第6話 思い出にさようなら



 ――わたし達の出会いは、九年前に遡る。


 入学式の日、生徒の部活動が校則で義務づけられた高校を選んだわたしは、知り合いのいない学校生活をスタートさせた。


 そんなわたしに初めて声をかけてくれたのが、美輝だった。




 ―― 二〇二〇年 四月一日 水曜日 ――


 入学式を終え、生徒達がぞろぞろと教室へ戻る間、周囲では徐々にグループが形成され始めていた。



 やっぱり、またひとりぼっちかな……。あぁ、やだな。



 お昼休みにクラスメイト達が机を合わせて、楽しそうにお弁当を食べている中、譜面を追いかけるふりをしてひとりで過ごした中学時代。


 もう、あんな思いはしたくない。


 俯いて垂れた髪で隠れた視界から、ちらちらと様子を伺ってみる。けれど、出遅れたわたし以外はみんなおしゃべりに夢中で、とても話しかけられる空気ではない。



 どうしよう……、どうしたらいいんだろう?



 焦ったところで事態は好転するはずもなく、いやな汗がじわりと背中を伝う。


 教室に入り、クラスの名簿に視線を落としたまま席に着くと、ひとりの女の子が近づいてきた。



『ねぇ、神谷さんって、どこの部活に入るの?』



 初対面とは思えない自然な口調で話しかけてくれた女の子は、化粧をしなくてもパッチリとした二重にスッキリとした顎のライン、少し明るく染めたロングヘアを高い位置で一つに束ね、爽やかな笑顔でわたしを見つめていた。



 ていうかこの子、なんでわたしの名前知ってるのかな? 自分の席を探すためのクラス名簿はもらったけれど、同じ中学でもない限り、顔と名前が一致するなんてありえないはずだ。


 でも、今はそんなこと関係ない。

 せっかく話しかけてくれたんだから、このチャンスを活かさないと、ぼっちの未来は変わらない。



『えっと、吹奏楽部に入ろうと思ってるの。わたしピアノ習ってて、ここハープやチェレスタもあるからやってみたくて。そのためにこの学校に来た、みたいなもので……』



 しまった! いきなりべらべらと喋りすぎた! いきなりこんな専門的な楽器の名前を言われても、しらけるに違いない。



『へえ、すごいね。ここの吹奏楽部ってそこらの運動部よりよっぽどきついんでしょ? テレビとかでも特集されてたりするし。度胸あるねー。あ、わたし巡里美輝! んーと……』


『あ、琴音。神谷琴音……です』



 よかった、気にしてないみたい……。



『ですとかなにそれ? わたしら同い年じゃん。仲よくしようね、琴音っ!』


『う、うん。よろしく……美輝』



 苗字は知られていたが、どうやら名前までは覚えられていなかったようだ。

 二度目の呼びかけにいきなり名前呼びなんてさすがに一瞬戸惑ったが、なるべく対等に返してみせた。名前で呼び合える仲にも密かに憧れていたから、実はちょっと嬉しい。



 照れながら美輝と呼んだわたしをけたけたと笑いながら、『またあとでね』と手の平を見せた彼女は、自分の席を探して去っていく。



 彼女はどこの部活に入るんだろう?



 背も高いし、細いけれどしなやかで豹のように見事な身体つきは、なんでも軽くこなせそうだ。


 でもそのときは、さっぱりとした美輝に気圧されてしまい、それ以上聞くことはできなかった。



 席についたまま、ぼーっと美輝のことを考えていると、今度は名簿と机を交互に指差しながらこちらに歩いてくる男子が、わたしの席を指して立ち止まった。



『あ、やっぱりここだ。ごめん、ここ俺の席なんだよね。神谷さんはひとつ前だよ』


『す、すみません! わたし、間違えて……痛っ!』



 慌てて立ち上がったおかげで、机の角に膝をおもいきりぶつけてしまった。



『だ、大丈夫? 慌てなくていいから。急に声かけちゃってごめんね』



 痛む膝をさすりながら、『すみません』と何度も頭を下げる。



『タオル濡らしてくるから、そこに座ってて!』



 どうやらわたしは席をひとつ飛ばして座っていたらしい。名簿を見てみると、彼の名前は桐畑きりはた結弦だということがわかった。



 でも、なんでわたしが神谷だってわかったのかな? うしろの席の久島くしまって人が前に座ってた可能性も、考えられるはずなのに。


 まあ、わたしが間違えていたのは事実だから、なにも言えないけれど。



 それにしても……、桐畑結弦くんか。



 かっこいい男の子だったな。


 優しくて爽やかで、わたしとはまるで正反対。きっとこんな人がクラスの中心になっていくんだろうな。


 入学早々、わたしにとって憧れの対象のような人と話せたことは正直嬉しくて、期待に胸を膨らませてしまう。


 でも、それとは逆に虚しくもある。コミュ症でかわいげのないわたしにとっては、恋愛なんて無縁な話だ。



 いきなりクラスメイトに迷惑をかけてしまった申しわけなさと、しょうもない妄想を膨らませた恥ずかしさで自重気味にひとつため息を落とすと、桐畑くんが濡らしたタオルを持って戻ってきた。



