第28話 琴の音は 弦を結んで


「琴音……」



 誰かがわたしを呼んでいる。



「起きて、琴音……」



 もう、起こさないで。



「いつまで寝てんだよ、琴音……」



 わたしはこのまま、眠っていたいの。



「起きなさい、琴音……」



 聞き覚えのある声が、わたしの名前を呼び続けている。



「もう! 放っておいてよ!」



 がむしゃらに言い放って飛び起きると、そこは見覚えのある神社の境内だった。夏祭りの屋台で買った物を食べながら花火を見た、大切な思い出の場所。

 寝ぼけた目を擦って、ゆっくりと隣を見ると美輝の笑顔が飛び込んできた。



「おはよ! 琴音」



 ……み、き? ……美輝! 美輝だ! よかった、やっぱり生きていた!



「美輝! 美輝!」



 肩を預けてくれていたのだろう。わたしは境内の柵にもたれかかるように座っていて、そのまま美輝に抱きついた。

 座ったまま美輝を抱きしめて顔を上げると、結弦と怜もすぐそこに立っている。怜に比べると、結弦が少し希薄に見えるのは気のせいだろうか。



「ゆづ、る……」



 葵の言葉を思い出す。もしかして、存在が消えかけているの? わたしの考えに気づいたのか、美輝が端的にここにいる理由を告げた。



「琴音、ごめんね。わたし達、最後のお別れを言いにきたんだ」



 結弦はわたしの前に腰を落とすと、わたしと美輝を優しく引き離す。



「あまり時間がないんだ。葵がもたないからね」



 結弦につられてお社に目をやると、巫女服を着た葵が、釣り提灯をかざしながら苦しそうに顔を歪ませている。



「葵! どうしてここに?」


「ここは葵の意識の中だよ。琴音と最後に話ができるようにって、俺達を自分の中に引き寄せてくれてるんだ」



 片膝をついた葵が、枯れそうな声を絞り出す。



「琴音……。最後にちゃんと、自分の口で、お別れを言いなさい」



 その言葉にわたしは大きく首を振る。せっかくまた会えたのに、もうお別れなんてしたくない。



「いやだよ……。結弦の、みんなのいない世界なんていやだ。それに、みんなわたしのせいで事故を繰り返していたなんて、本当なの?」



 その問いかけには、誰も口を開かない。



「わたし、みんなに償い切れないほどの苦しみを与えて、今も無関係な葵まで巻き込んで……ごめんなさい。本当にごめんなさい!」



 もう一度みんなに会えて嬉しい。嬉しいけれど、わたしの罪は許されるものじゃない。

 たくさん苦しめたみんなにも、今苦しめている葵にも、どんな顔をすればいいのかわからない。わたしの想いは、ただひとつだけだ。



「ごめんなさい……ごめんなさい……。ごめんなさい!」



 嗚咽交じりの醜い声で、わたしは必死に何度も謝る。もう、それしかできない。それ以外、なにもしてあげられない。



「わたしのせいで……わたしがこうして生きていたから。事故のとき、わたしが死んでさえいれば……そうすればみんな、こんなに苦しまずに済んだのに」



 美輝がぽつりと、「琴音……」と呟いたけれど、溢れてくる暗い想いをとめることはできずに、言葉が口から飛び出していく。



「わたしなんかと仲よくしてくれたばっかりに、結弦も消えてしまう。わたしなんて……わたしなんて生まれてこなければよかった! そうすればみんなもわたしと出会わずに済んだのに! つらい想いなんてせず、きっと幸せに生きられたのに!」



 感情に任せて言い放つと、乾いた音と共に、頬に鋭い痛みが走った。



「み……き……?」



 わたしの頬を掌で叩いた美輝が、その瞳を潤わせている。



「琴音の……ばか。どうしてそんなふうに思うの? なんでそんなこと言うのよ!」



 美輝に叩かれたことなんてなかった。余りに唐突な出来事に、逆上した頭が冷えて冴えていくと、呆然としているわたしへ、結弦が言った。



「琴音、最後だよ。俺の話を聞いて」



 美輝の平手で冷静さを取り戻したわたしは、頬を押さえたまま静かに頷いた。



「俺たちは、あの事故のあともずっと琴音を見守っていた。ひとり残してしまった琴音が心配だったんだ。そして、二〇二九年八月二十三日、二十五歳の君は慰霊碑から湖へ飛び込んで、その命を絶ってしまった。それを悔やんだ俺達は、気がつくと高校の入学式の日に戻っていた。最初はなにが起きたのかわからなかったよ。でも事故までの記憶もちゃんとあるから、神様が人生をやり直すチャンスをくれたんだって思ってた。でも、どうしても事故の運命を避けられないんだ。そして、その七年後に琴音が死ぬ。そしてまた、入学式の朝に戻る。二度目の繰り返しで、美輝も怜も同じだってことを知ったよ」



