第16話 星空と海と、大好きな君と
ようやく涙が収まってくると、海へ星を見に行こうと結弦が提案した。
美輝はもう一度お風呂に入るから、怜は眠いからという理由で断ったため、わたし達はふたりで行くことになった。
海岸へ向かう坂道を下って、夜の海へと向かう。繋いだ指先からじんわりと結弦のぬくもりが伝わってくる。
なんだか照れくさい。
考えてみたら今日はずっと結弦といたのに、ふたりきりになったのも手をつないだのも今が初めてだ。
美輝がいるとわたしはつい美輝に甘えてしまう。だから必然的に結弦よりも美輝と話す時間のほうが長くなってしまう。
そういえば旅行に来る前、いつだったかひとり淋しくなってしまって、星が見たくて夜空を見上げた。もちろん都会の空では星なんてほとんど見えないけれど。
でも、こんなふうに結弦も美輝も怜もいてくれるのに、どうして淋しかったんだろう?
よく思い出せないでいると、結弦が歩きながら言った。
「夜ってさ、ふとした瞬間に淋しくなるよね。そんなときはよく海で星を見てたんだ。都会に出てからは友達もなかなかできなくてさ。淋しくて夜空を見上げても星も見えないし、それが悲しくて余計に淋しくなったな」
今は星が見えない代わりに琴音がいてくれるけど、とさりげなく付け足した結弦の表情は暗くてよく見えないけれど、わたしの頬はおそらく夕焼けみたいに赤く染まっていただろう。
暗い夜道は少し怖いけれど、今だけは助かった。
少し歩くと、すぐに海岸に着いた。海は凪いでいて波も穏やかだ。
砂浜に降りると端に岩場があり、丁度いい場所を見つけるとふたりで座って夜空を見上げた。
「わあ、すごい!」
夜の海が今にも降ってきそうな星空を纏っていて、その輝きにわたしはしばらく言葉を失った。
星座はまったくわからないが、星に詳しい人はここからたくさんの星座を見つけ、神話を語ることができるのだろう。
満天の星空を眺めながら、結弦がいつもの優しい声色で静かに話し始める。
「琴音に、見せたかったんだ」
「えっと……、ありがと」
付き合ってもうすぐ二年になるのに、ふたりきりで優しくされると、いまだにわたしは胸の高鳴りを覚える。
気まずい沈黙が訪れる前に、結弦は続けて話してくれた。
「なあ……、琴音」
「なに? 結弦」
「バスの中で、怖い夢見たんだろ?」
昼間の記憶が甦る。忘れていたわけじゃないけれど、気にしないようにはしていた。
「あのね結弦……。今日、どうして信じてくれたの?」
少しの不安を声に混ぜて訊ねる。
「なにが?」と返す結弦の視線は空へと向けられていたが、その眼差しは星よりもどこか遠い彼方を見つめているみたい。
「あのときわたし変なこと言ったでしょ。バスが落ちるとか、みんなを脅かすようなこと」
きっと周りから見ても不快だったに違いない。バスの乗客全員に死の宣告をしたようなものだ。
けれど結弦からはわたしを喜ばせる意外な言葉が返ってきた。
「琴音を信じない理由がないからだよ」
彼方を見つめたまま、結弦は少し口角を上げてそう言ってくれた。けれど、
「でも、わたしが言ったような大事故にはならなかったよ」
事故は起きた。でも湖に転落はしなかった。あれじゃまるで悪戯にみんなを脅かしただけだ。
「そうだね。確かにそんな大事故になってたら困るなあ」
結弦は星空を眺めながら、くすっと笑って続けた。
「琴音……」
「なに?」
「他にも怖い夢、見たんじゃないのか?」
夢の中で過ごした七年間が、頭の中でフラッシュバックする。
いやだ、思い出したくない。思い出すのが怖い。
「全部話してごらん。今日一日、怖かっただろ?」
その言葉でせきとめられていた感情が溢れ出し、見上げた星空が滲んだ。
わかっていた。夕食のときに泣いたのも、全部あの夢のせいなんだ。
孤独で先が見えない永遠とも思える暗闇の世界。
真っ暗な中からなんとか這い出して明日を見渡してみても、そこには誰もいなかった。
出口のない迷路を、裸足のまま傷だらけになるまで駆けずり回った七年間。その淋しくて恐ろしい夢の記憶が、心の隙間からわたしに牙を覗かせた。
「こわ、かった……」
涙でかすれた声に、結弦が「うん……」と相槌を打つ。その声に少し安心して、わたしは話し続けた。
「美輝も怜もいなくなって、結弦が目を覚まさなくなって、わたしひとりになってた」
「うん……」
「ピアノも弾けなくなって、流されるまま毎日を過ごして、学校にも行けなくて……」
