第2話 錆びた空から落ちる雨


 ―― 二〇二九年 八月二十七日 月曜日 ――


 低い雲が空を覆い、立ち並ぶオフィスビルのグレーがさらに無機質に染められた午後。


 会議室へと呼ばれたわたしは、今までとは比べ物にならないほど盛大に怒鳴られていた。相手はもちろんパワハラで有名な課長だ。



「どんな見積もり出してんだ! しかも俺にノーチェックで客に渡すとか、どういうつもりなんだよ!」


「申し訳ありません!」



 今回ばかりはわたしのミスだ。


 机に叩きつけられたわたしの見積もり書は、会社の利益どころか大赤字の数字が記載されている。


 その安価な見積もりに食いついた依頼主は、既にその予算でイベントを立案し、会場まで抑えてしまっていた。


 しかし、なにを言っても否定しかしないこいつのチェックを通していると、先方に掲示された期日までに見積もりが仕上がらないのも事実だ。


 その煩わしさを避けたくて、わたしは無断でその見積もり書を先方に送っていた。



「今更どうしようもねえし、お前謝罪して責任取ってこい!」



「わたしが……、ひとりでですか?」



「そうだ! わたし、神谷琴音が全部悪いんです、すいませんでした! って土下座でもなんでもしてこいよ! 馬鹿野郎!」



 いつものように大雑把で滅茶苦茶な指示を受け、言われた通りすぐに依頼主がいる会社への道を急ぐ。


 歩きだして五分ほどすると、頭上を黒い雲が覆い始めた。天気予報は毎朝チェックしているけれど、今日は晴れマークしかなかったはずだ。


 なのに、間もなくして空がゴロゴロとうなったと同時に、大粒の雨が一斉にアスファルトを叩き始めた。


 今日はついてない。どうして悪いことって重なるんだろう。


 ため息を落として外れた天気予報を恨めしく思いながら、傘を出そうとカバンに手を入れる。


 けれど、傘がない。いつもカバンに入れているはずなのに、なぜだろうと考えてすぐに思い当たった。そうか、この前傘を忘れた同僚に貸したままだ。


 咄嗟にカバンで頭を隠し、屋根のある場所を求めて走り始めたが、近年の異常気象を象徴するかのような真夏の激しいゲリラ豪雨に敵うはずもない。すぐにわたしは頭からバケツの水を被ったくらいずぶ濡れになっていた。



 こんな恰好でお客さんのとこに行くわけにはいかないし、どうしよう!?


 でも、このまま会社に戻ったら、また怒られるだろうし。


 あぁ、もう、どうすればいいの!?



 どうしようもない状況に、焦りばかりが募る。



 もういやだ……。



 走る足は徐々にその速度を緩めていく。



 なんで、わたしが、こんな……。



 大雨の中、ついにわたしの足はそれ以上前に出なくなってしまった。



 わたしの、わたしのせいかもしれないけど……。



 様々な思考が脳内を一瞬で駆け巡っていくのと同時に、感情のタガが外れた。



 あぁ、もう知るか! 元はと言えば、なにを言っても怒るか否定しかしない課長が悪いんじゃない!


 そもそもなんで部下のミスに対して上司は謝りに行かないの?


 わたしがひとりで行ってどうなるの?


 なんにも解決しないじゃない!


 そうか、きっとあいつはこうしてわたしを虐めてるだけなんだ!




 こんな会社、もういやだ! こんな人生、もういやだ!



 雨に紛れた涙が、頬をぽろぽろとこぼれ落ちていく。


 水溜まりに映り込んだわたしの姿は、激しい雨に歪められて、まるで今の醜い感情が、鏡に映し出されているみたいだ。


 人も町もなにもかもが、雨と涙で水彩画のように滲んでいる。


 目の前のキャンバスには無数の雫だけが描かれていて、息が詰まる人混みも、今だけは見えない。



 大雨に打たれ、泣きながらふらふらと歩き続けて、気がつくと結弦が入院している病院の近くまで来ていた。


 スマホの電源を切り、そのまま病院へと足を向ける。



 結弦に会いたい。顔が見たい。

 この気持ちを今、結弦に聞いてほしい。



 やまない大雨の中、びしょ濡れのまま病院へ入り結弦の病室の前まで行くと、いつものようにノックをしてからスライドドアに手をかけた。



「はい」



 えっ? 今の返事……、誰? まさか……、結弦?



