第9話 ぬくもりにさようなら
――目覚めると頬が濡れていた。どうやら夢の中だけじゃなくて、現実に泣いていたようだ。
本当に美輝と怜がそこにいるような、妙にリアルな夢だった。
しかし、頭が冴えてくるにつれて、夢の内容は手の平にすくった水のように、わたしの記憶から零れ落ちていった。
十一時になる頃、やっと七色狭付近へとバスが出ている市街地の駅に着いた。電車での旅はここまでとなり、七色ダムまではここからバスで一時間ほどだ。
駅前のバス停で時刻表を確認すると、次のバスは十三時半と記されていた。
「丁度いいから、ごはんにしようかな」
なにをするにしても体力は必要だ。時間にも余裕はあるし、お店を探して少し歩くことにした。
市街地と言っても駅も小さいし、大きなビルもない。商店街らしき通りではほとんどの店がシャッターを降ろしている。
お店を探してきょろきょろしていると、十字路の角に【オムライス】と大きく書かれたのぼりを見つけた。
ここならゆっくり過ごせそうだ。
古めかしい木の扉をそっと開けると、カランカランと鐘の音が響いた。
「こんにちは」
誰もいない店内に小声で挨拶をして、おずおずと中へ入る。
「おばあちゃーん! お客さーん!」
びっくりした! どこ? どこに潜んでるのっ!?
唐突に男の子の声が響き、奥から優しい笑顔の女性が姿を見せた。
「まあ、いらっしゃい」
おばあちゃんにしては随分若く見える。四十代後半くらいだろうか。そういえばのぼりは出ていたけれど、準備中だったのかな。
「あ、こんにちは。今って営業されてますか?」
「ええ、大丈夫よ。ちょうど孫が遊びに来ててね。騒がしくてごめんなさい。どうぞ好きなとこに座って」
本当におばあちゃんなんだ。ちょっと驚いた……。
会釈をしてテーブル席に腰をかけ、改めて店内を見渡した。
冷房が効いた店内は、入口の横に大きな窓があり、壁際に二人がけのテーブル席がいくつかと、中央に四人がけのテーブル席が二つ、奥のカウンターテーブルにも椅子が並んでいる。
木目を基調とした店内は内装もシンプルだ。
夕陽のような暖色の照明が、空間にやわらかなぬくもりを与えている。
外のテラスへと続くふたつの大きなガラス扉は、そう広くない店内に、それ以上のゆとりを持たせているようだった。
座って店内を眺めていたわたしに、お盆を持った男の子が、そこに載せたグラスとおしぼりを落とさないよう慎重に近づいてきた。
「どうぞ、おねえちゃん」
「ありがとう、お手伝いして偉いね」
そう声をかけると、男の子はへへっと笑って人差し指で鼻をこすり、小走りで奥へと戻っていった。
五~六歳くらいかな。わたしもあんな子が欲しかったな。
男の子の背中を見送り、メニューに目を落とす。オムライスが数種類とカツがあるかないかのカレーライス、他には飲み物だけという、お店のイメージに似たシンプルなメニューが、おいしそうな写真を添えて載せられていた。
オムライスもカレーもおいしそうだけれど、こういうときにさくっと決められないのは悪い癖だ。
悩みながらメニューをめくっていると、表紙におすすめが書いてあることに気がついた。これは今の気分にぴったりだ。
右手を少し上げて「すみません」と声をかける。すぐにさっきの若いおばあちゃんが注文を取りに来てくれた。
「はーい、なににするか決まった?」
「オムカレーとコーヒーをお願いします」
「わかりました。じゃあ、ちょっと待っててね」
そう言い残して、若いおばあちゃんはお店の奥へと引き返していった。
ひとり残されたわたしは、また店内をぼんやりと眺める。
昨日書いたメモだけを頼りにここまで来たので、緊急時のために持参したスマホの電源は切ったままだし、こういうときは手持ち無沙汰だ。
ふうっとため息をひとつ落とすと、店の奥から大きな声がこちらに近づいてきた。
「こら、
キッチンの奥からばたばたと出てきたのはさっきの男の子だ。続いてわたしと同年代くらいの女性が、男の子を追いかけるように出てくる。
この子のお母さんだろうか? 艶やかで流れるような黒髪と清楚な顔立ちは、同性なのに見とれてしまうほど、とても美人だ。
「すみません、この子はしゃいじゃって。ほら翔太、うるさくしてごめんなさいは?」
「いえ、ほんとにおかまいなく。気にしなくていいよ、翔太くん」
翔太くんはもう一度わたしを見るなり、澄んだ瞳を丸くして言った。
「おねえちゃん、もしかしてかなしいの?」
唐突な子どもの問いかけに、思わず肩がびくっと震える。
「こら、失礼なこと言わないの! ほんとにごめんなさい」
こんな小さな子どもにさえ気づかれてしまうのか。そう考えると言葉を返せずに、堪えた涙が目に溜まり始めた。
「あの……なにか、あったの?」
この状態でなんでもないなんて言っても、信じてもらえるはずがない。
