第12話 変化した時空
幾分落ち着きを取り戻したわたしは、思考をしばらく停止させて、ぼーっと窓の外を眺めていた。
「そうだ、琴音! わたしお菓子持ってきたんだ! 一緒に食べよ!」
美輝がカバンからスティック状のチョコ菓子を取り出した。封を開けると、そこから数本手につまんで、「はいっ」とわたしに差し出してくれる。
「ありがとう……」
なんだかこのお菓子にも、見覚えがあるのだけれど……。
美輝から手渡されたチョコ菓子を口に運び、ふたりでポリポリとした食感を楽しむ。
少しほろ苦い味わいはカカオが多く入っているからだろう。それでも、チョコの甘さはわたしの緊張を心なしか和らげてくれる。
だけどお菓子に見覚えはあっても、これを食べた記憶はない。やはり事故の記憶は夢だったのだろうか?
虚ろな気持ちで、車窓から見える大きな湖を横目に考えていると、突然バスの巨大なクラクションが、けたたましく数度鳴り響いた。
その瞬間、わたしの体は凍りついたように強張った。
キキイイイイイイイ……ドンッ!
金切り声のように鳴るブレーキ音。
そのすぐあとに強い衝撃が伝わる。
駄目だ、やっぱり予感は正しかったんだ! こんなことになるなら、無理やりにでも先刻バスを停めるべきだった。
きっと今の衝撃はバスがガードレールを破ったのだろう。
落下の浮遊感と湖面への激突に備えて、ぎゅっと目をつぶる。
しかしわたしの頼りない警戒も空しく、バスはその場で静かに停車した。
「みなさん! 大丈夫ですかっ!? お怪我はありませんか!」
運転手さんが慌てて立ち上がり、客席を見渡して叫んでいる。
全身の震えが止まらない。
放心しているわたしに、美輝が声をかけた。
「琴音、大丈夫? びっくりしたね。まさか本当に事故に遭うなんて……」
「ふたりとも大丈夫か?」
後ろから顔を覗かせる結弦と怜。男子達もどうやら無事のようだ。
「本当に事故が起きるなんてな。でも、たいしたことなくてよかったじゃねえの」
怜も少し驚いた様子だが、誰も怪我ひとつない状況に安心しているらしい。
けれどわたしは、今起きたことへの理解が、まるで追いつかない。
記憶では、バスごとダム湖へと転落したはずだ。でも、バスは転落どころか横転もしていない。
一方的にぶつけられて、ただ平穏に停車しただけと言われても間違いではない。それくらい、たいしたことにはなっていない。
運転手さんが一番後ろの席まで歩いて、乗客全員の無事を確認してから言った。
「今から相手方の様子を見てきます。バスの中は安全ですので、みなさんはお席についたままでお願い致します。すぐに戻りますが、ご気分の優れないかたは申し出てください」
乗客にそう告げると、運転手さんは急いで外に出て、相手ドライバーのもとへ向かった。
わたしの座席からも相手の姿は見えていたが、どうやら怪我はないらしい。
運転手さんは非常用の三角板を立て、携帯電話でどこかに電話をかけていた。
やはり夢を見ていたのだろうか? ダムに転落するというのは、今回の事故の予知夢であり、夢の中ではわざと大袈裟になっていたのだろうか?
