第一章 夏の夢の終わりに

第1話 安らぎの苦悩

 一.安らぎの苦悩



 

 ―― 二〇二九年 八月二十日 月曜日 ――


 うだるような暑さの中、スマホの地図を頼りに取引先へと急ぐ。


 黒いスーツに身を包み、髪の毛をしっかり整え、やつれた顔に薄いメイクを施したわたしは、都心の中小企業に就職してそろそろ三年目だ。


 ピアニストだった母の影響もあって、学生の頃はそれなりに夢を持って生きていた。けれど、毎日欠かさず弾いていたピアノは七年前事故に遭ったのを境にやめてしまい、以来一度も弾いていない。


 毎朝同じ時間にアラームが鳴り、身支度を整えアパートを出て、満員電車に身を任せながら会社へと向かう。


 残業に追われて、仕事が終わるのは定時を二時間も過ぎた二十時が当たり前。


 夕食は近くの二十三時閉店のスーパーで、値引きされたお弁当を買って済ませるのが日課だ。



 安定はしているけれど、代り映えしない退屈な毎日。このルーティーンが永久に続くと思うとうんざりする。



 近頃はなにをするにも面倒で、誘いを無下にすることも増えた。感情に蓋をするのが今のわたしの唯一の特技かもしれない。


 特に仲がいいとは言えない友達とたまにメールのやりとりをしては、人間関係の破綻を防ぎ精神の安定を図っている。



 会社に戻ると上司の怒声。どうしてこんなに怒っていられるのだろう? 今日もいつも通りだ。



「おい神谷かみやぁ、お前何回言ったらできるんだよ! こんなの通るわけねえだろ? 次こそは頑張りますって、これじゃ嘘ばっかじゃねえかよ!」


「申し訳ありません。やり直します」


「いつできんだよ?」


「早急にやります」


「早急って?」


「今日中に直します」


「今日のいつだよ? 俺にそれまで待ってろって言うのかよ! あぁっ!?」


「……」



 日課のように無骨な顔で声を荒げる課長のパワハラになんとか耐えながら、とにかくお金を稼ぐため、食べるため、ひとりで生きるために心を閉ざして毎日を過ごした。


 たとえ色褪せた日常にも、唯一彩を添えてくれる存在があるから。


 高校生の頃からずっと付き合っている結弦がいてくれるから。


 だから、わたしは挫けずにいられるんだ。


 残業も多くて、土曜日は溜まった家事をやっつけなければならないから毎日は無理だけど、日曜日は結弦とふたりでゆっくりと過ごせる時間が、わたしにとって唯一の安らぎだ。


 それまでは心と感情をうまく切り離して、灰色の日々を淡々と過ごしている。






 ―― 二〇二九年 八月二十六日 日曜日 ――


 機械仕掛けのような平日を乗り切り、土曜日の掃除、洗濯、買い出しを終えた翌日、ようやく日曜日が訪れた。


 仕事と雑務に追われた一週間を、今週も投げ出さずにやり遂げたのだ。



 今日は結弦に会える。


 大好きな結弦のもとへ行き、たくさん話をしよう。


 今週はいつも以上に怒られたから、少しくらい愚痴を言うのもいいかもしれない。


 だって結弦は、わたしがどんな話をしても、いつでも静かに聞いてくれるのだから。



 彼方に入道雲を携えた八月の蒼穹は、照りつける太陽に後押しされるように澄んでいる。


 結弦の待つ部屋までは歩くと四十分ほどかかってしまうが、のんびりとした散歩を兼ねたこの時間が、わたしは好きだ。


 いつものコンビニでおにぎりをふたつとお茶を一本買って、結弦が待っている部屋へと向かった。


 自動ドアを二枚抜けてエントランスを早歩きで通り過ぎ、そのまま通路奥にあるエレベーターへと乗り込む。


 慣れた手つきでボタンを押すと、目的の階層へ着くまでの間に、服のしわをさっと手で伸ばした。


 間もなくしてピンポンと音が鳴り、エレベーターの扉が開いた。


 浮きたつ足は軽快なステップを踏むように、無意識に前へ前へと歩みを進めていく。


 結弦の部屋の前に立ち、一応ノックをしてからスライド式の扉を開けた。



「結弦!」



 ようやく会えた。一週間は長い。



「先週は残業ばかりで夜もろくに会えなかったし、なんか久しぶりだね」



 ……返事はない。



「結弦はどうしてたの?」



 ……やはり返事はない。



「また、部屋から出てないんだね」



 …………。



「だめだよ、寝てばかりいちゃ」



 結弦はなにも応えずに、穏やかな顔で眠り続けている。



「ねえ、そろそろ起きてどこか行こうよ。体にカビ生えちゃってもしらないよ?」



 くすくす微笑みながら冗談を言っても、結弦はなにも応えない。

 


