第六章 夜空へ虹の架け橋を
第27話 目覚めの真実
―― ××××年 ×月×日 ――
心地よい振動。
小さな窓から吹き抜ける風が、優しく頬を撫でている。
いつの間にか眠ってしまったらしい。
どれくらい眠っていたんだろう。
よほど熟睡していたのか、いまいち記憶がおぼつかない。
しかし、まぶたの裏側にまで射し込んで来る夏の日差しは、また夢の世界へ戻ろうと踏ん張るわたしの睡魔を、容赦なく奪っていく。
「うぅ……ふあぁ……」
なんとなく聞き覚えのある奇妙なうめき声と共に、重いまぶたを持ち上げると、霞んだ声がそろそろと頭の中へにじり寄ってきた。
「お客さん! お客さん!」
黒い帽子を被り、アイロンがかけられたきれいな白シャツに身を包んだ男性が、わたしの肩を揺さぶっている。
寝起きの体に、この揺れは堪える。
「お客さん! ボタン押したでしょう? 降りるんじゃないんですか? 起きてください!」
その声にはっと目を開けると、こちらを訝しげに見ている数人の乗客が視界に映り、その向こうで紫の降車ボタンが点灯していた。
……バス? 降車ボタン、わたしが押したの?
「こ、ここは……?」
「バスの中ですよ。ここまでの行きかたを僕に訊いたじゃないですか。早く降りないと、もうバス出しますよ」
「あ、すみません。すぐ降ります」
なんとなくわたしが迷惑をかけている、ということは理解できたので、カバンを抱えて慌ててバスを降りた。
ステップを降りて辺りを見渡すと、バスは大きなエンジン音を立てて排気ガスをまき散らしながら勢いよく走り去っていった。
おかしいな、さっきまで電車に乗っていたはずなのに。それに、みんなどこに行っちゃったんだろう。
ひとつずつ甦る記憶を脳内で繋ぎ合わせてみるが、それがうまく噛み合わない。
旅行最終日の昨夜、みんなで夜更かしをしていたにも関わらず、わたしは明け方結弦と一緒に朝日を見に行った。
おかげで寝不足だったのか、帰りの電車に乗り込むと発車してすぐに眠ってしまって、そこから先の記憶はない。なのに起きたらひとりでバスに乗っているだなんて。
そういえば旅行カバンはどこ? 代わりに抱えているのは、懐かしいけれど見慣れた小さなカバンだ。
でもおかしい。変だ。ありえない。
このカバンを買ったのは社会人になってからなのに。
――あれ? 社会人って、どういうこと?
高校生のわたしに社会人の記憶が備わっているなんて、狐につままれるとはまさにこのことだ。
そこに、茂みの奥から狐のような色をした猫が姿を見せた。
「ナーオ」
聞き覚えのある鳴き声。どこから現れたのか、見慣れた猫がバス停の標識の横でお座りをしている。
「あなた、どこにでもいるんだね」
おぼろげだけれど見覚えはある。駅のホーム、オムライス屋さんの前、神社の境内、最後は葵の家で現れた猫だ。
猫とはいえ、知った顔に出会えるとほっとする。猫はバス停の標識を見上げてナアナアと鳴いていた。
標識を確認すると、【七色】と書かれていた。崖下には緑の木々に覆われた湖が、雄大に広がっている。
えっと、確か、ここに来たのは慰霊碑に行こうとして……。
あぁ、まだ記憶が曖昧でちぐはぐだ。これじゃあ堂々巡りじゃない。
慰霊碑ってどういうこと? そもそも今日ここに来たとしたら、今朝旅館で目が覚めた記憶はなに? 夢だったってこと?
なにが夢で、なにが現実かわからない。
そうだ、日付。今日の日付は?
日付を確認して結弦に電話しよう。そうしたら、今わたしがここにいる理由もわかるかもしれない。
一瞬浮かんだいやな予感をかき消すように、カバンに手を入れてスマホを探すと、それはまるで意図して隠していたかのようにカバンの奥底にしまわれていた。
それに電源も切られていて、慌てて引っ張り出して愕然とする。
「これって……」
さっきまでわたしが使っていたスマホではない。いやな予感がどんどん膨らんでいく。
電源を入れて、すぐに日付を確認した。
―― 二〇二九年 八月二十四日 火曜日 ――
――嘘だ。
……これが本当なら『今朝』の記憶から七年も経っている。
もしかしてさっきのバスに乗っている間に眠ってしまって、高校生の頃の夢を見ていたとでも言うのだろうか?
