へ理屈こねの無神論者が、理屈関係なく毎朝墓を掃除し、仏壇を磨き、線香を絶やさぬようになった。ただし、経文はよくわからないという理由でたまにくる坊主にまかせていた。

 その天甲宗の坊主から聞いた話が畏山。死者と会話ができるという。

 もともと豊沼は霊などはまったく信じない人間だった。むしろ、そのようなことを口にする人間を蔑視していたといっていい。しかし、母にわびたいという思いは強く、大事な商談を延期して北に向かう列車に飛び乗っていた。傍らには安藤を伴っている。安藤はそれで豊沼がふっきれるのならばと思った。


 二人は無量寺に踏み入った。

 本当に地獄と呼ばれる地なのだろうか。

 空からいやというほど光が降り注いでくる。みごとな快晴。ひどく暑い。ワイシャツの脇にはひどい汗染みができた。足下には賽の河原のように小さな石積みがあるが、それがなんだというのだろう。ところどころにきれいな千代紙で折った風車がさしてあるが、無風のため回ることはない。お賽銭にとたまに硬貨が落ちているが、硫黄まじりの空気のせいで黄色い粉がふいている。

 セミの群れが見苦しく騒いでいた。


 イタコに会った。

 豊沼の落胆を感じて、安藤は口をへの字に結んだ。

 母との会話を期待していたのだが、実際に会ってみると、苦しい、寒いとしか言わず、しかもほかの依頼者にも同じ内容をしゃべっているようだった。

 炎天下、上質なズボンが汚れるのもかまわず、豊沼は岩の上に腰をおろした。安藤は水をくみに行った。

 うなだれた。

 来るんじゃなかったかもしれない。別の後悔がぽっかりあいた胸にたまりはじめた。


 そのとき、豊沼は異変に気づいた。 明るさが失われた感じがする。セミの音も聞こえなくなった。急に夕闇がおりたようだった。平衡感覚がない。霍乱(日射病)になったのだろうか? 天を振り仰いだが、どういうわけか輝いていたはずの太陽がなかった。豊沼は混乱した。

 妙にはっきりした声が聞こえてきた。

「こちらにきなされ」

岩陰に一人の老婆がむしろをしいて座っていた。ひどくみすぼらしい格好である。目が白くにごっていて見えていないようだった。そんな老婆がいることなど先ほどまでまったく気づいていなかった。

「母が呼んでおる。洋吉殿。こちらにきなされ」

自分の名前が呼ばれた。引きずられるように、豊沼は老婆のもとにつんのめっていき、ひざをついた。老婆の声が耳の中にひびく。

「母はこう言うておる。すまなんだ、ああでもいわなければお前は仕事よりも母を選ぶじゃろう。それは亡き父上との約束にも反すること故、あえて病院をおいだしたのじゃ。お前の気持ちはようわかる。いまこの場でありがとうと言える我が身が幸福ぞと」

「母がそのように?」

「シゲ殿は父上の貫太郎殿が亡くなられるおりに、おぬしを立派な臣民に育てると約束したのじゃ。母は満足しておるぞ」

「お、かあさん」

洋吉はボロボロ泣き出した。そして何度もごめんなさいと、ありがとうを繰り返した。

「父も来ておる。お前はこれから立派な発明をする。それは多くの人を幸せにするじゃろうと言うておる。ほこらしいと笑っておるぞ」

「おとうさん」

記憶の中にある白黒写真の父の顔が笑ったような気がした。

「霊はいつも、生きている我々のためになにかをしようとしてくれておる。見やれ」

風がないのに風車たちがいっせいに回り出した。

「ゆめゆめ、忘れるでないぞ」


 豊沼は地蔵菩薩の前につんのめって倒れていた。安藤はあわててかけより、だきおこした。

肩にかついで寺務所まで運んだ。

 セミが場もわきまえずに大音声を発していた。


 気がつくと、目の前で白いものがゆれていた。安藤がハンケチを振って風をおくっていたのだ。日差しはもはや斜めで、薄黄色にかわりつつあった。

 豊沼は、自分の顔をぺたぺたさわり、こすったり、つねったりしていた。

「そうか」

と一言いうと、憑きものが落ちたかのように晴れやかに笑った。

 安藤は一瞬不気味なものをみたような気がしたが、あんまりよい笑顔だったため、つられて笑った。

 豊沼はあの老婆はどこだと聞いた。安藤はそんなものは見てないと答えた。 寺務所の人間や、ほかの観光客にまで聞いてまわったが、そのような者を知るものはだれもいなかった。


 二人は帰京の途についた。

 道中、豊沼はずっと考え込んだままだった。安藤はたまに豊沼の顔をのぞき込んだが、真摯な面持ちに何も声をかけられず、結局二人は駅弁を注文する以外何も言葉に表さないまますごした。