『はい、これ膝に当てて』



 春風のように爽やかな笑顔。茶色く映える髪に端正な顔立ち。彼の優しさを象徴するような大きくて垂れ気味の瞳に、つい見とれてしまう。


 口ごもりながら『ありがとう』と伝え、冷たいタオルを受け取って膝にあてた。



 ひんやりとした感覚が、鈍い痛みを少しずつ和らげていくのに反して、わたしの胸はどんどん熱を帯びていくのを感じていた……。




 ――この日の妄想は案外まとはずれでもなく、これを機に結弦はよく話しかけてくれるようになり、それからしばらくして、教室内で行われた結弦の公開告白によって、わたし達は付き合うことになった。


 教室中から沸き上がった結婚式のような仰々しい祝福は、一生忘れられない思い出になっている。


 そして、その公開告白にひと役買っていた美輝。


 友達ができるか不安だったわたしに一番に話しかけてくれた美輝は、休み時間もしょっちゅう一緒にいてくれて、なんでも話せる親友になっていた。



 ◇


 ―― 二〇二〇年 七月二十日 月曜日 ――


 高校生活にも慣れてきた一学期最後の日。この日は初めて怜のことを見かけた日だった。


 終業式が終わると、わたしはいつものように音楽室に向かっていた。

 顔見知りのような友達と軽い挨拶を交わしながら、音楽室がある三階へと急ぐ。


 階段を上りきったところで窓からふと中庭を見ると、校門に吸い込まれていく生徒達の流れの中、不自然に立ち止まってプールを眺めている男の子が目に留まった。



 あの人、なにしてるの? 入部希望者? まさか、覗き?



 視界の隅にあるプールのそばでは、黒い短髪に、大きなスポーツバッグを肩から下げたジャージ姿の男子生徒が、水泳部の練習を熱心に見つめている。


 部員に声をかけるでもなく、ひとりでじっと練習を見つめる姿はまあまあ不審だ。彼の赤眼鏡という変わったファッションも、その感想をあと押ししているのかもしれない。


 入部希望にしても不審者にしても、赤眼鏡男子の表情は、この距離からでも見てわかるほど真剣で、どこか悲壮な決意が込められているように見える。



 ぐるぐると巡る考えに次の行動を決め兼ねていると、プールサイドから彼に近寄る結弦が現れた。



 もちろん声は聞こえないが、いつもより険しい表情の結弦は、フェンス越しに赤眼鏡男子と話をしている。

 結弦とのやりとりをしばらく続けていた赤眼鏡男子は、そのままふいっと踵を返して校門から出ていった。



 なんだ、結弦の友達だったんだ。なにか用事でもあったのかな。



 そう安易に考えていたが、時永怜という名の赤眼鏡男子は、わたしが知らないだけで、学校ではちょっとした有名人だった。


 陸上部ではインターハイも期待されているほどの実力者。


 けれど高校で、水の中を自由に泳ぐ水泳部員達の姿にすっかりと魅せられてしまい、それから水泳という競技に憧れがあったのだという。


 それを知った結弦は何度も怜に声をかけ、踏ん切りのつかなかった彼の背中を押して、晴れて水泳部の一員になったと、のちに結弦が話してくれた。


 男子陸上部にすごいスプリンターがいると、美輝から聞いたことはあったが、まさかそれが彼だったとは。不審者扱いした自分が恥ずかしい。



 それ以来、結弦をコーチにつけて猛練習に励む怜を見ていると、結弦にとって、水泳のコーチというのは正に天職じゃないかと思えた。


 生徒のことを親身になって考えて、誰かの幸せを共に喜べる優しいコーチは、子ども達からも大人気になるだろう。



 そんな結弦と恋人同士になれたことを、わたしは自慢に思っていた。



 陸上部の現役スプリンターである美輝は、怜と同じ種目だったことから元々仲がよかったらしく、怜が水泳部に転部したのをきっかけに、ふたりは付き合い始めた。


 陸上から水泳に転向した怜には、叶えたい夢があったらしい。


 ちゃんと聞いたことはないけれど、水泳に関わりがあることだと、いつか美輝が話してくれた。


 それから徐々に四人全員が仲よくなっていくと、わたしは中学時代と打って変わって、とても楽しい学校生活を送ることができた。



 それは間違いなく、桐畑結弦、巡里美輝、時永怜、この三人が彩ってくれた世界だった。





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