よくよく思い返せば、また別だけれど紛れもない『今朝』の記憶が、頭の隅に隠れていた。
わたしは確か朝早くにアパートを出て、電車を乗り継いで郊外に出た。そこでオムカレーを食べて、バスに乗って……、あっ!
――お花は?
しまった、お供え用に買ったお花をバスの中に置いてきてしまった。
そういえばさっきの記憶では、慰霊碑に向かっていて……。
またわからなくなる。頭の中で記憶の欠片が散らばっている。なぜ慰霊碑に向かっていたんだろう……。
そもそも慰霊碑って、一体なんの慰霊碑なんだ。
「ナーオ」
猫がわたしを見て鳴いている。その視線はわたしの心を探っているみたいだ。
「ナーオ、ナーオ!」
鳴き声はどんどん大きくなる。
吸い寄せられるように猫の瞳を見つめ返すと、バラバラだった記憶の欠片が徐々に形を成していく。
湖に転落したバス……。
接触事故を起こして停車したバス……。
病院で眠る結弦……。
一緒に星を見た結弦……。
ひとりで食べたオムカレー……。
みんなと食べたオムカレー……。
ひとりで生きた七年……。
旅行で過ごした三日間……。
駅で出会った猫……。
駄菓子屋で出会った猫……。
……そうだ!
ようやく首の違和感に気づいた。普段からアクセサリーをつける習慣のないわたしが、首からなにかぶら下げている。
右手をゆっくり首に持っていくと、指先が冷たくて丸いものに触れた。鏡で確認すると、二十五歳のわたしが映し出されて愕然とする。
しかし、首筋には小さなガラス玉が光っていた。これは……。
「葵の……トンボ玉」
自然とこぼれたひとり言は、まるで封印を解く魔法のように、わたしの意識に記憶の洪水を呼び寄せた。
葵の言葉を思い出す。
『――きっとこれが、琴音さんを導いてくれる――』
頭蓋の内側で、記憶のパズルが猛スピードで解けていくと、瞬く間にすべての欠片が繋がった。
七年前、わたし達は事故に遭い、バスと共に湖に落ちた。事故の後遺症で結弦は寝たきりになり、美輝と怜は悔しくも助からなかった。
それからの七年を、わたしはひとりで生きていた。灰色になった世界で夢と希望は見えなくなった。
だから仕事もなにもかもを捨てて、結弦のもとからも去ると決意した。
最後に美輝と怜にきちんと気持ちを伝えるために、七色ダムの慰霊碑を目指した。
そして、辿り着いたその場所で異変は起きた。
慰霊碑からダム湖へと身を投げて、意識を失くしたはずなのに、目を覚ましたわたしは七年前のバスの中へと時を遡っていた。
目が覚めたときはなにがなんだかわからずに、ただ事故の記憶が現実に起こらないようにあがいた。
その甲斐あってか、バスは転落しなかった。安心すると事故の記憶は夢だと思い込み、みんなと旅行を楽しんだ。
広い温泉、豪華な夕食、結弦と見た海と星空、美輝の涙、旅館のお手伝い、葵との出会い。
夏祭りにヨーヨーを並べて虹を作り、笑顔であふれた屋台をまわり、万華鏡のような花火を楽しんだ。
そして、最後の朝に起きた結弦との仲違い。
出会った人達のこともちゃんと覚えているし、首から下げているトンボ玉は、間違いなく葵からもらったものだ。
それがここに存在していることが、あの三日間を夢じゃなかったと裏付けている。
けれど、今のわたしは高校生のわたしではなく、二十五歳のわたしだ。それならやっぱり、元の世界に戻ってきてしまったのだろうか?
行けなかったはずの旅行に、過去に戻って行くことができた。思い返せば、楽しかった。幸せだった。なによりみんなが生きていてくれたのだから。
あれは幻なんかじゃない。紛れもない現実だった。でも――。
また襲ってくる深くて暗い闇。
流砂に捕らわれたように、もがけばもがくほど沈んでいくこの感情を、わたしはよく知っている。
――絶望だ。
ほんの少し前まで隣に結弦がいた。美輝も怜も元気に笑っていた。
嬉しそうに、楽しそうに、幸せそうに……。
なぜ元の世界に戻されたのだろう? それ以前に、なぜ過去に戻っていたのだろう?
