第二章 売りあおりのリリア
それは――正午を回った頃だった。数回、チャイムが鳴らされる。この時間にご来客? 予定にないな……。一体、誰だろうか?
私は、モニター付きインターホンから来客者を確認する。ああ、見覚えのあるブラウンのスーツを身にまとった男性が、浮かれた様子で、そこに立っているではないですか。仕方なく、用意していた昼食を慌てて包み直します。
この方、何かあるごとに……、唐突に「平気な顔」でこられるため、その対応にはすでに慣れています。いつも通りに彼をこころよく迎い入れた。
「いつも悪いな! いよいよ始まったぜ。間違いなく始まった!」
一体、何が始まったのかね……。とりあえず、空いているイスに腰をかけていただき、キンキンに冷えたコーヒーを冷蔵庫から取り出して、投げ渡します。今の陽気は、大型連休を終えたばかりの真夏にさしかかる頃で、彼にとっては、ちょうど良い冷たさだったと思います。
「何か、進展はありましたか?」
私は、彼がそれを飲み終えたのを確認してから、話しかけます。すると、ここに来た理由を、生き生きと述べ始めました。
「進展どころではない。……『朗報』だ。オレの研究に低評価を出し続けていた、頭の固い役人がやっと観念した。だいたい、わずらわしい表現で低評価に抑え込む手法自体が、今の時代にそぐわない。これからオレが大学に持ち込む、資金集めに関する大事な書類にわざとやるんだぜ? やむを得ず、少しばかり危険な方法を駆使して上手くいった。これで軌道に乗るさ!」
「おいおい、『少しばかり危険な方法』について、その内容が気になるね?」
彼は、怪訝そうな表情を浮かべる。
「まったくよ、相変わらず悲観的だね? 臆病者には、資金は集まらないよ?」
「臆病者で十分です。後々、問題にならないことを祈るよ」
「何だよその反応……、『朗報』の時くらい素直に喜べよ。おっと! そうだった、そちらが興味を示している『何とかチェーン』だっけ?」
「あっ……、それがどうかしたの?」
「これさ、ちょいと小耳にはさんだんだが、あんなものは……、そのうち『禁止』になるみたいだぜ。色々な問題があるらしく、特に必要性は感じないから、その研究を含めてまったく不要の産物だってさ。だいたい、あんなもので『雲の上の存在である自動車』なんかが、それを頼りに走るのかよって話みたい。まあ、せいぜい下っ端のおもちゃ――あの小さなスクリーンを指で弄ぶ『端末』で遊ばれて終わりだろうな。結局、あんなゴミに付き合う役人など、誰もいないということだ。おっと、これについては、誰もが知る、行政機関を頻繁に出入りするこのオレが言っているのだから、これくらいはさ、信用しろよ?」
「えっ……?」
どうせ、用がないのに顔を出して、「厄介者扱い」にでもされたのでしょうね。それで、さっさと帰っていただきたいから、そのような禁止の話が出てきたのかもしれません。
だいたい、そのような申請ばかりしていたら、肝心の研究はどうしているのだろうか? あと、「朗報」ですか……。なんかこれは、既視感な言葉ですよね。研究資金を集めるために、まったく関係がないスポーツまでされた方もいらっしゃる一方で、これね……。
「まっ、オレには何の関係もない話だけどな」
「了解です。その手の話は、二割程度の信憑性で頭の片隅にでも置いておきます」
「なんだよ。これすら信用してくれないのかよ?」
「又聞きでは、ちょっとね……です。ところで、毎日インスタント食品ばかりだと体を壊しますよ? 他の出資者も含めて、皆が心配していますので……」
「インスタント? そんなのよりも、慢性的な資金不足の方が大きな問題だ。でも、解決できる見込みになった今、そうだな……、そのインスタント食品は数日おきに変更してやる」
「了解です」
その時、何かを思い付いたのか……、急に立ち上がって、私を凝視してきました。
「……、朗報の気分は皆でわけあう姿勢が大事だな。ということで、そちらは大丈夫なのか、研究の資金面は?」
まったく、何を言い出すのかと思っていたら、案の定でした。
「資金面? あのですね……、資金に乏しい状態で、別の研究に投資はしませんよ?」
「そうかそうか。それは、うらやましい環境だね?」
「私の研究は、こいつらさえ揃っていればできます。すでにある設備を最大限に活用しつつ、自分専用を入れていき、開発環境を構築していきます」
私はそう言いながら、規則正しく並べて動かしている、指を広げたほどの大きさがあるぶ厚いボードの一つをトントンとたたいた。
「これら、高価ではないのか?」
「仮に、これらが研究専門で出ていたら、とてつもなく高価だったでしょう」
「違うのか?」
「はい。はじめの頃は高価だったのですが、汎用性が高いボードの登場により、だれでも導入できるようになりました。そして、自分専用の導入に至りました」
「なんだよ。結局、その自分専用の導入に、お金を使っているではないか?」
「いくらなんでも、これ位はかかりますよ。少しずつ増やしていきましたので、たいした金額ではないですよ」
「いやいや、それでもオレに相談すべきだったな!」
「はい? それはどういうニュアンスですか?」
「それはな、そういう場合でも力になれた、という意味だ。オレだけで申請に必要な書面を、全て用意できるから、次からは、安心して頼ってくれ!」
「え……と、それって『少しばかり危険な方法』に該当するものですよね? そういう類は必要ないため、すみませんが、お断りいたします」
「……、まったくさ、多少なりともリスクを取った方が上手くいくと思うぞ?」
「リスクですか……。申し訳ないのですが、嫌な予感がいたします」
「まだ悲観的なのか? そういう所は感心しないな。資金を恵んでやると、向こうからきているんだぞ? どうせ、たっぷりとあるだろうから心配は無用だぞ? おっと、言い方を間違えた、……多少なりともリスクはあるが、ゼロに近いってやつだ」
「たっぷりとあるって……」
――――――
「うう……」
俺は、頭を抱えながら、悪夢から目を覚ました。
勢いで専業の「トレーダー」になったのだが、大損ばかりで、もうね……。毎日、苦しくても、トレードの内容をノートにまとめたり、取引に大切な点を、何度も読み書きして頭にすり込んだり、できる限りの努力はしているのですが、いまだに、大きく浮上できる感触すらありません。
それだけでも苦しいのに、今まで見たことも触れたこともない……悪夢、いや、不気味な夢……それは、おかしなものばかりで溢れていた。天井から輝いている沢山の棒とか、壁からヒトの声が出ていたとか……これらは幽霊のしわざなのか? ほんと、一体なんなの? 間違いなく「不気味な夢」、ただそれだけしか、わからない。なんで、俺なんだ? こんなものまで、弱い「ヒト」なんかを狙わないでください!
