第26話 まどろみの午後はそばにいて


 食堂に行き席につくと、井関さんが作ってくれた朝ごはんを、これが最後だと噛み締めながら味わった。


 葵に朝食を用意してもらったのに残してしまった罪悪感が強くなって、心の中でごめんと呟く。


 トンボ玉をもらったり、朝ごはんを作ってくれたり、思えば葵にはお世話になってばかりだというのに、連絡先さえ聞いていない。


 葵に届け物をしてくれた猫ちゃんにも、いつかお礼をしたい。夏休みに改めて天門家を訪ねようと、わたしは密かに決意した。



 食べ終えたあとは美輝とふたりで厨房に顔を出した。



 お別れの挨拶とお世話になったお礼を伝えると、井関さんはにかっと笑い右手に持った包丁を高らかに上げて、「またおいで」と言ってくれた。



 美輝と掃除した思い出の食堂をあとにし、部屋に戻って帰り支度を始める。わたしはもう終わっているから、美輝のカバンに荷物を詰めるのを手伝った。


 美輝はなにも喋らず、黙々と自分の荷物をボストンバッグに詰めている。


 きっと、もう帰らなければならないという現実と旅行の思い出に、淋しさを募らせているのだろう。わたしも同じだ。



 帰る準備ができた頃、結弦が部屋の扉を開けて障子越しに声をかけてきた。



「準備できた? そろそろ行こうか」



 結弦の声はいつもとなにも変わらない。それに少し安心する。


 美輝と顔を見合わせて、ふたりで部屋を改めて見渡してから、「はーい」と返して部屋をあとにした。



 四人で階段を下りると、フロントには結弦のお祖父さんとお祖母さんと千佳さんが待っていてくれた。


 長谷川さんは買い出しに行っているらしく、みんなによろしくと言付けてくれていたようだ。



 結弦がお祖父さんにお別れの挨拶をする。



「じいちゃんありがとう。世話になったね。また遊びに来るよ」



 お祖父さんは嬉しそうに微笑んでいる。その表情はとても満足そうだ。



「またみんなで来なさい。彼女を大事にな」



 俯いてしまいそうになるわたしにも、結弦のお祖父さんは声をかけてくれた。



「琴音さん、結弦のこと頼んだよ。なにかあったら、またいつでもおいで」



 そう言って右手を差し出すお祖父さんと、固い握手を交わす。



「お世話になりました。わたしは結弦さんに助けてもらってばかりですので、これからはわたしが支えてあげられるように頑張ります」



 握手する手を上下に揺らせて、お祖父さんはしわだらけの笑顔でうんうんと頷いて続ける。



「なんだか来たときと随分印象が違うね。琴音さんはもっと気の小さな子だと思っていたんだがなあ」



 そう言って結弦のように、「ははっ」と笑うお祖父さんを見て、わたしはここでの体験に改めて感謝した。

 この旅をきっかけに変わることができたのは、温かく迎えてくれたこの旅館の人達がいたからこそだ。



「お手伝いしてくれて本当に助かったわ。よかったらまた来てねえ」



 結弦のお祖母さんがみんなの顔を見渡して言うと、続いて千佳さんも「またおいでね」と言ってくれた。



 美輝と怜もそれぞれ挨拶を済ませて玄関をくぐると、三人は揃って外まで見送りに出て来てくれた。


 歩き出すわたし達が坂を下って見えなくなるまで手を振ってくれて、わたし達も姿が見えなくなる前にもう一度振り返り、「さようなら」と大きく手を振って別れた。



 来るときは長距離の移動に疲れて重い足取りで歩いていた坂道を、今は軽快に下っていく。



 わたしはひとつひとつの景色にお別れを告げるように、辺りを見渡しながら歩いた。


 駅までの道はまばらに観光客の姿もあって、お土産屋さんやレストランも賑わっている。夏祭りの影響もあるのだろう。


 家族連れにカップル、他にも大学生くらいのグループや、よく見るとわたし達と似たような高校生くらいのグループも……。




 え……?