心に荒れ地が広がっていく。
見えない鎖がもう一度わたしを縛りつけようと、音を立てて忍び寄ってくる。
いやだ、帰りたくない。灰色の世界なんて、もう見たくない。
心に滲んだ黒いシミが徐々に広がっていき、またわたしから色を奪おうとしている。襲いかかってきた孤独の恐怖から逃がれるように、わたしはその場で声を上げて泣いた。
泣いて、泣いて、泣き続けて、どれくらい時間が過ぎただろう。
うずくまって流し続けた涙が枯れてくると、ひどく疲れた体をゆっくりと持ち上げた。
「慰霊碑って……すぐそこだったよね……」
泣いている間も、ずっとわたしを見つめていた無表情な猫に話しかけてみる。
喉が渇いて体に力が入らない。地面と空がひっくり返ったみたいだ。
ふらふらした足取りで、なんとか慰霊碑がある場所まで歩いた。倒れそうになる体を何度もガードレールで支えて、手は真っ白だ。
あの階段の向こうに、美輝と怜の名前が刻まれた慰霊碑があるのだろうか。
「いや……違う」
涙が枯れるほど泣き続けて、辿り着いた絶望の底。もうこれ以上ないくらい沈み切った場所に立つと、小さな希望に気がついた。
よく考えてみれば、わたしは時間を飛び越えたんだ。そこで事故は起こらなかった。軽い接触事故は起きたけれど、幸いみんな無事だった。
葵のトンボ玉は、それがもうひとつの現実だったことを証明している。
だとしたら……慰霊碑はないのかもしれない!
わたしが時間を飛び越えたのは、みんなを助けるためだったとしたら……。そう考えると辻褄が合う。
過去に戻って、あの恐ろしい事故を回避して未来に戻ってきたのなら、そのままそっくり過去が変わっているのではないだろうか。
ここはきっと、美輝と怜が生きている未来へと変化しているんだ。そして結弦も今頃、プールで子ども達に水泳を教えているのかもしれない。
淡い期待が、希望の光を輝かせていく。
でも、もし変わらずに慰霊碑が建っていたら……。
暗い考えを吹き飛ばすように、頭を何度も横に振る。
そんなこと考えちゃ駄目だ。
事故は起こらなかったんだもの。きっとわたしはみんなを助けるために、過去に戻ることを許されたんだ。
そうじゃなければ、なんのために過去に戻っていたのか、説明がつかない。
慰霊碑がある階段の前に立ち、震えながら一段目に足をかけた。そこから一歩、また一歩と、踏みしめるように階段を上っていく。
心臓の音がうるさくて吐き気がする。この先にあるのは未来への希望だと言い聞かせて、ひと足毎に力を込める。
上を見ないように視線は足元に向けたまま、最後の段に足をかけると、両足で慰霊碑がある場所へ降り立ってまぶたを閉じた。
心拍を落ち着かせるために大きく息を吸い込む。
新緑の香りを肺いっぱいに取り込んで、まぶたの裏で慰霊碑のない只の広場を想像する。
……お願い、神様。
わたしはもうなにもいらない。
あんなに旅行を楽しんでいた美輝にも怜にも、生きていてほしい。生きてもう一度会って、この七年間楽しかったよって、そう言ってほしい。
そして結弦も、夢を叶えて幸せに暮らしていてほしい。
みんなが元気で過ごしているなら、わたしはどうなってもかまわない。
意を決して固く閉じたまぶたの力を緩めて、ゆっくりと目を開けようとしたその瞬間。
「いつまでそうしてるのよ」
誰もいないはずのこの場所に、声が響いた。
どこか懐かしくて、聞いたことがある女性の声。この声は……。
「葵!」
驚いて目を開けると、やはり葵だった。
わたしの記憶よりも少し背が伸びていて、声は僅かに低く、化粧がされた顔はかなり大人びているけれど、葵に間違いない。
そういえば、階段を上る前に、車が一台とまっていた気がする。
「はじめまして。神谷琴音さん」
「葵! 葵っ! よかった、未来変わったんだね!」
意地悪な挨拶を無視して、葵のもとへと駆け寄り思わず抱きついた。
「ちょ、ちょっとあなた、落ち着きなさい!」
葵は仰け反って慌てている。
過去の世界で出会った葵がここにいる。やっぱりこの世界は、あの日からちゃんと続いているんだ。旅行に行けた過去の延長にいるんだ。
「葵、ありがとう! あなたとわたしがここで会ってるんだから、もう間違いないよね!」
本当に嬉しい。灰色の世界に戻されたと思ったけれど、ここはみんなが生きている虹色の世界だったんだ。
それにしても葵はなぜここにいるんだろう? わたしと今日ここで会う約束でもしていたのだろうか?
