第29話 七色狭の夜


 ――静かだ。



 背中に感じる僅かなぬくもり。


 うっすら目を開けると、見覚えのある女性が月の光を浴びてわたしの顔を覗き込んでいる。



「……み、き?」



 呻くように声を出す。



「……あたしよ」



 美輝じゃない。美輝よりも少し低くてどこか懐かしい声。この声は、



「……あお、い」



 七年振りに再会した大切な親友は、そのまま冷静に告げた。



「美輝ちゃんと怜くん、無事に送ることができたわ」



 そうか、美輝も怜も、もういないんだね。これでふたりは、あの繰り返す運命から解放されたんだね。


 もうふたりには会えない。でも、以前のような淋しさや悲しみはない。寧ろ、ようやく眠らせてあげられたことに安堵している。



「うん、送ってあげてくれて、ありがとう」



 葵がいなかったら、わたしはまたここから飛び降りていたかもしれない。葵のお陰で、わたしの大切な親友達を、本来いるべき場所へと還すことができた。



 わたしは、葵に預けていた体を起こす。



「琴音、これからどうするの?」



 ……どうしようかな?


 美輝と怜が助けてくれたわたしの命。わたしはこれからの人生を、精一杯生きていくと決めたんだ。



「あ、あのさ、琴音」


「……なに? 葵」



 葵は目を逸らして、少し頬を赤らめている。いつも強気な態度の葵が、こんな顔するなんて珍しい。



「も、もし、家に帰るのがいやなんだったら、あ、あたしの家に住まわせてあげてもいいわよ」


「……え?」


「ほ、ほら、あたし達、もう友達じゃない? 美輝ちゃんも怜くんもいなくなって淋しいだろうから、あたしが、なんとかできないかなって……思って」


「ぷっ……あはははは!」



 わたしなんかよりずっと大人だと思っていたのに、意外とツンデレな葵に、思わず吹き出してしまった。

 それを見て、葵が目を細めて声のトーンを落とす。



「ちょっと……失礼じゃない?」


「あははは、ごめんごめん、だって葵、いつも大人ぶってるくせに、急にキャラ変わっちゃうんだもん。おっかしい」


「うっさい! せっかく心配して言ってあげたのに、もういい! 好きにしたら?」



 怒ってそっぽを向いてしまった。



「ほんとに、ごめんね……」



 背を向ける葵にそっと近づいて、後ろからぎゅっと抱きしめる。



「ちょ、ちょっとあなた、なにしてるのよ」


「少しだけ……このまま」



 今の顔は見せたくない。大切な親友に、これ以上心配をかけたくないから。

 美輝と怜はわたしのために、その身を何度も犠牲にして頑張ってくれた。その苦しみから解放できたのは、葵のお陰だ。

 葵がいなかったら、わたしはまた飛び降りて、ふたりは過去をくり返していたかもしれない。

 だから、葵にはどれだけ感謝しても足りない。



 それに決めたんだ。もうわたしは友達に心配をかけるようなことはしない。傷ついたり悩んでいる友達を、助けてあげられるくらい強く生きるって。



「ほんと素直じゃないんだから、琴音は。そんなんじゃ、ゆづるが浮かばれないわよ」



 その言葉で抱きしめていた腕を緩めて、ふたりして顔を合わせて声を重ねる。




「「ゆづるって、誰?」」




 誰だかわからないけれど、なんだかとても懐かしい響きだ。その名前を口にするだけで、切なさが込み上げてくる。



「わかんない。なんか今、ふいに口をついて出ちゃったんだけど。……琴音の彼氏?」



 わたしが訊いている上に言った本人さえわからないのに、わたしがわかるわけがない。ましてや彼氏を忘れるなんて、どれだけ最低な彼女なんだ。

 仮にわたしの彼氏だったとしても、葵も、『浮かばれない』だなんて、もう死んじゃったみたいな言い方して。



「葵、自分の元カレとかじゃないの? なんかいっぱい彼氏いそうだし……」


「失礼ね! いないわよ!」



 葵の元カレはひとまず置いておくとして、ゆづるって誰なんだろう。

