第22話 君の余韻
旅館に戻ると、ロビーには誰もいなかった。
最後の夜なのに、このまま寝てしまうなんてなんだか勿体ない。そう思ったわたし達は、お風呂のあとに男子部屋に集まることにした。
部屋に戻ると着替えを用意して、美輝と温泉へ向かった。
「浴衣脱ぐときってさ、なんか名残惜しいね」
美輝がぽつりと呟いて、その物憂げな笑顔にわたしは短く「そうだね」と返した。
お祭りの余韻が、浴衣の帯を解くのと同時に薄れていくのが淋しい。
洗い場で軽く汗を流すと、いつもどおり露天風呂へ浸かった。
お湯のぬめりが疲れた身体を包み込む。背中に当たる冷たい岩の感触が気持ちいい。
美輝も目を閉じて、旅行最後のお風呂を噛み締めているようだった。
「旅行も、あとちょっとで終わっちゃうね」
目を閉じていた美輝に話しかけると、美輝は小さく頷いて言った。
「わたし花火大会って大昔に観たきりだから、初めて観るくらい感動したよ。いつかまた観たいな」
そう言って見せた美輝の笑顔は、花火のように輝いて散る儚さではなく、まるで空から弱々しく降ってきては、地面に吸い込まれて、溶けて消えてしまう雪のような儚さだった。
美輝にいつもの元気がない。
「観れるよ、また来年も一緒に観ようよ。来年だけじゃなくて再来年も、そのまた翌年も、ずっと!」
美輝を元気づけたくて、わたしは思わず立ち上がると、お湯のしぶきが美輝にかかった。
「ちょ、琴音。興奮しすぎだって」
美輝が笑ってしぶきを払う。いつもの笑顔だ。美輝がやっと笑った。
わたしは嬉しくてさらに美輝へばしゃばしゃとお湯をかけた。
「ちょっと琴音! なにすんのよ、やめてって」
「あはははは、だって美輝、やっと笑ってくれたんだもん! 嬉しい!」
素直な気持ちを言葉に乗せる。
それが苦手だった。できなかった。
照れくさくて恥ずかしくて、していいかどうかもわからなかった。
そのままざぶんとお湯に潜ってまた飛び出すと、普段から美輝に言えてなかった言葉を伝えた。
「わたしね、美輝が大好きだよ。もちろん結弦への好きとは違うけれど、美輝も怜も大好き。これからもずっと一緒にいてね」
一瞬照れたような顔を見せた美輝は、わたしと同じようにざぶんとお湯に潜ってから飛び出して言った。
「ありがと! わたしも琴音が大好きだから、これからもずっと、ずーっと琴音のこと見守ってるよ」
わたしたちは頭からずぶ濡れのまま、しばらく湯舟で笑いあった。
お湯に紛れて、涙も流れていたかもしれないけれど、それはお互い秘密のままで……。
お風呂を出て部屋に戻ると、葵ちゃんの駄菓子屋で買ったお菓子や夏祭りの前に撮ってもらった写真を持って、男子部屋を訪れた。
結弦に迎えられて部屋に入ると、うつ伏せに倒れている怜が、座布団に顔を押しつけていた。
怜が……、泣いている?