「うん……」
「なんとか入れた大学を卒業して、たまたま内定をもらった会社に就職したけど、毎日怒られて怒鳴られて……」
「うん……」
「生きてるだけで、怖かった」
「よく、頑張ったね」
「誰にも相談できなくて、ただ結弦の寝顔を見つめてるだけだった。そのうちわたしは眠っている結弦に愚痴までこぼすようになって、本当にごめんなさい」
「ううん、目を覚まさない俺なんかのために、そばにいてくれてありがとう」
嗚咽が混ざった声をなんとか絞り出して、夢の出来事を結弦に伝える。夢なのに、思い出すと本当に自分の人生だったような気がして怖かった。
けれど、結弦に聞いてもらうだけで、心の中の黒いシミが少しずつ薄れていくのを感じる。
「目が覚めたとき、本当に事故に遭うかもって思うとすごく怖くなった。でも、みんなを助けなきゃって、そう思って……」
「だから、あんなに必死になってくれたんだね」
優しい言葉が心を満たしていく。枯れかけた緑に、水が染みこんでいくみたいだ。
「でもね、琴音」
涙でぐしゃぐしゃになった顔を少しだけ上げて、「なに?」と結弦を見つめ返す。
「あのとき、琴音がそれを教えてくれたから、その瞬間に未来が変わったのかもしれないよ」
「未来が……、変わった?」
「そう、もしかしたら崖下に転落してしまう未来だって、あったかもしれない」
そういえば、いつか物理の先生が、世界にはパラレルワールドという並行世界があると言っていた。
遠い未来にタイムマシンが完成して、過去に戻って過去にあった出来事をなかったことにしたとしても、元の未来で変化は起きておらず、変えられた過去の世界は自分達の未来とは無関係な世界を展開していく。
こうしてパラレルワールドは無限に広がっているのだと、確かそういう内容だった。
「だから今、俺達がここにいられるのは、琴音のおかげかもしれないね」
オカルトとか超常現象とか、あまり信じていないけれど、結弦の言葉にはなぜかそれを思い出させて、どこか信じさせる力があった。
他の乗客からもきっと変な目で見られていたのに、わたしの話を真摯に受けとめてくれたことに、思わず笑みがこぼれてしまう。
「それなら、今のわたしは未来からきたのかもしれないよ」
結弦がわたしを無条件に信じてくれたことが嬉しくて、泣き顔に笑顔を添えてついその話に乗っかった。
「未来から来たのに、どうして俺達と同じ年齢なのかな?」
結弦は少し笑ってそう言った。
それもそうだ。未来から来たのなら、わたしは未来の姿でなくちゃおかしい。そう考えると、わたしはやっぱり未来人ではなかったらしい。
「じゃあ、予知夢ってやつかなあ。直前まで寝てたし。わたしってばエスパーさんなのかも」
「大した超能力者だね」
結弦がふはっと吹き出して続けた。
「じゃあ、そんなエスパーさんに質問だ」
「なあに?」
「琴音は将来どうなっているの? 自慢の超能力で未来を見て、俺に教えてよ」
結弦に励ましてもらってすっかり元気になったわたしは、「いいよ」と得意げに返して、テレビで観た超能力者と呼ばれる人達が念じるときにする仕草を真似てみせた。
「はい、見えたよ」
じゃあ教えてあげるね、と付け足すと、わたしは未来のわたしを結弦に発表した。
「わたしは将来、ピアノの先生になっています」
――本当になれたらいいな。そのためにも、もっと頑張らないとね。
「それから結弦と結婚して、家庭を築いて幸せに暮らしています」
――そうなれたらどんなに幸せだろう。きっとわたしは、世界一の幸せ者だ。
「そして、おじいちゃんとおばあちゃんになっても、ふたりで仲よく手をつないでいます」
――最期のときまで、その手を離さずにいられるといいな。
「どう? これがわたしの未来だよ」
――未来を見たわけじゃないけれど。
「結弦……?」
どうしたんだろう。結弦がなんにも答えてくれなくなっちゃった。
顔を覗き込むと、うっすら涙を浮かべている。
「やだな、重かった? ごめんね。わたしそんなつもりじゃ……」
「いや、そうじゃなくて……」と口にする結弦の声は、とても弱々しくてどこか儚い。
それからしばらく会話は途絶えてしまったけれど、結弦が困っているわけでも怒っているわけでもないことはわかっていた。
結弦はそのどちらでもなく、不安そうな顔を隠していることに、わたしは気づいていたから……。
時間だけが無情にも過ぎていく。もうどれくらい経っただろう? 五分? 十分?