 顔を上げて美輝と怜を見ると、その視線はどこを捉えるでもなく、地に吸い込まれていた。



「三人で色んなことを試したよ。旅行に行かなかったり、俺達が出会わないようにしたこともあった。入学式から高校三年の夏までを、気が遠くなるくらい何度も繰り返した。でもどれだけ頑張っても、美輝と怜、そして琴音の運命は変わらなかった。バスに乗らなかったら、他の方法で事故に遭ったりするんだ。きっと葵が言ってた、過去から未来へと繋がる因果ってやつなんだろうね。でも、大勢の人を巻き込んだバス事故じゃなくて、たったひとりの女の子の命なら、救えるんじゃないかと思った。みんなで助かることができなくても、淋しさを抱えて生きている琴音だけでも、なんとか助けたいと考えたんだ」



 ――わたしを、助けるため……。



 みんなは、自分の命を諦めても、わたしを助けようとしてくれていた。



「けれど、旅行までの毎日をどれだけ琴音と過ごしても、そのあとの七年が琴音を苦しめて死なせてしまうんだ。琴音はずっと、あの事故さえなければって言ってた。みんなであのまま旅行に行って、なにごともなく楽しく過ごしたかったって。それなら、実際にあの旅行に行ってみれば、琴音の淋しさや悔しさを、少しは和らげてあげられるんじゃないかと思ったんだ。そうすれば、琴音を救えると思った」



 そこまで話すと、穏やかだった結弦の顔に影が差した。額には汗が滲んでいる。



「でも、それは因果に逆らうことだった。過去を捻じ曲げて、大きな事故を小さな事故へと変えてしまったんだからね。死んだ人が生きていたりその逆が起きると、多くの人の未来に関わるし、これからの歴史がすべて変わってしまうくらい大変なことなんだ。それをしてしまった俺は、歴史や宇宙に嫌われたって言うのかな。代償としてこの世界での俺の存在は、過去から未来、すべてにおいて消滅する。それは自分自身でわかるんだ。記憶が徐々に薄れているからね」



