第七章 未来の灯り

第30話 旅の終わりに


 ―― 二〇三〇年 八月二十三日 火曜日 ――



「じゃあ、今日もバイエル練習しようか」



 翔太くんは「はーい」と大きな声で返事をすると、メトロノームを自分でセットして、軽やかに両手でピアノを弾き始める。


 小さな子どもが奏でる音色が、店中に響く。翔太くんがわたしからピアノのレッスンを受けていることは、お店の常連客の間でもいつの間にか話題になっていた。



「いい音色だねえ」


「ピアノの音なんて、何年振りかな」


「あの子は将来ピアニストになるかもね」



 毎週火曜日の十六時になると、たどたどしいピアノの音色を求めてやってくる人もいるらしいから意外だ。

 なのでわたしは、レッスンを始める十五分前にはここへ来て、自分の指を温めるためにも、二、三曲の楽曲を披露するのが恒例となっていた。



 今日も翔太くんのピアノのレッスンを終えて、遙さんとお店でコーヒーを飲みながら一週間の出来事なんかを話し合う。



「まさか翔太がピアノを習いたいなんて言うと思わなくて、本当に助かるわ」


「わたしなんかのレッスンであれだけ弾けるようになるなんて、きっと翔太くん才能あるよ」


「そんなに謙遜しないで。琴音ちゃんの教え方が上手なのよ」



 くすくすと微笑んで褒めてくれる遙さんに、いつもの照れ隠しのようにコーヒーをすする。




 ◇


 あれから一年が過ぎた。



 あの日、夜明けと共に葵の車でわたしは自分のアパートに戻ってくると、そのまますぐに会社にお詫びの電話を入れて、退職の手続きを済ませた。


 パワハラ課長からは相変わらず、「お前には投資したのに」だのなんだのねちねちといやみを言われたが、電話を切ったわたしは、清々しさでいっぱいだった。

 それからすぐにアパートを引き払い、しばらく葵の家でお世話になることにしたわたしは、お母さんと連絡を取り、ピアノの練習を再開した。


 丁度葵の実家には、使われていない箱型ピアノがあった。かなり古かったが、業者に診てもらい調律を施すと、わたしの弾く音を元気よく奏でてくれた。


 今でも実家には定期的に帰っていて、お母さんに直接ピアノを教えてもらうこともある。

 以前、お母さんとの間にあった壁も、わたしがお母さんに素直に接するようになってからは、随分薄くなっている。



『まさか、会社辞めちゃうなんてねえ。でも、お母さんは、あなたがピアノに戻ってくれて嬉しいわ』



 会社を辞めて実家を訪れたときのお母さんの言葉を、今でもたまに思い出す。本当に驚いていたけれど、わたしが本気だとわかると、それからは熱心にわたしのピアノの練習を看てくれた。


 これでもピアニストの娘だ。その自信もあってか、一年の猛練習でわたしは昔以上にピアノを理解して弾きこなせるようになっていた。


 葵の家でお世話になっていた間は、駄菓子屋と畑の手伝い、それに神社の掃除や巫女の仕事なんかも手伝っていた。


 そんなある日、いつものように神社の境内を掃除していると、結弦のお祖母さんが姿を見せた。



「いつもお掃除してて偉いわね。新しいアルバイトさん?」



 向こうの世界でお世話になった頃に比べると、腰も曲がっていて、声も少し弱々しくなっている。



「いえ、実は天門家に居候しているんです。それで、なかなか仕事が決まらなくて……」



 そこまで言うと、結弦のお祖母さんは少し嬉しそうに微笑わらって言った。



「よかったらうちで働かない? 旅館なんだけど、あなたは浴衣も似合いそうだし、若い人がいなくて、困っていたのよ」



 もう少し落ち着いたら、実はこちらから訪れてみようと思っていたので、戸惑いもあったがわたしはすぐにその話を受けた。



「あ、ありがとうございます。是非、働かせて下さい!」


「そんなに元気に言ってもらえると嬉しいわねえ」


「あ、あの……」



 少しためらったが、聞きたい気持ちを抑えきれない。



「ご主人や、千佳さんや井関さん、それに長谷川さんはお元気ですか?」



 やはり驚いた顔を見せられた。見知らぬ女がいきなり従業員の名を口にしたのだから、無理もない。



「あ、あなた、もしかして、一度うちにお手伝いに来てくれたことがあるかしら……?」



 今度はこちらが驚く番だ。お手伝いをさせてもらったのは、この世界ではないのだから。



 しかし、淡い期待を込めて訊いてみた。



「八年くらい前に、少し。覚えてくれていますか? あと、結弦と美輝と怜っていう同級生も一緒だったんですけど……」



 結弦のお祖母さんは、少し考え込んでから答えた。



「ごめんなさい、なんとなくイメージはあるんだけど、思い出せなくて。わたしも歳ねえ」


「いえ、大丈夫です。ありがとうございます。あの、でもわたしのことはみなさんには伏せておいてください。気を遣わせてしまうと、わたしも心苦しいので」


「ええ、わかったわ。みんな元気よ。あなたが来てくれたら、きっと喜ぶわ」



 改めて旅館に伺う日を決めて、その日は別れた。



 結弦はわたしと葵の記憶には残ったまま、この世界から消えていた。入院していた病室にも結弦の名前はなく、卒業アルバムにさえ載っていなかった。

 結弦の実家にも行ってみたが、確かめるのが怖くなったわたし達は、インターフォンを鳴らさずにその場をあとにした。



 わたしと葵の記憶で生きている結弦は、一体どこに行ってしまったんだろうか?



 きっとわたし達とは違う、どこか遠い世界で、頑張っているのだろう。




 ◇


 遙さんとのお喋りを終えて、車で慰霊碑に向かうと、既に葵の車が止まっていた。

 葵の車の横に付け、車を降りてキーをロックすると、慰霊碑がある階段を上る。



「お疲れ、翔太くんどうだった?」


「前回の復習も完璧だったよ。本当に子どもは上達が早いんだから」



 そう言って、持ってきていた大きな花束を抱え直した。


 ここは相変わらず静かだ。自然の音以外なにもない。



「あれから一年ね」



 葵がそう呟くと、わたしは慰霊碑に花を手向けて、手を合わせて目を閉じた。




 夏の空は、今日も眩しい。


 照りつける日差しに目を細めてみても、たった明日の未来さえ、わたし達には見ることができない。


 それは、もしかして悲しみかもしれない。


 それでも、わたし達は明日に向かって、希望を抱いて生きていく。


 明日という未来に向かって、今日を大切に生きていく。




 桐畑結弦、巡里美輝、時永怜。

 わたしを変えてくれた、大切な三人に、心の中で告げた。




 『――未来を、ありがとう』





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