 ここから少し先のお土産屋さんに入っていく高校生グループの中に、見たことのある人影が動いた。



 デニムパンツにTシャツというシンプルな服装。周りの人よりも背が高くて、鍛えられた体のラインは見間違えるはずがない。



 ……声が出ない。



 息もうまくできないし、手がじりじりと痺れている。



「結弦!」



 やっと絞り出した声は、思いもよらず大きい。



「どうした? 琴音。突然大きな声出して」



 その声はわたしのすぐ隣から聞こえていた。



「い、いや、あの……わたしお土産見たいんだけど、駄目かな」



 混乱する考えを整理しつつ、なんとか思いついたことを口にする。



「結弦、もうあんまり時間ねえぞ。早く駅に行かないと、乗り遅れちまう」


「うん、わかってる……」



 結弦も怜も、顔にどこか焦りが見える。



「ごめん琴音、ちょっと時間がなくなってきたみたいだ」



 結弦を見てからお土産屋さんに視線を戻すと、さっきまで店先に立っていたその姿はもう見えなくなっていた。



 見間違えたのだろうか。いや……そんなはずはない。他の誰を見間違えたとしても、あの姿だけはわたしが見間違えるものか。


 しかし、時間がないということは、電車の時刻が迫っているのかもしれない。


 観光地といっても田舎のローカル線だ。一本乗り遅れるだけで相当な待ち時間ができてしまうのだろう。


 わたしには急ぐ理由はないけれど、もしかしたら怜にはあるのかもしれない。



「わかった、無理言ってごめん」



 本当にお土産が買いたかったわけじゃない。欲しければ、昨日でも買いに行ける時間はあった。


 でも、あの姿も見えなくなってしまった今、これ以上わがままを言うわけにもいかない。



 一旦立ち止まっていたわたし達は、また駅に向かって歩き始めた。少し早歩きのまま駅に辿り着くと、電車が丁度ホームに入ってきたところだった。



「やべえ、電車がきたぞ」



 怜が声を上げると、全員電車が巻き起こす風に逆らうように駆け出して、慌てて車内に乗り込んだ。


 ボックス席が空いていたので、荷物を網棚に乗せて四人で腰かける。


 すぐさま発車を知らせるアナウンスが流れて扉が閉まると、電車はその車体を少し揺らせてゆっくりと動き始めた。



 荷物を抱えてのダッシュはきつい。



 息を整えながら過ぎ去っていくホームを眺めると、見たことのある四人組が目に留まり、わたしはまた声を詰まらせた。



 徐々に加速する電車は、その姿をすぐに後ろへと流して消し去っていく。




 どういう……ことなの?




 四人の顔も髪型も、そっくりそのままわたし達のコピーだった。怜がなにかを話していて、結弦がいつもの穏やかな笑みを見せている。わたしと美輝は怜を指差して口を開けて笑っていた。



 そんな、まさか……。いや、そんなことありえない……。



 呼吸を乱したまま一点に視線を集中させていると、美輝が心配して声をかけてくれた。



「どうしたの? なんか顔色悪いよ」


「美輝、今ホーム見た?」



「まあ、ぼーっとくらいには見てたけど、ホームになにかあったの?」



 美輝は見ていない。だとしたら、あれもわたしの見間違いだろうか。


 この旅行があまりにも楽しくて幸せだったから、その幸せを映し出した幻が見えたのかもしれない。



 きっとそうだ。うん、いや、そうでなくちゃいけない。



「ううん、なんでもない。寝不足で走ったから体がびっくりしちゃったんだと思う。ちょっと休めば平気」



 窓際にもたれかかって外を眺めると、ホームはとっくに見えなくなって、窓の向こうには草木に覆われた堤防が続いている。



 そこにはまた、見覚えのある顔だ。



 堤防の上に、巫女の姿で釣り提灯を持つ葵が立っていた。



 手首にはあのヨーヨーをぶら下げていて、わたし達の乗る電車、いや、真っ直ぐに釣り提灯をかざしている。足元には何度か姿を見せたあの猫も一緒に。



 葵……どうしてここに?



 わたし達の乗る電車を知っていたの? それに、なんで巫女服なんて着てるの? そんなのまるで、お祓いじゃない。




 あれ……?




 なんだろう……ひどく眠い。




 昨日夜更かししたからといっても、ここまで体が重くなるなんて異常だ。まるで鉛の服を着ているみたいに全身がだるい。


 体のどこにもうまく力が入らないし、意識がどんどん混濁していく。気を抜くとまどろみの底に沈んでしまいそうだ。



「琴音、そろそろ眠くなってきたんだろう?」



 結弦の声が揺れるように頭に響く。



 どうしてこんなに眠いの? 帰り道だって、みんなとゆっくり旅の思い出を語り合いたいのに。



「おやすみ、琴音。わたしはこれからもずっと、琴音のそばにいるよ」



 美輝、どうしたの急に? わたしだってずっと美輝のそばにいるよ。


 そう言いたくても、うまく声が出ない。



「お前、今度こそうまくやれよ」



 怜、うまくやれってなんのこと? 結弦とは仲直りしたんだよ。もうケンカなんかしないし、ちゃんと向き合って話をするよ。

 自分で決めつけて逃げるようなことは二度としないって誓ったんだから。



「さあ、そろそろおやすみ。琴音はもう、大丈夫だよ」



 結弦がわたしの顔を覗き込む。



 いやだ、眠りたくない。このまま眠るともう結弦達に会えない。なぜかわからないけれど、そんな予感がする。






 ――三人の声が、わたしの中の郷愁を呼び起こす。



 果てしない灰色の世界から、連れ出してもらえたと思っていた。



 わたしの鈍感な笑顔の下に隠しておけば、ずっと続くと思っていた。



 どうしてわたしは連れて行ってくれないの?



 帰りたくない。



 なにも気づかず、終わることのない小さな世界でずっと幸せに暮らしたかった…………の……に……。





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