 結弦は苦しそうに、息を荒くしている。



 あぁ、なんて残酷過ぎる結末だろう。目の前に立ち塞がる運命から、思わず目を逸らしたくなる。

 あんなに楽しかったみんなとの旅行。わたしが幸せを望んだことで、起きなくていい悲劇が起きた。

 そう思うとやり切れない。感情がまた色を失くして、もう涙も流れない。



 頬に当てていた手で顔を覆うと、結弦が再び言葉を紡いだ。



「琴音、顔を上げて。琴音が気にすることはなにもないんだ。眠っていた俺なんかのために、七年間、琴音はずっとそばにいてくれたじゃないか。その恩返しなんだよ」



 結弦がわたしの頬を優しく撫でてくれる。顔を上げるといつもと変わらない穏やかな表情がそこにあった。



「俺達の願いはたったひとつ。琴音にずっと、幸せに生きていてほしい。それだけだよ」



 結弦の眩しいくらいに透明で澄んだ瞳が、色のないわたしの心を眩しく照らしているみたい。

 思わず顔を背けてしまいそうになると、美輝がわたしの肩を抱いて口を開いた。



「琴音、あの旅行ですごく強くなったよ。自分でもちゃんと気づいてるんでしょ? だから、もう、大丈夫だよ」



 わたしだって、本当はそう思っていた。ほんのちょっとだけど、自分は変わることができたんだって……。



「結弦がしたことは、単にお前を楽しませただけじゃねえだろ? まあ、俺らは楽しかったけどな。最後に旅行なんて行けてさ。お前のお陰だよ。ありがとな、琴音」



 みんなの言葉で心に色が戻り始める。なのに、溢れ出す涙がわたしの言葉を滲ませてしまう。



 ごめんなさい。わたしが弱いばかりに、みんなを苦しめて。

 わたしが自殺なんてしなければ、みんなは今頃生まれ変わって、新しい人生を迎えていたんだね。

 結弦も、消えることはなかったんだよね。

 本当に、本当に……ごめんなさい。



「みんなは……これからどうなるの?」



 声を絞り出すと、怜が元気な声で返した。



「そりゃもちろん、お前が生きていてくれるなら、俺達は生まれ変わるんだよ! なっ、美輝!」


「……うん、そうだね」



 無理に明るい声を出している怜に比べて、美輝の返答は物悲しい。

 きっと結弦のことを気にしているんだろう。



「でも、結弦は? 結弦は生まれ変われないの? いやだよ、生まれ変われたなら、きっと、またどこかで会えるんでしょ?」



 結弦は困ったような顔をしていたけれど、その優しい目だけは相変わらず笑っていた。そして、その姿はさらに希薄になっていく。



「いいんだよ、琴音。こうしなきゃ助けられなかった。それは、誰のせいでもない。天門にも送られずにこんなことまでしでかしてしまって……。強いて言うなら、これは俺のわがままに対する報いなんだ」



 結弦が言い終えると、美輝がぽろぽろと涙を流して、わたしの両手を強く握った。

 声を出そうとしているけれど、唇が震えて邪魔をしている。それでも美輝は、弱々しくわたしに語りかけてくれた。



「琴音……、約束して。琴音は強くなったでしょ? ずっとそばにいて、わたしわかったよ。いつも自分の感情を抑えて、一歩後ろに引いてた琴音が、自分の気持ちをたくさん話してくれたじゃん。泣いたわたしを、抱きしめてくれたじゃん。わたし、全部嬉しかったよ。琴音はもう大丈夫……大丈夫だよ。だから、結弦のためにも、幸せになるって、そう約束してあげて」



 涙に滲んだ美輝の声が、心に響く。 



 結弦のためにも……わたしが幸せに……?



「そうだ、琴音! 結弦のためにも、俺らのためにも、幸せになってくれよ。俺はバスでお前を助けるために、苦手な水泳だって頑張ったんだからよ」



 まさか、怜が陸上部から水泳部に転部したのって……。



「怜、そういうことだったの? わたしのせいで、陸上辞めたの?」



 怜はバツが悪そうに頭を掻いて答えた。



「お前のせいじゃなくて、みんなのためだよ」



 ……みんなの、ため?



 怜の言葉をあと押しするように、葵がお社から苦しそうな声を上げた。



「琴音、みんなあなたを助けるために何度も命を懸けたのよ。自分達の命を諦めても、あなたのことは決して諦めなかった。みんな、あなたのために何度も何度も、時を越えたのよ。その想いに応えてあげて! ちゃんと結弦に、自分の言葉で約束してあげて!」



 そんなの無理だよ。言えないよ。言ったらみんながいなくなっちゃう。


 わたしはやっぱり素直になんてなれない! もうひとりぼっちになんてなりたくない!



 この期に及んで、わたしを苦しめた七年の歳月が立ち塞がってくる。



 でも、ここで逃げたら、結弦のしてくれたことが全部無駄になる。

 それに結弦の存在が消えたあと、また、美輝と怜が繰り返してしまったら、それこそ不幸が連鎖する。

 そんなこと、もう充分わかってるはずなのに!



「琴音、頑張れ!」



 美輝が叫んだ。



「勇気出せ!」



 怜もわたしに声を張り上げる。結弦の身体はどんどん透けていく。

 そして、葵がわたしにその言葉を投げた。



「このままじゃ結弦が無駄死によ! あなた本当にそれでいいの?」



 いやだ……いやだ……。そんなのいやだ! 結弦が無駄死にだなんて、そんなの絶対にいやだ!



 葵の叫ぶ声に、わたしの心の枷が砕けた。



「結弦を無駄死になんてさせない!」



 そうだ、全部選ぶなんてできない。わたしが自分勝手に命を粗末にしてしまったせいで、こんなことになったんだ。

 今更それを悔やんでも、今起きていることを変えることはできないんだから。

 だったらせめて、最後くらいみんなが望んだ結末にしなくちゃ。でなきゃ誰も救われない。

 結弦が命を削ってまで連れていってくれた旅行。それは決して無駄なんかじゃなかった。

 誰かのために、自分のために強くなるって決めた。その決意がきっと、今試されている。



 言葉が詰まる。涙と嗚咽が邪魔をする。



 でも――、



 ここで言わなきゃ誰も救われないし、救えない。ただ後悔が残るだけだ。そんなこと充分すぎるくらいちゃんとわかっている。

 過去は変えられないけれど、未来ならわたしにも変えられる。

 だから、みんなが見てる今ここで、わたしはちゃんと、その約束を口にするんだ!