「あなた、きっとここの人じゃないよね? 観光地でもないこんな田舎にひとりで来るなんて、なにかわけがあるのかしら?」
わたしは俯いて、テーブルの上で汗をかいたグラスを見つめながら、なんとか返答した。
「……七色ダム」
これが今のわたしの精一杯だ。返事をしてから少し顔を上げると、翔太くんのお母さんらしき女性は、はっとした顔でわたしを見ていた。
「違ってたらごめんなさい。もしかして七年前の……」
「はい……」
細かく話せばもちろん当事者だけれど、喉の奥が熱くなってきて、これ以上言葉を繋ぐことができない。
「そう……。少し座ってもいいかしら?」
小さく頷いて返すと、女性は「ありがとう」と言って、テーブルの向かい側へと座った。
「今でもたまに、御遺族のかたが慰霊碑を訪れているみたいだから、もしかしたらとは思ったんだけどね。あ、ご挨拶が遅れてごめんなさい。私は
「神谷……琴音です」
「神谷って……あなた、まさか」
「はい……。あの事故の、生存者です」
いつの間にか翔太くんはいなくなっていて、僅かな静寂が辺りを包んだ。
「あな、たが……神谷琴音さん」
そう言うと、今度は遙さんの顔がどんどん影を落としていく。目にはうっすらと涙を浮かべていた。
「ごめんなさい、つらいのは怖い思いをしたあなたなのに。実はわたしの父も、当時あのバスに乗っていたの」
「え……?」
なんてことだろう。遙さんのお父さんも、わたしと同じバス事故の犠牲者だなんて。
いや、遙さんのお父さんは亡くなってしまっているのだから同じではない。生きているのと死んでしまったのとでは、まるで意味が違う。
この人は御遺族だったんだ。わたしが今日ここに来なければ、過去の傷を思い出さずに済んだのに。
「すみません。わたしのせいで思い出させちゃって」
焦って謝罪するわたしに、今度は遙さんが驚いた表情を見せる。
「ごめん、泣いちゃって。違うの、琴音さんのせいじゃないの。もう随分前のことだし、悲しくて泣いたんじゃなくて、嬉しいのよ、あなたに会えて。あの事故で奇跡的に生還できた人が、こうしてちゃんと生きていてくれることが……。父の死にまつわること全部が不幸なことじゃなかったんだって思えると、なんだか嬉しいの」
その言葉で、わたしの心がずきんと音を立てた。
「父は脱サラしてこのお店を作って、半年もしないうちに事故に遭った。だから、わたし達が代わりに夢を受け継いで、お店を守ってきたの」
失われた三十三人の尊い命。そうだ、その人達の分も、夢を持って強く懸命に生きなければならなかった。
それなのにわたしは間違えた。理由なんてわからない。ただ生き方を間違えた。
この人達に胸を張って会えるような生き方をしてこなかったわたしは、今こうしているだけで、やっぱり罪深い存在なんだと思えてしまう。
「琴音さんは、これから慰霊碑へ?」
「はい。あのバスには友達もふたり乗っていたんですけど、わたしは結局事故現場が怖くて一度も行けなくて、随分遅くなっちゃいました」
「それは気の毒に。でも、ようやくこうして、会いに来れたのね」
「はい、今まで来れなかったことも、きちんと謝りたくて」
「謝らなくても、あなたが元気な姿を見せてくれることが、お友達は嬉しいんじゃないかしら」
遙さんの言葉に、なにも返すことができない。元気な姿、それさえもわたしは見せられないかもしれない。
「そういえば、琴音さんは
それは聞いたことがない。慰霊碑の場所を調べた時でさえ出てこなかった。変わった地名だとは思っていたけれど、伝説かなにかあるのだろうか。
「いえ。どんな言い伝えですか?」
「七色はね、亡くなった人の想いが、奇跡を起こす場所なのよ」
それなら、さっき美輝と怜が夢に現れたのも、そのおかげだろうか。
「すてきですね。実際なにかあったんですか?」
「古い言い伝えみたいなものだから具体的にはわからないけど、病気が治ったり、行方不明者が七色で見つかったりすることもあるみたい。あの世とこの世が繋がる場所とも言われているわ」
遙さんの言葉に、ほんの僅かだけど期待が膨らむ。それがほんとうだとしたら、今度は夢じゃなくて実際に会えるかもしれない。
「でもね、すごいのはそれだけじゃないの」
遙さんは少し身を乗り出して、小声で続けた。
「七色狭は、四季を通じて川の色が七色に変わることで有名なんだけど……」
七色ダムと繋がっている七色狭は、丁度バスが転落したダム湖の下流付近だ。そして川の色が変わることは、慰霊碑の場所を調べたときにネットに書いてあったので知っていた。
しかしその先の遙さんの言葉は、それ以上に信じ難いことだった。
「死者が奇跡を起こしたあとは、雨も降っていないのに突然虹が架かるのよ」
奇跡のあとに架かる虹。
そういえば七年前、わたしがダム湖へと沈んで意識を失くす間際に、七色の光を見た。あれはわたしが助かった奇跡が架けた虹なのだろうか?