そうそう……、片時も忘れてはならない約束事があります。この極東の地では、俺たちは「ヒト」と呼ばれ、そのヒトを管理しているのが「精霊」だということです。そして、その精霊をまとめるのが「大精霊」で、その大精霊に指示を下すのが「天」になります。
だいだいさ、訳がわからないあんな夢でも、最後のくだりはわかったぞ! たっぷりとあるって? 資金が? そんなに余っているのなら、俺に恵んでください……。うう……、さすがに、自分が嫌になってきた。挙句の果てに、俺の名前が連呼されていたし。そうです、なんと「リスク」という……、これまたすぐに、色々と突っ込まれるような名前を与えられてしまった「ヒト」でございます。
それでも、一つだけ良いことはありました! 昨日の夕方だったかな、大損で気が動転していたときに、俺なんかに用があるとはとても思えない、かしこまった雰囲気に包まれた方が、たずねてきます。それはなんと……、この極東の地で「トレーダー」として名を馳せた方と一目でわかりました。驚きと喜びのあまり、その場で飛び上がって天井に頭をぶつけるという、恥ずかしい思いもしました。まだ日が浅い俺ですら知っている、凄い方でしたので、これは仕方がないです。
非常に気さくな方で、俺みたいな弱小相手にも、トレードの極意について、教えてくださいました。これで、少しは勝てるようになるのかな? なんて、そんな甘い世界ではないことを、改めて知る形となります。さらに驚いてしまったのが、なんと……、今は「ヒト」ではなく――「精霊」になられたとか。これ、天からスカウトされたんですよね?
その方に、「夢の内容は絶対に口外しないように」と強く説得され、もちろん、承諾しました。どうやら、これが職務みたいです。
不気味な夢を見てしまった点については、正直、ショックも大きいです。それでも、あのトレーダーさんと話せたので、もう、前向きにいきたいと思います! こういうのはさ、きっと、「あくどい精霊」のしわざに違いないかな。そうだよな!
俺さ、この「相場の世界」に入る前、「誠意と愛情」という言葉が大好きな精霊のところに、お世話になっていました。そこには、時間という概念がなく、起きて、働いて、寝て……、これが五年ほど続く生活でした。休みはありませんでした。そして、お世話になった最後の日だけは、今でも忘れられません。
ご奉仕中に、積もるに積もった疲労から、少し血を吐いてしまいました。持っていたハンカチですぐにふき取って、やり過ごすつもりだったのですが、なぜか精霊にばれてしまいます。笑顔だったので、さすがの精霊でも、俺の体調のことを気にかけてくれたのかな、と思いきや、なんと……、ハンカチが血で真っ赤に染まっていない点を指摘され、どうやら、この程度の吐血では「手を抜いていた」のではないか……と、疑われてしまいます。それで、精霊と天に対する忠誠心を示す五箇条を、この場で百回言えと強要され、さすがに恐怖を覚え、その場で辞めました。
そうか、天の者は「絶対的な存在」です。今思えば、その精霊も苦しんでいたのかもしれません。ヒトの働きぶりが悪いと、精霊の全責任になるからです。
そして……薄給でしたが、ある程度のお金が貯まっていました。不幸中の幸いです。これを元手に、この……相場の世界へ飛び込みました。
「いたたた……」
今度は何だよ……、吐き気さえ覚える、目の奥からズキズキする頭痛が、脈を打つように突然、襲ってきました。これって、相場で大損して、よく眠れなかった翌朝に多い、あの痛みか。それと同時に、あの訳のわからない夢の内容が、元々頭の中に鮮明に刻まれていたかのように、しっかり蘇ってきて、夢について考えるほど、痛みが増してくる。……これ以上はよそう。
精霊から配布されている、頭痛によく効く薬をむしり取り、ためらわず、そのまま口に放り込んでやった。俺にとっては、あの苦い経験からか、精霊に絶対服従させられた気持ちを思い返すので……悔しいのは確かだが、これで一安心です。
そこまで精霊が嫌なら、他にいくらでも手段はあるはずだと、何度も心の中で蒸し返しています。確かにそうなのですが、精霊の管理から抜け出てしまうと、ヒトを自然状態から解放し、安全に管理するらしい「精霊の法」と呼ばれる約束事から守られなくなり、さらに大変になると伺っています。つまりね、俺も「クソ」なんですよ。勇気をふり絞って外に飛び出す気力なんてあるはずもなく、行き着いた先がこれですからね。そこまで考えれば、今の状況は、あの日々に比べれば……、たいしたことはなく、できれば、楽しんでいこうかなと、常に前向きでありたい気持ちも、しっかりと満ちあふれています。
でも、大損すると、本当に気が塞がります。苦しいです……。どうしても長い愚痴が自然に出ます。あんな愚痴を口走っても何も変わらないと、俺のクソな頭でも理解はできています。それでも大損の日は、これさえ一気に飲めば嫌なことをすべて忘れられるという、ヒトの間で流行している魔法のような強いお酒に、頼りきりでした。これさ、果実を絞った甘い飲み物と同じくらいの価格なのに、効き目がバッチリです。こういうちょっとした、現実から逃げるためだけに存在するものから、排除して、少しは成長しようと努力します。
それはそうと、精霊や天の者が口にされるお酒って、ちょっと気になりますよね。先輩の方々から伺った話では、適切な温度管理で熟成された、芳醇な香りを漂わせる透き通った赤い液体を、きれいに磨かれたビンに詰めて、渋い匂いがする樹皮を固めて作られる小さな円柱状の栓で、その雫たちを閉じ込めたものらしいです。まあ、俺みたいな「ヒト」が、それを口にすることはおろか、見ることすらも、ないでしょう。
――なんか気が付いたら、精霊の悪い面ばかりを並べてきましたが、もちろん、良い面もあります。ヒトを管理できていると自負しているだけあって、例えば、いま俺が口に放り込んだ薬は、最短でよく効くんです。ヒトが調合した「薬らしきもの……言い換えると、複数の薬草などから調合したもの」とは大違いです。
もっとも、精霊が調合した薬などには絶対に手を出すなと、意固地になっている方もいますが、俺は、これについては合理的な方を選びます。なぜって? それは職業柄……トレーダーだからですよ!
