夜空へ虹の架け橋を

宝井かもめ

プロローグ

プロローグ

 あの夏の不思議な出来事と、

 硝子のような湖面を照らした命の煌めきを、

 わたしは決して忘れない。


 耳を澄ませば聞こえてくる、夏祭りに鳴る下駄の音。

 目を閉じれば浮かんでくる、色とりどりの花火。

 息をひそめれば近づいてくる、あたたかなくちびる。


 やがて遠ざかる思い出を、

 ずっと、忘れずにいられたのなら、

 きっと、次の未来でまた出会える。


 だから、わたしは生きていく。

 弦を結ぶように、繋いでくれた命と共に……






 ―― 二〇二二年 七月十六日 土曜日 ――



 ――心地よい振動。


 空調が行き届いた快適なバスのシートに揺られて、わたしはいつの間にか眠ってしまったらしい。


どれくらい眠っていたんだろう。よほど熟睡していたのか、いまいち記憶がおぼつかない。


 しかし、まぶたの裏側にまで射し込んでくる夏の日差しは、また夢の世界へ戻ろうと踏ん張るわたしの睡魔を、容赦なく奪っていく。



『うぅ……、ふあぁ……』



 自分だとは思えない奇妙なうめき声。


 重いまぶたをゆっくり持ち上げると、霞んだ記憶がそろそろと頭の中へにじり寄ってきた。


 そうだ、今日からは楽しみにしていた旅行だ。彼氏や友達と旅行なんて初めてで、なんだか大人になったみたい。なのに出発早々寝ちゃうだなんて、もったいないことしちゃったな……。


 昨晩はなかなか寝つけなかった。いつ眠りについたのかも覚えていない。


 ここまでどうやって来たのかも曖昧だけれど、今のところ忘れ物もないし、身支度も整っている。朝はきちんと起きて出てこれたのだろう。



 高校最後の夏休み直前。土日と祝日が重なった三連休。


 今年は例年より早く梅雨明けを迎えていた。この時期の旅行は、受験生であるわたし達にとって最後の息抜きだ。


 バスは山道を走り続けている。


 窓から見える景色は、右も左も高い木々に覆われていた。


 照りつける陽射しが夏の暑さを物語り、風に揺れる新緑の葉を、さらに鮮やかな緑へと色づけていた。



 いつ、山道に入ったんだろう……?



『おはよ、琴音ことね



 後ろの座席に座っている美輝みきが、通路側からひょいと顔を出して声をかけてきた。



『やっと起きたのかよ。お前、口半開きだったぞ』



 美輝の隣に座るれいも、座席の上から顔を出し、わざわざわたしの痴態を告げる。



『ちょ、ちょっと、勝手に見ないでよ。もう……、結弦ゆづるも止めてよ』



 恥ずかしさで泣きたくなるのを堪えて、なんとか怜に言い返した。



『ははっ』と笑い、わたしの隣で外を眺める結弦。



 美輝はいつものポニーテールで、束ねられた栗色の長い髪が、バスの振動に合わせて元気よく飛び跳ねている。


 陸上部に似つかわしくない長い髪は、尊敬する選手が伸ばしているからだそうだ。


 バスは川に沿って、山間の道をくねくねと器用に進んでいた。隣では結弦が頬杖をついて、窓の外を眺めている。



『ねえ結弦、今さらだけど本当に大丈夫なの? 四人で押しかけて、お祖父さん達迷惑じゃないかな?』



 気になっていた疑問を、わたしは結弦に投げかけた。



『大丈夫だよ。旅館の手伝いに裏庭の草も刈ってやんなきゃだし、俺達が来てくれてむしろ助かるって言ってるよ』



 物腰柔らかな結弦の口調に少し安心はしたが、『ならいいんだけど……』と返したわたしは、結弦の彼女という立場上、やはりなんとなく胸に引っかかるものがある。


 あぁ、わたしは本当に心配性で、優柔不断で、煮え切らない性格だ。その上泣き虫だし思い込みも激しいし、こういうところは中学生から進歩していない。


 軽い自己嫌悪に苛まれていると、また美輝がひょいっと顔を出して言った。



『結弦もそう言ってくれてるし、わたしらもお手伝いするんだからいいんじゃない? 緊張しすぎだよ、琴音は』



 そう言われても、そもそもアルバイト経験皆無なわたしは、お邪魔になってもお役に立てることがあるのだろうか?



『そんなに心配すんなよ。せっかくの旅行だろ? 夏祭りだってあるし楽しもうぜ』



 余裕たっぷりな怜の態度が羨ましい。


 入学当時はあれだけ陸上で期待されていたのに、自由にカッコよく泳ぎたいからって理由だけで、きれいさっぱり陸上を辞めて水泳部に転部するくらいなんだから、これくらい怜にとってはどうってことないんだろうな。きっといつまでも気にしてるわたしがおかしいんだ。