いずれにせよ、わたしのこの感激っぷりには戸惑いもあるに違いない。でも喜びが膨らみ過ぎて、今は感情が抑えられない
「ねえ葵、結弦は今どこにいるの? わたし、今すぐみんなに会いたい」
葵はなにも知らないだろうから、いきなりこんなことを訊かれるとおかしく思うかな。
けれど、今はそこまで気にする余裕はない。それくらい心は踊り、気持ちは舞い上がっている。とにかくみんな無事でよかった。
「琴音さん、落ち着いて聞いてね」
「やだ、ごめん。わたしひとりで舞いあがっちゃって……」
申しわけないと思いながらも、弾む心は静まらない。そんな気持ちを冷ますように、葵は冷たい言葉を口にする。
「あなたとあたしは、初対面よ」
酷い冗談だ。もしもこの再会が七年振りだったとしても、そんな言い方しなくたっていいのに。
「もしかして怒ってるの? ほんとにごめんね。わたし、七年前も来年は一緒に花火見ようって言ったのにね」
ここで待たせた可能性も否定はできないし、よもや朝ごはんを残して以来会っていないのだとしたら、葵が怒るのも無理はない。
「そうじゃないわ……」
葵は眉根を寄せて眉間にしわを作っている。
やっぱりその顔、間違いなく怒ってるよね?
「あのときわたし、早く結弦のとこに行かなきゃって思って。朝ごはんも残しちゃったし――」
「――聞きなさいっ!」
遠くの山にこだましそうなくらい大きく響いた声に反応して、木々から鳥達が飛び立っていく。
わたしは思わず言葉を切った。
「……エリィ、こっちにおいで」
落ち着いた葵の呼びかけに、さっきの猫がわたしの背後から駆け寄る。旅の途中で何度も出会った葵の猫だ。
「琴音さん、この子のこと知ってるわよね?」
「う、うん……。エリィちゃんっていうんだ」
尋問を受けているような重い空気。なにも悪いことはしていないのに。
けれど、この先はわたしにとっていやな話だと、張り詰めた空気が予感させる。
「この子だけが唯一、あっちの世界とあたし達の世界を行き来していたの」
いやだ、聞きたくない。今すぐ耳を塞ぎたい。
「あなたには、つらい事実かもしれないけれど」
やめて! それ以上言わないで!
「美輝さんも怜くんも、この世界にはいないわ」
…………っ!
聞きたくなかった。今からでも遅くない。耳を削ぎ落としてしまいたい。
「結弦も、息を引き取った」
――えっ?
「葵っ! ひどいっ! なんてこと言うの!」
気づけばわたしは、葵の胸ぐらに手をかけていた。
許せない!
美輝も怜もいない? その上、結弦が息を引き取った?
なんで? どうしてそんなこと言うの?
葵がこんな人だったなんて、信じられない!