あっ……、基本的にはどんな突っ込みでも大歓迎な俺ですが、「そんなのは職業ではない」という内容だけは、さすがの俺でも怒ります。だからお願いです、それだけは突っ込まないでください。一応、今でも命を張って頑張っています。
ふう……、頭痛もおさまってきたところで、改めて、考えていきます。この世界に飛び込んで最初に理解したことは、相場でも、「精霊」には忠実でなくてはならないことです。たとえば、忠誠心の割合に応じた税を納める点です。弱い立場は、今も昔も変わらないのかな。最近だと数年前かな、この極東の地の北部に、胸をえぐられる悲しみで埋め尽くされた災害があって、その復興に必要な予算が相場の税に上乗せされています。別にそれ位は「お互い様」ということで良いのですが、問題なのは、なぜか……、予算は動いているのですが、そのまま放置されている区域が未だに多く存在しているということです。これについては、ヒトだけで何とかしろ、なのかな? まあ、精霊にとってヒトの扱いなど、この程度なのかもしれません。または、まさか……これが天の意志なのか? ヒトを管理しているのは「精霊」ですが、その精霊すら、天の者には絶対に逆らえません。いや、まさかね。これはないかな。
ところで、ふと思いました。精霊に逆らったらどうなるのでしょうか。
まず、ヒトの拠点は、天の者から「地」と呼ばれています。このため、「地」が最も低い位置になります。でも、何となく不満が残ります。そこでヒトが、勝手にその下の名を作り、それを「魔」と名付けました。
さすがの俺でも、魔にお世話になった事はありません。たしか、身包みを剥がされて魔に放り込まれるらしいので、そうなったら、身の毛がよだつ事態です。それでもなんとか耐えきった者や、うまい方法で逃げ切った者などがいるらしいです。
しかし、精霊が生み出した「産物」については、すごいの一言に尽きます。あっ、これは嫌味ではないですよ。たとえば、相場の運営や、ヒトには理解はおろか発想すら難しい……複雑なアイデアが沢山あります。たとえば……。
「持ち越した銘柄の状況を知りたいので、板気配をチェック!」
このように、どこでもその場で本格的な取引ができてしまう「精霊の端末」に限っては、ほんと、何がどうなっているのかすら、俺にはまったくわかりません。なんなんだこれ? です。
それでも、精霊によって生み出せなかった身近なものが一つだけあります。それはなんと……、意外な事に「お金」です。「精霊の法」や「精霊の端末」などを、一から構築できる、ずば抜けた能力があるのに……です。
たった今、ひらめきました! 「お金」も、不気味な夢みたいな存在かもしれません。精霊が、必死に仕組みを解明しようと苦しんでいますからね! お金自身が自分の意思で動いているようで、手に負えないとか。だから、「不気味に生きているお金」と精霊に揶揄されていたのかな。
なんてね……、お金の大事な部分――「ウォレットの残高」さえしっかりあれば、俺にはどうでも良かったりします。なんといっても、命の次に大事なものでございます。俺みたいなヒトでも見捨てないでください。
というのも、実は俺……、ちょっとした勝負に出ています。えっ、大損したばかりだろ、弱小は弱小らしくしろと突っ込まれそうですね。確かにそうなのですが、勝負に出ないと弱小から永遠に抜けられません。トレーダーは、すぐに心を切り替えます。いや……、切り替えたい! です。とほほ。
昨日、損切りしてまで確保した現物担保をすべて捧げて、限界まで精霊からお金を借りて、とある銘柄に買いですべて突っ込んでしまいました。この世界、現物だけではございません。この相場の世界で「全力」と言ったら、このような行為を示します。一応補足しておきますが、別に、大損を取り戻すために買ったのではありません。足繁く通う馴染みの店で「精霊の祭り」に誘われましたので、この祭りに飛び乗るタイミングを見極めていました。結局……、やられた別の銘柄の大損を確定させ、その余力を祭りの担保へ追加する形で、勢いにまかせて飛び乗る形になります。
ちなみに、この現物担保すら別の精霊から借りてくる強者もいるのですが、俺は、そこまではしません。ところで、相場は「時価」ですので、全力だと、値が下がるとすぐに現物担保が不足してしまいます。すると、どうなるでしょうか?
不足した担保を期限までに補うようにと、笑顔の精霊から追われる立場に急展開いたします。これが精神的にきついんです。なぜそれを知っているのか、突っ込まれそうですが……、できれば、たずねないでね。
色々とありましたが、もちろん、わかりきった上で勝負に出ています! 寄り付き前……すなわち、本日の取引が始まる前の板気配を端末で確認したところ、さっそく上限一杯まできています! 膨らんできた成り行きの買い数量から見て、これなら本日は寄らない。今日から眺めているだけか、ちょろいね!
――さてさて、株式時価評価額を見て、何度も笑みを浮かべながら、本日のトレードは……いや、ただ眺めているだけで完了です。当然ながら、俺のこの勝負銘柄は一度も上限から剥がれることなく、大引け……その日の終了時に、僅かな売りで取引を終えます。
もちろん、1枚たりとも売っていません! いつも思うんだが、こういうときの大引けの僅かな売りって何だろうね。冷やかしなのか、運悪く借りた分の返済期日が来てしまったとか、そのようなことを耳にしますが、実際はどうなんでしょうか。
なぜなら、俺が勝負を仕掛けたこの銘柄……実は、精霊が手に負えなかった「不気味に生きているお金」の謎について、解明できるかもしれないという凄まじい材料が出ているからです。それで、もし買えるのなら、「全力」で買った方がよいと誘われました。
「お金」の仕組みについては、精霊が大いに興味を示す材料ですから、今の値では、寄りませんよね。こうなると……あの「値幅制限」が忌々しいですね。一日で動かせる値の幅が割合で決まっているのです。一応、俺らみたいな弱小保護のためらしいけど、何なんでしょうか、これ。
ただね、「お金」が精霊の思い通りにならない点については、ヒトならば、この上なく痛快な気分であることは間違いなく、心境的には……ちょっとね。でも、儲かるなら、感情は抜きです。トレーダーですので。
ちなみに、お金だけではなく、買った銘柄も、精霊の思い通りにはなりません。例えば、せっかく買ったのに、精霊の気分次第で……その権利を勝手に「解除」されるといった、恐ろしい目に遭わされることが、絶対にないとされています。「ウォレットの残高」に、購入した銘柄が魔法のように結び付けられて、これだけで一括管理できるようになっています。本当に便利です。ただし、精霊から借りた分は、精霊が管理しています。ヒトへお金を貸す精霊が所有するウォレットの残高に、「貸したヒトの名前」と「マイナスの数字――借金」が記録されているらしいです。
でもさ、この「解除」って、本当なのか? 俺が買ったものに対して、精霊の判断でいきなり無価値にされる、だと? これが事実だとしたら、やばすぎるでしょ。買った銘柄だって、お金と同じ意味を持つ資産だったはず。そう考えると……、解明されてしまうと……、いやいや、今は儲けることに集中です。
――こんなに浮かれた気分で、思いきり飲んでこようかなという悪い癖が出てしまいました。勢いよく、馴染みの店に直行です。おっと、それでもね、いつもの安い酒を飲む事にします。これね、酔うことだけを目的とした蒸留酒に香りを付けて、炭酸水で割ったお酒のようなもので、慣れるとくせになり、とても幸せな気持ちになれます。調子に乗ると大負けするからね。これで十分です。
そして……、絶対に忘れることができない衝撃的な光景とのご対面になりました。
「ぎゃはは! みたか、あの板をよ?」
「ああ! 最高だったぜ」
いつものメンバーが揃っていて、同じもんを抱えている訳です。この銘柄の話は盛り上がりますよ! 持っていない奴らが羨望の眼差しで俺らを見ています。胸にチクチクきます!
