第10話 灰色の世界にさようなら
商店街をもう少し進むと、小さな花屋が見えてきた。
駅に来てからきちんと開いているお店がほとんどなかったので、半ば諦めていたが見つかってよかった。初めて訪れるのだから、亡くなった方々のためにもお花くらいは持っていきたい。
お花屋さんに入ると、老齢で感じのよい女性の店員さんが話しかけてくれた。
「いらっしゃいませ。プレゼントですか?」
「あの、慰霊碑にお供えできるようなお花を、いくつかいただけますか?」
簡潔にそう伝えると、店員さんはお花を見繕って簡単に説明してくれて、美輝にカーネーション、怜には白いユリ、あとは百日草と紫苑に勿忘草を詰め合わせてもらったものを買うことにした。
「慰霊碑に供えたお花は、そのままにしておいてあげてください。定期的に役場の人が回収してくれるので」
店員さんにそう教えてもらい、お礼を言ってお店を出ると、元来た道を駅前まで引き返した。
駅前に戻ってくると、小さなロータリーにバスが一台停まっていた。おそらくあれが七色ダムの近くの村へと向かうバスだろう。
乗り込む前に、外で体をほぐしている運転手さんに行き先を確認する。
「すみません、七色ダムにある慰霊碑へ行きたいのですが、どこで降りたらいいですか?」
「あぁ、慰霊碑なら【七色】という停留所で降りるといいよ。そこから七色狭沿いに三百メートルほど歩くと、左手に車を二、三台停められるスペースがあってね。その奥の階段を上ると展望台になっていて、そこに慰霊碑が建っているよ。帰りのバスは十八時十分が最終だから、乗り遅れないよう気をつけてね」
「ありがとうございます」
優しそうな年配の運転手さんは丁寧に帰り方まで説明してくれたが、たどり着いてから帰りのことまでは考えていなかった。
本当はこの町で一泊して、明日の朝一とかに向かうほうがいいのかもしれない。けれど、既に決めてしまっていることなので、変更はせずそのまま慰霊碑へ向かうことにした。
バスに乗り込み一番後ろの座席に腰かけた。数分のうちにバスに乗ってきたのはわたしを含めて五人。
老齢の夫婦が一組と孫らしき子どもがひとり、あとは買い物袋を持った主婦っぽい女性がひとりのみだった。村の人達だろうか?
十三時半になると、定刻通りバスは発車した。
ゆっくりと動きだしたバスはロータリーを一周し、車もほとんど走っていない道を進んでいく。
あと一時間もすれば、わたしは七色ダムの慰霊碑へと辿り着くのだろう。
バスは市街地を離れ、徐々に山道へと入っていく。僅か五分ほどで窓の外は森一色の風景に変化した。
たった半日の道程だけれど、わたしにとっては長い旅だったような気がする。
この先に美輝と怜が待っている。七年も待たせたふたりは、わたしをどう迎えてくれるのだろう。笑ってくれるだろうか? それとも、怒るだろうか?
