第五章 終わる夢、消える世界

第23話 静かの海


 ―― 二〇二二年 七月十八日 月曜日 ―― 


 最終日の早朝。


 わたしは目覚ましのアラームよりも先に起きて、美輝の寝顔を眺めていた。


 長いまつげ。綺麗にとおった鼻筋。

 すやすやと寝息を立てている美輝の寝顔は、アンティークドールのように整っていて美しい。


 その寝顔をしばらく眺めて、わたしはそっと布団から抜けだした。


 歯磨きを済ませ冷蔵庫からお茶を取り出して飲んだ。


 夜が明けきらない薄暗い空。辺りはまるで世界にわたしだけのような静けさに包まれている。



 結弦はまだ眠っているだろうか?



 スマホの画面をタップして、かけ慣れた電話番号を呼び出す。



 こんな時間に迷惑かな? でもちょっとだけ、結弦の声が聞きたいな。



 少しためらいがちに通話と書かれた表示をタップした。


 コールが長くなる前に切るつもりだった。にもかかわらず、一度目のコールを終える直前。



『……もしもし』



 電話越しの声に、安心と同時に緊張が襲いかかる。

 寝起きだったのだろうか? その声はいつもより少し曇っていた。



『どうしたの琴音。こんな早くに、眠れないの?』


「ううん……ごめんね。なんだか声が聞きたくなって」



『そっか』という乾いた返事と共に、無言の時間が訪れると、いつものように結弦から話し始めてくれた。



『……琴音』


「なに?」


『海に行かないか?』


「いいけど、今から?」


『朝日が見たいんだ』



 電話していいかどうかも不安だったのに、またふたりきりになれるなんて。



「嬉しい……もちろん行きたい」


『じゃあ、部屋を出てきて』


「わかった。すぐに行くね」



 通話終了の表示をタップし、美輝が眠っていることを確認してから、そっと障子を開けて部屋をあとにすると、既に結弦は部屋の前でわたしを待ってくれていた。


 皆が寝静まった館内をふたりで歩く。


 大きくて暖かい手をしっかりと握り返して、なるべく足音を立てないように旅館から抜け出した。



 坂道を下って海岸へ着くと、遠くの海からは朝日が顔を出し始めている。



「すてき……。ねえ結弦、きれいだね」



 太陽が徐々にその姿を現して、穏やかな日差しの温もりと共に今日を運んでくる。まるで世界の始まりみたいだ。


 結弦は眩しそうに目を細めて、その光景をじっと眺めていた。彼方ではなく、その瞳はしっかりとそこに輝く光を捉えている。



 やっぱり電話してよかった。



 こんな景色を結弦と見られるなんて、これ以上の贅沢はない。


 瞳に映る鮮やかな情景が、わたしの幸せを称えているみたいに思えて誇らしい。


 朝日に照らされてきらきらと白波が輝いている海。寄せては返す波の音に耳を澄ませていると、結弦が静かに「……本当にきれいだ」と呟いた。



「海から昇る朝日って、力強いね」


「琴音もあの朝日くらい、強くなれるかな?」


「わたしはあんなにも輝けないよ」



 旅行で色々なことを経験して、以前よりも前向きになれたと思うけれど、この朝日に比べるとわたしの変化なんてとてもちっぽけだ。でも、だからこそ、まだまだなんだってできるような、そんな気もする。



 しばらく黙って朝日を眺めていると、結弦がぽつりと言った。



「琴音にひとつだけ、約束してほしいことがあるんだ」



 結弦は太陽に負けないくらい、力強い眼差しを海に向けている。同時にその目には悲壮感が漂っていて、わたしは返す言葉が見つからなかった。



「この先どんなにつらいことがあっても、琴音は絶対に、生きるのをやめないでくれ」


「え? ……それってどういうこと?」



 急にどうしたんだろう。でも結弦は真剣にわたしの答えを待っている。その瞳から想いの強さが伝わってくる。



「生きるって、約束してくれ」



 さっきよりも大きく、少し強い口調で結弦は言葉を口にする。戸惑いながらもわたしはその約束に応じた。



「も、もちろんだよ、死ぬわけないよ。わたしこんなに幸せなのに、みんなを残して死んじゃったりなんかしないよ」



 結弦は下唇を噛んで、徐々に空へと浮かび上がる太陽を睨みつけている。



 なにかあったのだろうか? その声と、交わした約束に、例えようのない不安を感じた。



「だったら結弦も約束してよ。わたしを残していなくなっちゃったりしたらいやだよ。ずっと一緒にいてね。一緒に生きて、わたしがおばあちゃんになっても、ずっとそばにいて……」