「この材料……、カネってどういうものなのか、知りたくてムズムズしてきたぜ!」
おっと! つい勢いで変な事を口走ってしまった。調子に乗っています。悪い癖です。なんでいつも、俺はこうなんだ。
「おいおい、おまえがそんな学術的な要素に興味を持つわけがないだろ! おまえが興味を持つのはな、ウォレットの残高と、株式時価評価額だけだろ! それとも精霊から借りた分を地獄の果てまで追われる、あれか? さすがに知っているとは思うが、あれ、転生してもよ、そこを担当する精霊に追われるらしいぜ? つまり、そういうことだ。きゃは」
え……? 転生しても追われるって、どういう意味なんだろう。あれって、死んでも残るのか。たしかに、精霊ならやりかねない。
いえいえ、借金にならなければ良いので、どうでも良いか。
……そのとき突然、横から脇腹を叩かれた。振り向くとそこには、この世界で「大先輩」と呼ばれる方が腰をおろしていました。緊張しておどおどしていると、気さくに話しかけてくださいました。
「おい若いの、トレーダーで生きていくならさ、どこかで休むも相場ということで休暇を入れて、まだ解明されていない『不気味に生きているお金』について、ちょっとは勉強した方がよいぞ。あれね……、天、精霊、俺たちが這い回る地、そして魔、なぜか全ての場で共通で使えるんだ。さすがに噂になってる『転生しても借金が残る』というのは眉唾ものだが、おそらく、カネの問題で自らの命を自らの手で絶つなんて、論外だといいたいんだろう。その行為については、天すら許してはくれないはずだ。万一の場合は、通称『精霊お悩み相談所』に足を運んで、さっさと『開き直る』しかないという事だ。はっはっは! 悪い精霊ばかりではないぞ」
どこでも共通して使えるなんて……知らなかったです。なかなか便利ですね、ウォレットちゃんです。そして……、その謎を解明するとされる、爆上げ中の俺の勝負銘柄! さらに元気が出てきました! やっぱり勝負して良かった。俺って単純だね。
「ありがとうございます。でも、この爆上げは、楽しんでいきたいと思います!」
「ほほう……」
正直、大先輩の言葉には怖くなりました。でも、そんなものをすぐに忘れて、大いに盛り上がり、次の店へハシゴしようかと……店の出入り口を見た瞬間でした。
銀色に輝く腰下まで伸びる髪と、碧眼で、すらっとした可憐な女性が、白いワンピースをなびかせながら、舞うような軽い足どりで楽しそうに入ってきました。
「あいつは!」
突然、俺の後方から声を張り上げた男性が、立ち上がって彼女を指差した。それにも関わらず、彼女は笑みを浮かべながら、俺の勝負銘柄――、「例の銘柄」を握っている者がみな、その場で凍り付くような一言を、平然と言い放った。
「こんばんは! すごく盛り上がっていたみたいね? ズバリそれ、一日中、ずっと上に張り付いてたあの銘柄だったかな……、今日のここは、それを持っている方々の集まりよね? うらやましいですわ。ところで――、全枚数を『売却』する準備はできましたの?」
えっ!? ば、売却だと? 何を言い出しているんだこいつは! おどおどしていると、隣の大先輩が、俺の顔を覗き込んできた。
「いよいよ、売りあおりの登場ですね。その様子だと、本格的に売りあおられるのは初めてかい? まあ、これも良い経験だと思って、逃げずにしっかり頑張りなさい、いいね?」
「……はい! ありがとうございます!」
おおっ……! ここでも、俺みたいな新参者に気を配っていただけるなんて……、本当に、ありがたいです。たしか、何度か「退場」……相場を離れるほどの大損をくらっても、その度に復活して、成功を収めた方だったかな。憧れますよね。
相場の世界は、地で最も厳しい「結果がすべて」となる場所だと、心に深く刻んで飛び込みました。ここで負けては、吐血までして尽くしたのに、最後まで、精霊に『道具』扱いされてきた日々に……戻ることになります。絶対に、戻りたくない!
とにかく! これが「売りあおり」なのか。標的となった相手が、すべてを手放すまで、しつこく迫ってくる、だったな。
ほんと、この極東の地には、不思議な存在がたくさんいますね。
いよいよなのでしょうか。彼女が、細い腕を優雅に胸元で軽く組みながら、ゆっくりと話し始めた。
「もしかしたら、上に張り付いた程度のことで大いに盛り上がっていたの? やっぱり図星かしら? 単純な場ね、ここ。これでは、ただの売りあおりの餌食になるだけね。大きく口を開けた『空売り』が喜んでいるわよ? この極東の取引所だっけ……ううん、そんな古臭い呼び名ではダメね。そうそう……ヒトが『精霊の舞う取引所』を舐めてかかると、大変なことになりますわよ?」
なっ!? 俺らが単純だと? まあ……、そこは否定はしないが、売りあおりってさ、結構ストレートに言ってくるんだな。これが売りあおりの本性なのか……、何もかもを否定してくる、嫌な奴か!