しかし、わたしはそのあとのことまでよく覚えている。美輝と怜が亡くなって、結弦は意識不明の重体になってしまった。
そして、わたしはそれから七年の歳月をひとりで生きた。
「これ、どうなるんだろうね?」
考え込んでいると、隣で美輝がチョコ菓子をぽりぽりと咀嚼しながら呟く。それと同時に運転手さんが車内へと戻ってきて、乗客に状況を説明した。
「みなさん、お待たせしてしまい大変申しわけありません。事故の相手方もお怪我はありませんでした。先ほど本社に連絡をして、ここから一番近くの車庫から代車をまわす手配を致しました。まだ時間ははっきりしておりませんが、みなさんには、新しいバスが到着次第そちらに乗り換えていただき、目的地へとお送り致します。今のところご気分の優れないかたはおられませんか?」
少し不安そうな顔をする人もいたが、誰も声は挙げなかった。頑張ってくれている運転手さんに、今なにか言える人なんていないのだろうけれど。
「すぐに警察が来られますので、みなさんはなるべくバスの中で待機していただきますよう、引き続きご協力お願い致します。少量ですが、水と食料の備蓄もございますので、必要なかたはお申しつけください」
そう言うと、運転手さんはまたバスの外へと出て、今度はバスの損傷状況を確認していた。
どう考えても一方的にぶつけられただけなのに、文句ひとつ言わず、乗客のことを第一に考えて行動してくれている運転手さんに、わたしは胸を打たれた。
こんなにも責任感を持って仕事をしている姿に、尊敬と感謝の念が芽生える。
「ちょっと俺、じいさんに連絡してくるよ。琴音も外に出る?」
結弦が席を立ち、わたしの様子を伺うように言った。
「俺達も少し外の空気でも吸うか、琴音もそのほうがいいだろう?」
怜の意見に賛成し、わたし達四人はバスから降りた。
「すみません、気分が優れないので、少しだけ外の空気を吸わせてください」
見ると、怜が運転手さんと話をしていた。そういえば、あまり外には出ないでほしいと言われたんだっけ。
でも運転手さんはいやそうな顔ひとつせず、よければと四人分の水を持ってきてくれた。お礼を言って水を受け取ると、電話を終えた結弦が戻ってきた。
「じいさんに伝えておいたよ。あんまり遅くなりそうなら、お金は出してあげるから、街で宿を取りなさいってさ」
「今、十一時四十分か。そんなに遅くなることもなさそうだけどな」
怜が腕時計を確認しながら続ける。
「それにしても、琴音はどうしてバスが事故に遭うってわかったんだ? 夢でも見たのか?」
夢? そうなのかな。でも誰も怪我しなかったんだから、もう夢でもなんでもいい。
「うん、まあ……そんなとこかな。ごめんね、さっきは取り乱しちゃって」
とにかく無事でよかった。それだけだ。
「でもさ、琴音から聞いて、結弦が運転手さんに伝えてくれたから、この程度で済んだのかもしれないよ? そう考えたら琴音のおかげだよね」
「そうだな、俺も琴音がダムの話をしてなんか引っかかってさ。伝えに行ってよかったよ」
美輝も結弦も、どこかほっとしたような口調だった。
それから学校のことや部活のこと、進路のことなどでしばらくの間、四人で談笑した。
――なぜだろう、なんだか懐かしい。
晴れ渡る空の下、蝉が生きた証を残そうと、必死に叫んでいる。
そんな当たり前のことなんて、普段は気にも留めないだろう。
今この瞬間をみんなで生きて、笑っていることは、当たり前かもしれないけれど、わたしにとっては特別だ。
夢だったとか、時間が戻ったとか、考えたってわからない。
わからないなら、それでいい。
結弦が無事で、美輝と怜も生きている『今』は、まぎれもない現実だから。
孤独と絶望に胸が締めつけられていた日々。
夢だったのかもしれないけれど、あれは、甘えてばかりのわたしに、神様がこっそり与えた試練だったのかもしれない。
今度こそ強く生きよう。
この気持ちと、いつもわたしに笑顔をくれる、みんなのことを大切にしよう。
何事もなかったかのように笑う三人を見ていると、涙が浮かんでくる。
それを誰にも気づかれないように、空を仰いで笑い続けた。
「そろそろ戻ろうか」と言う結弦の声でバスに戻り、美輝と他愛ないお喋りをしていると、一台のパトカーが到着した。
中から若い警察官と年配の警察官が降りてきて、バスの運転手さんと乗用車を運転していた高齢の男性から、事情を聞いているようだ。
若いほうの警察官がバスの中に入ってきて、全員の無事を確認する。
「ご気分の悪いかたはいませんか?」
運転手さんと同じ問いかけをするが、全員この状況にも慣れてきたのか、今回も手を挙げる人はいなかった。
乗客の無事を確認すると、ふたりの警察官はまたパトカーに乗り込み、元来た道を走り去っていった。そのあとを追うように、相手側の乗用車も走り去っていく。
「事故したのに、そのまま運転して帰っちゃって大丈夫なのかな、あの人」
美輝が窓の外を眺めながらぼそっと口にする。
それもそうだけど、今のこの状況も、わたしは内心気になっていた。
これからどうなるのだろう? 事故が起こらなかった先のことはなにもわからない。わからなくて当然かもしれないけれど、なんだか落ち着かない。
なかなか進展しない状況に軽い不安を覚えると、パトカーを見送った運転手さんが戻ってきて、乗客に告げた。
「みなさん、お待たせしました。只今、代わりのバスがこちらへ向かっており、あと一時間ほどで到着致します。ご不便をおかけして申しわけありませんが、今しばらくお待ちください」
時刻は十二時半過ぎ。十三時半頃にはわたしたちはリスタートできるということだ。自分の未来がようやく定まったようで、ほんの少し安堵する。
「俺、もう一度じいさんに連絡してくるよ」
そう言い残すと、結弦はまたバスを降りていった。
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