顔は見えないけれど、小刻みに震える怜の体がそれを伝えている。
わたしは驚いて美輝を見た。いつもなら真っ先に「どうしたのよ」と駆け寄るであろう美輝が、今はなにも言わない。
顔を伏せて声を押し殺していた怜は、わたし達に気づくと、慌てて抱えていた座布団を敷いて、その場に座り直した。
誰も口を開かない。口を開いてはいけない気がした。この静寂が壊れると、この四人がばらばらになってしまうような気さえしてくる。
その沈黙を破ったのは、怜だった。
「いや、わりいな。お、駄菓子いっぱいあんじゃん。一個もらい」
怜は照れ隠しのように笑って言うと、葵ちゃんから餞別と渡されたお菓子に手を伸ばした。【わさび太郎】という駄菓子だ。
封を切ると、怜はおもむろにそれを口へ放り込んだ。
「これ、つんとするんだよなあ」
怜は顔をしわくちゃにして、大粒の涙をこぼしている。いくら名前にわさびが付くからといっても、そこまでからい駄菓子があるのだろうか。
きっと涙をからさのせいにしてるんだな。そんなのずるいよ、怜。
「じゃあ、俺も」
そう言って結弦も【わさび太郎】を食べると、瞳にじわりと涙を浮かべた。
結弦まで泣いていることに驚いたけれど、それを見てわたしは嬉しくなった。
きっとみんな淋しくて、本当はこの旅を終わらせたくないんだ。それが自分だけじゃなかったことに安心する。
美輝がやれやれと笑って、「はいっ」とわたしにも【わさび太郎】を差し出した。
初めて食べる駄菓子。封を切って中から薄っぺらいそれを取り出すと、わさびの香りがつんと鼻をくすぐった。
そんな辛い駄菓子があるものかと、わたしはためらわずにそれを口に放り込んだ。
本物のわさびみたいな刺激が鼻を抜けると、すぐに涙が流れてくる。これは強烈だ。
続けて美輝も【わさび太郎】を口に入れると、すぐにぽろぽろと泣き始めた。
傍から見れば実におかしな光景だろう。高校生四人が、次々と駄菓子を口にしては、泣いているのだから。
けれど今この瞬間、わたし達四人は葵ちゃんの駄菓子を通じて、心を通い合わせている。
この旅を、心から楽しかった思い出を、みんなの心にしっかりと刻みつけて、その気持ちを繋いでくれた駄菓子。
この駄菓子を餞別と言って渡してくれた葵ちゃんに、わたしは心の中でお礼を告げた。
【わさび太郎】を完食すると、それからはたくさん遊んだ。
お菓子も食べたしジュースも飲んだ。
結弦のお祖母さんが撮ってくれた浴衣写真を見て、怜が、「グラビアみてえ」とけらけら笑ってからかっていた。
結弦はウノとオセロを持ってきていて、普段はしないことが特別な遊びみたいに思えて楽しかった。
ゲームが苦手な結弦は何度もビリになった。だからわたしとペアを組んで、美輝、怜ペアと闘う。ゲーム大好きなふたりのペアにはそれでもやっぱり勝てなかったけれど、夢中になって何度も挑んだ。
――辺りはしんと静まりかえり、気がつけば深夜になっていた。
「もう、こんな時間か」
結弦があくびをかみ殺して言った。
「朝までってわけにもいかねえな。今日すっげえ動いたし」
怜はキャンディーを口にしたまま、大きなあくびを惜しげもなく披露する。美輝は半分眠っているのか、こっくりこっくりと船を漕いでいた。
「美輝、そろそろ部屋に戻ろうか」
美輝の肩をとんとんと叩くと、眠そうに目を擦って小さく頷いていた。
疲れているときの美輝は小動物みたいでかわいい。
「じゃあ、そろそろお開きにしようか。明日は八時に朝食だから、頑張って起きるんだよ」
「うん、じゃあ、結弦も怜もおやすみ。また明日ね」
「あぁ、おやすみ」
結弦に続いて、美輝と怜も「おやすみ」と挨拶を交わす。
楽しい時間が終わる瞬間は淋しい。
学園祭でも体育祭でも、準備をしているときが一番わくわくしていて本番はあっという間だ。
その規模が大きければ大きいほどに、家に帰り自分の部屋に入った瞬間の淋しさも大きくなる。今がその瞬間に似ている。
本当は名残惜しい。けれど、ずっとこうしているわけにもいかない。
重くなった足をなんとか伸ばして、女子部屋へ戻ろうと立ち上がり、障子に向かって右足を一歩出したときだった。
