第九章 クジラを描く

「やあ。僕は身体が大きいクジラ。きっと、世界で一番大きい生き物だよ」

 クジラは泳ぐ。どの魚よりもゆったりと、優雅に。クジラは大きい。だからみんなの憧れ。

「やあ。僕は自由気ままな猫のミイ。きっと、世界で一番自由な生き物だよ」

 ミイはあくびをする。どの生き物よりも退屈そうに。ミイは自由だ。だからみんなの憧れ。

 ――みんなの憧れの的である生き物同士が出会ってしまった。そして気付いてしまう。あれ、憧れって何だろうって。

 クジラは言う。「身体が大きいから羨ましいと言われる。口を開けて泳げばごちそうがたくさん食べられるから羨ましいと言われる。少し泳げば、小さな魚が一生懸命に泳ぐ距離の何十倍も泳げるから羨ましいと言われる。これ以上に羨ましいことって、あるのかな」

 クジラは、自分が一番羨ましいと思われる対象であると信じていた。

 けれども、ミイは違った。

 ミイは言う。「羨ましいと感じるのは、自分にないものを相手が持っているからだ。でもね、 生き物は皆、自分にしかない魅力があるんだよ」

 ミイは身体も小さいし泳げないが、全く気にも留めなかった。何故なら、ミイは自由だから。自分のいいところを自分が知っていればそれでよい。そう思っているから。

 クジラはやがて、ミイの言葉の意味を理解するようになる。羨ましいという感情は、他人から与えられるものであって、自分がどうありたいかが最も大切なことだと。

 クジラは仲間のいる海を出て、大きな川へと向かった。川ではクジラは生きられないけど、クジラは川へ行きたかった。川にはミイがいるから。

 クジラは苦しくももがき、前へ進む。自慢の巨体をもってしてもその歩みは遅く、なかなか上には上がれない。

 ――嫌だ。僕はミイに会いに行くんだ。

 最後の力を振り絞って進む。巨体はもはや邪魔となり、あちこちにつっかえてしまっている。少し口を開けば、身体に合わない水が一気に流れ込んでくる。

 ――ごめんね。君に会うことはできない。

 クジラは力尽きた。大きな身体は少しずつ小さくなっていく。

「みやあああああ」

 ミイはその姿を捉えた。あのときのクジラと知った。ミイは思わず、泳げないその身体で川に飛び込んだ。可哀想なクジラを救いたかった。

 ゴボゴボと身体が沈んでいく。なんで。こんなときに。僕は君みたいには泳げないけどなんで。助けたいのに。僕まで。僕は――。

 

 ミイとクジラは、悲しいお話だった。

 きっと、いい友達になれただろうに。

 僕は、そっと絵本を閉じる。

 ――よし。僕はミイとクジラを描こう。

 二匹は一緒に川にいて、クジラの背中にはミイがいる。

 大きなクジラの泳ぎを邪魔するものは何もない。ただただ広い川が流れているだけ。

 僕は自らの絵で、必ずハッピーエンドにしたい。そう思った。

 ミイとクジラを棚に戻し、図書館を飛び出して、そのままマイン川の橋へと向かった。絵が描けそうな場所へたどり着くと、ゆっくりと深呼吸し、この一帯の空気を身体いっぱいに取り込んだ。光を浴びて生き生きと根を張り育つ草花や、様々な生き物の生命を取り込んだ川の匂いを力に変えて、僕はスケッチブックと鉛筆を手に取った。

 思いのまま、スケッチブックに走らせてみる。頭に焼き付けたクジラの姿が少しずつ真っ白な世界に現れた。かなり大きめのクジラである。

 次にミイを描く。本当は描く順番があるのかもしれないけど。僕は早くこの二匹を一緒にさせてあげたかった。僕の絵の中でずっと二匹で楽しく泳いでいてほしい。そんな願いを込めて。僕は大事に二匹を描き上げた。

 自ずと景色は決まってくる。大きな川に、青々とした草木、川を照らす太陽、クジラのように泳ぐ白い雲。もうこれで十分じゃないか。うん。二匹がいればそれでいい。

 僕は色を乗せる。持ってきた色鉛筆と、貰ったクレヨンを少しずつ合わせていく。淡い部分、濃い部分を丁寧に。

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