「……落ち着いて」
葵はわたしが掴んでいた手を離そうとする。けれど、
「落ち着けるわけないじゃない! 自分がなにを言ってるかわかってるの?」
全身の血が逆流して頭が沸騰する。そんなわたしとは対照的に沈黙する葵。その瞳にはどんどん涙が溜まっていく。
「あ、あたしだって……」
言い訳するつもり? でも、ひどいことを言ったのはそっちだ。ちゃんと反省してくれるまで、許したくない。
「あたしだって! 平気じゃないのよ!」
葵は溜めた涙を大粒の雫に変えて、地面に弾ませながら叫んだ。
「でも、あたしが……、あたしくらいはしっかりしていないと、あなたまたここから飛び降りるでしょ! そうしたら、結弦が命を賭してまでしたことが、全部無駄になるじゃない!」
わたしの煮えたぎっていた血は、葵の雄叫びで一気に冷えていった。
それでも喉は焼けるように熱い。目の奥がずきずきする。視界が塞がれていき、脳が酸素を求めている。
泣きながら限界まで呼吸を我慢して、肺に空気を送り込むと、血液に乗った酸素が脳にいきわたるのを感じた。
あぁ、そうか……。葵もきっと……、我慢しているんだ。
こんな状況でここに現れたのにもわけがあって、必死で踏ん張って、立っているんだ。
わかっていたのに憤りを怒りに変えて、それを葵にぶつけてしまった。
ただの身勝手な八つ当たりだ。
「葵……ごめんなさい……。でも、これは一体、どういうことなの?」
冷静になったわたしを見て、葵も深く息を吸い込んでから答える。
「今言ったとおりよ……。結弦はあなたを助けるために、自分を犠牲にしたの……」
葵はまだ肩で息をしていて、霞に消えそうな声で続けた。
「わたしを……、助けるため?」
「あなた、さっきまで過去に行ってたんでしょ? そこであたしとも出会ってるってエリィから聞いたわ」
そういえば、過去の葵も猫と話せるようなことを言っていた。
「あたしの家、天門のお役目は聞いてる?」
昨日お祭りの前に葵から聞いたので、よく覚えている。
「うん、未練を解消するために、過去を繰り返している魂を送ってあげるっていう……」
こくりと頷いて、葵は説明を始めた。
「あなたは、自分だけが過去に戻ったと思っていたかもしれないけれど、実はそれはちょっと違うの」
たったのひと言目で、早速疑問が浮かんだ。
「ど、どういうことなの?」
わたしだけじゃない?
わたしは二十五歳になってから過去に戻った。それに七年前に亡くなってしまっている美輝と怜は、タイムリープすらできないのではないか。
そこまで考えてはっとする。
天門のお役目。もしかして――。
「結弦と美輝ちゃんと怜くん。あの三人は、ずっと過去を繰り返していたのよ」
葵は目に涙を浮かべたまま、悲しげにその言葉を口にした。
悪い予感が当たった。
それはとこしえの地獄だと言っていた。未練が解消できるまで繰り返し訪れる死。
確かにあの事故は突然起きた。未練も後悔もあったかもしれない。
それでも、呪われるほど強い未練が三人にあっただなんて……。
「あの三人の未練は、あなたよ」
わたしが……三人の未練?
「それって……どういうこと?」
馬鹿みたいに同じ言葉を繰り返す。でも仕方ない。思い当たる節がないのだから。
みんなをこの世に留めてしまうほど、わたしはなにか大変なことをしでかしていたのだろうか?
この世に強い未練を残したまま、唐突な死を迎えてしまった魂は、未練を解消するまで過去を繰り返して、永遠に生きる。
それが昨日、駄菓子屋で葵に言われた言葉だ。そしてそれを導くのが、天門のお役目……。
「どの時点に戻って繰り返していたのかは、本人達じゃなきゃわからないけど、おそらくあなたと出会った辺りの過去からやり直していたと思うわ」
「待って葵、答えになってないよ。わたしはあの三人にとって、どうして未練なの?」
葵は空を見上げて、淡々と答えた。
「三人の未練は、弱いあなたをひとりにしてしまったこと。七色ダムへのバス転落事故から七年後の今日、あなたはここで自らの命を絶ってしまう。それをとめるために、彼らは過去を繰り返していたの」
そんな……。みんなは何度も過去を繰り返して、その度にわたしを助けようとしてくれていたの?
いや、なによりも――。
「湖の底に沈んでしまう恐怖や苦しみを、みんなは何度も体験していたの……?」
本当にそうだとしたら、わたしはどう償えばいいのだろう。
バスが落ちる感覚。水が迫る恐怖。徐々に湖底に引きずり込まれる絶望感。
あんなの、本音を言えば人生で一度でも体験したくない。
全身から血の気が引いて、顔が青ざめていくのがわかる。
「あなたの命を繋ぐために、過去に戻っては寄り添って、たくさんのことを試みた。だけどどうしても、七年後のあなたをとめることができなかったの。あなたがここから飛び降りる度に、彼らは過去に戻ってやり直していたのね」
――なんてことだ。
わたしのせいだった。わたしが馬鹿なことをしたせいで、みんながずっと苦しんでいた。
ひとり残された世界で、わたしも被害者のような顔をして生きていた。
だけどみんなは、そんなわたしを心配してくれて、わたしを助けるために何度も何度も怖い思いをしていたんだ。
本当の被害者はわたしじゃなくて、みんなのほうだったのに。
「それなら、事故を避けてみんなと旅行に行けた過去。あれはなんだったの?」
冷静にならなきゃ。
宣告が絶望的なときほど、人は冷静でいられると聞いたことがある。今ここで泣いて投げ出しちゃいけない。ちゃんと葵から真実を訊いて、わたしはわたしのできることをしなくちゃ。
不思議なことがたくさん起きている。それならみんなを助ける糸口だって、まだ見つけられるかもしれない。
希望を見失わないように言い聞かせて、葵の返答を待っていると、葵はふいっと目を逸らして言った。
「あれは結弦が書き換えた過去の世界。そしてそれが、この世界での結弦が亡くなった原因」
その言葉と同時に、わたしの頬から一筋の涙が地に落ちた。
まだ、できることがあると思った。こんな不思議なことが実際に起きているのだから、まだ、助けられると思った。
なのに、あんなに楽しかった思い出が、結弦を死なせた? わたしと過ごした三日間が結弦から命を奪ったの?