 翌日、豊沼は一人で天道町の書店街を歩き、普段ならまったく入らないような店から何冊も本を仕入れてきた。

 弁天町の社屋の自室に戻ると、機械設計について書かれた洋書を本棚に丁寧にしまい、かわりに机の上に何冊も異様な挿絵の本をまき散らした。日本語のタイトルの本が一冊だけあった。 そこには「降霊術」と書かれていた。


 社長がおかしくなった。

 みなの噂が安藤にまで聞こえてきた。仕事をしないでおかしな本をよみあさっている。それがオカルト関連の本であることを知り、何人かの有能な技師がやめていった。

 豊沼はまったく意に介さなかった。自作の小さな風車を指でまわしながら、帳面になにかを書き込んでいく。そこにはなにか執念のようなものが宿っているようだった。

 安藤は豊沼を信じ、残った。帰宅後に飲む葡萄酒の量が倍に増えた。


 工場の経営は少しづつ傾きはじめた。基本設計などの重要な工程について豊沼に負う部分が多かったためだ。

 だれもいない社屋。

 安藤は日めくりの最後の一枚を切り取り、ストーブの中に投げ込んだ。窓を風雪が激しくたたく。

 彼は帳面に朱色の文字を書き込むと、渋面をつくった。

 専務だというのに、社長としばらく会話らしい会話をしていないことに気づいた。そして、深刻な報告を持って豊沼の自室を訪ねることに決めた。


 ノックをすると、最近では珍しく中からどうぞと声がかかった。

 火の気のない部屋で豊沼は製図をしていた。表情をのぞく勇気がなかったため、安藤は豊沼の背中に声をかけた。

「会社、もう持ちませんよ」

最小限の言葉を選んだ。

返ってきた声は素っ頓狂に明るかった。

「そんなことより、これを見てくれ」

製図板から離した右手で羽ペンの羽の先をつかむと、西洋紙の上を羽根ペンが踊り、きれいな真円を描いた。

「これは霊からの交信だよ。最近ようやっとそれを起こす条件がわかった」

自動書記という現象である。ペンを霊に操作させて意思表示をさせる技法だ。

 安藤はもうなにもかも終わったと思い、目の前が真っ暗になった。それがいったいなんだというのだ。しかし、その後の豊沼の言葉が彼の、そしてすべての運命を変えることになる。

「ぼくはこれを機械工学に応用しようと考えてる」

背中を向けたまま、豊沼は小テーブルの上を指さした。なにかの装置が置いてある。手作りらしい。装置の上面の軸受けの上で、歯車がキリキリ回っている。動力を探したが、なにもそれらしいものはない。

 これはいったいなんなのだ。

「これはね、磁力や電気ではないんだよ。霊が回しているのさ。さっきの自動書記のようにね」

 製図台からおろし、テーブルの上にばさっと広げられた設計図。新しい機械の設計がそこにあった。霊の力で動く織機だと言う。豊沼は肩越しに振り返った。

「今日から会社の名前を豊沼自動織機から豊沼自動書記にする」

あの日の夏に見た笑顔がそこにあった。

安藤は、つられて笑いかえした。

泣き笑いになった。

社長はおかしくなったんじゃない。

安藤はこのとき、とりあえず迷路でもいいから前に進もうと決心した。



 豊沼自動書記は平坦な道を歩いたわけではなかった。

 妙な霊的機関の動力箱がまわす歯車やプーリーを顧客に説明するときはまず頭の具合のほうから説明しなければならなかった。それでも成果さえ出ればよいといって数社からの発注を受けることができた。信頼性のないように見えた動力源がどんなときも安定して動作し、その結果多くの客がついた。

 織機の分野でシェア一位となったが、やがてより効率のよい内燃機関が世に出始めると、そちらを使う応用事例に蚕食されはじめた。

 その後、豊沼自動書記も内燃機関を開発。それによってはじまったモータリゼーションは、やがて世界の交通を変え始める。

 霊的機関は終わったのか?

 豊沼はあきらめなかった。内燃機関の開発と同時に霊的機関の改良も重ねていた。それは決して目立つことはないが、安定したパワーを供給し、内燃機関の決してとどかない分野で、人々の役に立った。



 そして数十年後の話である。


「あたらしいハイブリッド自動車プトレマイオスです!!」

おおおという声が上がる。石油が作る文明が後退期に入り、時代は燃費の良い自動車を求めた。 そこに投入されたトヨヌマ自動車の新製品はおそるべき機構を備えていた。

 エンジンにペダルがついているのである。

 驚くなかれ、エンジンを切っているときは霊がペダルをこぐのである。

「これこそが豊沼洋吉が目指した新しい時代の新しいソリューションであります。パラダイムシフトです」

 100人の僧たちの般若心経を背景に、新しい車はスポットライトを浴び、つややかな輝きを放っていた。

 すでに豊沼洋吉も鬼籍に入り、舞台の上にはいない。

 しかし、街角を走る車を見たある少女の言葉によると、にこやかなおじいさんが悠々とペダルをこいでいるのが見えるとのことである。

 それが誰かまではわかっていない。


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プトレマイオスへの道 そせじ番長 @jnakata2014

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