 聞き覚えがあるような男性の声に、スライドドアを開ける手がとまる。



「どうぞ?」



 声の主は、わたしに中に入るよう促している。やはり、結弦の病室に誰かいるんだ。



 雨に濡れて冷えた体を強張らせて、ゆっくりとスライドドアを開けた。



 病室に足を踏み入れると、結弦のベッドの脇に座っている男性に、「こんにちは」と声をかけられた。

 わかってはいたけれど、声の主はやはり結弦ではない。


 よく通る声。一見若いがところどころ白髪混じりのこの男性には見覚えがある。結弦のお父さんだ。


 日曜日は仕事があるため、平日にしかお見舞いに来れないと、結弦のお母さんから聞いていた。


 だから、これまでも結弦のお父さんとはあまり話をしたことはなかった。


 お盆やお正月といった長期休みになると、たまに顔を合わせることはあったが、病室のドア越しの声で判断できるほど聞き慣れた声ではない。



「こんにちは。お久しぶりです」



 慌てて挨拶を返すと、結弦のお父さんは一瞬目を見開いてから、



「あぁっ、琴音ことねさん。久しぶりだね」



 と、笑顔を見せてくれた。



 ずぶ濡れで髪もぐしゃぐしゃだったので、おそらくわたしだと気づかなかったのだろう。着替えてくればよかったなと後悔したが、もう遅い。



「この雨に打たれたんですか?」


「はい。傘を忘れてしまって、雨やどりできる場所もなかったもので、こんな格好ですみません」



 スーツ姿で突然来たこともあり、なにか勘繰られないかと心配しながら返答する。



「それはそれは、大変だったね。ここにタオルがあるから、どうぞ」



 そう言うと結弦のお父さんは、ベッドの脇にある戸棚からタオルを取ってくれて、風邪をひいてはいけないのでと、冷房を少し弱めてくれた。



 結弦を挟むように向かいに座る。病室に時を刻む音だけが、無機質に響く。



 無言の緊張感。なにか話さなくてはと考えるが、突然の出来事になにも浮かばない。


 時間だけが過ぎていく。


 そのうちに向こうから、「あの……」と声をかけられた。



「毎週来てくれているみたいで、ありがとうございます。妻から聞いています」



 どこか疲れを漂わせている結弦のお父さんは、俯いたまま両手を握り、そのまま静かに話し続けた。



「いつか、あなたに話そうと思っていたのですが……」



 重い空気が、病室を満たしていく。



「結弦はいつ目を覚ますかわからない。こんな状態がもう七年も続いています。医者からは、この先目を覚ます可能性も低いと言われているし、あなたももう大人の女性になっている。なのに、このままあなたの大切な時間を結弦のために使ってもらうのは、あなたのためにはならないと思います。あなたの御両親にも申しわけない。だからどうか、あなたも無理はしないでください」



 そこまで言うと、結弦のお父さんは顔を上げてわたしに目をくべた。



 言葉が出てこない。もしや迷惑だったのだろうか? 卑屈な感情がつい口をついた。



「もしかして、御迷惑でしたか?」


「迷惑だなんてとんでもない! そんなことは絶対にありません。寧ろこんなにも結弦のことを想ってくれて、親として本当に嬉しい」



 ……本当だろうか?


 いつの間にか大人になってしまい、きれいな嘘を覚えてしまったわたしは、やはりどこかで疑ってしまう。

 この受け取り方が、ひねくれているとわかっているのに。



「そんなあなただからこそ、僕はあなたにも、同年代の人達と同じように幸せになってもらいたいのです」



 同年代と同じ幸せって、なんだろう……?



「こんなにも一途に結弦のことを想ってくれるあなたなら、きっとこの先もいいお相手が見つかるはずです。こんな状態の結弦では、あなたのことを幸せになんてできない。いえ、寧ろ不幸にさえしてしまっている」



 わたしはただ、結弦のそばにいられれば幸せなのに……。



「親馬鹿かもしれませんが、結弦は本当に優しい子だった。だから結弦も、この状況を見てきっと、あなたに自分のことは忘れて幸せになってほしいと、そう願っているはずです」



 結弦が、わたしに自分を忘れてほしいと? そう願っているということ?



 最後の言葉で、体中に衝撃が走る。


 七年間、週末は必ずここに通っていた。それはなぜだろう?


 初めのうちは、眠っている結弦に話しかけていると、そのうちにひょっこり目を覚ますんじゃないかと期待していた。けれど、今はどうだろう?


 高校生の頃から、好きな気持ちは変わっていない。

 目覚めてほしい気持ちだって、もちろん変わらない。


 でも、違う感情が割り込んでいるのも事実だ。


 結弦が目覚めない現状に慣れてしまっているわたしは、いつからか結弦のためではなく、自分のためにここに来ていたのではないだろうか?



 窓の外に閃光が走り雷鳴が響くと、ふいに、雨やどりという言葉が浮かんだ。



 わたしの心はいつも曇っていて、ときに雨が降っている。


 感情という傘を失ったわたしは、結弦に雨やどりしていたのではないだろうか。


 返事がないからといって、自分の愚痴をこぼすようになるなんて、結弦を精神安定剤にしていたんじゃないかとさえ思えてくる。



 ……わたしはいつから、こんなに卑屈になってしまったのかな。



 この人は、わたしを心配してくれているだけなのに。

 わたしの両親に対しても、本気で申しわけないと思ってくれているに違いないのに。



 これじゃ駄目だ。たとえ結弦が目覚めても、こんなわたしを見たら心底がっかりするだろう。


 やはりわたしは、あの事故以来いろんなものが欠けてしまっている。


 目覚めたときのことを考えると、わたしは結弦のそばにいないほうが、いいのかもしれない。



「わかり、ました……」



 いくつもの想いを巡らせていたが、なんとかそれだけ言い残して、わたしは病室を出ようと立ち上がった。



「これからは、もっとあなた自身のために時間を使ってください。そして時間が空いたときに、また様子を見に来てやってください」



 最後まで優しく声をかけてもらったが、わたしは言葉を返せずに、そのまま一礼し踵を返す。


 