突然わたしは、結弦に抱きしめられた。
「え? ちょ、なに? どうしたの結弦」
突然の抱擁に戸惑っているのはわたしひとりだけで、美輝も怜も視線を畳に落として、ただ俯いている。
「ごめん、ちょっとだけ、このまま……。琴音がいなくなる前に」
わたし達を見ないようにしているのか、美輝がふいっと横を向く。前髪で隠れてしまっていたけれど、その横顔が泣いているようにも見えた。
怜は下唇を噛んでいる。まるで、涙をこぼす前兆のように。
「ちょっと、みんなどうしたの? わたし、いなくなったりしないよ」
そう伝えても、結弦の腕はわたしを離してはくれなかった。
無言の時間が流れていく。まるで世界の終わりのような静けさに、わたしの鼓動が速くなる。
わたしは生きている。いなくなる理由なんてなにひとつないのに、結弦は「いなくなる前に」と、そう言った。
「ねえ、結弦、わたしはここにいるよ。いなくなったりなんかしないよ。そんなふうに言われると、なんだか怖いよ」
不安な声を漏らすと、結弦の腕がわたしの体からほどけた。
「ごめん琴音。変なこと言っちゃったね。部屋に戻る前にって意味だよ」
結弦はいつものように、穏やかに笑っていた。けれど、その顔はどこか物憂げで、わたしはまだ安心できなかった。
「美輝、わたしいなくなったりしないよね。ねえ、怜、わたし消えちゃったりしないよね」
不安な気持ちが募り、徐々に大きくなっていく。
「大丈夫だよ、安心して。琴音は消えたりなんかしないよ」
「変な心配すんな。てか、今のは結弦の言いかたがわりい」
冷静な怜の言葉に、結弦が「……ごめん」と呟いた。
「いや、怒ってるわけじゃないよ。嬉しかったんだけど、唐突でちょっとびっくりしちゃったっていうか……」
肩を落とす結弦を慰めようと、わたしは無理に笑ってみせた。結弦もいつもの微笑みで返してくれる。
「じゃあ今度こそ本当に、ふたりともおやすみ。引き止めちゃってごめんね」
本当はわたしも、もっと結弦といたかった。
でも、明日になればまた会える。これからもずっと一緒なんだから、と自分に言い聞かせ、わたし達は「おやすみ」と告げて、女子部屋へ戻った。
部屋に戻ると、一気に眠気が押し寄せてくる。
美輝と励ましあいながら、なんとか洗顔と歯磨きを終えると、そのまま布団へと倒れこんだ。
枕の位置を合わせて、スマホのアラームを七時にセットすると、上半身を起こして電灯の紐へ手をかけた。
「電気、消すよ?」
美輝の返事を確認すると、「おやすみ」と言ってから紐を二回引き、灯りを豆電球だけにして布団に潜り込んだ。
「ねえ、琴音」
布団で口を覆ったようなくぐもった声で、美輝がぽつりと呼びかけてきた。
「なに?」
美輝がころんと寝がえりを打ち、わたしの顔を覗き込むように上目遣い気味で見つめている。
「一緒に寝ようよ」
やっぱり美輝はかわいい。今も、子どものようなあどけないかわいさを見せている。
嬉しかった。断る理由なんてない。ただひとつ気になるとしたら、わたしの寝相の悪さだけだ。
「もちろんいいけど、わたし寝相悪いよ?」
くすくすと笑って美輝が、「気にしないよ」と言うとわたしの布団に潜り込んできて、背中に手を回してきた。
わたしも同じように美輝の背中に手を回す。美輝の体はふわふわしていてまるで猫みたいだ。
美輝の吐息と体温が、わたしの中に溶けていく。
わたしの鼓動と美輝の鼓動が、重なりあって混ざりあう。
それはふたりが確かに生きて、ここにいる証だ。
わたしはいなくならないし、美輝もいなくなったりしない。
それを今、心と体で感じ合っている。
美輝のぬくもりは安らぎとなり、わたしはたちまち安息の眠りに誘われていった。
眠りに堕ちるまどろみの中、意識が途切れる寸前に美輝の声が聞こえた。
「琴音……。きっと、忘れないよ……」
重いまぶたを僅かに持ち上げて窓に目をやると、お祭りで取ったわたしと美輝のヨーヨーが、静かに仲よく揺れていた。
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