七色狭沿いを走るバスにしばらく揺られていると、大きな湖が見えてきた。
胸が高鳴る。この先に事故が起きた場所が待っていると考えると、やはり怖い。怖いけれど、それも今日までだと思うと、なんとか平静を装うことができた。
「【七色狭】通過します。次は【七色】に停まります」
バスのアナウンスが告げるのは、目的地であり、この旅の終着点。
わたしは自分の気持ちに答えを出して、こんな生き方を終わらせるために来たんだ。
仕事を放棄し、結弦のもとからも去ると決めた。
すべてを捨てた自分に失うものはなにもない。そう思うと、怖い気持ちがすうっと収まっていく。
窓際の降車ボタンを押すと、車内にピンポンと電子音が響き渡り、一斉に紫色の灯りが点いた。
それからしばらくして、バスは【七色】で停車した。
降りる人はいなかった。
わたしだけを停留所に置き去りにして、バスは再び走り去っていく。
なんとなくバスが見えなくなるまでその姿を見つめ、バスが見えなくなると、慰霊碑を目指してゆっくりと歩き始めた。
聞こえてくるのは鳥のさえずりと虫の鳴き声。それに木々の葉擦れの音。他にはなにもない。
冷たい風が木々を揺らすと、淡い木洩れ陽もゆらゆらと揺れる。流れのないダム湖の湖面は、しんと静まり返っていた。
静かだ。今この瞬間、ここにはわたししかいない。
少し歩くと、慰霊碑が建っているであろう場所が見えてきた。バスの運転手さんが言っていたとおり、車を二、三台停められる路肩があり、その奥には石の階段が見える。
おそらくあの階段を上ったところが展望台となっていて、そこに慰霊碑が建っているのだろう。
長かった……。七年も経ってしまった……。
石段を一歩ずつ踏みしめて上っていくと、ついにその場所へ辿り着いた。
わたしの身長よりも高くて、ごつごつとした石碑。その奥には転落防止用にしては心許ない、丸太状の柵が施されていて、大きなダム湖が雄大な景色を覗かせていた。
【二〇二二年 七月十六日 七色狭バス転落事故 慰霊碑】
石碑の手前の石板には、亡くなった人達の名前が刻印されていた。美輝と怜の名前も、例外なくそこに刻まれている。
「美輝……、怜……」
石碑に刻まれた日付と名前を見ると、ふたりが確かにこの場所で亡くなってしまったという実感と共に、当時の悲しみが押し寄せてきて、一筋の涙が静かに頬をつたった。
「遅くなってごめんね。やっと、会いに来れたよ」
持ってきた花を石碑の前に供え、腰を下ろして両手を合わせ、三十三名の犠牲者へ黙祷を捧げる。
「あれから、七年も経っちゃったね」
――耳を澄ませば、当時のみんなの笑い声が聞こえる気がする。
「美輝と怜は、そっちでも仲よくしてるのかな?」
――ここは、なんて静かなんだろう。
「さっき夢に出てきてくれたよね。なにを話したかまでは覚えてないんだけどさ、会いに来てくれてありがとう」
――静かすぎて、耳が痛いくらい。
「結弦はまだ眠ったままだけど、きっと元気に目を覚ますよ。そのときのためにも、わたしは今日ここまで来たの」
――もう、戻れないんだね。
「それからね、手紙を書いてきたの。結弦のはここに置かせてね」
取り留めのない一方的なおしゃべり。それでも七年分の想いが尽きることはなく、気がつくと太陽は西の山に隠れ始めていた。
『帰りのバスは十八時十分が最終だから、乗り遅れないよう気をつけてね』
バスの運転手さんに言われたことが、頭に浮かんだ。
「そろそろお別れだね……。ふたりにも、ちゃんと手紙渡すからね」
立ち上がり、服に付いた埃を両手で払う。
瞳に映るのは果てしない空と湖。見渡してみてもわたし以外に誰もいない。
乾いた風が前髪を揺らす。
まるで、ここから離れる合図を告げているみたい。
そういえば、病室で聞こえた結弦の声……。
結弦はわたしに、なにを伝えたかったんだろう。なにを謝りたかったんだろう。
結弦、謝るのはわたしのほうだよ。
さよならも告げずに一方的にいなくなるわたしを、結弦は許してくれるかな? なに勝手なことしてるんだって、叱ってくれるかな?
わたしは今まで、なにを求めて生きてきたんだろう。
ひとりで生きていく強さだろうか、結弦との愛だろうか、それとも遙さん達からもらったような、家族のぬくもりなのだろうか……。
今となっては、もうわからない。
慰霊碑の向こうに広がるダム湖へとゆっくり近づいていく。
鳥のさえずりはやみ、ひぐらしが夏の終わりを告げている。
藍色に染まる空に、うっすらと姿を現した月は、弱々しい光を放つ星達を護っているみたいだ。
もうすぐ夜が訪れる。
わたしが怖れる、色のない世界。
「結弦……。ほんとうに、ごめんなさい」
小さな柵を乗り越えたわたしの体は、音も立てずに七色ダムへと落ちていった……。
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