 そのときだった。




『ご、めん…………ま……た……』




「え?」っと声を上げて振り返ると、結弦のお父さんが「なにか?」と訊ねてきた。



「えっと、今、なにかおっしゃいませんでしたか?」



 声をかけられた気がしたから振り返ったのに、逆に訊ねられてしまい、困惑して言葉を返す。



「いえ、僕はなにも……?」



 そんなはずはない。確かに声が聞こえた。首を傾げて考えていると、



「もしかすると結弦があなたの心に、来てくれてありがとうと、そう伝えたのかもしれませんね」



 映画やドラマのような、月並みな言葉で纏められてしまった。



 遠い昔、聞き覚えのある声。記憶の引き出しをかたっぱしから開いていくと、あの頃の結弦の声だと、心の中のわたしが告げる。


 しかし、結弦はなにも変わらず今も眠り続けている。やはり、空耳だろうか?



 腑に落ちないがこのまま突っ立っているわけにもいかず、わたしはもう一度頭を下げて病室をあとにした。






 自動ドアをくぐり病院を出ると、曇っていた空はいつの間にか晴れ間を覗かせていた。



「雨……、やんだんだ」



 雨上がりの雫を纏う町は、青空から再び現れた太陽に照らされて、夜のネオンとは違った爽やかな煌めきに包まれていた。

 空を見上げると、ビルの向こうには大きな虹が架かっている。



 きれい……。



 久しぶりに虹を見たからか、まるで連想ゲームのようにバス事故の記憶が甦った。


 七年前にバスの中で交わした、結弦との会話を思い出す。



 そういえばあの湖、七色狭なないろきょうとか七色ダムとか言ってたっけ? 結弦は見応えがあるって言っていたけれど、美輝は興味なさそうだったな。



「行って、みようかな……」



 エントランスの屋根から、雫が垂れていくのを目で追いながらひとりごちた。



 事故のあと、現場付近には献花台が設けられていた。


 わたしは入院中も、マスコミから『献花にはいつ行くのか?』など何度も無神経に問いかけられたが、結局献花に行くことはなかった。


 しばらくして事故現場には慰霊碑が建てられたが、わたしはバスごと転落した七色ダムが怖くて、一度も訪れたことはない。



 振り返って、結弦の病室を見上げる。




「さようなら……」




 震える声でそう呟くと、わたしは病院に背を向けて歩き始めた。




 ◇


 取引先にも行かず、もちろん会社にも戻らずに家に帰ると、濡れた服を洗濯機に突っ込み、バスタブにお湯を溜めた。


 なにか覚悟を決めたあとは、身も心もさっぱりしたくなるのだろうか。


 少し長めにシャワーを浴びて、バスキューブをお湯に溶かし、つま先からバスタブに浸かる。甘いオレンジの香りを肺に取り込みながら、時間を忘れてお湯に浸かった。



 まるでこれは儀式だ。明日のための、勇気を手に入れるセレモニー。



 お風呂から出ると、三通の手紙を書いた。


 手紙を書き終えスマホの電源を入れると、溜まっていた通知が一気に流れ込む。

 留守電が七件、未読メールも大量に届いている。それらを確認もせずに削除して、七色ダムへのルートを調べ始めた。



 近くにバス停くらいあるよね?



 簡単にわかると高を括ってスマホをタップしていくが、メジャーな地図アプリなのに、電車やバスの経路はまったく表示されない。



 どうしよう。歩いていくと一日かな。


 いや、歩くなんてありえない。女ひとりで百五十キロ近い道のり、しかも山道を歩くなんて、なにが起こるかわかったもんじゃない。



 この期に及んで身の安全の心配も、ちょっとおかしい。



 ネットを駆使して調べた結果、七色ダムから一番近い市街地までは、電車を乗り継いで五時間くらいだとわかった。


 明日は少し早起きして、その市街地を目指すことにしよう。

 そこからは一日に数本、七色ダム付近の村へと向かうバスが出ていると、ネットの情報に載っていた。


 移動手段がある程度定まったことに安堵し、時計を見ると午前零時を過ぎている。



 もうこんな時間か、明日は早く出たいし、そろそろ寝ないとね。



 ベッドの灯りを消して瞼を閉じる。


 今日一日のことを考えると目が冴えてしまう気がしたが、逆に疲れてしまっていたのか、わたしはすぐに夢の中へ堕ちた。




 疲れたり体調を崩すと、決まって見る夢がある。


 七年前のあの事故の夢だ。


 この日も同じように、わたしは夢の中で時を遡っていた……。






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