 声が震えていた。


 結弦の約束とは論点がずれているかもしれない。だけど、訊かずにはいられなかった。


 そんなわたしに、結弦はなにかを決意したようにはっきりと告げる。



「ごめん、その約束はできない……」



 頭の中が真っ白になる。今まで結弦がわたしを拒んだことなんてなかった。たまに困らせることはあったかもしれないけれど、最後には優しく笑いかけてくれていた。


 それなのに……。



「……どうして?」



 戸惑いが滲んで、微かに震える唇をなんとか動かして、小さな声を絞り出すと、結弦は苦しそうに顔を歪ませて言った。



「未来は……どうなるかわからない」



 その言葉に、堪えていた涙が溢れ出した。



「わかるよ! わたしはずっと結弦が好き! わたしの気持ちはこれからも絶対変わらないよ! だから、そんなこと言わないでよ……」



 ここで泣いたら結弦に嫌われてしまう気がして怖かったけれど、流れてしまった涙は抑制が効かず、とめることができない。



「琴音が変わらなくても、未来の俺がどうなるかなんて、わからないだろ……」



 まるで鈍器で頭を殴られたような衝撃だった。



 急にどうしたの? なにがあったの? なんで? どうしてそんなこと言うの? こんなの、いやだ。わからない。納得、できないよ……。



「わたし、結弦になにかした? もしそうならちゃんと反省するから。結弦の気が済むまで謝るから……だからお願い、ひとりにしないでよ。もう困らせたりしないから、ずっとそばにいるって、そう言ってよ」



 激しい感情が、涙とともにあふれ出す。



「そんなんじゃないよ。琴音が気にするようなことなんて……なにもない」



 悔しそうな表情と少し投げやりな声。結弦はトーンを変えないまま、「でも……」と続きを口にした。



「俺はきっと、琴音のそばにいられない」



 ……聞きたくなかった。



 いつもの優しい声色なのに、氷のように冷たいその言葉は、わたしをはっきりと拒絶しているみたいだ。


 天邪鬼とか照れ隠しとか、そんなんじゃない。結弦の強い意思の言葉。それは他でもないわたしに向けられている。



 求めるほどに注がれ続けた、愛した人からの愛情。それがこんなにも突然に途絶えるだなんて、想像もしていなかった。



 わたしはたった今、愛を失ったの……?


 ほんとうに、もう、戻れないの……?



「あぁ……、うぅ……」



 泣きながら、縋るように結弦に手を伸ばす。しかし、その手はもう掴んでもらえない。



「たとえ俺がいなくなっても、幸せに生きるんだ」



 結弦に伸ばした手が動きを止める。蛇のようににじり寄っていた腕は行き場を失い、だらりと岩の上に垂れた。



 あぁ、そうか……。


 わたしは今、結弦に振られているんだ。


 ひとりになって別の幸せを探せと、そう言われているんだ。


 朝日に浮かれて子どもみたいにはしゃいで、みっともなくて馬鹿みたい。



 でも、思い当たるふしはある。敵わない。もう、どうしようもない。




 ――天門葵。




 やっぱり彼女のことが忘れられてなかったんだろうな。昨日話しているのを傍から見ていても、ふたりにしかわからないなにかがあった。わたしが割って入ることができない、なにかが。



 それならもう、仕方ない。



 高校一年からの付き合いのわたしなんかより、彼女のほうがずっと長く結弦といたんだから。きっと彼女のほうがわたしなんかより結弦のことを理解している。

 一緒にいた時間の長さと重さは、そう簡単に埋められるものじゃない。



 瞬きもせず、折れたように垂れた腕を見つめていると、結弦との思い出が走馬灯のように頭を駆け巡る。



 わたしが結弦からもらったものって、どれくらいあったのかな?



 穏やかな安らぎ、優しい時間、ぬくもりに触れる喜び、遊ぶ楽しさや人を想う心の強さ、仲間達との思い出……。



 挙げるときりがないけれど、全部わたしの宝物だ。



 結弦からもらった幸せな夢。これ以上叶うことはないけれど、せめて去り際だけは潔くしたい。

 思い出の中にある輝きが、これだけあるなら、きっともう十分だ。



「……わかった」



 俯いていても、肌に感じる陽の温もりが鬱陶しい。


 さっきと変わらないのに、すべての景色が違って見えるのが不思議だ。


 優しく感じていた潮騒も、今では騒音のように喧しい。


 目の前に広がる果てしない空と海は、なにも変わらずにその澄み切った青を称えている。けれど、その青色すら煩わしい。


 数分前まで心を弾ませた海が、今では荒れた砂地のようだ。



 これ以上、結弦を苦しめたくない。そう決意して右手で力強く涙を拭い、すっくと立ち上がった。



「今まで……ありがとう」



 端的に告げると、海に背を向けて躊躇いなく走り出す。



 背中にわたしの名を呼ぶ声が僅かに届いたけれど、振り返らずに走り続けた。





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