第三章 新しい世界

第11話 予感


 ―― ✕✕✕✕年 ✕月✕日 ――



 ――心地よい振動。


 空調が行き届いた快適なバスのシートに揺られて、わたしはいつの間にか眠ってしまったらしい。


 どれくらい眠っていたんだろう。


 よほど熟睡していたのか、いまいち記憶がおぼつかない。


 しかし、まぶたの裏側にまで射し込んでくる夏の日差しは、また夢の世界へ戻ろうと踏ん張るわたしの睡魔を、容赦なく奪っていく。



「うぅ……ふあぁ……」



 自分だとは思えない奇妙なうめき声。


 重いまぶたをゆっくり持ち上げると、霞んだ記憶がそろそろと頭の中へにじり寄ってきた。



「おはよう、琴音! やっと起きた?」



 後ろの座席に座っている美輝が通路側からひょいと顔を出し、わたしに声をかけた。



「ようやく起きたのか琴音。お前、口開けて眠ってたぞ」



 美輝の隣に座る怜が、座席の上から顔を出し、わざわざわたしの痴態を告げる。






 …………え?






 美輝? 怜?

 なんでここにいるの?


 ていうか、ここは……、どこ?

 わたし、また夢見てるの?


 

 両手で自分の頬に触れてみるが、確かに現実の感触がある。



 ということは、これまでのことが、全部、夢?



 そんなはずはない。確かにわたしは慰霊碑のある場所から、ダム湖へと身を投げた。



 それならここは、死後の世界ってこと? いや、でもこの光景にこのやり取り、どことなく覚えがある。

 死後の世界は、こんなに現実と似ているのだろうか?

 





 ――違う、なにかがおかしい。






「どうしたの琴音? もしかして寝ぼけてんの?」



 美輝が、きょとんとした声をあげる。



「ふふっ、昨日はあんまり眠れなかったのか?」



 隣にいる結弦が、こちらへ顔を向けて言った。

 


 結弦……? なんで、結弦までここに?



「ゆ、結弦、目が覚めたの?」



 結弦がぷっと吹き出した。



「ははっ、なに言ってんの? 寝てたのは琴音だろ? まるで俺が眠ってたみたいに言うなよ」



 ふはっと笑いながら話す結弦。



 それに、美輝も、怜も、まるであんな事故のことなど忘れてしまったかのように笑っている。



 でも、この違和感はなんだろう?



 そうか、みんなの顔が高校生の頃から変わっていないんだ。あれから時が止まっていたかのように、一切歳を取っていない。



 それに、ここはどこなの?



 バスの中だけど、さっきまでわたしが乗っていた市営バスではない。けれど、外の景色には見覚えがある。



「ほんとに大丈夫? なんか顔色悪いよ?」



 美輝が心配そうに通路側から身を乗り出してきた。



「慣れないバスで酔ったんじゃねえのか? 美輝、水出してやれよ」


「はーい」



 怜に促され、美輝がごそごそとカバンを漁る。



 酔った? 違う、そんなんじゃない。これが現実だとしたら……そうだ、日付。

 今日は二〇二九年八月二十三日のはずだ。スマホで確認すれば、すぐにわかるはず。



 慌ててポケットの中のスマホを取り出す。それを見たわたしは、驚いて一瞬息を詰まらせた。



「なに、これ……?」


「なにって、お前のスマホじゃん」



 怜が、美輝から受け取った水筒を、座席の上から「ほらっ」と差し出しながら言った。



 確かにこれはわたしが使っていたスマホだ。でも、それはもう七年も前のことだけど。


 まさかと思い、慌ててホーム画面を呼び出して日付を確認した。






 ―― 二〇二二年 七月十六日 土曜日 ――






「どういう……こと?」


「どうかしたの?」



 結弦が心配そうに、顔を覗き込んでくる。



「ねえ、結弦……。今日って、何年の何月何日?」



 スマホに表示された日付が信じられず、聞かれた問いには答えないまま結弦に問い返す。



「んっ? 二〇二二年七月十六日だよ」


「……っ!」



 また息が詰まってしまう。呼吸の仕方を忘れたみたいだ。酸欠で鼓動がどんどん速くなっていく。



「丁度海の日と土日が重なる三連休だから、旅行の日を今日にしようって決めただろ?」




 ――旅行?




「あの……、旅行って?」


「ははっ、まだ寝ぼけてるの? 今日から三日間、俺のじいさんがやってる温泉旅館に行くんだろ? ずっと前からみんなで決めてたじゃないか」



 笑って説明してくれる結弦。でも、わたしは笑えない。



「とりあえず、水飲んで落ち着きなよ」



 美輝に促され、「ありがと……」と絞り出すように呟いてから、わたしは怜がずっと出しっぱなしで宙ぶらりんになっていた水筒を受け取った。


 おぼつかない手で蓋を開けて、冷たい水を少しずつのどの奥へと流し込む。徐々に冷えていく頭で、もう一度冷静に考えると、突拍子もない考えが浮かび上がった。




 ――まさか、時間が戻ったの?




 水筒を包み込んでいる両手が、微かに震えている。



「大丈夫? 琴音。きっと慣れない旅で疲れたんだよ。結弦、ちょっと場所代わって」



 美輝はそう言うと、座席から立ち上がって通路に出た。



「琴音、ちょっと前ごめんね。つらかったら言うんだよ」



 結弦もわたしの膝をするりとかわして通路に出ると、後ろの美輝の席に座る。



 美輝は本当にわたしに優しくて甘い。高校で出会ったのに、まるで何十年も一緒にいるみたいに、わたしを大切に想ってくれているのが、こんなときにまで伝わってくる。



「琴音、窓側に座りなよ」



 わたしにはそのまま窓側に移るように勧めてくれた。



「うん、ありがとう。ごめんね、美輝」



 そのまま窓側の座席へ横移動したが、わたしはまた違和感を覚える。


 なにかの音を聞き逃していないだろうか?