 でも、いい名前だな、ゆづる。弦を結ぶって書くのかな? それならわたしは琴の音だし、なんだか運命的だ。


 名前しかわからないその人と、いつか会えるような予感と期待が、わたしの胸をくすぶっていた。



「さあ琴音、くだらないこと言ってないで、帰る前に美輝ちゃんと怜くんに挨拶していこう」


「うん、そうだね。助けてくれてありがとうって伝えなきゃ」



 葵に促されて慰霊碑の前で腰を落とすと、わたしは思わず、「あれ?」と声を上げた。



「どうしたの? 琴音」



 暗くて気づかなかったけれど、慰霊碑の前に、見覚えのある白い無地の封筒が置かれている。

 宛名以外、装飾も柄も入っていないとてもシンプルな封筒。それを手に取り月明りを頼りに宛名を見て、わたしは目を疑った。




 【――琴音へ】




 封筒の宛名は、わたし宛になっている。



「なに? どういうこと?」



 わたしの手の中にある封筒を、葵が横から覗き込み驚くような声を出した。



「これって……」



 封筒に見覚えがあることに気づいたわたしは、美輝と怜に宛てた手紙を持っていたことを思い出した。

 カバンの外ポケットを確認すると、そこには間違いなく二通の手紙が入っている。その手紙が収められている封筒は、慰霊碑の前に置かれていた物と同じ物だ。


 慌てて封筒を取り出して宛名を確認すると、また息が詰まった。


 わたしが美輝と怜に宛てて書いた手紙が、二通ともわたし宛てに変わっている。



「ふたりに宛てて書いた手紙が、どうして……。どういうことなの? 葵」


「あたしに訊かれてもわかんないわよ。巫女だからって、おかしなことが全部わかるわけじゃないんだから」



 それもそうかと思いつつ手紙に目をやるが、その手紙からいやな感じはしない。寧ろ、どこか懐かしいような温かい気持ちになるのは、三通すべて、宛名の筆跡に見覚えがあるからだ。



 遠い昔……。みんなでテストの反省をしたとき。授業中、美輝から回ってきた手紙。わたしの家に集まって、試験勉強をしたとき。


 みんなの字を何度も何度も見てきた。この懐かしい字を忘れるはずがない。


 わたしはその三通の中から、一通を選んで右手に持つ。


 少し丸くてかわいらしい文字。これは美輝の字だ。


 ためらいながらも、丁寧に封を切る。封筒の中から手紙を取り出すその手は、小さく震えていた。


 溢れそうになる涙をこらえて、わたしは便箋に書かれた文字を、ゆっくりと目で追い始めた。




【やっほー琴音!

 旅行楽しかったね。

 段々変わっていく琴音には驚かされてばかりだったけど、繰り返した世界の中で、わたしの一番の思い出になりました。


 一日目の夜は、泣いちゃってごめんね。

 本当はもっと、これからもずっと琴音と一緒にいたかったんだけど、そんなにうまくはいかないよね。

 わたしはひと足先に、怜と一緒に違う世界で頑張ってきます。


 そういえばさ、入学式の日のこと覚えてる?

 わたしと琴音は初対面のはずなのに、間違えて琴音を名前で呼んじゃったんだよね。

 変な子だと思われて避けられたらどうしよう、なんて焦っちゃったよ。

 でも、何度出会っても、どんな出会いかたでも、琴音は変わらずわたしの親友になってくれたよ。


 もしも生まれ変わって、遠い未来でもう一度出会えたなら、そのときはまた、わたしと友達になってね。



 友達になってくれてありがとう。

 七年間、淋しい想いさせてごめんね。

 これからはずっと、幸せでいてください。  巡里 美輝 】




 封筒には、古ぼけた写真が一枚同封されていた。夏祭りの前に浴衣を着てふたりで撮った写真だった。


 それを見た瞬間、全身を突き抜けるような切なさが込み上げる。

 写真には、朝顔の柄の浴衣に身を包んだ美輝が笑っていた。



 朝顔柄の浴衣の意味は……[固い絆]



 美輝という素晴らしい親友がいてくれたことを、わたしはこれからも誇りに思って生きていく。



 そして、わたしが着ている浴衣には、染め上げられた蝶の柄。




 その意味は……[長寿]