 でも、うじうじ言ってても仕方ないし、そもそも旅館のお手伝いなんて滅多にさせてもらえるものでもない。

 それならこの際だ。女将気分をちょっぴり味わってみよう。


 このポジティブで都合のよい思考回路は、きっとこの三人からもらったものだ。


 ピアノの練習に明け暮れ、常に重圧感と戦ってきた中学時代のわたしからは、想像もつかない。



『で、旅館にはあとどれくらいで着くの?』



 細長いチョコ菓子を咥えた美輝が、結弦に訊ねた。



『あと二時間くらいだよ。もうすぐ湖が見えてきて、それを越えたら街に出るから、そこで電車に乗り換えて一時間くらいかな』



 こんな山の中まで来てるのに、まだそんなにかかるんだ。



『この七色狭なないろきょうの先には七色なないろダムってのがあってさ、大きくてなかなか見応えがあるんだ。琴音、今のうちに窓側と代わってあげるよ』



 結弦がカチャカチャと音を立ててシートベルトを外し、わたしを窓側の席へ座らせてくれる。


 こんな観光バスでもシートベルトを締めているなんて、結弦は律儀だ。


 窓側へ座りなおしたわたしにも、ちゃんとシートベルトを締めるよう促してきた。



『ふーん、こんな田舎にも街があるんだね』



 チョコ菓子をポリポリと食べながら返す美輝は、ダムには特に興味がないみたい。けれど間もなくして、後部座席でもカチャカチャと席替えが行われていた。


 七色ダム……。変な名前、虹色なのかな? そもそもダムってひとつひとつにちゃんと名前があるんだ。それさえも知らなかった。


 誰もがそうだろうけれど、虹を見るのが好きなわたしは、七色ダムというきれいな響きに密かに期待を込めて、その時を待ち続けた。





 しばらくしてバスがカーブをゆっくりと抜けると、視界に大きな湖が広がり、その光景に思わず息を呑んだ。


 山々の間を縫うように貯め込まれた水は、とても人工的なダム湖とは思えないくらい雄大に広がっていて、静まり返った水面は、なんでも飲み込んでしまう大穴のようにも見える。


 虹という明るい響きとは裏腹に、その湖面はどこか悲しげだ。


 七色ダムの名称由来は不明だが、わたしにはどうしてもその湖面から虹色の輝きは感じ取れない。流れもなく、まるでコールタールのように固まったかのような水面をじっと見つめていると、ぶるっと身震いがしてくる。



 どれくらい深いんだろう? 落ちたら溺れちゃうかな。



『ほらあそこ、ボートハウスがあるだろ? あそこからボートに乗って釣りに出るんだよ』



 結弦が指差す先には、ちらほらとボートの姿が見えていた。崖下では小型ボートにひとりで乗り込んだ男性が、湖面に釣糸を垂れている。


 遠くには波を立てて走っているモーターボートも確認できたが、そちらもひとりだ。


 こんなところにひとりぼっちで釣りに来るなんて、わたしには到底真似できない。


 水中から得体のしれない巨大生物が口を開けて飛び出してきて、水の中へと引きずり込まれそうだ。



 なんだか、怖い……。



 そんなことを想像していた矢先のことだった。




 パアアアアン! 




 バスの巨大なクラクションがけたたましく数度鳴り響いて、体が大きく左右に振られた。



 え? なに……?



 キキイイイイイッ! ガシャアアンッ!



 大きな音がして体中に衝撃が伝わると、内臓がふわっと宙に浮く感覚が襲う。


 窓からは空が額縁で切り取られたように、その青さを覗かせていた。



 うそ……、わたし……、落ちてる?



 瞬時に結弦の腕がわたしを包みこむ。


 あっという間に天地は逆転し、わたしたちを乗せたバスはそのままダム湖へと転落した。


 水面に激突した衝撃でバス前方の車体は歪み、辺りで窓ガラスが割れる音が響くと、津波のような水が勢いよく狭い車内に流れ込んでくる。



『うわあああん!』



 後ろから聞こえてくる、恐怖に染まった子どもの叫び声。



『美輝っ!』と叫ぶ怜。



 そこら中から響き渡るおぞましい悲鳴を聞きながら、濁流がわたし達を飲み込むと、頭からはサーっと血の気が引いて意識が薄れ始めた。



 遠くから、必死でなにかを叫ぶ結弦と怜の声が聞こえる。


 かすかにいい香りがして、体がふわっと浮かびあがった。


 苦しかったのはほんの一瞬。


 死ぬんだな……、と思った。



 ぼやける視界の中、微かに七色の光が見えた。


 そこで、わたしの意識は途切れた。




 ◇



「いやああああっ!」



 夢の中で濁流に飲まれ意識が途切れたのと同時に、わたしはベッドで目が覚めた。



「また……、あの夢か……」



 右手で顔を覆い、ふと時計のほうへ目をやる。時刻は午前二時を指していた。

 チェストの上の鏡には、二十五歳のわたしが映し出されている。


 バスの中、結弦の隣で目を覚まし、みんなと何気ないやり取りを交わす。


 夢の中では事故のことを忘れていて、いつもの場所で事故に遭い、水に襲われて意識を失ったところで目が覚める。


 大まかにはあの事故のとおりなのだが、事故直前のやりとりが毎回違うような気がするから不思議だ。


 明晰夢であったことはなく、わたし自身夢の中では事故のことを忘れているからなのだろう。


 夢とはいえ、あの恐怖を何度も味わうなんて、もう終わりにしてほしい。



 いや、もう終わりにするんだ――。



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