応援コメント

第7話 簡潔に完結」への応援コメント


  • 編集済

     長いばかりで飽きられるのは、中身がないから、そして読ませる充実した文体がないから、です。そういうものが殆どです。ただの間延びした繰り言は、「それがどうした」という忿懣まで起こせられます。コピペなど、もっての他でしょう。
     中身と読ませる文体があれば、読者は必ずついてきます。長編もあれば短編もあり、本質的には短いから悪いということはないのは言うまでもありません。むしろ良い短編を書くのは、高い技量を要求されます。
     テレビは、また違う事情があるでしょうから、書く人が気にする必要はないでしょう。
     自ら経験を積み、材料を探し、鋭敏な眼からの視点が働いている人の文は、読者にはすぐわかります。面白い、と思わせられます。ま、それが作家のつらいところですが。
     と、ついピント外れの冗長になってしまいました。これダメですね。
     それだけ触発されたためです。
    「〜」という過剰な口語体と、「逆にいえば」は、使い古されているかな。
     まだ敷衍の余地があると思います。エクササイズと思ってたくさんお書きください。

    早めの次回作、期待しております。

    作者からの返信

     ある作家さんがおっしゃっていた、学生たちが書く小論文の変遷が興味深いです。

     最近の学生は、文章の体裁は整って書けているが、どこかで見たような内容が多いと話されていました。
    反対に昔の学生の小論文は、文章の体をなしていないものもあるが、内容はオリジナリティを感じられた、と振り返られていました。


     自分の書く文章を読み直すたびに、引っかかるものがあるけれど、それが何なのか分からずにいました。
     それをいまkobataさんにご指摘いただき、ハッキリしました。
     そうなんです。「〜という」を多用しています。「逆に」の凡庸な接続詞、使っています。

     僕の愛読書と言いますか、指南書があるのですが、それを読み込んでみました。「〜という」の過剰な口語体は見つかりませんし、「逆に」の表現もありません。また、僕はこの座右の書の文体が心地よく、それがすごく好きです。

     kobataさんのお陰で、大きな気づきのある一日となりました。
    名のあるお方だと拝察しますが、私のような者にまでお気遣いくださり、誠にありがとうございます。