でも、遙さんのお父さんは亡くなってしまったのだから、この事実は言えない。
次の言葉に悩んでいると、沈黙を破るいい匂いが店内に満ちてきた。続いて若いおばあちゃんが、オムカレーとコーヒーを載せたお盆を持って奥から姿を見せた。
「お待たせ。あら、遙。どうしたの?」
「慰霊碑に行くみたいだから、ちょっとお話してたのよ」
「慰霊碑に? それならお仏壇のお父さんにも、伝えておかなくちゃね」
「ありがとうございます。現地に着いたら、わたしも御主人にご挨拶してきますね」
本当に優しい家族だ。遙さんに心配をかけてしまったことが、申しわけない。
「遙もコーヒー飲む?」
「ううん、わたしはもう行くから、ありがとうお母さん。琴音さん、無理しないでね。助かったからなんて、あなたが気に病む必要はないのよ」
「ありがとうございます。わたしは大丈夫です。じゃあ、せっかくなので熱いうちにいただきますね」
そう言って手を合わせてから、オムカレーを一口分スプーンですくい、口に運んだ。
「わぁ、おいしい! すごくおいしいです!」
大げさではなく、口にしたオムカレーは実際とてもおいしかった。
ふわふわの半熟たまごとカレールー、それらをチキンライスに絡めて食べると、とろけるようなたまごの甘さと、少し酸味のするほどよいカレーのからさが、口いっぱいに広がる。
幸せの味、そんな敬称が似合う優しい味わいだ。
そういえば高校生の頃は、美輝とふたりでよくオムライスを食べた。
たくさん食べる美輝はトマトソースとハヤシソースとか、二種類のソースがかかったダブルサイズで、茄子やベーコンが入っているものが特に好きだった。
そしてわたしは、デミソースばかり頼んでいたっけ。
このオムカレーも、食べさせてあげたかったな。
意識を高校生にタイムスリップさせて、一口毎に思い出を噛み締めていると、「おかあさん、したくできたよ!」と遙さんを呼ぶ翔太くんの声が、わたしの五感を現実へと引き戻した。
そうだ、目の前には美輝じゃなくて遙さんがいたんだった。誰かと向かい合って食事をするのがとても久しぶりで、思わず学生時代を思い返してしまっていた。
「はーい、すぐ行くよ!」
遙さんは翔太くんに返事をすると、くるりとこちらを向いて言った。
「琴音さん、なにも聞いてあげられなくてごめんなさいね。次のバスで行くの?」
「はい、そのつもりです。わたしにかまわず、翔太くんのところに行ってあげてください」
「ありがとう。じゃあ、ゆっくりしていってね」
「こちらこそ、ありがとうございます。お言葉に甘えて、そうさせていただきます」
互いに軽く会釈をして、遙さんは奥へと戻っていき、しばらくすると翔太くんの手を引いて、ふたりは店から出て行った。
若いおばあちゃんはカウンターでパソコン作業をしているらしく、わたしは思い出を噛み締めるように、ゆっくりとオムカレーを堪能した。
オムカレーを完食し、コーヒーを飲み終え、気付けば時刻は十三時になろうとしていた。
「ただいまー!」
元気な声と共に玄関の鐘が鳴り、遙さんと翔太くんが帰ってきた。ここから駅までは十分もかからないが、慰霊碑に供えるお花も探したかったので、伝票を持って席から立ち上がる。
「そろそろ行きますね。遙さんのお父様にも、ご挨拶してきます」
帰ってきた遙さんに声をかけると、カウンターの中でおばあちゃんも立ち上がった。
「ありがとう、あの人によろしくね。気をつけて行ってらっしゃい」
おばあちゃんの言うあの人とは、もちろん御主人のことだろう。わたしは「はい」と小さく頷いて返し、レジの前で伝票を差し出した。
「お代はいいわ。あなたがここに来てくれたのも、きっとなにかの縁でしょう。今日はサービスよ」
「い、いえ、そんなわけにはいきません。ちゃんとお支払いします」
「いいのよ琴音さん。その代わりよかったらまた来て。今度はゆっくりお話しましょう」
「お姉ちゃんばいばい」
少しためらったが、意固地にお金を払うのもどうかと思ったので、ここは仕方なく好意に甘えることにした。
しかし、こう優しくされてしまうと、わたしの決心も鈍ってしまいそうになる。
「わかりました。おばあさん、遙さん、ありがとうございます。翔太くんばいばい」
花屋の場所を聞こうとしたが、これ以上ここにいるとまた泣いてしまうと判断したわたしは、「行ってきます」と告げてお辞儀をすると、踵を返して店をあとにした。
この家族と、もっと早くに出会いたかったな。
そうすれば、なにかが変わったかもしれない。いや、変えられたかもしれない。
思い返せば、今まで塞ぎ込んでいた自分の世界は、とても狭いものだったのかもしれない。
次こそは変わるんだと決意して、わたしは商店街を歩き始めた。
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