 美輝、わたしも旅行楽しかったよ。

 大好きな美輝とずっと一緒にいられて、それだけでわたしは幸せだったよ。

 入学式のあと、おかしいなと思ったのは、繰り返していた証だったんだね。

 なんだか美輝らしいね。

 そんなちょっぴりドジな美輝が、わたしはずっと大好きだったよ。

 それにいつも明るくて美人な美輝は、今でもわたしの憧れなんだ。

 こんなすてきな人がわたしの親友でいてくれたことは、わたしの一番の自慢だよ。


 どこかの未来で出会えたら、もちろんまた、友達になろうね。

 今度こそ一緒に大人になって、ふたりでお酒を飲んだりしようね。

 そこでまた、ガールズトークしようね。

 それまで少しの間、わたしもここで頑張ります。

 だから美輝も、わたしの知らない世界で幸せになってね。




 ――写真の中で笑っている美輝へ、わたしは心で語りかけた。




 ……涙を堪えて、次の封筒を手に持った。

 厳格で、止めはねがしっかりとしている力強い怜の文字。




【神谷 琴音 様

 俺は筆不精っつーか、手紙なんて書いたことねえからよ。こんな書き方でわりいな。

 何度も過去に戻って、いろんなこと体験できて、思い返すと全部楽しかったよ。

 水泳の楽しさも、お前のおかげで知ることができたしな。

 あ、そうだ。いつか言ってた俺の夢、最後に教えてやる。

 俺は水泳部ですっげえ練習して泳ぎがもっとうまくなったら、みんなまとめて助けてやりたかったんだ。

 まあ、それは叶わなかったけどよ。

 あんだけ苦労してお前だけでも助けられたなら、今は満足だ。俺には美輝もいるしな。


 琴音、あいつと友達になってくれてサンキュな。

 あいつ毎回お前と友達になれると、嬉しそうに報告してくんだよ。それくらい、お前のことが大好きだったんだろうな。


 だから、あんまり泣くんじゃねーぞ。これからもずっと、元気でな。  時永 怜 】




 ――手紙でも怜は相変わらずだね。

 怜の叶えたいことって、みんなの夢だったんだね。

 そのために、あんなに一生懸命練習してたんだね。

 本当にありがとう。

 わたし、もう泣かないよ。

 怜と約束する。

 ふたりがいなくても、淋しくて泣いたりなんかしないよ。

 葵もいるし、それにふたりも、見守ってくれてるってわかってるから。

 だから、わたしは大丈夫だよ。

 最後までありがとうね、怜。




 ……そして、誰だかわからないけれど、懐かしさの中に愛おしさを感じる文字。




 意を決して、最後にその手紙の封を切った。




【琴音へ

 この手紙がちゃんと届くかどうか、俺にはわからないけど、届くと信じてこの手紙を綴ります。

 きっと琴音は、この手紙を見つけても、誰からの手紙だろうって戸惑っているよね。


 この手紙を書いている俺は、もうこの世界には存在していません。

 色々説明しても、きっと琴音を悩ませるだけだと思うから、今の想いだけを記します。


 笑ってくれて、ありがとう。

 喜びをくれて、ありがとう。

 愛しさをくれて、ありがとう。

 勇気をくれて、ありがとう。


 でも、もう琴音は悲しまないで。

 思い出せなくても、悔やんではいけないよ。

 琴音は誰よりも悲しんだんだから、次は誰よりも幸せになる番なんだ。

 だから、これからの日々を鮮やかに色づけて生きてね。


 琴音のそばには、きっと葵もいてくれるから。


 ふたりともありがとう。

 どうか、しあわせに。  桐畑 結弦 】




「ゆづ、る……」




 ぽたぽたと落ちる涙が、手紙に染みを残していく。



 どうして忘れていたんだろう。


 わたしの大切な人。わたしを愛してくれた人。

 そしてわたしが、たったひとり愛した人。


 忘れないと誓ったのに。絶対また巡り会うその日のために……。


 悔やんではいない。ただ、一瞬でも忘れてしまったわたしが許せない。



 その手紙で葵も思い出したように口を開く。



「なんで? 結弦は、存在を消されてしまったはずじゃ……。でも……ゆ、づる」



 葵もそれ以上、言葉を紡ぐことができずに、ふたりでその場にしゃがみ込んだ。



 わたし達は互いを慰め合うように、体を預けて泣いていた。






 顔を落として泣いていたわたし達は、湖面を見て夜空に起きた異変に気がついた。

 ふたりして泣くのをやめて、空を見上げる。



「なによ、これ? 夜なのに、どうなってんの?」



 葵は辺りを見渡して困惑しているけれど、夜空を見上げて、わたしは笑顔がこぼれていた。



 そうだね結弦……わたしはこれ以上、自分を責めなくていいんだよね。

 わたしの長くて暗い夜が、今、ようやく明けるんだね。

 あの事故以来、灰色になった世界に、色が戻り始めているんだね。




 みんな、ありがとう……。




 夜空のキャンバスを彩っているのは、もちろん結弦と、美輝と、怜。

 そして、葵とわたしだ。



 夏祭りの夜、みんなで作ったよね……。



 こぼれる笑顔と、溢れる涙。

 怜と、もう泣かないって約束したばかりなのに、まだまだ駄目だな。



 戸惑う葵に、そっと伝える。



「葵……この空はね、夏祭りの夜にみんなで作ったんだよ。葵もエリィから渡されたでしょ?」



 笑顔で泣いているわたしを見て、葵はふっと目を細めて笑った。



「そう……。そうだったわね」



 葵と肩を並べて、夜空を見上げる。

 これはきっと、みんなの命の煌めきだ。

 これからもずっと見失わないように、失くさないように、わたし達は生きていく。



 たとえ違う世界にいても、この星空の下で、わたし達は繋がっている。

 だから、与えられた命を大切にして、毎日を生きていく。



 きっと誰もが、誰かに支えられて生きているから。

 きっと誰もが、どこかで誰かに必要とされているから。

 きっと誰もが、ひとりじゃないから。


 それをみんなが、命を賭けて教えてくれた。



 葵が夜空を見上げて呟いた。 



「きれいなものね……。夜空に架かる虹なんて」



 わたしは、それに自信を持って答える。



「みんなで作った、虹の架け橋だよ」



 見上げた夜空には、わたし達を包み込むように、七色の虹が架かっていた。



 あれだけ恐ろしく感じていた七色ダムへ架かる虹。

 ダム湖一面が虹に包まれ、水面は七色に煌めいている。


 結弦はまるでその名のとおりに、弦を結ぶようにわたしの命を繋いでくれた。


 それならわたしも繋がれた弦を弾いて、幸せな琴の音を奏でよう。

 幸せという七色の音を、命の限り奏で続けよう。


 もう、ひとりの夜も怖くない。闇だと思っていた夜空にも、七色の虹は架かったのだから。




 ――わたし達は、そのまま夜が明けるまで、夜空に架かった虹を眺め続けた。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る