いたたまれなくなり、偽りの気持ちをつい口にしてしまう。
「海辺だから、冷えてきたよね。そろそろ帰ろっか」
いやだ。ほんとはまだ帰りたくない。もっともっと、結弦と一緒にいたい。
「こうすれば寒くないよ」
――え?
暗闇の中で、わたしは結弦の腕に包み込まれていた。
「ゆ……、結弦? えっと、あの……」
「琴音、夢の中で頑張ったんだね」
戸惑う心に、結弦のぬくもりと優しさが染み渡る。
「うん……、ほんとに怖かった。夢でよかったって……、思った」
「守ってあげられなくて、ごめん」
本当に申しわけなさそうに囁く結弦を、励ますように口にした。
「でも、これからはこうして、結弦がわたしを守ってくれるんでしょ?」
「……うん、これからもずっと、俺が琴音を守っていきたい」
とろけるような甘い言葉に、胸がとくんとやわらかな音を立てる。
「この先どんなことがあっても、この気持ちだけはずっと変わらないよ」
「……結弦」
わたしもずっと変わらない。
結弦が好き。痛いほど好き。今もこれからも、ずっとずっと大好き。
未来とか予知とかどうでもいい。これがもしも夢だとしたら、夢のままでもかまわない。
この瞬間、結弦がそばにいてくれる。その幸せは今ここにある。ただ、それだけでいい。
夢の中で悲しみに流されて戻れなかった日々に、またこうして戻ってくることができたのだから。
悲しみを乗り越えると、乗り越えた分だけ輝きが降り注ぐのかもしれない。
それをきっと、誰もが奇跡と呼ぶのだろう。
わたしの首筋に結弦が吐息を漏らすと、包み込む腕に力が込められていくのを感じる。
強く、強く抱きしめられるほどに、嬉しくてまた涙が溢れていく。わたしのこの気持ちは、決して色褪せることはないだろう。
泣いてしまうくらいに、わたしはきっと幸せなんだ。
だからもう、わたしをひとりにしないでね。
わたしを置いて、どこかに行ったりしないでね。
これからもずっと、ずっと一緒にいてね。
わたしをきつく抱きしめたまま、結弦は小さく呟いた。
「琴音の未来を……、きっと叶えようね」
ゆっくりと体を離して結弦を見上げると、一筋の星が空を横切った。
星が降り注ぐ夜空の下で、わたし達は見つめ合い、そっと唇を重ね合わせる。
優しい声を、このぬくもりを、夢の中でずっと待ち焦がれていた。
――ねえ結弦、わたしのこの気持ちも、決して枯れることなんてないんだよ。
今この瞬間を写真のように切り取れたなら、どれだけすてきだろうね。
この思い出があれば、わたしはどこまでも進んでいけるよ。
背中に羽が生えて、空を飛ぶことだってできるかもしれないよ。
そうしたら、この広い海をどこまでも越えて、結弦を追いかけていけるんだよ。
夜に紛れて夢の中で囁くように、わたし達は優しい言葉を交わし続けた。
時折唇を触れ合わせて、それは奏で合う音楽のように、心地よく響いていた。
永遠とも思える、短い時間が過ぎていく。
空は変わらずそこにいて、星の輝きを称えていた。
まるでわたし達の未来を照らすかのような、満天の星空だった。
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