 喉の奥につっかえている言葉を、なんとかみんなに届くように、大きな声で叫んだ。




「や、約束する。わたし……強くなる! みんなの分も、これからは絶対、幸せに生きていく! 絶対そうなるように、約束する!」




 ――言えた! 結弦のために、みんなのために。




 涙で視界は歪んでいる。だけど、それでもわたしは、その約束をちゃんと口にすることができた。



 顔を拭って、結弦を見つめる。



「ありがとう、琴音。……大好きだよ。そんな琴音が、ずっと好きだったんだ……」



 希薄になっていく結弦は、淡く光る涙を流して笑っている。



「わたしも大好き! ずっとずっと大好き! 結弦のこと、絶対に忘れない!」



 喉が裂けるくらい、声を張り上げて叫んだ。



 伝えたいことはまだまだあるのに、結弦の体はどんどん透けていく。存在が消えてしまう瞬間が、もうすぐそこまで迫っている。



 ちゃんと言わなきゃ。伝えなきゃ。これが本当に、最後なんだから。もう、結弦には会えなくなってしまうのだから。



 わたしは絶対に忘れない。わたしが忘れなければ、きっと結弦の存在はなくならない。

 そうすればいつか、たとえ遠い未来でも、きっとまた巡り会える。

 なにが正しいかなんてわからない。けれど、わたしはそう信じる。

 だから絶対、結弦を忘れない。忘れたりするもんか!



 神様なんていない! 宇宙に嫌われるとかどうでもいい! 歴史なんて知ったことか!

 大切なのは、わたしがそう信じる心だ。



 だから最後に精一杯、結弦へ伝えるよ。結弦が教えてくれたこの言葉のぬくもりを、最後にわたしから、結弦へ届けるよ。






 ――ありがとう結弦。




 わたしと、出会ってくれて。


 わたしに、優しさをくれて。


 わたしに、ぬくもりをくれて。


 わたしに、輝きをくれて。


 わたしに、思い出をくれて。


 わたしを、愛してくれて。




 そしてわたしに、命をくれて……。




 最後に贈る、いくつものありがとう。それが結弦の勇気になるよう、願いを込めて届けよう。


 結弦からもらったもの。それは全部、強さだったんだね。

 これだけあるなら、もう充分だよ。

 だから、きっとまた会おうね。

 わたしは決して、あなたを忘れたりしないから。

 生まれ変わっても、絶対あなたと巡り会ってみせるから。

 そうしたらまた、わたしと一緒にいてね。

 おじいちゃんとおばあちゃんになっても、ずっと一緒にいようね。

 今度こそ、誰にも負けないくらい、たくさん幸せになろうね。

 いつか迎える最期のときまで、ずっと手をつないで、どこまでも歩いていこうね。

 それまで、ほんのちょっぴり、お別れだね。


 大丈夫だよ。結弦は宇宙に勝ったんだから。宇宙にとっては、わたし達の一生なんて、ほんの僅かな時間だよ。きっと、たいしたことじゃない。

 わたしは結弦にもらった命を大切にして、今度こそちゃんと、生きてみせるよ。

 だから結弦も、ここに帰ってきてね。また会えたそのときに、わたしは笑顔であなたに言うよ。


 これまでにないとびきりの笑顔で、『結弦、おかえりなさい』……と。



 結弦は、最後に微笑んで言った。



「どこかの未来で、また会おうな」



 眩い七色の光が辺りを包んでいく。



 霞み消えていく結弦の後ろで、景色と共に遠くに離れていく美輝と怜が、わたしに笑顔で手を振っている。



 美輝、怜、本当にお別れなんだね。



 離れていくふたりから見えるように、笑顔で大きく手を振った。



 美輝と怜も見えなくなり、七色の光はどんどん白い闇に覆われていき、わたしはまた目を閉じた……。




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