 あの日、事故に遭う直前、結弦に勧められてわたしは窓側へ移動した。そのときは乾いた音がしていた気がする。



「よいしょっと」



 美輝が隣にぽすんと座って、わたしに顔を向ける。後ろでは結弦と怜がなにか話しているが、内容までは聞き取れなかった。



「で、どうしたの琴音。なんかあった?」



 ひとつ息を吸い込んで、事故のことを話そうと決めた。美輝ならきっと、信じてくれる。



「美輝……、変なこと言うかもしれないけど、怒らないで聞いてくれる?」


「もちろんだよ。どうかした?」


「このバス、もうすぐ事故に遭う」



 わたしの言葉に、美輝は眉根をひそめる。



「えっと、もしかして夢でも見たの?」


「違う! 夢なんかじゃないの。もうすぐこのバス、湖に落ちるのよ!」



 思わず声が大きくなってしまい、通路を挟んだ横隣の人達が、怪訝な顔をしてこちらを覗き込んでくる。



「あの、琴音……。なんか怖い夢見たんだろうけどさ、大丈夫、だからね」



 美輝が、震える手をそっと優しく握ってくれる。わたしはその手を、強く握り返した。



「疲れてたんだね、琴音。もう少し寝とく? 着いたら起こしてあげるよ」


「寝てなんていられないよ! ねえ美輝、お願い信じて! 早くこのバスをとめないと、また大変なことになっちゃう!」


「落ち着いて、琴音。そんなにスピードも出てないし大丈夫、事故なんてきっと起きないよ」


「起きるのよ! もうすぐ湖が見えて、対向車が来て、それを避けきれずに転落するの!」



 変なことを口走ってると思われてもかまわない。未来がわかってるなんて、そんなことありえないんだから。


 でも、本当なの。本当に事故は起きるの。誰か信じて! わたしは未来を変えたいの!



「確かにこの先には七色ダムがあるな。琴音、なんでダム湖があるってこと知ってるんだ? 来たことあるのか?」



 結弦が後ろから顔を出した。



「結弦が言ってたの! この先にダムがあるからって。見応えがあるから見たほうがいいって。そして湖の横を走ってると、急に対向車が飛び出してきて、それで!」



 わたしが振り返って叫ぶと、結弦は顎に手を当てて考えこむような仕草をしたが、すぐに口を開いた。



「わかった。運転手さんには俺から伝えてくるから、琴音は安心して。美輝、琴音を頼むね」



 結弦は席を立ち、バスの前方へと歩いていく。その間、周りからはおそらくわたしについてのひそひそ話がそこかしこで沸き上がっていた。



 しばらくして、バスがカーブをゆっくりと抜けると、視界に大きな湖が広がってきた。



 この湖を見るのはこれで三度目だ。これまで見たのとなにも変わらず、その水面は静まり返っている。



 手の震えが止まらない。



 結弦は運転手さんと少しだけやりとりを交わして、すぐに戻って来た。



「運転手さん、気をつけて走ってくれるって。念のために俺たちもシートベルトをしておこうか」


「なんて、伝えてくれたの?」



 不安を払うように訊いてみた。



「湖の向こう側に、ふらふらした対向車が見えましたよって言ったんだ。それなら気をつけて運転するから、安心してくださいって言ってくれたよ」


「ね、琴音、気をつけてくれるって言ってるし、大丈夫だよ。安心して」



 美輝がわたしの背中をさすって、そっと囁く。



「こんなでかいバスなら相手からもよく見えるし、見えたらすぐ減速するだろうな」



 怜がひとり言のように呟くが、これもみんなを安心させるためだということを、わたしは知っている。怜はそういう人だ。


 どこまでかはわからないけれど、みんながわたしの言葉を信じてくれたようで、嬉しかった。



 でも、それだけで本当に大丈夫なの? これで事故を防げるの?



 言いようのない不安が胸に広がる。


 本当は今すぐバスをとめてほしいけれど、わたし自身、事故に遭ったということ自体、夢じゃないのかと言われると自信が持てなくなっていた。


 時間が戻るなんてありえない。そんなことわかっている。だとしたら、妙にリアルな夢を見ていたと思うほうが妥当だ。


 だって、今は二〇二二年七月十六日なのだから。それは疑いようのない事実だ。そして、これが現実なのだとしたら、やっぱり今までのことは夢だったのかもしれないし、その考えは否定できない。


 どちらかと言えば、時間が戻ることのほうがよっぽど信じられない。



「……わかった。ごめん、取り乱すようなことして」



 怖いけれど、これ以上迷惑をかけるわけにもいかない。


 現に今、高校三年生のわたし達がこうして生きている。事故は起こっていないのだ。

 これから起きることをわたしだけが知っているなんてことも、冷静になるとありえない。


 それに、現状他にできることはない。むりやりバスをとめようとしても、成功する見込みは薄い。だとしたら、あれは夢だと自分に言い聞かせるしかない。


 顔を上げておずおずと美輝を見ると、美輝は「大丈夫」と言わんばかりの満面の笑みをわたしに見せてくれた。




 手の震えは、やがておさまっていった。





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