 七色ダム湖へのバス転落事故から、結弦はずっと眠り続けている。


 七年間ほとんど欠かさず続けてきた結弦との週末の時間は、いつもわたしが一方的に話すだけ。



 いつ、目覚めてくれるのだろう? このままじゃ、わたしは世界にひとりも同然だ。



 午前中に一週間の出来事などをひと通り話し終えて、お昼になると買っておいたおにぎりとお茶で昼食を摂る。


 それからの時間は、結弦の隣で文庫本を読んで過ごした。



 それは、海の見える町で育った高校生の恋物語。


 幼い頃に家族を事故で亡くした主人公の男の子に、自立を促し、自分がいなくてもしっかりと生きていけるようにと奮闘する彼女。


 もう自分がいなくても大丈夫だと安堵した彼女は、ある日子どもを助けるため、海に飛び込んで亡くなってしまう。


 彼女には未来が見えていた。自分の死の運命を知っていた彼女は、自分がいなくなっても彼がひとりで生きていけることを望み、残りの余生を過ごしていた。


 それを知った主人公は、彼女の死をきちんと受け入れて、前を向いて歩き出した。


 そこで物語は終わる。



 物語の世界とはいえ、まさか、家族だけでなく恋人まで亡くしてしまうとは夢にも思っていなかったであろう主人公は、この先どうやって生きていくのだろう?


 わたしは結弦が生きていてくれるだけ、まだ幸せなのかもしれない。


 会話ができなくても伝えることはできるし、こうして大人になった顔もずっと見ていられるのだから……。




 褥瘡ができないようにと、看護師さんが何度か来ては結弦の体勢を変えてくれる。気づけば面会時間は目前まで迫っていた。


 そろそろ帰らなきゃ、と思った頃に顔見知りの看護師さんに声をかけられ、少し談笑をしてから結弦に「またね」と告げると、わたしは病室をあとにした。




 病院からの帰り道。夕日に照らされたわたしの影は、いつものように長く伸びている。


 この影がいくつも重なると、週に一度の安らぎの時間は終わりを迎えて、暗い夜が訪れる。



 ひとりで過ごす長い夜。


 そしてまた、夜が明けると色のない一週間が始まる。



 せめて星が瞬いていないかと夜空を見上げても、ビルだらけの都会の空は真っ黒でなにも見えない。


 あの事故以来、わたしの中からは、徐々になにかが欠けていくのを感じていた。




 ◇


 七年前に世間を騒がせた七色ダムへのバス転落事故は、当時から社会問題となっていた高齢ドライバーによって引き起こされた事故だった。


 カーブ直前でブレーキとアクセルを踏み間違え、カーブを曲がり切れずセンターラインを飛び出してきた乗用車。


 それを避けたバスは、その勢いでガードレールから飛び出し、崖下のダム湖へと転落した。


 三十五名の乗客のうち、助かったのは割れた窓から投げ出されたわたしと結弦だけで、一緒にバスに乗っていた親友の巡里めぐり美輝と、その彼氏である時永ときなが怜を含めた三十三名の乗客が亡くなった。


 乗用車を運転していた男性は無傷で、法に裁かれることはなかった。免許はそれを機に返納したが、今も元気に暮らしているらしい。


 美輝と怜のお通夜には、マスコミと乗用車を運転していた男性も来ていた。


 犠牲者の中でも若年であったわたし達への謝罪の念は、涙でぐしゃぐしゃになった顔や土下座を繰り返す姿から伝わることはあっても、それに目もくれず泣き続けている美輝の母親の姿を見ていると、早くここから去ってほしいという気持ちでいっぱいだった。


 たったひとりの無自覚な悪意により、三十三名の命が奪われ、結弦の未来は閉ざされたのだ。


 色鮮やかだったわたしの世界も、黒い絵の具をキャンパスにひっくり返されたように、容易く色を奪われた。



 みんながそれぞれ抱いていた夢。


 それに向かって歩み始める決起会のような、楽しい旅行になるはずだったのに……。



 幼い頃から水泳を続けていた結弦は、将来は泳ぐ楽しさを子どもたちに伝えたいという夢を持っていた。


 三歳の頃からピアノを続けていたわたしは、音大への進学を考えていたし、陸上部の美輝は、将来スポーツ医療に関する職に就きたいと話してくれたことがあった。


 結弦と同じ水泳部で活躍していた怜も、大きな大会で見事な結果を残して校内を沸かせ、大学から推薦が来るのは間違いないと囁かれていた。


 高校生なりのぼんやりとした夢だったけれど、みんなそれを叶えるために、夢中になって日々を駆けていた。



 恨みなんてない。


 理不尽だ。


 なにもしてあげられない。



 夢を語り合うことも、誕生日を祝うことも、作ったお菓子を食べてもらうことも、くだらないおしゃべりで笑い合うことも……。



 ひとりぼっちだ。


 ただ、かなしくて、くやしい。




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