さらに空売りか。それには、何度も泣かされています。本当に値が下がるので。そりゃそうだ、銘柄を持っていないのに、先に売ってから買い戻す手法が空売りなんです……。高く売って安く買い戻すため、空売りした後に「値が下がる」と儲かる、そういう取引です。
また、取引所をそのへんてこりんな名前で呼ぶとは、こいつ……まじでふざけてやがる。ああ……そうだよ、こんな酒のような液体で、幸せな気分になる、ただのクズなヒトですよ。俺の他にも、怒りが込み上げてきた者が多数いたようです。大損の光景が目に浮かぶ、その名で呼んだのですから。
「うるせえよ? 俺は間違いなくクズだぜ? 否定もしない。でもな、精霊の隷属になった覚えはないからな!」
「だったら、何だよ? 欲しいから売りあおり? 恥ずかしいね!」
「ああ! 最悪だ、これは。もう意地でも売りません!」
「おまえさ、このあたりで有名になってきただろ? だから、はやく目を覚ませ。せっかく、その麗しき容姿を天から与えてもらったのにさ、なんで下賎な売りあおりなんかやっているんだ? バカか、おまえは?」
各方向からこのような怒号や罵声などを次々と浴びても、彼女の表情は何一つ変わらず、さらに、こちらをゆっくりと眺め回してから……、また話し始めます。
「どうしたのかしら? その程度で、ご反論はもうおしまいなの? つまらないわね。そうね、そうよね、この場でなぐさめ合うなんて、最後の逃げ場……『夜間取引』では売れないような買い方なのかしら? ねぇ? 少し前の板気配、上に張り付いていないけど、多数の『ボランティア』が出動しておりますわよ? あっ、こんな値で買わされるなんて、そうね……『強制ボランティア』でないことをお祈りいたしますわ!」
そういえば……、夜間取引っていうのがあるんだっけな。あんまり当てにはならないし、実は、精霊から借りてきたお金で買った分は、夜間で売れません。その理由はたしか、精霊から借りた分を動かすには、精霊が必要だからです。夜間はヒトが独自に開設しているため、動かせるのは、現物のみとなります。
というかさ、ほんと、余計なお世話です。売りあおりがここまでひどいとは、驚きの連続です。あとさ! 「強制ボランティア」という揶揄って――絶対に逆らえない精霊に呼び出されて、猛暑や極寒のなか、朝から深夜まで心身ともにボロボロになりながら、天が開催する大きな催しものに無償でご奉仕させられる行為のことだよな! 例え話なんだろうけどさ、もっとましなの、無かったのか?
みな、頭に血がのぼります。そして、罵声が飛び交います。
「バカかおまえは? どうせ売るなら、明日の上限で少し譲ってやる位だな。そうだな、舞っている精霊にぶつけてやるぜ!」
「ひどすぎて、ため息すら出ない醜い売りあおりですね。そうだよ、夜間では売れないよ。だったら、何だよ? まったく」
「おまえは、無給で売りあおりか。ぎゃは。ご苦労さんです!」
彼女は何かに悩んでいるのか、人差し指の先端を唇に当てている。それから……数秒後、何かにひらめいたのか、胸元で手を軽く叩き、嬉しげに眺め回してから、火に油を注ぐ内容を言い放った。
「この銘柄ってね、精霊が『錬金予約権』を錬金して定期的に売り抜ける、仕手――相場操縦が行われているだけなのよ。ここに集まる方々は、そんな大切な事も気が付かないの? たしかにここは、配当があって、業績黒字だから、心を許しやすいのは事実ね。えっと、たしか、『不気味に生きているお金』の秘密に迫る、だったかしら? まったく、ありきたりで、ここの過去の仕手と同じ手口ね。だから、酷く、ダメな材料なのよ。そもそも、ここから本当に短期で上がる相場をご存じかしら? 特別に教えて差し上げますわ!」
錬金予約権? たしか、行使条件を定めて、条件を満たすと売れるようにした「プラチナ」と呼ばれるものだったかな。なるほど、これを定期的に錬金して、仕手に持ち込んで売れば、懐を痛めずにお金が入ってくる訳なのか? でもさ……、特に新興では、やる気を出させるために、これを持たせるのが習わしだと、どこかでみた記憶があるんだけどな。だから、別に問題ないよね……?
そもそも『不気味に生きているお金』の秘密に迫ることが、どうしてダメな材料なんだよ? 精霊だって、これの解明には必死になっているんだぞ?
これが売りあおりなのか……。そんな事を考えていたら、彼女がこちらをみてきました。なんかウインクしたような……。ん? どうやら話の続きがあるようです。「何かを特別に教えて差し上げますわ」ですね。まあ、聞いてやる。
「そうね……ダメな材料で、ここから本当に上がるのなら、新規空売り禁止になりそうな条件を整えながら、上限一杯からわざと少し剥がして、上限で売られた小さな空売りを、わざと少し儲けさせるのよ。それから、すぐに上に張り付けるのが、最近の仕手はお好みかしらね? でね……、ヒトの欲望は無限大だから、また儲けられると勘違いして、今度は……大きな勝負の空売りをやりがちなの。でね、その勝負分は、その日に買い戻しはさせず、上に張り付いたまま、取引を終えます。そして、待望の新規空売り禁止……『売り禁』になります」
彼女の表情が、一気に明るくなる。