もうわけがわからない。どうすればいいかも全然わからない。わたしはどこまでも、ただみんなを苦しめることしかできないのか。
心を置き去りにしてしまいそうなわたしを無視して、葵は淡々と説明を続ける。
「どれだけ過去を繰り返しても、あなたを助けられなかった結弦は、パラレルワールドと呼ばれる平行世界の過去を書き換えて、今までになかった未来を創りだした。そこへあなたを連れていったのよ」
パラレルワールドということは、あの三日間はこの世界とは違う世界での出来事だったのだろうか。そう考えると益々納得がいかない。
「でも、わたしは元の世界に戻って来たのに、なぜ結弦が死ななくちゃいけないの?」
次々と沸いてくる疑問。葵はそれをひとつずつ的確に答えていく。
「平行世界には、ちゃんとその平行世界の住人がいる。あなたはそこのオリジナルじゃないもの、長くは存在できない。にも拘わらず一時的にあっちに行けたのは結弦のおかげよ。方法はわからないけど、まさに奇跡ね。けれど、あなたを別の次元に送り込んだことと、ひとつの世界を書き換えて宇宙の理をも歪めてしまった結弦は、その代償として、命だけじゃなくて存在さえも消されてしまう。もうすぐあたし達の記憶からも、結弦は消えてしまうわ」
結弦が消える? 命だけじゃなくてその存在まで? それも、わたしを助けたために。
「結弦は自分を犠牲にしてまで、わたしを旅行に行かせたの? どうして……どうしてそんなことを!」
堪え切れずに、また涙を流してしまう。
「過去を繰り返して、どんなことをしてもあなたの自殺を防げなかったからよ。どれだけあなたがあの事故までに精神的に強くなっても、それ以来ずっと淋しさを募らせて、今日になるとここから飛び降りてしまう。死の運命を変えるなんて、過去から未来へ因果が繋がっている以上、普通はできないからね。だからあなたに最高の思い出になるような、幸せな時間を過ごさせてあげたかったのよ。それでなにかが変わると、そう信じていたんでしょうね」
「そんなのいやだよ。信じたくない!」
「あたしの後ろにあるのが、あなたが目指していた慰霊碑よ」
葵の後ろに目をやると、見覚えのある慰霊碑が建っていた。
いや、本当は言われなくても気づいていた。気づいていたけれど、見えないふりをしていた。
「いやだよ、葵。こんなのってないよ。せっかくみんなとまた会えたのに。本当はいないだなんて。それに結弦が消えちゃって、結弦との思い出もみんな忘れちゃうだなんて、そんなのわたしいやだ!」
立っていられず、思わず膝から崩れ落ちた。
涙が止まらない。
こんなことになるくらいなら、わたしもあの事故のときに死なせてくれたらよかった。
なぜわたしだけ生き残ってしまったんだろう? どうしてみんな一緒に死なせてくれなかったんだろう?
そんな考えが頭の中を醜くうごめいている。
「琴音さん……顔を上げて」
葵が膝を落として、わたしの顔を覗き込む。
「そのトンボ玉。過去のあたしから貰った物でしょう?」
葵の問いかけに、わたしは首に下げたトンボ玉を握りしめて、泣きながら頷いた。
「エリィから聞いてるわ。向こうの世界のあたしも、全部わかっていたのね。だからあたしがここにいることにも、ちゃんと理由がある。天門の巫女として、もうあなたを死なせたりしないわ」
そう言うと、葵はわたしのトンボ玉にそっと手を添えた。
また、意識が遠のいていく。今度はどこに行くんだろう?
もうどこでもいい。このまま眠り続けていたい……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます