第14話 幸せを感じる瞬間
レトロな駅舎に降りたつと、田舎の空気はまたその色を変えた。
新緑の香りに紛れるこれは、潮の香りだ。
「おぉー、いいとこだなあ」
バスでも眠り先刻の電車内でも熟睡していた怜は、とても調子がよさそうだ。美輝は寝てる間に乱れてしまったポニーテールをくくり直している。
「さあ、もうすぐだから、頑張って歩こう」
結弦がリュックサックを背負い直して歩き始めた。
怜は駅舎横の自販機で買ったジュースを一気に飲み干して、ぷはっと一息吐いてから、よしっと気合いを入れていた。
駅前からは緩やかに上る坂道に沿って商店や旅館が軒を連ねている。わたし達は最後のゴールを目指して、ほのかに海の気配がする坂道を上り始めた。
いつからかわからない。
わたしに欠けた色を探していた気がする。
欠けた理由も、欠けた色さえもわからない。
どんな色をしていたんだろう。足りない色はなんだろう。
見つかったらなにかが変わるだろうか。
この旅の終わりに、その答えが待っている。
そんな予感がした――。
「あの角を曲がれば、もうすぐだ」
結弦の言葉に胸が高鳴る。どんな旅館なんだろう。
疲れたはずの足取りが徐々に軽くなっていく。
空はうっすらと茜色に染まり始めていた。心なしか潮の香りがさっきより強くなっている気がする。
「みんなお疲れ様。ここがじいさんの旅館だよ」
一見すると古くて趣のある大きな建物。だけど改装を重ねているのか、窓や外壁など、ところどころが新しくなっている。
敷地内に入ると小さいけれど池もあり、そこには立派な中庭が広がっていた。
もっとこじんまりとした宿を想像していたのに、ほんとにこんなとこに泊まらせてもらっていいのだろうか?
結弦が「こんにちはー」と挨拶をしながら、大きな引き戸をガラガラと開けて中に入っていく。わたしは動揺する感情をなんとか顔に出さないように装っていた。
玄関をくぐると、奥から老齢の男女が出迎えてくれた。
「みなさんいらっしゃい。よく来てくれたわね」
「ばあちゃん、久しぶり。元気そうだね」
この人が結弦のお祖母さんか。ちゃんとしたとこを見せなくちゃと、軽く咳払いをして背筋を伸ばした。
「ええ、結弦も元気そうね。遠くて疲れちゃったでしょう。二階の奥に二部屋用意してあるから、そこ使ってね」
「ありがと。じいちゃんも久しぶり。これおみやげだよ」
結弦は持っていた紙袋から包みを取り出して手渡した。見たところお酒のようだけれど、さすが結弦だ。おみやげもちゃんと用意していたんだな。
「わざわざありがとう結弦。事故もたいしたことなくてよかったな」
「うん、おかげで遅れちゃったけどね」
結弦のお祖父さんとお祖母さんは、大幅に遅れてしまったわたし達を優しく迎えてくれた。
それぞれ「お邪魔します」や「お世話になります」と軽い挨拶を交わし、靴を脱いで上がらせてもらう。
「紹介するよ。高校の友達で、時永怜と巡里美輝さん。こっちは彼女の神谷琴音さんだよ」
か、彼女! そんなふうに紹介されるなんて思っていなかった。完全に不意打ちだ。
ぺこりと頭を下げたふたりに倣って、わたしも慌てて頭を下げた。
「琴音、赤くなってるじゃん」
「ちょっと、美輝! 変なこと言わないで!」
美輝のいじわるに頬が熱を帯びていき、恥ずかしくて顔がどんどん下を向く。
「あらあら、初々しくて羨ましいわねえ」
結弦のお祖母さんがころころと笑っている。いくつになっても仲のよさそうなこの夫婦のほうが、わたしには羨ましく思えるのだけれど。
「みんな疲れてるだろう。食事の準備をしておくから、先にお風呂に入ってくるといい」
「ありがとう、じいちゃん。じゃあ、ひとまず荷物を置きに部屋へいこう」
結弦の案内でフロント脇の階段から二階へと上がった。廊下のつきあたりで男女にわかれて、それぞれの部屋へ入る。
ひと息ついたわたしと美輝は着替えとバスタオルを準備すると、結弦達に声をかけていそいそと温泉へと向かった。
「楽しみだねえ、温泉」
美輝はスリッパをぱたぱたと鳴らして小走りをしている。弾んだ気持ちを抑えられないといった様子だ。子どもみたいでかわいらしい。
鼻歌まじりに駆け出す美輝につられて、わたしもつい小走りになった。内心想像していたよりも大きくてきれいな旅館に心が躍る。お風呂あがりに袖をとおす浴衣も、今から楽しみだ。
脱衣所で衣服を脱いで浴場へ入ると、わたし達以外誰もおらず、近くの洗い場に美輝と並んで座った。
温度が丁度いいことを確認してからシャワーを浴びる。夏とはいえ、お湯の温もりが疲れた体に心地いい。
頭と体を洗い、肩下まで伸びた髪を纏めた。美輝も腰近くまである髪をアップにして整えると、ふたりで露天風呂に移動してお湯に浸かった。
外は随分薄暗くなっていて、ところどころに設置された暖色のライトがほどよく和の雰囲気を演出している。
「あぁ、気持ちいいねぇ」
「うん、癒されるね」
美輝は温泉が似合う。
綺麗な顔立ちが熱を帯びてさらに艶っぽい表情になっていて、そのスタイルのよさからか、似合うというかとても映える。画になるというのだろうか。
それにわたしと違って胸も……。
「どうかした?」
「な、なんでもない」
思わず見とれてしまった。ほとんど毎日顔を合わせているのに、美輝とふたりきりなのが久しぶりな気がしたのも理由のひとつだろう。
照れて緩んだ顔を隠そうと慌てて美輝に背を向けると、美輝が背中越しに声をかけてきた。
「琴音はさ、将来どんな仕事したい?」
美輝の言葉で思考が現実に引き戻される。ついでにやはりここは現実なんだという実感が込み上げてきた。
高校を卒業してそれぞれ別々の道へ歩いていく未来が、すぐそこまできているんだ。
「そうだなあ、ピアノの講師とかになれたらいいなって思ってるけど、大変だろうなあ」
「ピアニストでも先生でも、琴音ならなんでもできるよ」
お湯の温もりか、それとも情緒ある温泉の効果だろうか。美輝の瞳はどこか虚ろだ。
「美輝は将来どうするの?」
「わたしは……とにかく大学に行きたいかな。一度でいいから、キャンパスライフってのを満喫してみたかったんだよね」
「でも、美輝はスポーツ医療が学べる大学に行くんでしょ?」
あまり深く考えずに浮かんだ疑問をそのまま投げかけてみると、美輝はなにかを思い出したように、ぱちぱちと目を瞬かせていた。
「そう、だったね。……頑張ら、ないとね」
「わたし達、まだまだなんにでもなれるよ」
静寂の中、湯船にお湯が落ちる音だけが響く。
「……琴音、夢を叶えてね」
美輝がか細い声でぽつりと呟いた。
なんだか心配だ。美輝は夢を諦めてしまったの? それを問いかけようとした瞬間、しぶきを上げて美輝が立ち上がった。
「そろそろあがろっか。男子ふたりも待ってるだろうし」
よく見ると辺りはすっかり真っ暗になっている。風情ある照明のおかげで時間を忘れてしまっていた。
湯船から出て脱衣所に戻ると、美輝はいつもと変わらない普段どおりの笑顔に戻っていた。
◇
髪を乾かし浴衣に着替えて浴場をあとにすると、男子部屋を訪ねた。
「お風呂あがったよー」
ふたりに声をかける美輝は、やっぱり普段と変わらない。変わったところと言えば、ポニーテールをおろしていることくらいだ。
夕食は別室に用意してもらっているらしく、わたし達は結弦のあとについて部屋を移動した。
中に入ると高校生のわたし達ではとてもお目にかかれない豪華な料理が並べられていて、思わず「うわあ」と感嘆の声が漏れた。
「すごーい! おいしそう!」
「こんなメシ食ったことねえよ」
美輝と怜は感情表現が上手だ。食べる前から既にご満悦の笑顔を見せている。
それに比べてわたしはこういうときに喜びを口にするのがちょっと苦手。なんだか照れが入ってしまって、つい余計なことを言ってしまう。
「結弦、いいの? わたし達お金も払ってないのに」
ほら、やっぱりこんな言葉が出てきてしまう。確かに気にはなるけれど、無粋だと自分でも自覚している。
「大丈夫。サービスだってさ。客とか仕事とか関係なくもてなしたいんだよ。田舎の人だからね」
なんだかわたしにはまだ早いような、場違いな気がして体を強張らせていると、部屋の入口から見知らぬ女性が声をかけてきた。
「実は今日、子どもさんが熱を出したからって予約のキャンセルがあってね。それで食材が余っちゃったのよ。残り物みたいでごめんなさいね」
ふふっと笑って教えてくれたお姉さんは、きれいな着物をかっこよく着こなし、流れるような動作で持ってきたお刺身と飲み物を次々と並べていく。
「
配膳に来たお姉さんを見て、結弦が嬉しそうな顔をする。
「結弦が来るって聞いたから、今日は特別ね。つい出しゃばっちゃった」