「この売り禁って儲かると伝えられているようね? それね……そんなに甘くないから。まあ、罠ね。なぜならば、死にゆく者から、完全に希望を奪ってしまうと、行動が単純化して、役に立たなくなるからなの。例えばね、ヒトが死を覚悟すると、痛め付けても、何の情報も引き出せないと聞いた事ことがありますわ。だから、そのような状況を防ぐため、わざと希望を与えるのが……、この売り禁なの。そもそも、この『精霊の舞う取引所』って、歴史的にみても、かなり残酷な場ですから。こんな非道、『約束事の最上位』とうたわれる『自然の法』にすら許してもらえないのに、ここだけは何をやっても構わない、特別で、何もかもが超越して許される……みたいな雰囲気があるわよね? 何が起きてもすべて自己責任、ここは魂すら震える恐ろしい場……『少しの油断で殺される』としっかり認識しないと、復活できない『退場』が待っているわよ? それを、これからお話しいたします。希望を持たせながら痛め付けると、どうなると思います? これまた怖い、『命乞い』が始まるの。ここで、追い込まれた空売りには、二つの行動パターンが見込まれますわ。まず一つ目。みるみるうちに、生きたいという願望に飲み込まれ、逃げられる最後のチャンスが来ても……まだ勝てると思い込んでしまい、行動できなくなります。そして確実に、再起不能の退場です。次に二つ目。希望があったのに、寄らない……。それでも、相場ではお決まりとも言える、大引けの僅かな売り数量が必ずあります。その様子はまるで、天から垂れた細い救済の糸に、助かりたいと群がってよじ登ろうとする憐れなヒト達ね。この僅かな売り数量を奪い合う、おぞましき地獄の比例配分……数が足りないときは、『大精霊』様がご優先の、まさかまさかの大抽選会だったかしらね。涙を流してまで当たるように祈ったのに、それでは当然、当たる気配すらない……。間違いなくこれ、死神の趣味よね。心から、楽しんでいるのかしら? さらに、生きたいという欲望を掻き立てる、美しい旋律になってしまっているわ。なぜなら、買い戻さないと退場が待っているからね。いきなり魔に蹴り出されたようなものかしらね? あっ……、魔ってどのような場所かご存じかしら? 噂によると、嘘に嘘を塗り固めた魔の王者が、嘘に嘘を塗り固めて嘘でコーティングした場所を天の血から錬成した真っ赤な嘘で塗り潰した新参者に負けてしまう世界、と聞いた事がありますわ。わたしたちの想像をはるかに超えた、恐ろしい場所みたいね。そのようなおぞましい見世物が、一度ではなく、毎日毎日、積み重なって、毎日のように希望から突き落とされる絶望はね、まさに、魔物の生臭い血の中を泳がされるようなものですわね。さらに酷い事に、この銘柄を持っていない無関係な者までが――『野次馬』として群がってくるの。逃げられない空売りを痛め付ける、この極東の地の見世物だからね。おそらく、『何とかは蜜の味』だっけ、これかしらね? もう他の行動は一切取れず、食べ物はおろか水すら喉を通らず、不安に完全支配され、買い戻しで頭が一杯になります。そして……退場ね。生きたいという欲望が残されてしまったので、さっきまでは信条を通すとか言っていてもね、いざとなったら、みんなこれですわ。……そろそろ結ばないとね。このような『見世物となる空売り』が、しっかりと死なないと、必死で命懸けな買い戻しが発生しないから、この先の大きな短期上昇は見込めません。わたしのような、売りが大好きな売りあおりが生き生きとしているようでは、もうダメなのよ。ちょっと長かったかしら? でも、勉強になったでしょ? 大したことないこの程度の材料で、この銘柄には過去に仕手の疑義が何度もあり、上への張り付きが始まってから一度も剥がれていない点を喜ぶなんて……、ほんと、ダメね。この勝負……、売りあおりの勝ちですわ!」
へぇ……、おいおい、こ、こいつは何を嬉しそうに、グダグダと話しているんだ…? しかも、話しながら……、身振りや手まねなどを駆使してアピールを重ねるとは。そこまでして、こだわる内容か、これ? こんなドス黒いクソ話を美談にしていないか?
最後に……売りあおりの勝ち? はぁ? ですよ、何……、勝手に決めてんだよ! もう、自分を抑えられそうにない。いつも飲んでいる、液体の残りを一気に胃に流し込んだ。これを理性で抑えるのは無理だ。
自分の本能……汚い言葉が口から次々と吐き出されてしまった。
「おい、この売りあおり! 黙って聞いてりゃ、口から出まかせ抜かしやがって! 何が売りあおりの勝ちですわ、だよ? 勝手に決めてんじゃねぇよ? 地道に研究してさ、『不気味に生きているお金』の秘密を解明できる技術が公開されたんだぞ? その評価が、今の上昇だろうが? そのような行為をすべて否定するのが、この世界なのか? 胸糞悪い!」
それでも彼女は、全く動じることなく、逆に嬉しそうに話しかけてきた。
「へぇ……、あなた、わたしが初めてなのかしら? そうね、まずは自己紹介しようかしら。 わたし……『リリア』と申します。あなたの名は?」
急に名を聞かれ、尻込みするが……答えるしかない。
「名前? リスクだよ。まったく、何が自己紹介なんだよ?」
その途端、リリアと名乗った女性が、俺の方に近寄ってきた。なぜか、妙な視線を感じます。なぜですかね?
「なかなか勢いがある名前ね? 気に入ったわ」
ほのかに甘い香りが漂ってきた。やはり、とんでもないやつみたいだな。あんな恐ろしい話を、満面の笑みで語れるやつだ、そういうやつが好む香水なのかもしれない。
「だったら何だよ? 売りあおり以前にさ、あんなドス黒い話を嬉しそうに語れる地点で、あんた、まともではないよ?」
そしたら……不思議と、リリアの表情が曇る。
「あなた、トレーダーよね? 『慈悲』に心身を捧げている、手堅いご職業の方ではないわよね?」
「あのさ、俺がそんなのにみえます?」
「だったら、相場としっかり戦う覚悟はあるのよね?」
「えっ! まあ、そりゃあ……、勝ちにいきますよ!」
唐突に「戦う覚悟」と聞かれたら、さすがに、とまどいを隠せなかった。
「だったら、『エレノア』と戦うの?」
エレノアか。極東の地の相場を、資金的に支配していることで全地域的に有名な大精霊で、それはそれは、大いにおそろしい精霊だと、思い出したくない痛い経験から、体に叩き込まれてます。ちなみに、「エレノア」という言葉だけで、みんな一斉に怒り出しますよ。それだけ、この「エレノア」を思い出すのは、辛いです。
俺だって、嫌な思い出があります。例えば、明らかに納得できない大損です。もちろん、ただの自分の力量不足です。それは、大いにわかっています。相場の大損に納得とか、そういった解釈自体が誤りなのも、わかっています。それでも悔しくて悔しくて、涙を流したことが何度もあります。
しかも、その程度ならましな方で、全資産を奪われて発狂したとか、慎重に取引しても一度は何もかもを奪われるから用心すらできないとか、よく聞きます。ただ、この手の話は悪い方向に膨らみがちですので、おそらくオーバーな部分もあるとは思いますが、みな厳しいのは現実です。
そもそも、エレノアは大精霊なのだろうか? 天との約束はどうしたんだろう。
というのも、大精霊は必ず、天と一つの約束を交わします。エレノアは、たしか「ヒトに、実り豊かな生活をしっかり与える」だったはず。その結論が、これなのね。う……ん、です。あっ、俺でもこのあたりは詳しいですよ。なぜなら、精霊へご奉仕させていただく前に、これらを丸暗記する必要があるからです。食べていくには避けて通れないからね。相場の世界に飛び込みたくても、原資……種銭が必要ですから。
「あいつか……、クソ!」
俺も、「エレノア」に対して、無意識に声が高ぶってしまった。
「ご存じのとおり、エレノアは、強敵ですわ。それでも、あなたは戦う覚悟を決めて、左手に持つ心許ないナイフでエレノアに立ち向かうの?」
「えっ! ナ、ナイフって!? そんなの持ってないよ!?」
このリリアって売りあおり、いきなり変なこと言うよな……。
「もし左手に持つならば、それは心のナイフになりますわ。もちろんそのようなものでは、かすり傷の一つすらエレノアに与えられません。それでも戦わないと、勝てません。ここに、『精霊の舞う取引所』に対する難しさがあるのですわ。ここでね、勝てないからと諦めて、ふわふわとした安心感に惑わされ、エレノアに『慈悲』を与えるようでは、すぐに全資産以上をむしり取られて、破滅するのよ。このようなものを買ったまま、売らずに放っておくなんて、ここでは、そのような『慈悲』に相当いたしますの。だから、とにかく、売らないとダメなのよ」
「い、いくらなんでも、それは無茶苦茶です。エレノアに慈悲? だれがあんな大精霊に、そんなことをするんだよ! しかも、また『売れ』ですか!」
「あら? なにをそこまで焦っているのかしら? その様子……現物担保をすべて精霊に捧げて、限界までお金を借りて、買いで突っ込んでいるのかしら? それ、己のすべてを捧げた悪魔の召喚で、命を無くすのと同じね。それなら……、まだ、エレノアの悪魔の償還に引っ掛かって、全資産を無くした方が良かったかしら? なんちゃって! いずれも『運が悪かった』の一言で、何事もなかったようになるのよ」
あ、あの……。これは、俺を和ますために言ったのだろうか? なんか、次々と相手のペースに乗せられているような……。
そもそも、「なんちゃって!」……って、これのどこが面白いのか、まったくわからないのだか。どうしよう……。
「あ、あの……、それの何処が面白いのか、わからないのですが……?」
俺は、正直に答えることにした。むかつくが、わからないのは事実なので、意地を張っても仕方がないです。
リリアと名乗った女性は、なぜか、相当に困った様子でジタバタし始めた。
「えっ、ええ? そ、そういう反応するんだ。……、リスクさん? でいいのかな。結構面白いと思ったんだけどな……、これ。わたしも、このあたりは抜けていてダメね。どちらも悪魔の『しょうかん』なのに、なぜか、失うものが違うから、なんちゃって! だったのよ」
はい? いや……、さきほどまでのハードな売り煽りが、なにこれ? 急にこんなに変わるの? ええ……。あまりの出来事に、俺は、まともな返答ができなかった。
「そ、そうなのですか……はは」
その時でした。張り詰めていた場が急にやわらいで、笑い声に包まれた。
「ぎゃはは。この売りあおり、いつも途中からこれだから憎めないんだよな」
「俺は、わかっていたぜ、その、なんちゃって、だっけ?」
「この売りあおりも、悪夢が生み出したとまで伝えられるエレノアを嫌っていたとはな、ここだけは同意だぜ!」
なるほどね。エレノアの点で賛同できる部分が出てきたからか。
彼女は少しうつむいて、また……、何かを考えているようだ。そしたら急にです、飲み干した安い酒が入っていた俺の円柱グラスを手に取って、眺め始めた。こんなものに、何をする気なんだ?
「せっかくだから、相場にとても大切な、面白いことを教えてあげますわ」
「面白いこと…?」
これには興味が出てきた。聞いてやるか。
「わたしの手にあるこのグラスをみて? ここにまず、ギリギリまでお水を注ぎます。それでね、このグラスから水を移す行為を、利益確定の売りに例えてみたいと思います。条件は簡単で、このグラスから半分までは、『爆益』なんだけど、半分を僅かでも超えると『大損』になるの」
え……。利益確定の売り、ね。また、売りの話か。まあ、売りあおりだからね。
「爆益から大損に! さすがに極端過ぎません、それ?」
「そうかしら? 相場の世界では、毎日のようにあるわよ? 当日の夜までは大いに買いだ買いだの連呼だったのに、翌朝には、みんな意気消沈の雰囲気になる、あれよ。だから、売っておいてねとあれだけ言ったのに……となってしまう、わたしが大満足の展開ですわ」
おいおい、げ……、しっかりとした売りあおりじゃないか、これ。
「う、売りませんよ?」
「あら? まだ売りたくならないのね。ならば……リスクさん、この状況で、あなたはどうされます?」
ああ、問いの答えか。グラスから水を移すのか。それは……簡単ですよ。
「グラスの長さを正確に測って、きっちり半分を移して、最大限の爆益をいただきますよ?」
どうよこれ? こういう所はきっちりしているからな、俺。
「リスクさん……それはダメです。測ってしまったら、事前に売るタイミングを知っていたことになりますよ?」
「へぇ……?」
事前に売るタイミングを知っていたって、それ、まずいやつだよね?
「その表情、気が付いたみたいね。安心したわ。さすがにそれは、ダメですわ。ヒトはおろか、精霊でも厳しい扱いを受けます。そういう行為がしたければ、そうね、『大精霊』にならないとね」
「あっ、いや……。えっ!」
それ、どういうこと? その「そういう行為がしたければ」って……、大精霊は、そういう行為が可能なのか……?