普段は配膳とかはしないのだろうか? そういえば着物も他の仲居さんより豪華な気がする。
「千佳さんは父さんの妹なんだ。ここの若女将だよ」
なるほど。この気品はそういうことか。それにしてもきれいな人だ。
お母さん似の結弦とは全然顔立ちは違うけれど、おっとり顔の結弦と対照的に、少し切れ長の目は象徴的な大和撫子を演出させている。
「ごはんは釜ごと置いておくわ。たくさんあるから大丈夫だと思うけど、足りなかったら言ってね。それじゃあ、ごゆっくり」
その優雅な動作はひとつひとつの動きがまるで芸術のようで、わたしと美輝はその姿に思わず見とれてしまっていた。
小鉢の盛り合わせが数品と茶碗蒸し、炙って食べる特産品の牛肉とお野菜、盛りだくさんのお刺身に焼き魚、揚げ物にはこの辺りで採れたという野草や、大きな海老の天ぷらまで揚げたてで用意してくれた。
それに釜で炊いたご飯にお吸い物までどれもとてもおいしくて、わたし達はしょうもないやりとりで笑いながら、用意された料理を存分に味わった。
遅い時間に昼食を摂ったので胃袋の空きに不安もあったけれど、結弦と怜はお釜が空っぽになるほどの食欲で、お米がおいしいと感じたわたしもこっそりとおかわりして、美輝も茶碗に三杯おかわりしていた。
おいしいものを囲んで、他愛もないけれど取り留めもなく、笑い声がそこかしこに飛び交っている十畳ほどの幸せな空間。
あと何回、こうしてみんなと過ごせるんだろう。
あとどれくらい、こうしてみんなと笑っていられるんだろう。
幸せの大きさに比例するように、それぞれの進路へ向かう淋しさも大きくなる。
けれどきっと、これからみんな大人になっても、わたしの隣には結弦が、美輝の隣には怜がいるだろう。
喜びをわかち合い、ときには泣いて、ときにはケンカして、ずっと変わらずに過ごしていきたい。
移ろう季節の中でみんなと出会って、幸せという夢をもらった。
それは決して手放せない宝物だ。
わたしの手は、それほど大きくないけれど、なるべくたくさん抱えていたい。
将来の夢といっても、なりたいものと、したいことは違うのかもしれない。
この夢を守るためなら、ピアノはもちろん勉強だって頑張れる。どんな困難も乗り越えられる。
そうやって日々を積み重ねて、なりたい自分になれますように……。
この満ち足りた幸せが、これからもずっと、続きますように……。
楽しそうに笑う三人を見てぼんやりしていると、ふいに涙がこぼれてしまった。
「えっ……? あれ……?」
とめどなく溢れ出す涙をなんとかとめようと、必死で頬を拭う。
それでも涙は一向にやむ気配を見せない。まるでわたしの中にいる他の誰かが、代わりに泣いているみたいだ。
「あれ? おかしいな。別に悲しいわけじゃないのに」
わたしが意味もわからず泣いている様子を、みんなはなにも言わずに優しい目をして見つめている。
「ちょっと、誰かなんか言ってよ。別に、なんでもないんだから」
どうしたとか聞かれてもわからないのには間違いないけれど、なにも言ってくれないと、それはそれで恥ずかしい。
涙の上におそらく赤面まで重ねていると、やっと美輝が言葉を紡いでくれた。
「琴音……今幸せだなあって思ってたんでしょ?」
いつもの笑顔で放たれた美輝の言葉に、零れる涙が加速する。
どうして、『なんで泣いてるの』じゃないの? そんなこと言われたら、嬉しくて余計に泣いてしまう。
あぁ、そうか。これはうれし涙なんだ。
みんなと過ごせる幸せな日々。その幸せを噛み締めて、わたしは今泣いているんだ。
そんな当たり前のことでこんなに泣いちゃうなんて、なんだか不思議だけれど。
隣に座る結弦が、わたしの頭を撫でて言ってくれた。
「琴音が喜んでくれて、よかった」
だめだ、涙腺が馬鹿になっている。泣くな……、泣くな……、笑え……。
こんな楽しい日に湿っぽくなんてなりたくない。幸せを涙で彩るなんて、そんなの滑稽だ。
必死で涙をとめようとしているにも関わらず、怜がさらに追い打ちをかけるように、にかっと笑って言った。
「泣きたきゃ気が済むまで泣けよ。だれも責めたりしねえから」
怜までそんなこと言うなんて、どうしてみんな、今日はこんなにも優しいの?
ずっと友達なんていなかった、わたしなんかに……。
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