「どうしたの? 不思議そうに宙を見つめて……?」
「リリアさん、で良いのかな? それさ、大精霊は、そういう行為が可能という事になるのですが……? まさかね?」
「……、嬉しいわ。わたしの名前で呼んでいただけるなんてね。そのご指摘ね、うん、そうなんだよ。天の者にばれても、『儲かった分を納めれば大丈夫』だったはず。これでは、収支がマイナスにならないから、当たり前のように、やられているわ。ばれなきゃ儲けになるし、ばれても、儲けた『おもてなし』の一つでも返せば、それでおしまい、ですわ」
「えっ……」
嘘だろ……、つまり俺、ただのバカだったみたいだな。ここに集まるみんなは、知っていたのかな、これ? そういうのってさ、ヒトの皮をかぶった悪魔が暗躍するファンタジーの設定、とかではないのか? まさか……、現実にそんなことが起きているなんて、です。ううっ……。
そんな事も知らなかったのか、おまえは! という、周りからの冷たい視線が、俺に降り注いでいます。やはり、知っていたのですか……。
「その戸惑うお気持ちは、お察しいたしますわ。本当は……エレノアが取引の見本として、きちんとやるべきなのに……あれでは、期待すらできそうにないわ」
「期待すらできそうにない」という言葉が出たところで、この場にいた者がみな、歓声をあげる。
「あっ、エレノアのこと、ご存じなのでしょうか?」
ふいと気になったので、質問してみた。
「えっ! あ、いや……ううん、ただ、わたしも結構やられてるから……ね?」
慌てる素振りをみせながら、明らかに誤魔化した、不透明な答えが返ってきた。
「エレノアって大精霊ですもんね……、声はおろか、その姿すら見たことがないが正解ですよね、失礼しました!」
「うん、そ、それよ。ね?」
これは……何か知っているぞ。ただ、これ以上の模索はよそう。リリアさんって、隠すのは下手だな……と思った。
おっと、リリアさんの慌てぶりをみて、後ろでテーブルを囲っているグループが騒がしくなってきました。あの売りあおりもエレノアにやられていたとはな、そんな話題で盛り上がっています。
「ねぇねぇ? そろそろ答えはどうなの? 測る以外で?」
「そうですね……」
答えなど、考えてもいなかった。仕方がない、行き当たりばったりで答えることにする。
「大損はきついから、少しずつ注いで……ほどほどで止めます」
だめだな、これは。こんな答えのはずないよね。
「相場ってね、常に値が動くから、少しずつなんて器用な真似はできませんわ。特に上がり切っている相場とか、油断したら一瞬で谷底へ一直線です。どう? 売りたくなった?」
た、谷底……。何気なく、しっかりと売りあおる。ううっ……。きついね、このさりげない売りあおり。ここは、平然に受け答えしないと売らされてしまう!
「ですよね?」
「うん。だから、一気に売らないとダメね。どうする? 一気に移したら僅かなミスで……?」
それはわかっています。目分量では怖いです。
「さすがに一気だと、ただの賭けになってしまいます。それだと、上辺だけ移して、撤退かな」
自分でも情けなくて逃げたくなる回答。どうなるのか。
「リスクさんは……ベアですね」
「べ、ベア?」
ベアって……弱気の意味だったはず。
「うん。やっぱりね、リスクさんが、お金を借りてまでして抱えている、このようなはめ込み銘柄の相場には全く向いておりませんわ。さてさて……、とても大事そうに胸ポケットにしまってある端末を今すぐ手に取って、全枚数、成り行き注文でおさらばしましょう!」
「はい……?」
ちょっと! 答えと思ったら……また、ただの売りあおり! しかも俺の全枚数に……何をしろと?
「ちょっと待ってください。どうしてそこまで売りにこだわるのですか?」
「何って……当たり前じゃない。売って、初めて自分のものになるのよ。ただの含み益など眺めていて、何になるの?」
「そんなことは、わかっています。それでは、リリアさんの回答は、どうなるのでしょうか? 気になります」
「わたしの回答……、そうね……?」
リリアは一息おいて、ゆっくりと話し始めた。
「目視でも確実にずれない、特別な状態を探してみようかしら」
「え……?」
「例えば、傾けたときに出来る水面に注目。その水面の片端が、グラスの底の円周上の点に当たる場所とか、そういう場所は素早く当てられるでしょ? グラスの形や容量は過去の値を記録したチャートから導けますので、チャートを頑張って勉強して、特別な場所……売り買いの場所かしら? おのずと見えてきます」
「チャートから導く?」
「そうよ。テクニカルと呼ばれているわね」
テクニカルか……確かに、そんなのあったな。やたらと複雑な数式が多くて……ね。はい、俺には手に負えません。
「でも……?」
「はい?」
「それと、俺の目盛りを付けて測るのとは……何が異なるのでしょうか?」
呆れた顔で、それでも、なぜか楽しそうです。
「リスクさんのは……、まだチャートができていない未来の時間軸に、ここで売ってねと……、大精霊に印を入れてもらった状態ですわ!」
「それは……、ダメなやつですね」
「うん。天の者はね、特にヒトには厳しいからね、絶対にばれるから、ダメだよ!」
「そうですか。これは一応、確認なのですが、ヒトや精霊では、儲かった『おもてなし』分だけを返しても……ダメなんだよね?」
「……リスクさん? そこまでして、魔がお好きなのでしょうか?」
「えっ! あ、いや……」
何も言い返せなかった。完敗みたいです。
「俺の負けですね……、でも、売りたくはないです」
「あら? ベアに加えて、正直者みたいね。ではリスクさん、それでも今すぐに、全枚数を成り行きで売る注文を出しておきましょう。ちょっとしつこいけど、あなたは、ここで騒がれるような恐ろしいはめ込み銘柄など、まったく向いておりませんので。夜間取引の気配は、まだ良好なはずです。この夜間で売れれば理想なんだけど、でも、現物のみだからね……。そうね、明日の寄り付きに間に合わせましょう! きっと、大丈夫ですわ!」
「ちょっと!」
「ベアで正直なんて……、名前負けしているわね、あなたの名?」
「あっ、あのですね、こんなタイミングで、そ、そこを突っ込まないでください!」
いきなり俺の名前に突っ込まないで。なんでこんな名を……、とほほ。
「どうしようかな?」
「はい……?」
「わたしね、あなたの事が気に入ったのよ。それはね、この世界……、嘘が嘘を引き連れて、どれが嘘なのか、端末を使ってもわからない状態とまで揶揄されてしまっているの。だから、本当に、売ってほしいのです。明日の今頃、魂が抜けたリスクさんを……わたしは見たくないわ」
えっ……、また売りあおりです。明日の今頃って……何だよ?それ?
「あ、あの……?」
「現物ならまだしも、あなたのは……、地獄の果てまで追われて、だよ?」
「……、いや、さすがに他から言われて売るような真似はしたくありません!」
「そうなの? そこまで言い切るのなら、買ったときはどうだったのかしら? ここの『買いあおり』に乗せられたのよね? それとも自分の意思だったの? どっち?」
あ……、それは……。
「……、ここで飲んでいて、乗せられました。すみません」
なんだか、急に息苦しくなってきた。そうだよな、ここを勝負した根拠なんて、何もないんだ。
「やっぱり正直ね。最近は本当に、あなたみたいのが少ないから、ますます気に入ったわ。もう安心かしらね? あとはリスクさんの判断に委ねるわ。幸運をお祈り申し上げます」
急に恥ずかしさがこみ上げてきて、そのまま店を飛び出してしまった。そこから先、寝付くまでの記憶が飛び飛びなのだが……、一つだけ、鮮明な記憶がある。
それは……、全枚数、成り行きで…おさらばする注文を入れたことです。
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